中山道を浦和宿から大宮宿まで歩いた。
大宮宿は、浦和から一里十町、江戸から四番目の宿場である。
宿の長さは、九町三十間(約一キロ)で、天保十四年(1843)の宿村大概帳によると、
宿内人口1508人、家数319軒で、人口は、蕨(わらび)宿や熊谷宿よりは少なかったが、
浦和宿よりは多かった。
本陣は1軒、脇本陣9軒、問屋4軒、旅籠25軒、と脇本陣が多いことが目立つ。
また、武蔵国一の宮の氷川神社がある門前町でもあり、
その参拝に訪れる人も含め、宿場には多くの飯盛女(女郎)を抱えていたようである。
◎ 浦和宿から大宮宿
慈恵稲荷を出ると左に成就院があり、新浦和橋有料道路(R463)の下をくぐる。
県道164号を北に向うと、JRの線路が右からせまってきて、
JR宇都宮線・高崎線・京浜東北線の上を、新浦和橋で渡る。
その先の右側に、笹岡稲荷がある。
「 笹岡稲荷の境内の榎の木は、浦和の一里塚にあったものか、
その子孫といわれる。
一里塚は、昭和の初期まで、浦和橋より少し南にあり、
街道の両端の五間四方の塚に榎の木が植えられていた。
浦和橋を架ける時、塚は取り壊され、跡形も残っていない。 」
北浦和駅東口交叉点の左手に、北浦和駅がある。
横目に見ながら、交叉点を越え、市立北浦和図書館前交叉点を過ぎると、
元治元年創業の梅林堂のすぐ先、左側に廓信寺がある。
地蔵堂・鐘楼と、正面に本堂があり、木造阿弥陀仏如来坐像は、
鎌倉時代頃の造像といわれる。
「 廓信(かくしん)寺は、浦和郷一万石の代官・中村弥右衛門尉吉照が、
旧主の高力河内守清長(岩槻城主)追悼のため建立した寺と伝えられる寺である。
中村弥右衛門は、浦和郷の代官として任じられたが、
その後、幕臣となり、引き続き、浦和郷の代官を務めた。
その際に設けられたのが、「針ヶ谷陣屋」である。
ここから東方にあたりにがあったが、遺構は残っていない。
一本杉の仇討で討たれた元丸亀藩藩士の河西祐之助の墓がある。 」
寺の入口に、「紅赤の発祥地」 の説明板があ建っている。
説明板「紅赤の発祥地」
「 サツマイモの女王、紅赤 通称金時 は、北浦和(旧木崎村針ヶ谷)で、
明治三十一年(1898)に、山田いちにより発見された。
墓のある寺に、顕彰のため記した。、 」
大原陸橋東交叉点を渡った先の右側に、 正徳四年建立の猿田彦が彫られた庚申塔がある。
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ミニストップの先に見える一本杉の下に道路に面して、「一本杉」の説明板がある。
説明板 「一本杉」
「 文久四年(1864)一月二十三日の朝、水戸藩家臣・宮本鹿太郎と、
後見人三名が、千葉周作門下の元讃岐藩の浪人・河西祐之助を、
父の仇として討ち、四年越しの本懐を遂げた場所である。 」
与野駅東口交差点の右側に、大きな一本の欅(けやき)が立っている。
「半里塚跡」の碑には、
「 ここが一里塚と一里塚の間に作られた半里塚の跡といわれる。 」 とある。
威風堂々として、それを避けて、車が走っていた。
上木崎交叉点の手前左手に、「出世稲荷」の旗が翻ってる、小さな神社がある。
「出世稲荷」
「 高力河内守清長は、岩槻城主であったが、この地針ヶ谷に陣屋を設け、
陣屋内に稲荷を祭り、出世神として崇めて、
岩槻から参拝にきていたという、屋敷稲荷である。
高力清長は、仏の高力といわれた人物で、徳川家康の関東入国により、
岩槻三万石を与えられ、浦和郷一万石を預けられた。 」
その先の右側は上木崎。
英泉による浮世絵 「支蘇路ノ驛 ・浦和宿」(中山道の浦和宿) は、
ここから浅間山を見た姿が描かれている。
ここは、六国見(ろっこくけん)と呼ばれて、六国が見晴らせる場所だったのである。
周りが囲まれて今は何も見えないが、駅の反対側の中央郵便局や、
隣の高いビルからは見えるのだろうか?
