坂本宿は、江戸から十七番目の宿場である。
坂本宿は、横川関所と碓氷峠を通過する前の宿場として、
寛政二年(1625)に開宿した新宿である。
天保十四年(1843)の宿村大概帳によると、宿内人口は732人、家数162軒、本陣二軒、 脇本陣二軒、問屋が一軒、旅籠が四十軒であった。
◎ 松井田宿から坂本宿
JR横川駅から、横川関所跡の下を通過すると三叉路で、左の道を行く。
左側に鎮魂碑と招魂碑がある。
難所の碓氷峠に信越本線を設置する際、
犠牲になった人達の霊を弔うものである。
右側に旧信越本線のアブト式を使用した鉄道村からアブトの道があり、
その下をくぐる。
その先、車道は左にカーブするが、中山道は直進し、霧積川を渡る。
右にある細い道は旧道である。
「 江戸時代には、現在の橋よりやや上流に、
川久保橋が架けられていました。
橋桁の低い土橋だったため、増水により度々流されたが、
流失すると復旧するまでは川止めが行われた。
このため、碓井関所には、大綱一筋、麻綱一筋が常備され、
宿継ぎ御用綱として使われ、
御用書状を対岸に渡すことに使われた。
土橋だったのは、江戸への侵入を阻止するという幕府の政策だったというが、
庶民にとっては迷惑だったことだろう。 」
川久保橋を渡ると、バイパスには行かないようにして、
真直ぐの細い道に入る。
入るとすぐの左側の民家の一角に、「川久保薬師如来」 の奉納燈籠が
建っていて、その上に薬師堂がある。
「 この坂は、薬師坂といい、元和九年(1623)、
碓氷関所が開設されると、
通行の取り締まりが厳しくなり、 更に、碓氷峠越えを間近にひかえているため、
無事通過の願いを込めて、薬師堂が建設されたといわれる。
薬師如来は、近くの湧水で洗顔すると、眼病に霊験あらたかといわれ、
近郊の客が多く参拝していました。 」
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近くに、「薬師湧水」 の石碑があり、脇に祠があった。
今は水は出ていないようである。
「 川久保薬師は、近くに清澄な清水があることから、 心太(ところてん)を出す茶屋があり、旅人でにぎわい、心太坂 といわれ、 親しまれたという。 」
坂を上り切ると国道18号に合流する。
ここに、「←坂本宿0.9q 松井田宿7.4km→」
の中山道の道標があり、京方面からは重要な分岐ポイントである。
このあたりの地名表示を見ると、
「原」 とあるが、原村は、坂本宿が整備される前からあったようで、
松井田町が誕生した時、現在の名前になったようである。
左側は碓井上水道貯水池で、振り返ると妙義山が大きく見える。
国道に合流すると、左側の道の奥に、白髭神社がある。
「 白髭神社は、景行天皇四十年(110) 創建と伝わる古社で、 日本武尊が碓井峠の白鹿に化けた山の神の危難から救った、 白髭の老人を祀っている。
上信越自動車道の高架の手前左側に赤い鳥居と小さな祠・「水神宮」がある。
「 水神宮は、旧原村内に流れる用水路の起点に、 清浄で豊富な水を願って、水神を祀ったものである。 」
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◎ 坂本宿
高架橋をくぐると、左側に 「中山道坂本宿」 の標柱と、
柵のようなものがある。
これは、坂本宿の 「下の木戸」 の一部を復元したものである。
「 ここは坂本宿の江戸側の入口・
下の木戸といわれたところである。
木戸は明け六つと暮れ六つの間だけ開かれた。
明け六つは午前六時、暮れ六つは午後の六時であるが、
時計を持つ時代ではないので、
太陽の運行により、長くなったり、短くなったりした。 」
坂本宿は、寛政二年(1625)に開宿した新宿である。
「 碓井峠を控え、また、碓井峠を
越えてきた旅人は、横川関所に向う準備をする宿場として作られた新宿で、
