名所訪問

「 続日本100名城 忍城(おしじょう) 」


かうんたぁ。


忍城は、室町時代の文明十年(1478)、山内上杉氏に属していた、 成田正等・顕泰親子により、築かれた城である。 
北を利根川、南を荒川に挟まれた扇状地に点在する広大な沼地と、 自然堤防を生かした、要害堅固な城であった。 
元々沼地であったところに、島が点在する地形を生かし、 沼は埋め立てず、独立した島を曲輪とし、橋を架ける形で城を築いた。 
そのため、攻めにくく守りやすい城だったので、 城主の成田氏は、北条氏や上杉氏に攻められても、城は落ちなかった。 
天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原城攻めの際、城主の成田氏長は 北条氏の命で、小田原城に籠城。 
忍城は氏長の叔父・成田泰季を城代とし、約五百人の侍や足軽のほか、 雑兵、農民、町人など三千人が立てこもる。 
豊臣方の忍城攻め総大将は石田三成で、大谷吉継、長束正家、真田昌幸等も加わった。 
三成は、忍城を一望する数キロ離れた丸墓山古墳(埼玉古墳群)に、本陣を置き、 北側に流れる利根川を堰き止め、 三里半(約14q)の堤(石田堤)を築いて水攻めをするが、 もともと水域で、しかも補給路を確保していたので、忍城はびくともしなかった。  石田三成による、忍城攻めは失敗に終り、 忍城は、小田原城が先に落城したことによる開城となった。
豊臣方の水攻めにも耐え抜いた逸話から、 「浮き城」 または 「亀城」 と称された。 
羽柴秀吉による徳川家康の関東入部後は、 家康の四男・松平忠吉が、忍城に配置され、以後、忍藩10万石の政庁になった。 
寛永十六年(1639)に、老中の阿部忠秋が入城して大改修に着手し、 孫の正武の代に、御三階櫓の建設、城門、土塀の修築が行われた。 
文政六年(1823)に、松平忠尭(ただたか)が藩主となり、 忠誠(ただざね)の時、明治維新を迎えた。 
明治維新後、明治四年(1871)の廃藩置県と同時に廃城となり、 明治六年(1873)に土塁の一部を残して、取り壊された。 
続日本100名城の第118番に選定されている。 


忍城跡へ行くと、忍城今昔地図がある。

「 城図の薄紫部分は、上から、米蔵・諏訪曲輪、 中央は本丸、その下が二の丸で、藩主の御殿があった。 
当初の城は櫓を建てず、本丸は空地とし、二の丸に屋敷を造り、そこに住んでいた。 
その下の肌色が三の丸、その左に成田門があり、橋でその下の勘定所の島に繋がり、そこに 熊谷門と三階櫓が建っていた。 
これらの曲輪は沼で囲まれていて、島の間は橋で繋がっている構造であった。 
これらの沼は、明治維新後、埋め立てられて、現在は紺と濃い水色の部分しか、 沼は残っていない。 
また、諏訪曲輪と本丸の部分と三の丸の濃い水色の部分だけが、 現在、忍城の遺跡として残るのみである。 」

忍城今昔地図
忍城今昔地図




忍城の本丸跡に訪れると、水掘の木橋が架っている。
橋を渡ると城門があり、 その左には三階櫓が建っている。 

「 昭和六十三年(1988)、本丸球場が移転した跡に、行田市により、 郷土博物館を建設されたが、その時、御三階櫓を併設した。 
三階櫓は、「忍城鳥瞰図」や文献を基に、コンクリート構造として外観復興された。 
江戸時代、三階櫓は今昔地図にあるように、三の丸に建っていたので、 建つ位置は違う。 また、規模も違う。 」

門から中に入ると、鉄砲狭間や弓狭間のある土塀で囲っているが、 これもその時造ったものである。
その下の小高い土地は、忍城時代の土塁のようである。 
その先に前述の博物館に三階櫓が繋がって建っている。 
三階櫓の内部は、展望室や行田の歴史を紹介する展示室になっている(有料) 
係りの人に、さきたま古墳群への展望を聞くと、展望室は格子状なので、 視野が狭いので、どうだろうか?、とのことなので、入場は遠慮した。 

