板鼻宿は、高崎宿から一里三十丁、江戸から十四番目の宿場である。
上野国と信濃刻の国境・碓氷峠の登り口に位置する宿場である。
旅籠が多かったのは、鷹の巣山の下に碓井川の渡し場があり、
増水すると川止めがあったからである。
◎ 高崎宿から板鼻宿
烏川に架かる君が代橋を右側の歩行者用の橋で渡るが、このあたりは赤城山や榛名山 の展望がよい。
「 烏川に架かる君ガ代橋は、
明治天皇が行幸された時に、この橋を利用したことに由来する名である。
烏川は最初は舟渡しだったが、明和七年(1770)に、橋が架けられ、以後、旅人一人五文、
荷駄一駄五文、冬季は八文の橋銭が課せられた。 」
広重の 「 木曽街道六拾九次之内高崎 」 の絵は、このあたりが描かれている。
右に榛名山を望むのどかな渡し場の風景が描かれ、
今でも赤城山、榛名山の展望が良いところである。
橋の先に下に降りられる道があり、降りて行くと 万日堂がある。
説明板「万日堂
「 元は国道十八号南側にあったが、国道拡幅工事のため、反対側の現在地に移動した。
本尊としてみかえり阿弥陀像が安置されている。 これは顔が
左向きやや下方を見ているため、寝釈迦(涅槃像)ではないかという説もある。
みかえり阿弥陀は日本全国でも五体しかわかっていない。 」
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中山道は君が代橋西交叉点で、国道と別れて、右側の道(国道406号)に入る。
下豊岡交叉点は直進し、豊岡バス停の先の三叉路を左折する。 この道が旧中山道である。
直進する道は榛名草津道で、分岐点に、自然石の 「信州分去れ道標」 があるはずだが、
気が付かず通り過ぎた。
入るとすぐ右側に八坂神社の石祠と、「榛名山草津温泉…」 と彫られた石の道標がある。
のんびりと七百メートル歩くと、右側に若宮八幡宮がある。
大田南畝の壬戌紀行には、 「 鐘楼ありて木立物ふりたり 」 と書かれている神社で、
わりと広い境内を保ち、 物ふりたりという雰囲気は今でもあるが、
かってあった、といわれる鐘楼はなくなっていた。
「 若宮八幡宮は、 永承六年(1051)源頼義・義家父子が、
奥州の安倍氏の叛乱を鎮圧する途次、豊岡の地に仮陣屋を設け、しばらく逗留し、
軍勢を集めると共に当社を建立し、戦勝後、立ち寄り、戦勝報告をするとともに、
額を奉納した、といういわれがある神社である。
寛文二年(1662)に、社殿を大修築している。
諸国道中旅鏡に、 「 八幡太郎腰掛け石の旧跡なり 」 と紹介されていて、
案内板にも、義家の腰掛石があるとあったが、表示がないので、探せなかった。 」
その先は上豊岡の集落で、若宮八幡宮から二百五十メートル程の左側に、
白壁の蔵と昔のままの門構えの家がある。
江戸時代、上豊岡茶屋本陣だった飯野家である。
「 茶屋本陣とは、 江戸時代の上級武士あるいは公卿の休憩場所として設けられたもので、 現在も子孫の方が住居として使われているが、昔の面影を残っていて、 県の史跡に指定されている。 」
手前にだるまを作る松本商店があり、 店先には型から取り出し、赤く塗られた小さなだるまが干されていた。
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旧本陣のすぐ先、右側に二十三夜塔と馬頭観音碑がある。
国道18号に合流すると横断歩道を渡り、烏川側に行くと藤塚の一里塚がある。
「 一対残る一里塚は貴重である。
藤塚一里塚は江戸から二十八里目の一里塚である。
群馬県で唯一残る一里塚で、左側(南塚)は一辺約九メートル、角が丸い正方形をしていたが、
旧状をよくとどめている。 その上には、推定樹齢二百年の見事な榎が元気に茂っていた。
右側(北塚)は道路拡幅工事の際、右側の歩道の脇に移転されたので、塚の形は壊され、
富士塚として、小さな社(富士浅間神社)が祀られている。 」
国道を歩き、少林山入口交叉点の先、左手の鼻高橋を渡り、 南東五百メートルのところに少林山達磨寺がある。
「 達磨寺は、一了行者が達磨大師の像を彫って、
お堂に安置したのが達磨寺の始まりといわれ、元禄十年(1696)、
前橋城主・酒井氏が、帰化僧・東皐心越禅師を迎え、寺を建立した。
有名な張子の達磨は、九代・東獄和尚の時に作り始めた、と伝えられている。 」
達磨寺には寄らず歩いていくと、北側に大きな鳥居が見える。
