名所訪問

「  中山道を歩く 熊谷宿 」

( 鴻巣宿から熊谷宿 )

かうんたぁ。


鴻巣宿から熊谷宿まで歩いた。
鴻巣宿と熊谷宿との距離は、四里六町四十間と、これまでの宿場と違い、長い。
鴻巣から熊谷までは熊谷八丁堤という、元荒川の土手道を歩いて行く。
熊谷八丁堤土手のたもとには、歌舞伎でおなじみの白井権八の「物言い地蔵」がある。
熊谷宿は、忍藩(現在の行田市)の所領で、忍陣屋があった。 
天保十四年(1843)の宿村大概帳によると、宿内人口3263人、家数107軒、本陣2、 脇本陣1、旅籠19軒であった。 
飯盛り女がいなかったので、男子の数が女子より多かった。 


◎ 鴻巣宿から間の宿・箕田(みた)

鴻巣宿から熊谷宿間は、 これまでの町中を歩く風景から一変して、農村地帯と荒川堤を歩くことになる。 
鴻神社交叉点を越えると、池元院がある。 

「  池元院は、宝暦八年(1758)に創建された日蓮宗の寺である。
文政四年(1821)に当地に移転してきた。
この寺には、日蓮宗独特の題目塔が建っている。   」

その先、加美追分に出るため、左の道をとり、 県道365号を進み、JRの中山道第3踏切を渡る。 
ここを越えると、緑の多い住宅街に入る。 
ここから箕田になる。 
江戸時代、鴻巣宿と熊谷宿の間が四里強(約16q強) と長いので、 箕田は間宿になっていた。 
約一キロ歩くと、 右側に箕田観音堂があり、「観音堂新築記念碑」 が建っている。  
「観音堂新築記念碑」 には、長々と、その歴史が書かれていた。

「渡邊綱守本尊吹張山観音由来」 の要約。
「 当箕田観音堂は、平安時代中期の武将・渡辺綱が、 永延元年(987)に開祖したとし、馬頭観世音を祭る。 
清和天皇を祖とする源経基が、戦の折りに、兜の中に頂いていた。
後に、嵯峨天皇を祖とする同姓の源任に与えられ、 その後、源宛、その子の渡辺綱にと、伝えられた。 
観音堂は、最近まで寂れていたが、平成三年二月に、 箕田八幡近くの龍珠院龍昌寺の住職等によって再建された。 
本尊の観音菩薩は、一寸八分の像というから、 六センチたらずの小さなものである。 」 

太田南畝は、 「  左のかたに、新西国第七番吹張山平等院といふ寺ありて、  開帳といへる札をたつ。  されど、詣づるもの一人だになし。   渡辺綱守本尊なりといふ、観世音なり。   」  と、記している。 
境内は広く、享保九年(1724)の燈籠があった。 
石仏・石碑群が、二列あった。 庚申塔などの石碑群である。  

池元院
     箕田観音堂      石碑群
池元院お題目塔
箕田観音堂
庚申塔などの石碑群

 

箕田観音堂の奥には、宮登神社がある。
社殿の裏の少し高くなっているところに、 宮登古墳がある。 
宮前交叉点を右に行くと、東松山・吉見へ至る。 
中山道は直進、道は、県道76号に、名称を変える。
三百メートル程進むと、右手に、氷川八幡神社の森が見えてくる。 
入口に、渡邊綱ゆかりの 「箕田碑」 がある。 

説明板 「箕田碑」 
「 箕田は、武蔵武士発祥の地で、千年程前の平安時代に多くのすぐれた武人が住んで この地方を開発経営した。 
源経基(六孫王清和源氏) は、文武両道に秀で、 武蔵介として当地方を治め、源氏繁栄の礎を築いた。 
その館跡は、大間の城山にあったと伝えられ、 土塁・物見台跡などが見られる(県史跡) 
源仕(嵯峨源氏) は、箕田に住んだので、箕田氏とも称し、 知勇兼備よく、経基を助けて大功があった。
その孫・綱(渡辺綱) は、頼光四天王の随一として、剛勇の誉れが高かった。
箕田氏三代 (仕・宛・綱) の館跡は、 満願寺の南側の地と伝えられている(県旧跡) 
箕田碑は、この歴史を永く伝えようとしたものであり、 指月の撰文、維碩の筆による碑文である。
碑の裏文は、約二十年後、 安永七年(1778)に刻まれた和文草体の碑文である。 
初めに、 渡辺綱の辞世  
  世を経ても わけこし草の ゆかりあらば あとをたづねよ むさしののはら 
を掲げ、次に芭蕉・鳥酔の句を記して、 源経基・源仕・渡辺綱らの文武の誉れをしのんでいる。 
鳥酔の門人が、 加舎白雄(志良雄坊) であり、  白雄の門人が、当地の桃源庵文郷である。 
たまたま、白雄が文郷を尋ねて滞在した折りに、刻んだもの、と思われる。 
  昭和六十二年三月 鴻巣市教育委員会  」  

