松井田宿は、江戸から十六番目の宿場である。
天保十四年(1843)の宿村大概帳によると、松井田宿の宿内人口は1000人、家数252軒、
本陣2、脇本陣2、旅籠14軒である。
◎ 安中宿から松井田宿
中山道は、
安中総合学園高校の交叉点で、国道18号を横断すると、原市の杉並木がある。
「天然記念物安中原市杉並木」 の石標が建っている。
昔は安中一丁目から原市まで約一キロにわたり続いていた、というが、
今は安中側にはない。
「 江戸時代初期に植樹されたこの杉並木は、
天保十五年(1844)に731本あったといい、日光杉並木と並び称されていた。
この杉並木は、昭和八年(1933)には321本となり、昭和五十二年では57本と減ってしまった。 杉はどんどん減り続け、現在は16本となり、昔の面影はない。 」
交叉点の手前には、植栽が植えられているだけで、
ぽつりと立っている 「天然記念物碑」 が、とても寂しげに見えた。
杉並木の左側に、 青面金剛碑、 南無阿弥陀仏名号碑と、道祖神碑が並んでいる。
向かいの並木排水池の貯水タンクには、安政の遠足が描かれている。
杉並木が終了すると、左側に、 「天然記念物安中原市杉並木」 の石標が建っている。
ここが杉並木の西の端である。
そこから少し行くと、右側に立派な塀と屋敷門を持つ家がある。
門に「原市村戸長役場跡」 の標識がある。
「 戸長役場とは、明治十一年(1878)〜二十一年(1888)まで置かれていた、
地方の町村役場のことである。
明治四年(1871)四月、太政官令により、それまでの町村役人を廃して、戸長と改称した。 」
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左側の民家の前に、「原市高札場跡」 と書かれた木札があり、
玄関前には、 「明治天皇原市小休止所」 の石碑が建っている。
この家は、原市茶屋本陣を営んでいた磯貝(五十貝)家の跡である。
道路の反対側の小高くなっているところに、真光寺の鐘がある。
説明板 「真光寺の鐘」
「 安中藩主板倉勝暁により、時の鐘として許可され、
天明元年(1781)より撞き始めた。
鋳工は信州上田の小嶋文治郎弘行で、寄付したのは磯貝氏等である。
天保三年(1832)に、本堂と鐘楼は焼失したが、男二人を雇って昼夜時を知らせ続けた。
こうした由緒から、戦時中供出を免れた。 」
その手前の木造の建物は、これまでに見た建物とは変わっていた。
屋根に明かり取りがあることを考えると、
明治に盛んになった養蚕のために建てられたものだろう。
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安中原市郵便局を過ぎると、蔵造りの家が多くある。
八本木地区に入ると、八本木の立場茶屋がある。
今も生活している民家で、山田家である。
道の傍らに、二つの小さな祠が祀られていて 、説明板に
「 安中最古の庚申祠で、寛永十二年の建立である 」 とある。
その前で、赤い幟がはためいているのは、八本木延命地蔵堂である。
「八本木延命地蔵尊」
「 地蔵堂の本尊、延命地蔵菩薩像は、
大永五年(1525)、松井田小屋城主・安中忠清が、
原市に榎下城を築いて移り住むとき、かつての故郷・越後国新発田より、
近戸明神、米山薬師と共に、城の守護仏として勧請した、と伝えられている。
円頂(剃った坊主頭)の頭に袈裟と衣を着用し、普通の僧侶の姿をしている像は
木造寄木造りで、総高一メートル十五センチの金箔半跏趺坐像で、
様式は田舎造りで、
素朴の中に威厳と気品を備え、頭頂が偏平になっていることなどから造像された年代は
室町時代初期のものとみられる。
酒井家次(慶長九年〜元和三年)は、ある夜、夢のお告げにより
御堂を改築し、秘仏の前立ち地蔵尊像を寄進し、信仰を怠らなかった。
参勤交代の為、
東海道を往来する諸大名も下乗下馬(騎乗のまま通れば仏罰により落馬するという)して
参詣した、と伝えられる。
秘仏として御開帳を百年目ごとにする定めとなっており、日本三地蔵の一つであると
いわれている。 」
(安中市教育委員会説明板と上州原市八本木延命地蔵尊奉讃会
説明版より)
安中原市郵便局から、八本木立場茶屋まではかなりの距離があった。
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中山道は十字路を越え真っすぐ行く。
原市保育園の手前の交差点を左折すると、磯部温泉に行ける。
「 磯部温泉の東方、磯部4丁目の磯部小学校の近くにある松岸寺
には古い五輪塔が二基あり、 右のは正応六年(1293)四月十日、左のは一部欠落しているが、
