横川の関所は、通称で、正式名称は碓氷関所である。
初代関守は、安中藩主の井伊直勝が勤めた。
安中藩が管理し、東海道の箱根宿と同格で、
幕府の 「 入り鉄砲に、出女 」 の取り締まりを
任務とした関所であった。
◎ 松井田から横川関所
西松井田駅前交叉点の右側に、国道18号と旧中山道の両方に
面する広い敷地を持つ補陀寺がある。
山門前の石段の右側に「曹洞宗補陀寺(ふだでら)
」の石柱があり、左下には、「大道寺駿河守政繁之墓処」 の石柱が建っている。
山門は、単層四脚柱の門で、
関東一の道場という意味の 「窟法左関」 の門額を掲げられている。
また、山門の前に、、「松井田城址」 の説明板がある。
補陀寺を含む北側一帯は、松井田城跡である。
説明板「松井田城址」
「 城は東と西の二つの郭からなる。
東半は、御殿山を中心に、安中郭 と呼び、安中忠政が本格的に築城したという。
西半は本丸・馬出し・二の丸の三つの郭からなる。
二の丸の北西部に、土囲(どい)が遺存する。
自然の尾根を巧みに利用し、無数の堀切や竪彫りを構築している。
北条流の典型的な中世の山城として名高い。
平成十七年三月 松井田町観光協会 」
松井田の地は、関東防衛の要衝だったため、
北条・武田・越後上杉との間で攻防が続けられた。
天文二十年(1551) 小田原北条氏配下の安中越前守忠政により、
松井田城が築いたのが始めで、永禄六年(1563)には武田信玄に攻められ、
城の構えが堅固で容易に落ちなかったが、安中忠政が自刃して
、廃城になった。
天正十年(1582) 再び、小田原北条氏の領有になり、
配下の大道寺政繁が城主となった。
しかし、天正十八年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際、
前田利家・上杉景勝率いる三万余の大軍に攻められて落城、廃城となった。
その先の 「大泉山」 の額のある門の手前の左側には
宝暦四年の寒念仏供養碑がある。
門をくぐると本堂などがあり、凛とした大寺の雰囲気をかもしている。
「 補陀寺は、応永年間(1394〜1428)の創建で、
安中氏・武田氏の帰依した後、天正十年(1582)
松井田城主となった北条氏政の家臣・大道寺政繁の菩提寺になった。
墓地には、自刃した大道寺政繁の墓がある。
加賀前田家が、参勤交代で門前を通ると、墓は悔し汗をかいたといいます。 」
中山道は、補陀寺の先の三叉路(安中署松井田分署の手前)で、
左の小道に入るが、寄り道をする。
そのまま直進すると新堀交叉点で国道18号に合流。
交叉点を渡ると金剛寺がある。
源頼光の四天王の一人・碓井貞光が
開基と伝えられる寺で、正式には碓氷山定光院金剛寺である。
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金剛寺の山門の駐車場の周りには、馬頭観音・二十三夜塔や庚申塔の石碑が あり、金剛寺略縁起も建っている。
説明板 「金剛寺略縁起」
「 源頼光に従い、四天王として武勇のほまれ高い碓氷定光は、
碓氷山中毒蛇が跋扈し、村民が難渋しているのを見て、
弘法大師自作の護持佛十一面観音に祈願し、峠に登ると、
毒蛇に襲われたが、十一面観音の庇護により、大蛇を調伏させた。
この時、守り本尊を祀り、蛇骨を納めるために開基したのが当寺である。
その後、寺は荒れたが、
応永元年に中興するも、寛文年間に焼失。
貞享三年に再建するも また焼失。
享和三年に落慶した。 」
先程の三叉路に戻る。 、中山道へ入るところに、「中山道」の道標があり、
「←坂本宿6.8q 松井田宿1.5km→」 と記されている。
中山道を下ると、右側の丸石の土留めの上に、「道祖神」、
もう一つは文字の消えた石碑が祀られている。
左側に 「一里塚」 の解説があり、
その先を左に回り込むと、民家の庭内に、新堀一里塚の痕跡がある。
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その先に信越本線の製糸踏切がある。
本来の旧道は途切れているので、
ここは渡らず、右に線路沿いに進み、第十中仙道踏切で渡る。
その先の三叉路で右折して進むが、先程消えた旧中山道は左の細い道である。
正面に妙義山があり、下に見えるのは上信越自動車道の高架橋である。