上野国一社八幡宮の鳥居で、社殿までは七百メートル位、十分ほどの距離である。
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信越線の線路を越えると、御神塔が建ち、神社の山門が見えた。
神仏習合時代の形式を残した神社で、かっては神像と仁王像が祀られていたのかもしれない。
石段を上ると高台で、神社は鬱蒼たる社叢に囲まれ、境内も広々としていた。
「 上野国一社八幡宮の祭神は品陀和気命(応神天皇)、並神は
息長足姫命(神功皇后)、玉依姫命である。
天徳元年(957)に、山城国の男山八幡を勧請し、一国一社の八幡宮として広く尊崇された古社で、 「 八幡太郎奥州下向の時此所に一宿ありし旧跡 」 と伝えられ、戦国時代に戦火で焼けたが、
幕府の崇敬篤く、元禄時代に社殿から末社に至るまで建て直された。
神仏習合時代の形式を残した神社で、義家の甲冑が奉納されている。 」
本殿は天地権現造りで、宝暦七年(1757)の建立である。
奉納された絵馬や算額が掲げられていたが、算額は色や字がすっかり消え見えなくなっていた。
「 江戸時代の寛文年間の頃から和算が発達し、 これを研究する人達が数学の問題が解けたことを神仏に感謝し、 更に勉学に励むことを祈願して奉納したのが算額である。 」
江戸時代までは神仏習合で、神徳寺もあったようで、
「 明治維新までは神宮寺の神徳寺を中心に、社家、社僧二十八家が祭祀を司った。 」
、とある。
境内に立派な鐘楼が
残っているのは、神仏習合時代の名残りであろう。
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◎ 板鼻宿
国道に戻り、西濃運輸の先の板鼻東交叉点の先の橋の上に 「寒念仏(かねつ)橋供養塔」 が建っている。
説明板 「寒念仏橋供養塔」
「 板鼻宿の念仏講の人達が寒念仏供養で得た報謝金を蓄積して石橋を改修し、
旅人の利便に供した。
年数が経って、橋が破損したため、享和二年(1802)、木嶋七郎左衛門が亡父の遺志を継ぎ、
堅固な石に改修し、その近くに「供養記念塔」を建てて
後世に残した。 地元では「かねつばし」 と呼んでいる。
正面に 「 坂東 秩父 西国 橋供養 」 、
右側面に 「 享和二年壬戌春三月 木嶋七郎左衛門昆頼 」、
裏面に 「 信州伊那郡橋嶋村 石工 三澤染右衛門吉徳 」 とあり、左側面には
「 奉若先考遺命夙夜欽念不敢・・・・・ 」 と建立の趣旨が刻まれている。
国道十八号の拡幅工事のため、板鼻堰用水路沿いにあったものをわずかに現在地に移動した。 」
大田南畝は、 壬戌紀行(じんじゅうきこう) の中で、
「 板鼻川の橋を渡れば板鼻駅むげに近し。 駅舎をいでて麦畑の中を行けば石橋。
是は新建石橋、木嶋七郎左衛門供養塔といえる碑たてる。
石佛をつくらんよりは橋たてし功徳はまさりけるべし。 」 と、褒めている。
寒念仏の民間信仰は、室町中期以降に始まるといわれ、 江戸中期以降、
各地に講中による寒念仏供養塔が建てられている。
「 この供養塔は、当時流行した寒念仏講が、この宿場まで伝播して
いたことを示すものといえよう。
寒念仏(かんねんぶつ)は、寒中三十日間、寒夜に諸所を巡りながら
鉦をたたき念仏を唱える行で、元来、僧侶の修行のひとつであったが、温暖な時節の
念仏行より功徳が大と信じられて、民間でも行われるようになった。
その他、講中が村のお堂に集まって、浄土和讃(ご詠歌)や念仏を唱えるという方法も
あった。 」
板鼻下町交叉点の三叉路で、国道と別れて、右の道に入り、
その先の板鼻下町入口バス停の三叉路を左(県道137号)に入る。
直進すると板鼻宿である。
「 板鼻宿は、高崎宿から一里三十丁。 関東と信濃の国境の碓氷峠の登り口に位置し、 古来武将の往来が盛んで、源義経が金売吉次と奥州に下る途中、伊勢三郎と出会ったと いう伝説が残る地である。 」
板鼻川橋を渡ってすぐの右側の民家の一角に、 かわいい双体道祖神と、その左に 「天満宮」 の石碑、右に、「享保二十一年の御神」 と刻まれた石碑が祀られている。
「 板鼻宿周辺の中山道には、男女二体の仲の良い双体道祖神 が見られる。 道祖神は信州に多く、群馬県にもあるが、ここから草津や榛名にかけて は双体道祖神像を多く見かける。 形態は信州に多い祝言像で、 男神と女神が瓢と盃を持った愛らしい像である。 」