正応六年三月十二日とあるが、佐々木盛綱の墓と伝えられるものである。
佐々木盛綱は、備前児島で平行盛を破り、戦功により、伊予・越後の守護に任じられたが、
正治元年(1199)に出家して西念と号し、この磯部の地に隠居した、と伝えられる。 」
原市保育園を過ぎると、郷原集落で、右側に明和九年(1772)建立の道祖神と石祠がある。
番匠屋敷バス停を過ぎると、右側に文化九年(1812) の 「馬頭観世音」 と刻まれた石碑
がある。
さらに行くと、右側に日枝神社前バス停があり、その奥に社殿がある。
「 創建年代は不詳で、かっては山王権現と称し、 大山咋神(おおやまくいのおおかみ)を祀っていて、郷原村の鎮守であった。 」
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隣は真言宗豊山派自性寺(じしょうじ)で、 門前には、双体道祖神像や百番供養碑などが建っていて、 満開の桜とバランスよく調和して、美しい情景を醸し出していた。
「 保延元年(1135) 創建の古寺で、新島襄の先祖の菩提寺である。
墓地には地元の磯貝雲峰の墓がある。
境内には、宝篋印陀羅尼経を収めた供養塔である宝篋印塔が二基あり、
どちらも室町時代のもので、 応永三年(1395)と嘉吉三年(1443)に建てられたものである。 」
自性寺と日吉神社鳥居の間には、聖徳太子尊・青面金剛塔・庚申供よう塔などが
あったが、大きく立派なものだった。
なお、上記庚申供よう塔の「よう」は羊篇に良という字で、
塔も今では使われていない文字だった。
パチンコダイナムを過ぎると右側の道脇に、安永五年(1776)建立の道祖神と百番供養碑、
そして 「←松井田宿2.9q 安中宿5.2q→」 の道標がある。
右側の家の前に、「磯貝雲峰旧宅跡」 の標識があった。
「 磯貝雲峰は、明治時代の人で、旧九十九(つくも)村下増田の出身
で、同志社を出て、女学校に勤めながら詩作に励んだ。 二十八歳の時渡米し、帰国後
も中央文壇で活躍したが、三十二歳で亡くなった。
雲峰の碑は、安中市松井田町下増田にあり、
表面に彼と交友があった徳富蘇峰による撰文があり、 裏面には雲峰の
「 早蕨を 折りし昔よ 偲ばれて 恋しくなりぬ ふるさとの山 」
という歌が刻まれている。 」
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すぐ先左側の植え込みの中に、「高札場跡」の標識がある。
郷原村の高札場跡である。
緩やかな坂を登りきるが、このあたりは街道の情緒が残っている。
安藤広重の木曽海道六拾九次 の 安中宿 では、
松井田宿に近い郷原村の上り坂を参勤交代の大名行列の先頭が上り行く途中で、
坂の頂上に茅葺屋根の家と竹藪がある絵が描かれている。
中山道(県道216号)は1、その先で国道18号に突き当たる。
国道を横断する左側に、「安中市指定重要文化財 郷原の妙義道常夜燈」 の木標があり、
その左側に常夜燈と道祖神碑が建っている。
説明板 「妙義道常夜燈」
「 妙義道常夜燈は、郷原を中心とした妙義神社を尊崇する人たちが、
原市に仮住いしていた信州伊奈郡手良郷野口村の石工向山民吉に造らせ、
文化五年(1808)四月七日に建立したものである。
台座には、建立者六十二名の姓名と向山民吉の名が記してある。
露盤と笠に刻まれた八重菊は、妙義神社の紋章と同じであり、
塔身には 「 白雲山 」 、台座には 「 是より妙義道 」 と刻んである。
常夜燈であるとともに、中山道から妙義への入口を示す道しるべとしての役割を果たし、
当時の人々の妙義山への深い信仰心を証している。
ここから東へ五十メートルの地点、中山道から妙義道への入口に建っていたものを、
昭和六十年三月に、現在地に移されたものである。 」
郷原西道は、碓井川の琵琶窪地を巻くように造られた道。
国道に突き当たる手前で右に入ると、すぐの三叉路を左に行く。
次の三叉路を左に行き、右側の貯水池を過ぎると左側に石段があり、
石段を上がると、「歌川広重の木曽海道六十九次の松井田のモデル地」 という看板があり、その奥に神明社がある。
国道を大阪地下道でくぐり、突き当たりを右折する。
小生はこの旧道(郷原西道)には入らず、
そのまま国道を歩くと道の左側に「←旧中山道」の標識がある。
その先で左に入ると、右から大坂地下道を抜けてきた郷原西道が号流してくる。
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◎ 松井田宿
この道は明治天皇道といわれるもので、明治天皇が巡幸されたとき
作られたものである。
左側が崖になっていて、その下には、碓氷川が琵琶窪地を巻くように、