氷川八幡神社は、 綱八幡(つなはちまん) といい、 羅生門の鬼退治で活躍した頼光四天王の一人・渡辺綱が祀られている。 

「氷川八幡神社」 
「 氷川八幡神社は、明治六年、箕田郷二十七ヶ村の鎮守である、八幡社  (現在地にあった) に、  承平元年(966)に、六孫王源経基(つねもと) が、勧請したと言われる、 氷川社 (字龍泉寺にあった) を、合祀した神社である。 
八幡社は、 源仕(みなもとのつこう)が、 藤原純友の乱の鎮定後、  男山八幡大神をいただいて帰り、 箕田の地に鎮祀したものであり、 字八幡田は、 源仕の孫・渡辺綱が、 八幡社のために奉納した神田の地とされている。 
渡辺綱は、幼少にして父母を失い、摂津国渡辺庄に居た叔母に養われて成人したが、  羅城門の鬼退治で活躍し、源頼光の四天王の一人といわれるようになった。 
なお、綱の祖父・源仕(つかう)は、武蔵守となって、この地(箕田)に住み、 父の源宛(あつる)は、箕田源氏を名乗った。  」  

八幡神社の裏には宝持寺がある。
渡辺綱が、父と祖父の菩題をともらうために建てたものといわれる。 
また、箕田源氏の館は、八幡神社の北側にあったと伝えられている。 

(ご 参 考) 六孫王源経基(つねもと)館  
「 鉄道踏み切りを渡って、600m程のところは、城山 と呼ばれる。 
鴻巣高校の校門右側の細い林間の道を登ると、南斜面の薮の中に、  「六孫王源経基館跡」 と刻まれた石碑が建っている。  
源経基は、清和天皇第六子・貞純親王の長男で、 六孫王と称し、臣籍に降下し、清和源氏の祖となった人物である。 
天慶元年(938)、武蔵介に任じられて、この地に館を築くが、 武蔵足立郡司・武蔵武芝との間で、争いを起こし、平将門に攻められ、 都へ逃げ帰った。 」 

更に四百メートル行くと、武蔵水路で、中宿橋を渡る。 
渡った先は、鴻巣市中井、橋の下を流れるのが利根川の水を荒川に流す武蔵水路で、 東京の重要な水源の一つである。 
橋の先の信号交叉点を含め、二つの信号交叉点を過ぎると、箕田追分になる。 
箕田追分の三叉路は、左は中山道、右は館林道で、 正面に案内板と「中山道」の石柱が建っていて、 左側には観音堂がある。 
江戸時代には、立場茶屋の富士屋があったようである。 
箕田の追分を左に行くと、水田と畑の中ののどかな道に出る。
苗木バス停脇に、正徳二年の庚申塔があり、右側の石柱には 「岡象女之神」 とある。 

箕田碑
     氷川八幡神社      正徳二年の庚申塔
箕田碑
氷川八幡神社
正徳二年の庚申塔


◎ 間の宿・箕田から間の宿・吹上

その先に、「前砂村」 の石柱があり、 「 池田英泉の鴻巣吹上富士 は、この辺りで描かれた。 」 とある。 
左側に 「史跡一里塚」 の標柱と、説明板が建っている。 
ここに、前砂の一里塚があったのである。

前砂交叉点の三叉路を右(真直ぐ)行く。 
このあたりは新興住宅で、電柱に、 「 中山道歩道なし 左側に渡れ 」  の張り紙が貼ってある。 
高崎線が右から近づいてきて、NTTの前の第4中山道踏切を渡る。 
渡ったらすぐ左に行くと、正面に妙徳地蔵堂が見えてくる。 
右側の道を行くと、吹上駅前交叉点に出る。 

「妙徳地蔵堂由来」 
「 天保十四年(1843)頃、十七才の娘が眼病を患い、  夢枕に立った亡き母のお告げで、 観世音像を背負い、六十六部となって、旅に出た。
娘の目は、四年後の満願の日に全快し、喜び家路に急ぐ途中、盗賊に襲われ、命を落す。
無念さに、娘は大蛇となって、近隣の人々を苦しめ、怨みを晴らしていたが、 ついには、法華経と出会い、得道成仏し、 妙徳地蔵尊として、後世に伝えることを約したという。 
開運・子育て・安産・眼病に霊験あらたかである。 」 