「 妙義山は、日本三奇景の一つで、白雲山・金洞山・金鶏山・
相馬岳・御岳・丁須ノ頭・谷息山等を含む総称である。
妙義神社は、白雲山を御神体にしている。 」
線路を越えたところからの道は鳥居坂で、
坂道上って行くと大石の上から、地蔵像が見下ろしている。
すぐ先で国道18号に突きあたる。
この中山道の入口に、文政十年(1827)建立の
二十三夜塔と、明治十三年(1880)建立の 山燈籠がある。
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山燈籠の反対側に、「中山道←坂本宿6.0q 松井田宿2.3q→」
の道標が建っている。
写真の裏側に上記が描かれている。
国道18号はフェンスで遮断されて、対面に横断できないので、
左に歩道を歩き、上信越車道高架下の五料交叉点で右折して、
横断歩道をわたり、「←旧中山道→」の標識に従い、
右に行く。
右側の理容店の隣に、二十三夜塔と庚申塔がある。
「 高架下をくぐった辺りは旧五料村である。
江戸時代には碓井関所付要害村の一つで、
他村の者が潜入するのを監視する役目を担っていた。 」
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「↑茶屋本陣お西・お東」 の道標が建っている。
それに従い右折すると、その先の左側の民家の庭先に、
「安中藩板倉伊豫守領分五料村高札場跡」 の木標がある。
JR信越本線の踏切を渡った正面に、茶屋本陣の駐車場があり、
その奥に二軒の建物が並んで建っている。
両方とも、五料村茶屋本陣の建物である。
両家は同じ中島姓だったので、右側をお東、左側をお西と呼んで区別したという。
現在の建物は文化三年(1806)の大火後に再建されたもので、
持ち主から寄贈を受け、復元修理を行ったものである。
二階は資料館になっていて街道に関する資料が展示されていた。
「 五料村茶屋本陣は、参勤交代などで、
中山道を通行する大名や公家などが休憩や、昼食あるいは、
他の大名行列が関所にかかっているときの時間待ちなどに利用された。
そのため、部屋数は少ないが、上座(かみざ) と呼ばれる書院造りの
上段の間・下(次)の間・式台(玄関)・通り(入側)などを備えていた。
家族は勝手・茶の間・中の間・納戸などで生活していたが、
茶の間の続きの広い座敷は名主役宅として村役所の機能を果たしていた。 」
両家は同じ中島姓なので、地元では 「 お西 」 「 お東 」 と呼ばれており、
天保七年(1836)から明治五年(1872)まで一年交代で、
この村の名主と茶屋本陣を勤めてきた。
両家の建物は文化三年(1806)の大火で焼失し、同年中に再建されたもので、
松と杉が主だが、大黒柱などには欅を使用している。 」
「 お西の建物は、間口十三間、奥行七間、総二階切妻造りで、
家族居住部分は二階に
なっているが、上座は平屋である(二階はなく、天井も高く、
天井に入れない工夫をしている)
現在の建物は寄贈を受けて、江戸時代の再建当時の図面通りに復元したが、
上座(かみざ)部分は明治十一年九月六日に、
明治天皇が北陸東海道御巡幸の折に、
「御小休所」 として使われたので、
明治十一年に大改修された状態のままに保存されている。
目の前に妙義山が仰ぎ見られるるので、休憩所としては絶景の地にある。 」
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お東は、平成四年(1992)に寄贈を受け、建築当初の姿に復元された。
「 お東の建物は、間口十三間、奥行七間、総二階切妻造りで、
上座は式台と表の間、次の間、上段の間、
これに鍵の手の入側(畳敷きの通路)が付いている。
これらは建築当初のままである。
便所は旧位置にそれぞれ三ヶ所復元された。
両建物とも、東西に土蔵を配し、
鼓山を眺める南面の借景庭園はすばらしい。
なお、板葺きであった大屋根は
防火上の配慮から板葺風のスレート瓦葺になっている。 」
お東本陣を出て、中山道に戻り、直進すると、
左側の家の隅に、正徳四年(1714)の苔むした双体道祖神がある。
右側に 「←坂本宿5.5q松井田宿2.3q→」 の中山道道標がある。
JR信越本線の榎踏切を渡ると丸山坂で、上る左側に道祖神碑がある。
