高崎宿は倉賀野宿から一里三十町の距離で、江戸から十三番目の宿場である。
高崎の地名は、高崎城を築いた井伊直政の命名である。
それまでは、和田氏による和田という地名であった。
高崎宿の人口は3235人で、上州路で一番多かったが、
井伊氏などの城下町であったことから、参勤交代の大名が宿泊を敬遠したことから、
本陣や脇本陣がなかった。
◎ 倉賀野宿から高崎宿
JR倉賀野駅から南に歩くと、県道121号の倉賀野駅入口交叉点がある。
県道121号は現在の国道17号が出来る前の国道17号で、江戸時代の中山道である。
この道を歩き、中山道時代の遺跡を探ってみたい。
倉賀野宿があった、上町交叉点を過ぎると、倉賀野宿の西のはずれで、右側に安楽寺がある。
そこから四百メートル歩くと、スーパーフレッセイがあり、
その先左側の調剤薬局のクスリのマルエ左横に入ると、
畑地の先に浅間山(せんげんやま)古墳がある。
「 浅間山古墳は前方後円墳で全長百七十六メートル。
木が茂り薮が深いので上に登るのは難しく外形を見るだけ。
以前は街道からよく見えたようだが、家が建って気が付かないと通りすぎてしまうところである。
「旧中山道」の標識のある県道121号を歩く。
ここから高崎駅前までは中山道の史跡
は残っていないので、正六交叉点を越えた次の信号交叉点を左折し、
六百メートル先の常世神社を目指す。
上佐野町第二公民館のさき、上越新幹線の線路の下にある
常世神社は佐野常世の屋敷跡といわれる。 左手には烏川が流れる佐野窪町がある。
「 上佐野町は、謡曲「 鉢の木 」で有名な佐野源左衛門常世が
所領を横領された後、住みついた所と言われる。
佐野船橋歌碑は文政十年(1727)、
供養と道しるべのために建てられたもので、万葉集十四東歌上野国の歌の一首
「 かみ津けの 佐野の舩はし とりはなし 親はさくれと わハさかるかへ 」
というの歌が刻まれている。
碑面上には舩木観音とあり、下に馬頭観音像が陰刻されている。
江戸時代の旅行案内、木曾名所図会には、
「 佐野むらにあり。 むかし烏川を船橋にて渡せし、その橋をつなぎし榎の大樹今にあり、
木かげに舟木の観音の石仏あり 」 と記されている。
烏川は現在はもっと西を流れているが、昔はこのあたりが川岸
だったようで、ここから降りて、佐野の渡しで、舟を繋いだ橋を渡ったので
あろう。 」
その南東には定家神社がある。
学問の神として崇敬されるとあったが、
新古今集の藤原定家の歌 「 駒とめて 袖打はらふ かげもなし さののわたりの
雪の夕暮 」 と関係あるのかは分からなかった。
定家神社から新幹線に沿った道を歩くが、左下には上信線の佐野のわたし駅が見える。
ここから約一キロ行くと琴平神社前交叉点に出る。
その西に荘巌寺と琴平神社がある。
荘厳寺は真言宗のお寺で、飯玉山荘厳寺で、寺の前には庚申塔や地蔵像が建っていた。
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隣にあるのが琴平神社である。 この神社の誕生の話は面白い。
説明板「琴平神社」
「 琴平神社は、多仲金比羅とも呼ばれる。
古来、お稲荷様が祀られていたが、文化年間、高崎藩士の寺田宗有が、一昼夜で
讃岐から勧請した伝えられる。 」
それにしても、一夜でお稲荷さんから讃岐金比羅さんに変えられたのには参拝者は驚いた
ことだろう。
地元の人の話では、商売の神様として信仰を集め、縁日には参詣人が
多く屋台の店が並ぶとのことである。
この神社で面白いのは仁王門があることである。
表側には神官像が祀られ、裏側には仁王像が収められていたが、
これは神仏混淆の名残りであろう。
隣にある飯玉山荘厳寺と関係があったのかも知れない。
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琴平神社に上り参拝した。