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その先の右側の入沢製作所の一角に、
庚申塔と奉供養寒念碑と大小の地蔵像が祀られている。
信越線の踏切を渡ると、板鼻宿二丁目交叉点の角に、
文政十二年建立の「榛名道」 の道標がある。
正面に、「やはたみち」、南面には 「 榛名 くさつ いかほ 河原湯 かねこ 澤たり
志ぶ川 みち 」 とあるようである。
板鼻宿は、東西十町(約1100m)の長さで、 天保十四年(1843)の宿村大概帳によると、 宿内人口1422人(男649人女773人)、家数312軒、 本陣1、脇本陣2、旅籠54軒(大14軒、中18軒、小22軒)であった。
「
旅籠が多いのは、鷹の巣山の下に、碓井川の渡し場があったからである。
徒歩渡しの有名なところで、増水すると川止めになった。
そのため、川止にになると、旅人は多数逗留して、板鼻宿は繁盛した。 」
カツ丼の老舗板鼻館という店はタルタルカツ丼を登録商標する位有名な店であるが、
江戸時代には、角菱屋という名で旅籠を営んでいたという。
中に入ってみたい気もしたが、食事済みなのでパス。
中山道から外れ 板鼻館の角を右折し、県道に出ると、国道の反対側に称名寺がある。
門の脇の左側には石仏が並び、小さなお堂がある。
右側の茂みには、法華経千部読誦供養搭・庚申搭・念仏供養搭や、
川島蘭洲書の馬頭観世音などが並べられていた。
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鐘楼に吊るされた梵鐘は、宝永五年(1708)、地元の鋳物師合井兵部重久の手によるもので、 戦時中の供出を免かれている。 鐘楼前には、佐野源左衛門が手植えした紅葉は枯れたが、 その三代目という楓があった。
「 境内には、江戸時代や明治の古い墓石が所狭しと並べられていて、
その中にはいろいろな石碑や石仏も混ざっていた。 これを見ても古い寺であることが
分かった。
古来、板鼻は関東と信濃の境で多くの武将や軍馬が往来したところで、
源義経が金売吉次と奥州に下るとき、伊勢三郎と出合った場所という伝説があり、
この寺の裏あたりに、伊勢三郎屋敷があった、と伝えられている。 」
中山道に戻る。 このあたりに福田副本陣があったとされるが、
その跡は確認はできなかった。
板鼻宿は道路が広げられたこともあり、古い建物はほとんどない。
板鼻交叉点を越えると右側に板鼻公民館がある。
板鼻公民館は、木島家本陣跡で、当時の本陣書院が敷地の裏手に残され、一般公開されている。
木島家本陣は、幕末、皇女和宮が将軍徳川家茂に降嫁の折、宿泊所となったところで、
興味がはあったが、休館日であった。
公民館の西隣の花屋は江戸時代末期の建物で、ちょうちん屋 と呼ばれる土蔵造りの家で
ある。
戸が土で出来ていて、昔は火事の時、六枚の戸の隙間に、味噌を塗り、防火としたという。
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公民館から少し先の左側に、いたはな公園がある。
ここは江戸時代の牛宿跡である。
「 牛宿とは、荷物の継ぎ立て所の役割を果したもので、
公儀、乗馬役人の定宿でもあった。 この場所には以前は十一屋酒造店という造り酒屋があり、
煉瓦造りの煙突を備えた酒倉があった。
当時は牛宿の帳付場や宰領部屋が残っていて、裏手には牛小屋があったという。
バブル後に廃業となり、土地、建物は処分され、現在は公園などになっている。 」
その先には双体道祖神の他、猿田彦・青面金剛碑があった。
民家の脇を用水流れていた。
「 この用水は板鼻堰(せき)といい、
九十九川と碓氷川の合流地点から水を取り、安中東部と高崎西部に配水し、烏川に流している。
延べ15kmに及ぶ用水であるが、慶長年間中期から後期に開窄されたとあるので、
四百年前から水が流れ続けているのである。
各家に引き込まれているので、昔は野菜などを洗ったり洗濯したりと、
生活に使われていた。 」
ここで板鼻宿は終わる。
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板鼻宿 群馬県安中市板鼻 JR信越本線安中駅下車、そこからタクシーで5分。
(所要時間)
高崎宿→(1時間)→君が代橋→(1時間25分)→達磨寺→(1時間)→板鼻宿