「 当時の旅行案内、「木曽路名所図会」にも
「 富士(駿河)、浅間(信州)、甲斐(甲州)、武蔵、日光(下野)、伊香保(上州)など、あざやかに見えたり 」 と書かれている。 」
左にさいたま新都心駅と、さいたまアリーナがある。
「 このあたりは、合併前は与野市上木崎で、
国鉄時代には列車基地になっていたところである。
再開発され、埼玉新都心の超高層ビルへと変貌した。
さいたま市は、平成十三年六月一日、浦和・大宮、・与野が合併し、
全国十三番目の政令指定都市になった。
さらに、平成十七年四月一日、岩槻市と合併した。 」
ここから五百メートルは、道の両脇にケヤキ並木が続く。
このケヤキは、昭和四十二年に開催された埼玉国体の際に植えられたもので、
この先はそれらを眺めながら歩くことになる。
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一旦、ケヤキ並木が途絶えた右側の歩道の上に、
小さな祠があり、二体の石仏が祀られている。
後に見えるビルあたりが、さいたま副都心駅である。
説明板「火の玉不動尊と女郎地蔵・刑場跡」
「 この二体の石仏には、火の玉不動尊と女郎地蔵という名が付けれている。
左側の石仏が、火の玉不動尊で、下の中央に「為無縁」、
左側に「天保六(1835)年三月吉日」、、右側には 「施主粂三郎」 とあり、
刑死者の供養のために建立されたものと思われる。
右側は、お女郎地蔵で、像の両側に、「無縁法界菩薩」、
「寛政十二(1800)申二月建立」、と刻まれていて、
宿場の飯盛り女の薄倖の死を悼んで、建てられたものである。
地元の言い伝えによると、 「 大宮宿柳屋の女郎が、世をはかなんで、
高台橋から身を投げたのを哀れに思った村人が、地蔵様を彫って備えたが、
それ以来、前々からあった不動明王から、夜な夜な、火の玉が漂った。 」 とある。
この高台橋の傍に、刑場があり、大盗賊神辺徳次郎も御用になった末、
この刑場の露に消えたと伝えられる。 」
さいたま新都心駅前交叉点を過ぎると、再び、ケヤキ並木が現れる。
ケヤキ並木を進むと、大宮氷川神社の赤い鳥居が見えてくる。
道の右側に赤い鳥居と、「武蔵国一宮」と書かれた石柱が建っている。
この鳥居は、氷川神社参道の一の鳥居で、この参道は中山道の古道である。
「 当初、この参道を中山道に使用していたが、 街道が神域を通るのは不敬であると、寛永五年(1628)に、 現在の直進する中山道が造られ、それに伴い、宿民を移転させて大宮宿が造られた。
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◎ 大宮宿
真直ぐ行くと、吉敷町交叉点から、かっての大宮市域になる。
交叉点の先の左側にある門は、加賀前田家から、拝領したという門である。
吉敷町一丁目バス停近く、至誠堂ビル南の細い道を入ると、
大きなケヤキの木が二本あり、二つの祠が並んでいる。
左側が塩地蔵で、右側の数体が子育て地蔵である。
説明板「 塩地蔵の由来 」
「 いつの頃か、妻に先立たれた二人の娘を連れた浪人が、大宮宿で病に倒れて、
日一日と重くなっていきます。
ある晩、夢枕に地蔵様が現れ、二人の娘に塩だちをするように告げて消えました。
娘達は、早速塩だちをして近くの地蔵堂に祈ったところ、父の病は全快しました。
そこで、たくさんの塩をこの地蔵様に奉納し、幸せに暮らしたとのことです。 」