本殿脇には絵馬の他、商店主が送った大きな掲額があった。
道路の下をくぐり抜けると、鎌倉街道記念碑を見付けた。
鎌倉街道が通っていたことを示す記念碑で 、「 高崎から藤岡、児玉、寄居を経て、
笛吹峠を越え、入間川を渡り、所沢、藤沢を経て、鎌倉入りをしていた。 」 と
記されていた。
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◎ 高崎宿
街道に戻るため、城南大橋交叉点から上佐野西交叉点まで国道17号。
そこで左の道に入り、立体交差の和田多中町の交叉点の左側に出て、
中山道(県道25号)を進む。
新後閑町交叉点の先に上越新幹線の高架があり、高崎市街地に入る。
上毛電鉄を越えると、和田町(江戸時代は新喜町)で。このあたりから高崎宿である。
「
高崎宿は、倉賀野宿から一里三十町の距離で、江戸から十三番目の宿場である。
鎌倉時代の高崎には、和田氏によって和田城が築かれ、
鎌倉街道の宿駅として栄えていた。
慶長三年(1598)、井伊直政が箕輪から城を移し、地名も高崎とし、近世の城下町が発達する。
天保十四年(1843)の宿村大概帳によると、宿内人口3235人(男1735人女1500人)、家数837軒、
旅籠15軒(大4軒、中5軒、小6軒)と、人口は多いのに、
高崎宿には本陣や脇本陣がなく、旅籠もわずか十五軒だった。
高崎宿ができた頃は、徳川譜代大名でも武門の誉れ高い井伊家の城下町であったので、、
参勤交代で往来する大名は恐れをなして、高崎宿に泊まることを避けたため、
本陣や脇本陣は商売が成り立たず、すぐに廃業してしまった。 」
中山道は、新喜町(現在の和田町)、南町、新町、通町(安国寺・大信寺前通り)、白銀町、 元紺屋町、北通町、九蔵町、椿町、本町を通っていたが、その後の道路改修で 現在の広い道に吸収されてしまっている。 」
高崎駅の北方の交叉点近くにある新町交番の裏に諏訪神社がある。
なまこ壁のある土蔵造りの小さな神社で、建物に龍の絡まる鳥居が張り付けてある。
火事の多かった高崎の町を示し、社殿には江戸時代の焼け痕が残っている。
説明板 「諏訪神社本殿及宝石」
「 当社は太田蜀山人が享和二年(1802)に壬戌紀行で、
「諏訪大明神の社はちいさき土蔵づくり云々 」と記すところである。
当地は度重なる火災を受けた街で、特に風下に当たる新町等の諏訪神社の氏子は
火災から社を守るために、この瓦葺(旧)と塗屋という土蔵づくりに工夫をしたものであろう、
と思われる。
この独特な神社建築は、極めてめずらしく、かつ「火事の街・高崎」を示す好例であって、
貴重である。
社殿は文化四年(1807)の火災と推定できる焼け痕を残している。
社殿の中には 「宝石」 と称する丸い石がある。
宝石は、この社が箕輪にあった頃に諏訪社を信仰する真田氏によって招請されたものだと、
「高崎志」に記されている。
慶長四年(1599)に高崎に移るに際し、一緒に移されたものであろう。
高崎市教育委員会 」
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新田町交叉点の西には興禅寺がある。
「 新田義重を開基として治承元年に創建された
曹洞宗の寺院で、高崎市内では最も由緒ある寺である。
井伊長政が高崎城を築いた際、
境内をせばまれ、その後、大内松平氏が城主になった天保年間に、現在地に
移された。 」
興禅寺から西に向うと高崎公園がある。
公園の北側に水堀があり、その北には高崎市役所がある。
高崎市役所が高崎城の跡だが、北側に石垣の一部が残っているだけである。
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高崎市は戦災で町が焼失したため、古いものはほとんど残っていない。
高崎公園の南に、源頼政を祀る頼政神社がある。