吹上駅前交叉点の先の右側に、「明治天皇駐輦址」 の石碑がある。 
交叉点を越えると、吹上本町交叉点に出る。 

「 ふきあげという地名の由来は、晩秋から春先にかけての季節風 が、砂塵を激しく吹き上げるところより、生まれたとも言われる。 」

交叉点を左折して、東曜寺の門前を右にカーブすると、右側に吹上神社がある。 

「吹上神社由緒」
「 当日枝社は、宝暦六年七月火災により焼失す。  その後、再建年月不詳。
明治六年四月、村社に列せらる。  同四十年四月十六日、 大字中耕地 稲荷社、 同境内社 八坂社、 字下耕地 氷川社、 同境内社 琴平社天神社 の五社を分祀す。
当社は、近江国大津市坂本の日吉大社(山王社)より、神霊を分ち、奉持して参りましたが、明治四十年、 右五社を合せ、 吹上神社 と改称す。 」 

前砂一里塚跡
     妙徳地蔵堂      吹上神社
前砂一里塚跡
妙徳地蔵堂
吹上神社

すぐ、高崎線の跨線橋で、上は県道、その下に、歩道橋が見えてくるが、 歩道橋の右側入口に、 「中山道 間の宿」 の石柱と、説明板が建っている。 

説明板 「吹上(間の宿) 」
「 中山道の街道筋にあたる吹上は、  鴻巣と熊谷の 「あい宿」 として発展した街ですが、 江戸期、幕府から公認された宿場ではありませんでした。 
しかし、それにかかわらず、重要視されたのは、  日光東照宮を警護する武士たちの 「日光火の番道」 と、 中山道が町の中央部で交差すること。  また、鴻巣宿と熊谷宿の距離が長かったため、その中間に休憩する場所として、 「お休み本陣」 や、 馬次の 「立場」 を設置する必要があったからです。 
年に30家もの大名が、江戸と国許へと行列を飾り、 多くの文人や墨客たちも足を留めた 「吹上宿」。
中でも信濃の俳人小林一茶や、加舎白雄、狂歌師で戯作者でもあった太田南畝、 浮世絵師の池田英泉などは、それぞれ得意な作品をのこしています。
そして、江戸以来、吹上の名物は 「忍のさし足袋」 と、 荒川の「うなぎ」、 「、榎戸の目薬 」 も、街道の名品にかぞえられていました。 
この場所は、かっての中山道が、鉄道の開通によって、 分断された地点にあたっています。 」  

江戸時代、吹上は中山道の間の宿で、茶屋本陣があったという。 
文政十年(1827)版の「中山道商家高名録」の「吹上宿」には 、  「 雲どんそばかばやきの埼玉屋七郎右衛門や、足袋股引太物小間物類の武蔵屋喜平治 」、などが、書かれていて、 吹上の名物は、荒川のうなぎ、榎戸の目薬に、さし足袋であった。 
木曾名所図会に、
「  吹上の茶屋にて 忍ぶさし足袋を商ふ。 左に忍の城への道あり、  一里余りなり。 」
と紹介されているが、 このあたりは、忍の刺足袋として、全国に名を知られた足袋の産地であった。 
なお、忍は現在の行田市のことである。 

階段を上がり、歩道橋を渡り、右側に降り、高崎線に平行した道を西に向う。 
JRの線路に沿っているところは、住宅がぎっしり建ち、首都圏のベットタウン になっている。 
その後、右へ左へとカーブが続く。  五百メートル程行くと右手に、榎戸堰公園がある。 
このあたりは榎戸2丁目、かっては吹上町だったが、今回の町村合併で、 鴻巣市に変った。 
更に行くと、元荒川の堤防に突き当たる。 
その先からは久下で、元荒川の堤防が続くが、堤防の下に、権八延命地蔵 (ごんぱちえんめいじぞう) が、祀られるお堂があり、  左側に、勢至菩薩石碑がある。 

「 平井(白井)権八は、鳥取藩の藩士の父が、同僚を殺害したため、 脱藩して江戸で、浪人になった。 
美男子だったため、吉原の三浦屋の遊女小紫となじみになり、 追い剥ぎをして、金の工面して通っていた。
しかし、人を殺めたり、縄抜けなどを重ねた罪で、 延宝七年(1679)に、品川で処刑、鈴ヶ森に晒された。 
権八が、鳥取から江戸へ出る途中、金に困って、辻斬りをした。 
その現場をお地蔵さまに見られたため、  「 このことを誰にもいうな 」 と、地蔵に言ったところ、  「 われは言わぬが、おぬしも言うなよ 」 と、答えたという。 
この地蔵は、権八地蔵 と、呼ばれている。 
このことは、権八が、捕られられて、取り調べを受けた際に、自白したことだという。 」 