御三階櫓      土塀      郷土博物館
御三階櫓と木橋と城門
土塁の上に建つ土塀
郷土博物館

博物館の見学はやめたが、ロビーに続名城のスタンプがあるので、捺印して、 博物館を後にした。
  三階櫓の近くに時鐘楼が建っていた。
「時の鐘」は、諏訪曲輪からの移築である。 
博物館の門をでようとすると、多くの人が集まって、一点を見ている。 
そこに目を転じると、つるべいの声が耳に入ってきた。 
NHKのつるべいの「家族にばんざい! 」 の収録が行われていたのである。 

忍城のスタンプ      時鐘楼      テレビ収録風景
忍城のスタンプ
時鐘楼
テレビ収録風景

門を出て、左折(郷土博物館館の南側) すると、藩校進修館の門が、 移築されて建っている。 

説明板「伝進修館表門」
「 この門は、行田市城西の旧芳川家表門を移築・復元したもので、 かっての藩校「進修館」の表門であったと伝えられている門です。 
一間一戸、高麗門、切妻造、桟瓦葺で、 当初は赤彩された赤門であった可能性も指摘されています。 
また、解体時に発見された冠木柄表面の墨書銘から、 天保三年(1832)に御奉行後藤五八、 大工町世話方大工 宋兵衛等によって、建立されたことが判明しています。 
戦災によって、一度移築されていたことなどから、 藩校「進修館」 の門であるのかは確定していませんが、 現存する行田市唯一の武家屋敷の表門として、 貴重な歴史建造物であると言えます。 
  平成十八年三月   行田市教育委員会   」

来た道を引き返し、左右に駐車場があるところを過ぎると、国道125号に出た。 
道の対面に「諏訪神社」の石柱と、こんもりとした森が見える。
これが、忍城の遺産である、諏訪曲輪跡で、土塁は残されているが、 現在は、東照宮と諏訪神社になっている。 
雨が強かったので、土塁の確認はあきらめ、国道を右(東)に行き、 信号を右折すると、忍城通りで、忍城の東側に出た。 
左に入る三叉路入口には、「忍の時鐘楼跡」 の石柱が建っている。 
二の丸の周辺の堀は埋め立てられ、市役所やその他の施設が建てられている。 

伝進修館表門      諏訪神社      忍の時鐘楼跡
伝進修館表門
諏訪神社
忍の時鐘楼跡

鐘楼跡の横に門があり、その中の道には、「浮き城の径」 という名が付いている。 
石畳の道を歩くと、左に小さな流れが続き、裸婦の像もあった。 
道なりに進むと、左手は市役所、右側には産業文化会館アートギャラリーがある。
ここは、明治以降に埋め立てられた二の丸跡である。 

鐘楼跡石碑横の門      浮き城の径      産業文化会館
鐘楼跡石碑横の門
浮き城の径
産業文化会館

産業文化会館から、道に沿って南東に進むと、忍城バスターミナルがある。
その隣に、本丸児童公園と、市民プールや公衆トイレがある。 
また、「水奇公園周辺案内図」もあった。 
場所を確認し、更にすすむと、右側に蒸気機関車のC5726が置かれていた。 
少し歩くと、右側に水堀が現れる。 
その先に桜並木があり、市民広場になっていて、しのぶ庵や築山があり、 水城公園の中心である。
さらに進むと、大きな池が目に入ってくる。 
水城公園の標木の先の池は、沼 というには大きすぎる。 
これが石田三成を苦しませた忍城の浮島にあった沼跡で、歴史的に貴重である。 
道の反対に、10万石饅頭を販売する店があったので、御土産に購入した。 
他にも、幾つからの和菓子を買ったが、それぞれおいしかった。 
車を置いた忍城の駐車場へ戻り、忍城の見学は終了した。 