家並みは整然としていました。
家屋は間口七間(約12.6m)と、間口三・五間(約6.3m)のニ種類あり、
間口七間の家屋を一軒屋、間口三・五間の家屋は半軒屋と呼ばれました。
街道に沿った家は、隣との間にスペースを設け、桁違いになっていました。 」
英泉が描いた木曽街道の浮世絵には、 こんもり丸い刎石山(はねいしやま)を背に、 道の中央を用水が流れ、その両側を人が歩き、 家並みが続く構図が描かれている。
「
坂本宿の長さは六町十九間(約713m)で、道幅八間一尺(約14.8m)と広く、
中央に川幅四尺(約1.3m)の用水が流れていた。
天保十四年(1843)の宿村大概帳によると、
宿内人口732人、家数162軒、本陣二軒、、
脇本陣二軒、問屋が一軒、旅籠が四十軒である。
旅籠40軒と宿泊施設が多いが、
飯盛り女もいて、前後に関所や峠越えを控え、旅装を解く人達が多かった。
本陣・脇本陣・旅籠・商家百四十軒が、それぞれ、屋号看板を掲げ、
その賑わいは、 「 雨が降られこそ松井田泊まり、降らさ越します坂本へ 」 とある
の馬子唄にうかがえる。 」
「中村碓嶺(たいめい)生誕の地」 の案内板がある。
民家の軒下に、それぞれ屋号のようなものが、書かれていることに気付いた。
江戸時代の雰囲気を今日まで残すという地元民の総意であろう。
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宿場の中心には、本陣や脇本陣が設置されていた。
金井本陣は芝生と民家に姿を変え、当時のものは残っていない。
「 金井本陣は、下の本陣と称し、
間口十間半(約17m)建坪百八十坪(約594u)、玄関、門構付きの建物であった。
参勤交代で中山道を行き来した北陸、信越の大名の定宿になった。
憲政二年八月、加賀前田家の松平加賀守は江戸へ、
信州松代藩真田右京太夫は帰城の途で、ここですれ違い宿泊している。
また、
文久元年(1861)、皇女和宮が降嫁された際、
十一月九日に宿泊、翌十日朝出立している。 」
その先の左側に、 「坂本小学校発祥の地」 の碑がある家がある。
この家は佐藤本陣跡である。
「 佐藤本陣は上の本陣とも呼ばれました。
坂本宿は、東に碓井関所、西に碓井峠が控えていたため、
坂本泊まりが必然となり、本陣が二軒が必要であった。
明治八年(1875)、佐藤本陣を仮校舎とした坂本小学校が開校しました。 」
その向かいにあるのが、「みょうがや脇本陣」 で、門だけが残っている。
坂本交叉点手前の右側の 「永井脇本陣」 は、すっかり建て替えられているが、
門は当時のままらしく、面積も広いので、当時の面影を残している。
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隣の永楽屋脇本陣は、すっかり建て替えられている。
佐藤本陣と金井本陣の間に、「八郎兵衛脇本陣」 の表示のみがあった。
坂本交叉点を越えた先の右側にある坂本公民館は、 酒屋脇本陣 の跡である。
合計すると五つの脇本陣である。
「 天保十四年の中山道宿村大概帳では、脇本陣は
二軒となっているので、帳尻が合わない。
坂本宿は、加賀藩や尾張藩など大藩の参勤交代が重なることはままあったようで、
さばききれない場合は、旅籠を貸しきってしのいだとある。
また、幕末の文久三年(1863)、参勤交代の制が緩和され、大名の妻子の自由帰国を許可された。
その結果、中山道の通行が増え、本陣と脇本陣だけではさばききれなくなったので、
利用された旅籠の中から、脇本陣になったことは考えられる。 」
その先右側に、旅籠「かぎや」の跡がある。
屋根看板には、家紋の 「 丸に結び雁金 」 の下に、
かたかなで、 「 かきや 」 と書かれている。
この時代の看板は、片方は漢字が普通なので、
両方ともかたかなというのはめずらしく、見やすいと旅人に好評だった。