歌舞伎の悪役で出てくる白井権八であるが、この話が歌舞伎になり、 お馴染みの白井権八が見ていた地蔵に、 「このことは他言するなよ」 と話かけると、地蔵は 「われは言わぬが、おぬしも言うなよ」 と言うシーンができた。 
地蔵の銘文に、元禄十一年(1698) とあるので、権八死亡後の建立なので、 話と現実とはかみ合わない。 
歌舞伎が先か後かは分からぬが、何時のころからか、そう呼ばれるようになったのだろう。 

吹上(間の宿)碑
     歩道橋      権八延命地蔵堂
吹上 (間の宿) 碑
高崎線歩道橋
権八延命地蔵堂


◎ 間の宿・吹上から熊谷宿

元荒川は、寛永六年(1629)、関東郡代・伊奈忠治により、 荒川が入間川に付け替えられるまでは荒川であった。 
この後は、この荒川堤道を歩いていく。 

「  元荒川堤防は、 「 久下の長土手、深谷の並木、さぞや 寒かろ淋しかろ  」 と、俗謡にある熊谷八丁堤である。 
森川許六の句に、
 「  熊谷の  堤あがれば  けしの花  」  がある。 

この後、熊谷八丁堤を行くが眺めも良く、下には、水田が広がる美しい道である。 
熊谷堤を歩くと、昭和二十二年のカスリーン台風で決壊した石碑が建っている。 
やがて、堤の右側に、マンション群が見えてくる。 
下を見ながら歩くと、右下に鳥居があり、大きなマンションの前で土手を降りると、 中腹に、「天保十四年」 と刻まれた、「馬頭観世尊」石柱がある。 
更に、下に降り、道に沿って右折すると、数十メートル先に鳥居があり 、奥に小さな社(やしろ)がある。 稲荷神社である。 
実は、一里塚の跡で、それを示す説明板が建っている。 
ここは北側の一里塚の跡で、江戸より十四里目の一里塚である。 

説明板 「一里塚跡(久下新田)」  
「 江戸の日本橋を起点にする中山道は、板橋・志村を経て、 戸田の渡しから埼玉県へ入る。
慶長九年(1604)、幕府は、大久保長安らに命じて、この街道に一里塚を築かせた。 
一里塚は道の両側に、方五間(九米四方)の塚を築き、その上に榎や欅を植えたもので、 街道に風情を添え、旅人には里程の目印になったり、憩いの場所にもなった。 
 (川柳の)  柳たるには 
    「   くたびれた   奴が見つける   一里塚   」  
  という句もある。 
  昭和六十年十一月十七日  熊谷市教育委員会 熊谷市郷土文化会  」  

熊谷八丁堤
     マンション群      久下新田一里塚跡
熊谷八丁堤
マンション群
久下新田一里塚跡

堤から見ると、右下に元荒川の小さな流れ、左は広大な河原というより、 殆どが農地である。 
遠くに荒川の流れがあるのだが、曇っていることもあって、見えない。 
その先の秩父の山々はかすんで見えた。 
農地の一角を囲む林は、「屋敷森」と呼ばれ、  江戸時代には、久下新川村があったところだが、 洪水の被害や川運の衰退により、廃村になり、今は人が住んでいない。 
中山道は、この先、斜め右に下りて行くが、そこには 「輪型の坂」 の案内があり、 久下の長土手から、右側の久下の集落に下る坂道がある。 

「  荒川の江川河岸へ通じていた。 
河岸が、栄えていたころは大八車の轍の跡が、いっぱいついていた、という。 」  

坂道を下りると、左に大きな石碑がある。
細かい字でびっしり書かれているが、明治四十五年建立の「久下堤碑」である。 

「久下堤碑」 
「  江戸時代に荒川の流れを人工的に変えたので、 元の流路に戻ろうとする自然の力で、しばしば、川が荒れ、決壊したのである。 
安政六年七月二十五日に、東竹院の堤が決壊し、 民家十七戸、溺死者二十一人を出した。 
元治元年八月九日にも、同じ堤が崩れ、東竹院と民家十三戸が流された。 
明治四十三年八月十日、長雨と暴風雨で危険な状態になったが、 なんとか防ぐことができた。 
その後、官民が一帯になって、堤の修復につとめ、無事完成することができたが、 その記念碑が、久下新田の堤に上るところにある、大きな石碑(久下堤碑)である。
しかし、昭和二十二年九月八日のキャサリーン台風により、 輪型から大曲にかけて、土手を越えた水があふれだし、堤に電柱があったことも災いし、 ついに2ヶ所が決壊した。 
九月十五日午後七時三十分のことである。 
決壊碑が建つところが、決壊跡である。 
土手下に、大きな池が出来ていたが、その後、行田市により埋め立てられ、 住宅地になっている。 」  