蒸気機関車C57      水城公園市民広場      浮城を象徴する沼
蒸気機関車C57
水城公園市民広場
浮城を象徴する沼

忍城の所在地:埼玉県行田市本丸    
秩父鉄道秩父本線行田市駅から徒歩約15分 バスもある  

訪問日     令和三年(2021)十月九日


(ご参考)  石田三成による忍城水攻め

「  石田三成の水攻めは、北東が現在の上星川(見沼代用水)の白川戸(西明寺付近)から、南に、石田三成の本陣があった丸墓山を経由し、堤根や下忍付近を通り、 忍川と武蔵水路がJR上越新幹線の線路を横断するあたりで、Uターンし、 元荒川と高崎線に沿って、西北に向い、熊谷の南東の東竹院まで、堤を築いた。
(注)荒川は江戸時代以降、大きな工事が行われ、現在地に移動しているので、 当時は元荒川が荒川であったと思われろ。 
三成が築いた堤は、利根川と荒川を結んで、堤が造られた訳で、 「石田堤」 と呼ばれ、全長十四キロとも二十八キロとも言われる壮大なものである。  既存の堤を活用しながら、付近に点在する古墳を取り崩し、 その土を当てるなどして、短期間で造り上げられた。 」

天下人と呼ばれた秀吉が、日本で唯一落城させることができなかった城が忍城で、 忍城をテーマにした小説はいくつかある。 
その中でおもしろいのは、和田竜の小説「のぼうの城」で、映画にもなった。 
実際の忍城攻防は以下のようである。 

「 豊臣秀吉は、武蔵国の岩付城が落城すると、 忍城攻めの総大将に石田三成を任じ、 佐竹義宣・宇都宮国綱・結城晴朝などの北関東の諸将を始め、 二万余人の軍を引きつれ 忍城へ進攻させた。 
その時、忍城城主の成田氏長は、北条氏に味方し、小田原城に籠城していた。 
城主が留守の忍城には、成田長親(のぼう様)の父・泰季が城代を務め、 五百余の兵と城下の民を合わせ、三千人で立て籠もった。 
本丸に泰季、持田口に成田長親と新田常陸守 長野口に柴崎和泉守と吉田和泉守、 下忍口に坂巻靱負を配置したが、城代の泰季が急死したため、 泰季の奥方(太田資正の娘)は、甲斐姫と相談の上、一門と家臣を集め、 長親(のぼう様)を総大将とすることを決めた。 
「成田系図」によれば、「 長親らの計略により、 水に慣れた者を深夜に城の外に出し、 郭外の堤を断ち切ると、水が敵陣に注いだ。 
水は逆行し、敵陣が漂溺したが、城内は小勢であったので、 城を出て敵を撃つことはできなかった、 」 とされる。 
鉢形城を落した浅野長政が、三成の援軍として加わり、秀吉に力攻めを進言したが、 秀吉はあくまでも水攻めを行う旨を伝え、堤をより頑強に修築するよう命じた。 
小田原城の落城後、開城を拒んだ成田長親に対し、 当主の氏長の説得と、秀吉の仲介により、城は開城した。 
忍城開城後、城主の成田氏長は、秀吉より、蒲生氏郷の傘下に預けられたが、 その後、下野烏山藩二万石の大名に帰り咲いた。 
成田氏の家臣団は、藩主の氏長に付いて烏山に行った者と、 氏長と新領主の松平忠吉の家臣になった者と、在地で帰農する者とに別れた。 
成田長親の長男の長季は、新領主の松平忠吉の家来になったが、 のぼう様の成田長親は成田氏長に従い、烏山に行った。 
その後、氏長より「忍城戦の際の逆心」 の疑いをかけられたため、、 烏山を去り、流浪の身になった。 
その後、無実が判明し、氏長は誤ったが、烏山には戻らなかった。 
その後、剃髪し、自永斉と号した。 
晩年は松平忠吉の尾張移封に伴い、従っていた長男の長季の尾張国で暮らし、 六十七歳の生涯を遂げた、という。 
また、長男の長季の子孫は、尾張藩に仕え、明治を迎えている。、」




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