カーブを描いて流れている。
静かな緑が多い道で歩きやすい。
その先、二ヶ所の変則Y字路を直進すると、レストランサニーのところで、
県道33号に合流する。
右側の松井田電化のところに、「旧中山道→」 の標識がある。
右側コメリを過ぎると、庚申塔と馬頭観音が祀られている。
その先に下町交叉点には 「中山道松井田宿→」 の標識があった。
「 松井田宿は「木曽路名所図会」に 「此の駅を松枝ともいふ」とある。
馬子唄には 「 雨が降りゃこそ松井田泊まり 降らじゃこしまし坂本へ 」 と
歌われ、碓井の関所を控え、日のあるうちに面倒な関所は越しておきたいと、
松井田は通過してしまう大名や旅人が多かったが、
米や物資の中継基地として賑わったようである。 」
天保十四年(1843)の宿村大概帳によると、松井田宿の宿内人口は1000人、家数252軒、
本陣2、脇本陣2、旅籠14軒である。
宿場は上町、仲町、下町からなっていて、宿の江戸側入口には下木戸、
京都側の入口には上木戸があった。 」
下木戸を入ると下町である。
下木戸は、下町の後藤建具店の前辺りにあった。
左側に、「かんべや」 と書かれた古い看板が張り出されている古い家屋があり、
「妙義山登山口」 と書かれていた。
この横の道は狭いが、妙義道である。
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仲町交叉点は右が榛名道で、左が妙義道である。
江戸時代の後半になると、
山岳詣でが盛んになり、妙義山や妙義神社には多くの人が訪れた。
かんべやの対面に、赤い屋根の家と、白壁の蔵、そして黒い建物が並んで建っている。
この赤い家が、徳右衛門脇本陣跡である。
松井田宿明細書には、 「 凡建坪七十三坪、玄関門構無御座候 」 とある。
右側の山城屋酒店は、ういろう屋の跡である。
小田原名物のういろう屋の分家・外郎陣道斎の店跡で、
店先に、「中せん同旅情宿場 松井田宿」 の看板があった。
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金井本陣は、現在は群馬県信用組合と下駄屋になっていて、今は痕跡もない。
右側にあった松本本陣は跡形もなく、ヨロズや書店やクリーニングオオシキに変っていた。
松本本陣は、上の本陣と呼ばれ、問屋を兼ねていた。 建坪は百七十四坪でした。
その先右に入った先にあるのは、真言宗龍本山不動寺 である。
「 不動寺の仁王門は、江戸初期の建築とされており、
間口6.05m、奥行3.5mの三間二間の柿葺単層切妻造りの門である。
蟇股、欄間などに桃山時代の作風をよく残しているが、
江戸時代初期の改築と推定される。
前参道西側にある覆い屋根で保護された石塔婆は、異形板碑である。
安山岩の自然石に、板碑様式の仏種子や文字を刻んだもので、
一石に一種と限らず二及至三の別様式を刻んでいる。
文字は観応三年(1352) 円観・見性・敬白等があり、北朝年号を刻んでいる。
観応三年壬辰(1352)八月廿日とあるので、今から六百年前のものである。
不動堂の不動明王像は鎌倉時代の作といわれ、県の重要文化財に指定されている。 」
街道に戻ると、左側の理容小坂橋は安兵衛脇本陣で、松井田宿明細書には
「 凡建坪八十二坪、玄関門構無御座候 」 とある。
右側のアメリカンベーカリー前の電柱に、「高札場跡」 の説明がある。
説明文
「 当初は中町交叉点の前に設置されていたが、慶安五年(1650)
外郎店屋敷前に設置され、その後、領主普請でここに設置された。 」
松井田歩道橋の下に、「中山道松井田宿→」 の標識があり、
ここが松井田宿の京都側の宿の入口である、上木戸跡である。
右に入って行くと、松井田小学校があり、
正面辺りを木戸ぎわといい、上木戸があったことの名残りの地名である。
小学校の左奥にある、松井田八幡宮の本殿は、江戸初期の建築で、県の重要文化財で
ある。
松井田郵便局の向かいに群馬銀行と、松井田商工会がある。
商工会の建物は昭和十四年(1939)建築の旧松井田警察である。
新堀には、旧道時代の面影を残す木造の家もあって、静かなただずまいである。
新堀交叉点を過ぎ、次の西松井田駅前交叉点を左折して、三百メートル行くと、
西松井田駅である。
松井田宿の旅はここで終了である。
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松井田宿 群馬県安中市松井田町松井田 JR信越本線線松井田駅下車。
(所要時間)
安中宿 → (1時間 )→ 原市の松並木 → (2時間) → 妙義道の常夜灯 → (20分) →
松井田宿 → (50分) → JR西松井田駅