坂を下ると、左側に公民館があり、前述の久下新川村の説明板がある。 
その先に、久下神社があり、奥に小学校がある。 

「 久下神社は、久下直光ゆかりの神社で、 もとは、熊久伊奈利社といったが、明治時代に、付近にあった神明社・雷電社・八坂神社等の多くの神社を合祠して、現在の名前になった。 」  

輪型の坂
     久下堤碑      久下神社
輪型の坂
久下堤碑
久下神社

久下農協の前を過ぎると、大きな蔵と門を持つ旧家の前を通る。 
その先には、久下橋の鉄筋コンクリート製の橋桁が、並んでいるので、  橋下を横切って向こうに出る。 
左折すると、民家の前に、 「 此の街道旧中山道 」 と 「 屋号大鍛冶屋 」 と、刻まれた石が置かれている。 
他にも、「 久下上宿 」 と刻まれたものもあり、 屋敷の主が独自につくられたものらしかった。 

「 旧久下村は、江戸時代、鍛冶屋が多く、 鉄砲や刀を生産していたという。 
地元の歴史を残そうという心意気はよいなあ、と思った。  」 

この先の小公園・権八久下公園に、地蔵堂がある。 
このあたりは、久下集落で、久下氏が館を構えたところと伝えられている。  
ここに伝わる伝承も、吹上の権八地蔵と同じである。 

「 歌舞伎でお馴染みの白井権八が、因州鳥取から出て来て、 熊谷堤にさしかかる。 
ここで、旅人を殺して、大金を奪った。 
見ていた地蔵に 「 見たか?!誰にも言うな!! 」 と話かけると、 地蔵が 「 わしは言わぬが、ぬしも言うなよ 」 と、答えたところから、  「 物言い地蔵」 と呼ばれている、権八(ごんぱち)地蔵を祀る。 
元禄十一年に造られた、等身大の大きなお地蔵様である。 」 

大きな蔵と門を持つ旧家
     此の街道旧中山道の石      久下地蔵堂
大きな蔵と門を持つ旧家
此の街道旧中山道の石
久下地蔵堂

この先、中山道が途絶えているので、左側を上り堤に出ると、 右側に埼玉県知事による、「久下の渡し 冠水橋跡」 の石碑と、説明板がある。 

説明板「久下の渡し 冠水橋跡」
「 この地は、江戸時代初期の荒川改修工事以降から、明治の鉄道開設まで、 江戸との舟運の起点、 久下新川河岸 として栄えた。 
舟運が廃れたあと、渡しが対岸との交通手段となっていたが、 昭和三十年に架けられたのが、久下冠水橋である。  
車が一台やっと通れる橋、車は対岸を確かめ、あうんの呼吸で渡りました。 
巾2.7m、長さ282.4m、制限重量3トン、 中央部の99.4mの区間には、巾4.5mの待避場が設けられていた。 
ムカデに似た貴重な冠水橋でした。 
昭和30年、県道・青山熊谷線として、大里と久下を結んで架設され、 48年年間、地元の生活道路として利用されました。
平成15年6月の新久下橋完成とともに、その役目を終えました。  」  

この後、すぐに坂を下りる。 
右側の民家に、「みかりや跡」の説明板がある。 

説明板 「みかりや跡  
「 中山道を往来する旅人相手の茶店で、「 しがらぎごぼうと久下ゆべし 」 の ことばがある通り、「柚餅子(ゆべし)」が名物だったのだろう。 
また、忍藩の殿様が 鷹狩りに来ると、ここで休んだので、 御狩屋と呼ばれたという。 
   昭和六十年十一月十七日 熊谷市教育委員会 熊谷市郷土文化会 戸森昭三 (みかりや) 」 

英泉の「木曽海道六十七次熊谷宿浮世絵」 は、この茶屋を描いている。 
左側に、「曹洞宗東竹禅院」の石柱があり、中に入ると、 安政五年の庚申塔・馬頭観音碑が二つ、石像が二体祀られている。 