「 頼政神社は、 高崎藩主の松平右京太夫輝貞が、
元禄十一年(1698)、祖先の源頼政を祀ったのがはじめである。
大河内松平氏の祖先とされる源頼政は、源頼光の玄孫で、
保元・平治の乱で功をたてた武人であり、また、源三位と称せられた歌人でもあった。 」
境内にあった、ピンクと黒い石できた記念碑は、内村鑑三 の碑である。
「 内村鑑三は、万延二年、高崎藩の江戸の武士長屋に生まれた。
明治から昭和初期を通じて活躍したキリスト教徒で、無教会キリスト教の創始者と
して知られ、国木田独歩、正宗白鳥、有島武郎、志賀直哉、小山内薫など、
作家や戯曲家に精神的な影響を与えた。 」
高崎市役所前交叉点を東に進み、あら町交叉点から連雀町交叉点へと中山道を北上する。
連雀バス停の右側の小路を東に行くと、大信寺 がある。
「 三代将軍家光の弟・忠長は、寛永九年(1632) 高崎城内に幽閉され、
高崎城主・安藤重長が赦免を哀訴したが認められず、 寛永十年(1633)切腹を命じられた。
忠長は切腹をせず、自刃した。 二十八才の若さであった。
大信寺の十一世・心誉上人がこの地に埋葬した。
死後四十三年後の延宝三年(1675) 四代将軍家綱の時、免罪され、墓石を建立することができた。このため、大信寺は、これまでの七石に更に百石の加増を受けた。
忠長の墓は、高さ二・三メートル余の五輪塔で、周囲に石の玉垣がむぐらされ、
さらに鎖でつながされていたことから、鎖のお霊屋と呼ばれていた。 」
高崎田町は、 「 お江戸みたけりゃ 高崎田町 」 と歌われ、
太田南畝も、 壬戌紀行(じんじゅつきこう) で
「 江戸にかへりし心地ぞする 」 書いている。
中山道で碓井峠を越える、あるいは三国峠を越えると、 田町周辺は、
大都会の雰囲気に初めて出逢えたのだろう。
田町交叉点を北上し、次の交叉点を右折すると、左側に「善念寺」 の石柱が建っていて、
その奥に本堂がある。
「 善念寺は、法道山弘真院と号し、天文九年(1540) 和田信輝が開基、
弟の正故和尚が開山した浄土宗の寺院で、本尊は木造阿弥陀如来立像である。
高さ九十五・五センチ、鎌倉時代初期の作と推定され、県の文化財に指定されている。
平成九年、痛みの修理を行った際に像内から文書が発見され、
明暦元年(1655)に、善念寺七世・三誉上人の時代に修理が行われたことが分かった。 」
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中山道は、その先の本町三丁目交叉点まで道の幅が広いが、江戸時代のままという。
ここは三国街道との分かれ(追分)で、 右に行くと、渋川・沼田を経て三国峠を越え、
長岡から出雲崎に出て、佐渡へ渡る、江戸と佐渡金山を結ぶ重要な道だった。
中山道は交叉点を左折する。 本町一丁目交叉点に出ると正面は赤坂町で、
右側に長松寺、左側に恵徳寺がある。
「 赤坂山長松寺はかなり大きな寺院で、
本堂は火災で焼失したものを、寛政元年(1789)に再建したと伝えられている。
本堂の天井に描かれた二つの絵はその時描かれたもので、一点は龍、もう一点は天女である。
作者の狩野探雲(かのうたんうん)は、野上村(現富岡市野上)の出で、
狩野派の狩野探林の弟子として、江戸城西の丸普請の際、障壁画の製作に従事した。
天井画が描かれたのは六十五歳〜六十七歳とあったので、晩年の作と思ったが、
八十八歳まで生き長寿を全うしていた。
涅槃図はその晩年(八十一歳)の作である。
この寺に松平忠長切腹の間がある。
松平忠長は、二代将軍徳川秀忠の二男で、駿河・遠江・甲斐の三国五十五万石を与えられ、
駿河大納言に任じられたが、将軍となった家光に切腹を言い渡され、
廿八歳という若さでなくなった。
高崎での経緯は大信寺の項の通りである。 」
恵徳禅寺は曹洞宗の寺院で、、説明板に詳しく記されていた。