次いで、右側に石仏、石塔がある。
「 元文五年(1740)建立の青面金剛庚申塔や、 馬頭観音などが祀られている。 」
その先の左側に二体の地蔵像と二基の地蔵碑がある。
一番大きな地蔵は夜泣き地蔵と呼ばれている。
「五料の夜泣地蔵」
「 昔、荷を積んできた馬方が荷物のバランスを取るため落ちていた地蔵の首を
馬の背に付けて深谷まで行った。
帰りは不要なので、深谷で首を道端にしまったが、
首が夜になると、「五料恋しや」 と泣き声を発したために、
深谷の人が哀れに思って、
この首を五料に届け、胴に乗せた 」 という話が残り、「夜泣き地蔵」
と呼ばれるようになった。 」
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夜泣き地蔵の下には茶釜石もあって、
これは叩くとからっぽの茶釜のような音が出るので、その名がある。
置いてある小石で叩いてみると、予想していた以上にいい音色だった。
「 中山道を旅した蜀山人(大田南畝)は、
「 五料では あんまり高い 茶釜石 音打ちを聞いて 通る旅人 」
という狂歌を残している。
五両を五料に、値打ちを音打ちにかけて、なかなか味のある句である。
このあたりが丸山坂の頂上のようである。
低い切り通しを抜けると左側に、「中山道←坂本宿5.0q 松井田宿3.3q→」 の道標が建っている。
下っていくと、右側のコンクリート擁壁の上に馬頭観音がある。
人はほとんど通らない道で、りんご畑の中、登り下りが続く。
リンゴ畑には白い花が満開であった。
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次いて坂を上り、下ると三叉路で、左に進む。
左側の段上に、馬頭観世音文字塔がある。
下に降りて行くと、右側に 「←坂本宿4.5q 松井田宿3.8q→」
の中山道道標がある。
続いて、右側に馬頭観世音文字塔がある。
坂を下りきると、信越本線の脇にでるので、線路に沿って進む。
踏切近くの右手の小高いところに碓井神社の鳥居がある。
碓井神社は由来のある古い神社である。
碓氷神社の由来」
「 碓氷神社の創建年時は不明なれど、碓氷峠の熊野神社の分霊
を祀り、この地の鎮守として崇敬されてきた。
建久年間(1190〜1199)、源頼朝が信州浅間の牧狩りで出かけた際、
当社に祈願し御所を置いたことから御所平と呼ぶれるようになった。
正応年間(1288〜1293)、鎌倉北条氏が、碓氷郷総鎮守として崇敬し、
光明天皇が碓氷一宮として崇敬参拝された。
慶安年間(1648〜1652)に、社殿を改築、
明治四十二年に周辺の多くの神社を合祀し現在に至る。 」
鳥居の近くには庚申塔と二十三夜塔があり、 また、「 此碓氷神社、西高墓、東立野 」 と刻まれた道標が建っている。
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高墓踏切を越え国道に出たが、碓井神社は霧に囲まれて神秘的であった。
中山道は御所平交叉点で国道を横断し、臼井小学校の前を右折する。
国道に合流する手前に道祖神がある。
このあたりは古い家が残っている。
四百メートル程で国道に合流し、小山沢橋を渡ると斜め左に入る。
この先の右側に
胡坐をかいた石像があり、下方に少しへこんだ石が地面に埋まっている。
この石は、 百合若大臣の足跡石 である。
百合若大臣は日本八大伝説の一つで、
九州地方に今でも多く残る伝説上の人物であるが、
室町時代には幸若舞として脚色され、
後には近松門左衛門の浄瑠璃にも影響を与えた。
こんな所に伝説の足跡が残っているとは驚きである。
「百合若大臣伝説」
松井田から妙義山のふもとの村々にかけて伝えられてきたという話で、
「 昔、百合若大臣は東山道を旅して横川村小山沢まで来て
、妙義山を目の前にしていた。 もともと、力があったが、
川向こうの妙義山に向け、 「 よし、あの山の首
あたりを射抜いてみよう 」 と思い付き、
満身の力を込めて豪弓を放ったところ、
見事に矢は刺さり、穴を開けた。 これを見た家来の一人が負けじと、
腰にぶら下げていた弁当の握り飯を力一杯山に投げつけたため、
山には二つの穴が開いた。
その穴は妙義山の峰に今でもあるといい、
土地ではそれを 「 星穴 」 とよんでいる。 また、