冠水橋跡碑
     みかりや跡      庚申塔と仏像
「冠水橋跡」の石碑
みかりや跡
庚申塔と仏像

入って行くと、右奥に、久下直光(くげなおみつ)が開基した、東竹院があった。 

「 久下直光は、所領境界(熊久橋あたりといわれる)をめぐり、 一の谷の合戦で平家を破る活躍した熊谷直実(なおざね)と争い、勝訴した人物である。 
熊谷直実が、幼い頃、両親を亡くし、久下直光に育てられたことや、 公事(くじ)に敗れたことが、出家の原因だったといわれる。 
境内に、久下直光とその子重光の墓がある。 」  

左手に、荒川の洪水で流れてきたという、大きな達磨石と、説明の石碑がある。 

説明碑
「 達磨石は、重さ十五トン、高さが三メートルあり、 今から三百五十年前の寛文年間に、忍城主・阿部豊後守忠秋の命により、 筏(いかだ)で運ぶ途中、川に転落した。 
その後、大正十四年、寺の前の河原でこの石は発見されたので、二百六十年の間に、 二キロメートルほど川を遡った、ということになる。 」  

四百〜五百メートル行くと、川のほとりに、 「ムサシトミヨや水草」 の説明板がある。 
水草が茂るこの川は元荒川である。 
江戸時代の初期、伊奈備前守忠次が荒川の改修工事を行い、 久下(くげ)に土手を築いて、東に向って流れる川の水を止め、 新たに南に流れる水路を造って、入間川に流すようにしたのである。 

説明板 「元荒川ムサシトミヨ生息地」  
「  ムサシトミヨは、トビウオ科に属する淡水魚。
以前は熊谷市・深谷市・川越市・東京都西部などに、生息していたが、環境が悪化し、 川が汚れてしまったので、現在では、世界で熊谷にしか見られなくなってしまった。 
体長4〜6cmで、背ビレ・腹ビレ・尾ビレに、 刺状(きょうじょう) と呼ばれる、トゲがあります。
体に鱗がなく、体色はくすんだ暗緑です。 
     (中略)             
ムサシトミヨは、貴重な魚であり、絶滅寸前の状態なので、 平成3年3月15日に埼玉県指定天然記念物に指定され、 平成3年11月14日の県民の日には清流のシンボルとして県の魚に指定されました。 」 

ムサシトミヨは、この川にしか生息しない貴重な魚であり、 その魚が生息するのだからきれいな水なのだろう。 
川は、この先からは、暗渠化していた。 
橋の先が熊久集落、かっては鄙びたところだったらしいが、住宅地になっていた。 

東竹院
     達磨石      ムサシトミヨ生息地
東竹院
達磨石
ムサシトミヨ生息地


◎ 熊谷宿

左右が元荒川通りの交叉点を越えると、右の仏説寺前を通る。 
右側の曙万平自治会館の前に、街道に面して、「八丁一里塚跡」の説明板があり、 祠が二つある。 

説明板 「八丁の一里塚跡」  
「 久下新田の一里塚から、ここまで一里ある。
いま英泉とおろ の「八丁堤の景」  という、浮世絵があって、当時の風景や風俗を偲ぶことができる。 
  昭和六十年十一月十七日 熊谷市教育委員会 熊谷市郷土文化会  」  

左奥には、万平公園があり、ここには、 名勝熊谷堤碑、熊谷裁桜碑、そして、蚕霊塔などがある。 
街道を直進し、サンルートホテル前右折して、秩父鉄道の踏み切りを渡る。
新幹線のガードをくぐり、JR高崎線の踏み切りを渡り、 国道17号の銀座一丁目交叉点に出る。 
ここで左折して、国道17号を行く。 
ここにある家は、角の看板には「手作盆提灯」 とあり、提灯屋である。 
熊谷宿へ到着である。 

「  熊谷宿は、忍藩の所領地で、忍陣屋があった。 
今でも、陣屋通りがあり、陣屋跡がある。 
天保十四年(1843)の宿村大概帳によると、宿内人口3263人、家数107軒、本陣2、 脇本陣1、旅籠19軒であった。 
飯盛り女がいなかったので、男子の数が女子より多かった。 
昭和二十年の米軍による空襲で、熊谷市内のほとんどの建物が焼失し、 中山道だった道は、戦後の市街地整備や、道路拡張工事で、広げられた。 
近代的な建物が建つ現在の姿になってしまった結果、本陣や脇本陣は勿論、 旅籠などもすっかり姿を消してしまった。 」

