川越氷川神社は、川越市宮下町にある。
太田道灌以来、川越の総鎮守とされ、川越藩主ら、歴代領主の篤い崇敬を受けた。
欽明天皇二年(541)、入間川で、夜な夜な光るものがあり、
これが氷川神社の霊光と捉え、当地に氷川神社を勧請したと伝えられる。
長禄元年(1457)、川越城を築いた、太田道灌は、当社へ詣で、
和歌を残している。
川越藩主・酒井忠勝・堀田正盛・松平斉典が、社殿造営を行った。
川越氷川神社は、川越城三の丸だった川越高等学校の前を通り、
郭町交叉点を北上するとある。
神社の入口の大鳥居は、平成の御大典を奉祝し建立された。
高さ十五メートルの木造では日本有数の鳥居で、
扁額の社号は勝海舟が記したものである。
「 祭神に素戔嗚尊・奇稲田姫命・大己貴命・脚摩乳命・手摩乳命を祀る。
二組の夫婦神と出雲大社の縁結びの神として知られる大己貴命を祀ること、
また、この五柱の神々は、家族でもあることから、
特に、夫婦円満、家族円満の神として崇敬されている。
古墳時代の欽明天皇二年(541)、入間川で夜な夜な光るものがあり、
これを氷川神の霊光だと捉え、当地に祀られたのが始めである。
室町時代の長禄元年(1457)、太田道真・道灌父子によって、川越城が築城されると、
城の神門(戌亥)の方角に、当社が鎮座していたことが奇瑞として、
城内、城下の守護神として崇敬された。 」
太田道灌は当社へ詣で、
「 老いらくの 身をつみてこそ 武蔵野の 草にいつまで 残る白雪 」
という和歌を残している。
「 江戸時代に入り、川越藩歴代藩主は当社を藩領の総鎮守として、
篤くの崇敬し、
社領地と寄進を行い、酒井忠勝、堀田正盛、松平斉典は社殿の造営を行った。
本殿は、天保十三年(1842) 起工、嘉永二年(1849)に、竣工した。
間口四メートル、奥行二・五メートルの千鳥破風及び、唐破風向拝付三間社・
入母屋造・銅板葺の建物で、
藩主・松平斉典の寄進によるものである。
彫物師は、嶋村源蔵と飯田巌次郎、江戸彫りの精巧な彫刻が施されている。
特に、腰回りには、当時の氷川祭礼に引き廻された山車の上の人形が、
彫刻の題材として彫られている。
公開されるのは年に一日だけである。 」
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本殿の左側にあるのは八坂神社で、以前は牛頭天王社という名だった。
「 本殿は、寛永十四年(1637)に三代将軍徳川家光が 江戸城二の丸に東照宮として建立したもので、 明暦二年(1656)に、川越城内、の三芳野神社の外宮として、移されたが、 川越城廃城後の明治五年(1872)に当社境内に移築された。 」
本殿は江戸城内の宗教的建造物としては現存する唯一の貴重な社殿である。
舞殿は、宝永元年(1704)の建立で、御囃子や奉納芸能などが行われる場所である。
柿本人麻呂(人丸)神社は、柿本人麻呂の子孫とされる綾部一族が、
戦国時代に丹波の綾部から川越に移住した際、
当社境内に奉斎したものである。
歌道上達、学業成就、安産、火防の信仰が残る。
面白いと思ったのは、鯉みぐじである。
しっぽにおみくじが挟まっている鯛をさおで釣り上げて、
自分の運勢を見るというもの。
「あいたい」と、「一年安たい」の二種類があった。
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訪問日 平成三十年(2018)五月十七日