山を射ぬいた矢が山の向う側に落ちたので、その川を矢川川とよんでいる。 」
百合若大臣足跡石は、
その時、足場にした石が足跡状にへこんだものである。
なお、百合若がこのとき使った弓矢が妙義神社奉納されているという。 」
この小山旧道も百メートルの磯部茶屋の看板があるところで、国道に吸収
される。
写真は分岐点のT字路を過ぎて振り返って写したものであるが、
この分岐点には
「←坂本宿3.5q松井田宿4.8q→」 の中山道道標があり、
京都側から歩いてきた時は重要な分岐ポイントである。
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下横川交叉点までは国道を歩く。
下横川交叉点で右折して、JR第15中山道踏切を渡り、県道222号に入る。
右側に
「←坂本宿3.0q松井田宿5.3q→」 の中山道道標がある。
この後、線路の右側に沿って進む。
初期の中山道は横川より北側にあり、ここに横川の一里塚があったが、
その表示も形跡も残っていない。
しばらく行くと、「峠の釜めし」 で有名な荻野屋の黄色い看板が見えてきて、
五料の茶釜石から約一時間の行程で、JR信越線の終点、横川駅に着く。
かってアブト式の機関車で横川と軽井沢を結んでいたが、
新幹線の開通でこの区間の廃止が決まり、
この区間はJRバスがバスターミナルから発着している。
その近くに碓井峠鉄道文化むらがあり、列車が展示されている。
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中山道は横川駅を過ぎると、右側の石垣の上に、
文久四甲子春四月の建立の 「御嶽山座主
大権現」 と刻まれた背丈以上もある大きな石碑が建っている。
矢野澤脇には、神塔・二十三夜塔・庚申塔・馬頭観音など石碑群がある。
先に進むと、右手に武井茶屋本陣跡がある。
今でも生活されている屋敷なので、
外からそっと覗いただけで終わる。
「 横川茶屋本陣は矢の沢の家と呼ばれた。
大名は関所通過の為、服装を正したり、
通過した大名は通常の旅支度に着替えた。
武井家は代々横川村の名主役を勤め、
幕末の頃には坂本駅の助郷総代も兼ねていました。
茶屋本陣は、大名や公家達が休憩を取る場所で、このように名主などの
家が充てられることが多かった。 」
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◎ 横川関所(正式名称は碓氷関所)
右側の群馬県信用組合脇には「諏訪神社」の石標があり、
奥に白い鳥居があり、奥に上る社殿がある。
旧横川村の鎮守である。
このあたりは古い家が残っている。
道の左側に、「東門跡位置(安中藩管理)」の白い木柱がある。
関所との間に門があったのだろうか?
横川関所は、右側の小高いところにあったので登っていく。
「 碓氷の関所は、醍醐天皇の昌泰二年(899)、
群盗を取締るために碓氷坂に設けられたのが最初。
江戸時代になり、中山道が開通すると、
慶長十九年(1614) 、横川のこの地に仮番所が置かれ、
元和八年(1622)から番所となり、翌年、
三代将軍家光が上洛の際し、関所となりました。
横川番所は、安中藩が管理し、東海道の箱根宿と同格で、
幕府の 「入り鉄砲に出女」 の取締りを任務とした関所になりました。
横川の関所は通称で、正式名称は碓氷関所、
初代関守は安中藩主の井伊直勝が勤めました。
四百五十年近く続いたが、明治政府の発足により、
明治二年(1869)に廃関となりました。 」
現在の横川関所は昭和三十四年に復元された門だけの施設であるが、
江戸時代に使われていた門柱と、門扉・土台石などを使用している。
ここには関所資料館があり、その資料館の前には、
旅人が手形の改めを受けると、お辞儀をして手をついた 「お辞儀石」
が残っている。
説明板「おじき石」
「 通行人はこの石に手をついて手形を差し出し通行の許可を受けた。
松井田町教育委員会 」
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横川関所 群馬県安中市松井田町五料 JR信越本線線横川駅下車。
(所要時間)
JR西松井田駅 → (35分) → 五料の茶屋本陣 → (1時間20分) → 横川関所(碓井の関所跡)