八丁一里塚跡
     二つの祠      提灯屋
八丁一里塚跡
二つの祠
提灯屋

銀座一丁目交叉点から筑波交叉点へ、左折すると熊谷駅。 
本町バス停のあたりに、高城神社入口を示す鳥居がある。
鳥居をくぐり、入って行くと、神社の社殿がある。  

説明板 「高城神社(たかぎじんじゃ) 略記」  
「 平安時代、延喜五年(905)、約1070年前、宮中において延喜式、式内社に指定 された、大変古い神社です。 
現在の社殿は、寛文十一年(1671)に、忍城主・阿部豊後守忠秋が、 厚く崇敬され、遷宮された建物です。 
「えんむすび」「安産」の神であり。「家内円満」「営業繁栄」に導く神として、 崇敬されている。 
      (以下略)  」 

入口の高いところにある青銅製の常夜灯は、天保十二年(1841)、 百五十人程の紺屋により、奉納されたもので、高さ2.75mもあり、かなり大きい。 

説明板 「常夜灯」
「 この燈籠は、高さ二百七十五cmという、青銅製の大きなもので、 天保十二年(1841)に建てられました。 
燈籠の台座には、県内はもとより、江戸・川崎・桐生・高崎・ 京都など、広範囲に及ぶ150名もの紺屋(藍染業者)の名前が、 奉納者として、刻まれています。
このうち、熊谷の奉納者は約40名に及んでいます。 
当地では、江戸時代中頃から、藍染業が活況を呈していたことが知られており、 明治時代後半は、紺屋の全盛期であった、といわれております。 
常夜灯は、高城神社が藍染業者から厚い信仰を受けてきた事実を語る資料として、 また、藍染業の盛況を知る記念碑ともいえる貴重なものです。 
 平成14年11月 熊谷市教育委員会   」  

境内の左側にある祠は天神社で、祭神は少名産名大神である。 

説明板 「末社 天神社」  
「 祭神少名産名大神は、医療と子育ての守護神として、厚く崇敬され、 特に、当社玉垣内の赤石は、御神徳御神威のやどった御石として、 往古よりこれを拝借し、「丈夫な、歯がはえますように」 との願いをこめて、 お喰い初めの儀式を行い、赤石は、二個(倍にして) 返納する風習が、 受け継がれています。 」 

高城神社社殿
     青銅製大燈籠      天神社
高城神社社殿
青銅製大燈籠
天神社

また、熊谷神社もあった。 

説明板 「熊谷神社の由来」  
「 永治年間、此の付近一帯に、猛熊が往来し、庶民の生活を脅かし、悩ました。 
熊谷直実の父・直貞は、この猛熊を退治して、 熊野権現(現在箱田に熊野堂の石碑あり)を 築いたと伝えられる。 
明治維新の後、熊野神社と称し、その祭神・伊家邪那岐命を祭り、 明治四十年一月十四日に、当高城神社境内地に遷し、祭られた。 
また、同年四月二十日に、熊野神社社地六十二坪(現熊野堂敷地)を、 高城神社に譲与された。 この 熊野神社(熊野権現)と、千形神社(血形神社) そして、 圓照寺の関係は深く、直貞によって築かれ、熊谷の地名を産んだとも伝えられる。 」  

近くの広場(駐車場)は、江戸時代の忍藩の陣屋跡で、 明治天皇に関する石柱が建っている。 

説明板 「陣屋跡」  
「 陣屋とは、江戸時代、城郭を構えない小大名や、旗本などの領地内の居館、・役所 のことをいいました。
また、郡代・代官などの地方を管轄する役人の役所も、陣屋といいました。 
熊谷は、当時、忍藩(おしはん)に属していましたが、 忍藩では、町方事務を取り締まるため、出張所をこの付近に置きました。 
この陣屋の設置された年月は明らかでありませんが、 その規模は、あまり大きなものではなかった、と考えられます。 
今でも、中山道からここへ通じる道を、陣屋町通りといい、 この付近を陣屋町と呼ぶ人もいます。 
        平成11年3月 熊谷市教育委員会   」  

市営駐車場入口交叉点の手前に、「札の辻跡」 の石柱と、説明板がある。 

説明板 「札の辻跡」  
「  札の辻は、高札の設置場所で、高札場とも言われた。
高札は、掟、条目、禁礼などを板に書いた掲示板で、 一般大衆に、法令を徹底させるため、市場、要路などの人目を引く所に掲示された。 
熊谷の高札場は、寛永年間(1704〜1717)に作られた、「見世割図写」 により、 場所・大きさなどが推定できる。
場所は、本町長野喜蔵の前の道路中央にあり、「町往還中程に設置申候」と記され、 木柵に囲まれた屋根がある高札場が描かれているので、 今の大露地と中山道の交差するこの説明板付近と、推定される。 
            (中略) 
現在、高札は、本陣であった竹井家に、14枚残っている。 」 