説明板 「曹洞宗 恵徳禅寺」
「 天正年間(1573〜1592) 井伊直政公が、伯母である恵徳院宗貞尼菩提の為、
箕輪日向峰に一宇を創立し、松陰山恵徳院と称した。
慶長三年(1598) 直政公 和田城入城の折に
此の寺を城北榎森に移し、松陰山東向山恵徳寺と改めた。
当時、寺領弐拾石五斗の御朱印地であった。
後の城主酒井家次公の時 慶長九年(1604)〜元和二年(1606) の間に、
現在地 「赤坂」 に移る。
群馬郡箕郷町瀧澤寺第四世勅特賜大光普照禅師龍山永潭大和尚に依り開山。
この禅師は箕輪在住の頃より、直政公の信任厚く或る時 「 和田の名称を松崎と変えたいが 」
の問に、「 松は枯れる事があるが、高さには限りがない。 その意をとって、
高崎はいかがか 」 と、進言した処、直政公は大いに喜び、「高崎」 と命名したと云う。
本像は釈迦牟尼部仏を安置し奉る。
平成元年五月吉日 恵徳二十九世 大峰達雄 書山口勇 石匠永井昭二 」
恵徳寺の先の交叉点を右折して北に進むと君が代橋東交叉点で国道17号に合流 する。 高崎宿はここで終わる。
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高崎宿 群馬県高崎市連雀町 JR高崎線高崎駅下車。
(所要時間)
倉賀野宿 → (2時間) → 高崎宿
(ご参考) 高崎城について
◎ 高崎城の歴史
「
高崎城は烏川に沿って築城された輪郭梯郭複合式の平城である。
高崎城の前身は、平安時代末期に、この地の豪族・和田義信が築城したと言われる和田城である。
和田氏は上杉、武田、北条と主君を変え、
武田氏の時代には上杉勢の度々の侵攻を受けたが、城はよく耐えた。
北条氏に属した和田信業は、天正十八年(1590)の豊臣秀吉の小田原征伐の際し、
小田原城に出向き籠城したが、
城の留守を預かる信繁の子・兼業は、前田・上杉連合軍に包囲されて落城し、廃城となった。
秀吉の小田原征伐後、徳川家康は関東に転封を命じられた。
慶長二年(1597)、徳川家康は、箕輪城主の井伊直政に、和田城跡地に城を築き、
箕輪から移るように命じる。
この地は、中山道と三国街道の分岐点に当たる交通の要衝で、上杉氏を監視する為である。
翌、慶長三年(1598)、直政は箕輪城から築城中の高崎城に移った。
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦い後、井伊直政は近江国佐和山城に移封となった。
元和五年(1619)に入城した安藤重信は城の改修に着手、
以後、三代七十七年間をかけて大改修され、近代城郭に整備された。
」
◎ 高崎城の概要
「
本丸には、御三階櫓(天守) と 乾(いぬい/北西)櫓、 艮(うしとら/北東)櫓、 巽(たつみ/南東)櫓、坤(ひつじさる/南西)櫓 の四基の隅櫓があり、
本丸を囲むように、西の丸・梅の木郭・榎郭・西曲輪・瓦小屋があった。
、
また本丸と、二の丸・三の丸が梯郭式で構えられていた。
城内には、本丸門など、十六の門を設け、城の周りは土塁で囲まれていた。
関西の城で用いられた石塁はほとんどなかった。
明治六年(1873)の廃城令により、第三師団官内分営所が置かれた以後、
建造物は移築、もしくは破却され、
跡地の大半は、歩兵第十五連隊の駐屯地として、使用されたため、
堀と土塁の一部だけが残された。
唯一残り、農家に払い下げられていた乾櫓が、三の丸模擬石垣上に移築復元され、
東門も乾櫓近くに移築復元された。
現在城址は市街化が進み、超高層二十一階の市役所や音楽センターなど公共施設が多く並ぶ。
お堀の周辺は高崎城址公園として、約4.9haが整備されており、
春には約三百本のソメイヨシノやツツジが満開となる。
また、城を囲む土塁の上は遊歩道になっている。 」
高崎城跡へはJR上越新幹線・高崎線高崎駅から徒歩15分