その後、人々も塩を供えるようになり、いつの頃か、
塩地蔵 と呼ばれるようになったとのこと。
この地蔵は、埼玉新都心付近の 鉄道敷地 (操作場) 内 にあったのを、
大正十年(1921)、ここに移された。 」
第四銀行南の建物脇 (ヤマト運輸と第四銀行大宮支店の間の道を入ると右側に) 「涙橋(中之橋)」 の石標がある。
説明板「涙橋(中之橋)」
「 往時、大宮宿のこの辺りの中山道を横切る溝川の流れがあり、
中の橋 と呼ばれる橋が架かっていました。
当時、吉敷町の町外れ、高台橋に罪人の処刑場があって、その親類縁者が中の橋で、
この世の別れを惜しみ涙を流したことで、いつしか、
涙橋 と呼ばれるようになったといわれている。
この碑は、昭和42年3月、 第四銀行がこの地に開業するに当り、
敷地造成の折、国道に架けられた橋桁の枠石が、発見されたのを機に、、
遺跡として顕彰したものである。 」
中山道は、大宮駅の東側の人と車がごった返す道で、 街道沿いにはビルが林立している。
「 大宮宿は、
浦和から一里十町、江戸から四番目の宿場である。
宿の長さは九町三十間(約一キロ)で、本陣は1軒、脇本陣9軒、問屋4軒、
旅籠25軒があった。
脇本陣の数が多いのは、荒川(当時は戸田川)が増水して、
川止があった時、大名行列を受け入れるため、必要になったからと思われる。
太田南畝は、武蔵一の宮へ行く途中、
「 武蔵一の宮へゆきて見まほしけれど、大宮の駅に入らざれば、
夫馬かふるわづらひあり 」 と、 見過ごしたが、
「 大宮の駅舎も又ひなびたり。
商人すくなし。 」 と、記している。
商人などは、少なく、寂しいところと、感じていた様子である。
それでも、武蔵国一の宮の氷川神社がある門前町でもあり、その参拝に訪れる人も含め、
それを対象する、飯盛女(女郎)を、宿場では多くの抱えていたようである。 」
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第二次世界大戦による大空襲で、大宮宿の周辺はほぼ焼失した。
駅前付近は、そのバラック小屋から再建した商店街である。
高島屋デパートは、寿能城家老・北沢家の屋敷跡である。
「 北沢家は、紀州徳川家の鳥見役として、
御鷹場本陣と、中山道の脇本陣を兼ねていた。
また、明治二年一月〜八月には大宮県の仮庁舎になっていたこともあった。 」
本陣は、臼倉新右衛門がつとめていたが、
文政期以降、山崎喜左衛門がつとめた。
左側の岩井ビルが山崎本陣。 キムラヤビルが臼倉本陣の跡である。
上記以外、大宮宿の遺跡は見つけることができなかった。
大栄橋交叉点の左右の道は、川越街道で、交叉点の左側に御影堂がある。
大栄橋交叉点を右折し、次の宮町交叉点を左折する。
この細い道が江戸時代の岩槻街道で、この道に入ると左側に、東光寺がある。
東光寺は、紀州の僧・東光坊が、関東に来て、黒塚の悪鬼を呪伏し、
坊舎を建てたのが始めとされ、曹洞宗の寺である。
建物は、順次建替えられたので、古いものはない。
現在の大宮は、喧噪の中にも穏やかさを残す大都会である。
その大宮を後に、上尾宿に向う。
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大宮宿 埼玉県さいたま市宮町 JR京浜東北線大宮駅下車。
(所要時間)
浦和宿 → (2時間) → 大宮宿 → (2時間30分) → 上尾宿