熊谷神社
     陣屋跡      札の辻跡
熊谷神社
陣屋跡
札の辻跡

鎌倉町交叉点の手前左側に、「本陣跡」の石柱と、説明板が建っている。 
ここは、竹井本陣のあったところである。 

説明板 「本陣跡」  
「 本陣は、 江戸時代初期の寛永十二年(1835)の諸大名に対する参勤交代制度が確立されてから、 各街道の宿場町に置かれたものである。 
諸大名や幕府役人・公家貴族などのための特別な旅館であり、 門・玄関・上段の間を見ることができて、 一般の旅館(旅籠)とは区別されていた。
従って、本陣の経営者も、土地の豪家で、苗字帯刀を許されたものが多かった。 
熊谷宿の本陣は、明治十七年(1884)の火災と、昭和二十年(1945)の戦災で、 跡方もなく灰塵に帰してしまった。
嘉永二年(1849)に、一条忠良の・、寿明姫が宿泊の折、 道中奉行に差し出した本陣絵図の控えが、竹井家に残っていて、 その絵図によって内部の模様が細々と分かる。 
中山道に面し、間口は十四間五尺(約27m)で、 奥は星川にまで至り、上手の御入門、下手の通用口、坪数、部屋数、畳数など、 全国に現存する旧本陣に比べても、規模、構造共に屈指のものである。 」

鎌倉町交叉点を右折し、八木橋デパートの前を行くと、 熊谷寺がある。 
熊谷寺には、「熊谷直実の墓」 と伝えられる、宝しょう印塔が建っている。 

「熊谷寺(ゆうこくじ) の由来 」
「 熊谷寺は、正式には蓮生山熊谷寺という。
熊谷直実が蓮生坊として出家し、承元元年(1207)に、入滅した際、 居住していた草庵の跡に、 天正十九年、幡随意上人が伽藍を建立し、蓮生山熊谷寺と称したのが始まりという。 
本尊は阿弥陀如来で、両脇に観世音菩薩が脇侍し、 本堂屋根の四隅に、逆さ獅子が配され、 熊谷家の家紋 「ほやに向かい鳩」、徳川家家紋 「三つ葉葵」 、浄土宗宗紋 「月影杏葉」 が付けられている。 
三つ葉葵が付いているのは、徳川家康から御朱印三十石を賜わっていたことによる。 
江戸中期には本堂、十王堂等多くの 建物があったが、安政元年の火災で焼失した。 
本堂は、大正四年(1914)に再建された、高さ十一間(21m)、間口十四間(25.5m)、 奥行き十六間(29m)の堂々たる建物で、総檜造りである。 
本堂の西側には、熊谷直実の墓と伝えられる宝筐印塔がある。 
明治維新による廃藩置県の際、熊谷県が誕生した時、県庁として使われた。 」

鎌倉町交叉点に戻り、交叉点を左折して、すぐに左折し、一本目を右折すると 星渓園がある。 
星渓園は、竹井本陣の別邸として、慶応年間から明治初年にかけて、 つくられた回遊式庭園である。 

説明板「名勝 星渓園」  
「 星渓園は回遊式庭園で、熊谷の発展に数々の偉業を成した、竹井澹如翁によって 慶応年間から明治初年にかけてつくられました。 
元和九年(1623) 荒川の洪水により、庭園の西方にあった土手(北条堤)が切れて、 池が生じ、その池は清らかな水が湧き出るので、玉の池と呼ばれ、 この湧き水が、星川の上流となりました。 
澹如翁は、ここに別邸を設け、(玉の池)を中心に木竹を植え、名石を集めて、 庭園としました。 
明治十七年に、時の皇后(昭憲皇太后)がお立寄りになり、 大正十年には、秩父宮がお泊まりになるなど、知名士の来遊が多くみられました。
昭和二十五年、熊谷市が譲り受け、翌年、星渓園と名付け、 昭和二十九年、市の名勝としてしてされました。 
建物の老朽化が著しかったので、平成二年から四年かけて、 建物の復元と庭園の整備がされました。 
           平成四年十月 熊谷市教育委員会   」  

熊谷宿は、以上で終わる。 

本陣跡
     熊谷寺      星渓園
本陣跡
熊谷寺
星渓園

熊谷宿  埼玉県熊谷市本町  JR高崎線熊谷駅下車。  

(所要時間) 
鴻巣宿 → (1時間30分) → 氷川八幡神社 →( 1時間20分) → 間の宿・吹上
 → (40分) → 権八地蔵 → (2時間30分) → 熊谷宿 



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