「 三百七十年前、高崎藩の納戸役鍵番をしていた武井家の祖先が、
坂本に移住し、旅籠に役職にちなんだ名をつけた。
屋根は社寺風の切妻、懸魚があり、
出梁の下には透し 彫刻が施されている。
間口六間の玄関を入ると裏まで通じる土間がある。
奥行八畳二間に廊下、中庭を挟んで八畳二間、往還に面してニ階建て、階下、
階上とも格子である。 」
宿場は街道文化の溜り場で、坂本宿でも俳諧、短歌、狂歌など、
天明・寛政のころは最盛期であった。
当時の「かぎや」の当主・鍵屋幸右衛門は、 紅枝(べにし) と号し、
「 末枝や 露八木草の 根に戻る 」 の作品を残している。
その先の右側に、 旅籠 「つたや」 跡がある。
漂泊の詩人・若山牧水が宿泊した宿である。
「 碓井峠にアブト式鉄道が開通して十五年後の明治四十一年
(1908) 頃になると、 繁栄を極めた坂本宿はすっかり見る影を失い、
寂びれてしまった。
この年の八月六日、 牧水は軽井沢で遊び、峠を越えて坂本に宿をとろうとした。
ただ一軒残っていた宿屋「つたや」に無理に頼んで泊めてもらうことにした。
寝についても暑さで寝つかれず、焼酎を求めて出て、月下の石ころ道を歩きながら、
ふと耳にした糸繰唄は一層の寂寒感を覚え、詠んだ句は
「 秋風や 碓井のふもと 荒れ侘し 坂本の宿の 糸繰りの唄 」 である。
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その先、右側の民家の前に、「小林一茶定宿のたかさごや」 の 説明板が建っている。
説明板
「 信州柏原が生んだ俳人小林一茶は、郷里と江戸を往来するとき、
中山道を利用すると、「たかさごや」 を定宿にしていた。
寛政・文政年間、坂本宿では
俳諧・短歌が降盛し、旅籠商人の旦那衆はもとより、
馬子、飯盛り女に至るまで指を折って、俳句に熱中したという。
そこで、ひとたび、一茶がたかさごやに草鞋を脱いだと聞くや、
近隣近郊の同好者までかけつけて、自作に批評を仰いたり、
俳諧談義に花を咲かせた。
近くから聞こえてくる音曲の音とともに、夜が更けることを忘れた、
にぎわいを彷彿させる。
小林一茶は、碓井峠の刎石の頂の 覗き と呼ばれるところで、
「 坂元や 袂の下は 夕ひばり 」
という句を詠んでいる。
ここは、坂本宿が一望できるところである。 」
その先の右側に、「上州中山道坂本宿 旅籠丸仁屋」 の標柱が建っていて、
右面に 「東江戸へ三十四里I 左面に「 西京へ百二里」 とある。
宿はずれの旅籠「いげたや」跡を過ぎると、上の木戸跡(京側入口)である。
先程、江戸側の入口にあったものと同じ木柱と柵が復元されている。
木戸柵内に、常夜燈の石碑と、文政五年(1822)建立の橋供養塔がある。
これは用水に架かっている橋を供養したものである。
その先の角に、芭蕉の句碑がある。
、「 ひとつ脱て うしろにおひぬ 衣かへ 芭蕉翁 」
「 寛政二年(1790)秋に、
坂本宿の俳人連が春秋庵白雄に依頼し建立したもので、
碑の文字は春秋庵白雄の手による。
書体はちくら様で、当初は碓氷峠の刎石坂にあったが、明治に入り、
中山道が廃道になったため、ここに移された。
なお、この句は元禄年間の 「曠野」 にあり、内容は木曽路下りのものである。 」
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坂本宿を歩いて感じたのは、
古い建物や昔の建物を改装して使っている家が多い ことである。
また、お寺を見なかったことと営業している商店がないことである。
人は住んでいるのだが、見かけることがなく、
江戸時代のまま、町全体が沈黙している ような気がした。
坂本宿 群馬県安中市松井田町坂本 JR信越本線横川駅から徒歩20分。
(所要時間)
JR横川駅 → (20分) → 横川関所(碓井の関所跡)→(20分)→坂本宿