倉賀野宿は江戸から十二番目の宿場である。
天保十四年(1843)の宿村大概帳によると。宿内人口2312人、
家数297軒、本陣は1、脇本陣は2、旅籠32軒であった。
中山道と日光例幣使街道の追分であるとともに、
江戸に繋がる利根川の物資運搬船の河岸場であったので、栄えたようである。
◎ 新町宿から倉賀野宿
県道178号JR新町駅の西方約一キロにある温井川の弁天橋を渡ると、
立石新田になる。
三叉路の交叉点を県道178号と別れ、「旧中山道」 の標識に従って、右の道に入る。
道は左にカーブし、直進すると右側に伊勢嶋神社の石柱と鳥居がある。
常夜燈は天保五年に建立されたものである。
「 伊勢嶋神社は、明治の神社統合令により、
周囲の神社がここに合祀されたと思われ、
御嶽山大神・蟲影山大祖・榛名山満行大○○など、山岳信仰関係のものや、
大己貴命・猿田彦大神・巳待など神を祀るもの、そして、
二十二夜講や庚申講に纏わるもの等、多岐にわたる石碑が祀られている。
寛政四年の道祖神や万延元年の庚申搭などもあった。
奥に伊勢嶋神社の社殿があるが、周りの小さな祠は、
明治の神社令によりへ移祀された神社なのだろう。 」
その先左側に大きな白壁の土蔵造りの屋敷がある。
周りを黒い板と白壁の塀で囲っていて、白と黒の調和がばつぐんで大変すばらしい。
漆喰で塗られた家や倉が多数あるこの屋敷は川端家である。
「 川端家住宅は、旧中山道の立石新田の豪農で、かっては、
一町屋敷 とも呼ばれた。
南北棟の主屋は、屋敷南側に建ち、骨格は江戸後期の民家で、
街道側の土間側を二階建てに改造したのは明治前期頃と思われる。
その他、別荘・土蔵五棟を含む十九棟の建物群として、国の登録有形文化財に指定されている。 」
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その先の右側に信迎庵があり、常夜燈の前に、橋供養搭が二つあった。
両側の常夜燈は、安永二年と明和五年に建てられたものである。
「 左側の仏像が刻まれた供養搭は、宝暦十三年に建立されたもので、
基壇正面に、 「 橋建立供養 国土安全 同國緑埜郡阿久津村住 願主沙門寿得 天太平 宝暦十三癸未十一月 」 と刻まれ、基壇左面に「 江戸本所石原 石工吾兵衛 」
が彫ったと、書かれている。
もう一つ、右側の橋供養搭は、安永二年に建立されたものである。
橋供養搭は、橋が洪水で流されないよう祈願することや、石橋を建てた記念に建てる
ことから行われていたようで、
烏川の氾濫や川留めが地元民に迷惑をかけていたということの証拠である。
少し歩くと、立石新田の集落は終わりになり、その先に関越自動車道の高架が 見えてくる。
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関越道をくぐり、烏川サイクリングロードを歩く。
土手に上がるとすぐ、右手下の河原にお伊勢の森が見えてくる。
下に降りて小道をすすむと右手に小さな社(やしろ)がある。
説明板 「中山道お伊勢の森」
「 このあたりから烏川右岸に沿い温井川にある一帯を昔から、砂原村 と言っている。
いつの頃かが詳かではないが、伊勢島村というようになり、
村の北端に、伊勢大神宮を奉斎して、神明宮社殿を建立し、村の鎮守として崇敬した。
寛文年中(1661〜1673)の初頭、洪水のため村民が離散し廃村となり、
立石村に合併となったが、間もなく立石村民が再開発して、伊勢島新田村と仮称した。
天和年中(1681-1684)、正式に分村して立石新田村となり、現在に至った。
中山道は、神明宮境内の北側を通っていたが、
文化九(1812)年頃から、南側を通るようになった。
二百坪程の境内には巨大な御神木の欅や榎、杉などがおい茂り、倉賀野宿の東外れ、
例幣使街道とのわかされから一里余りの位置に當り、道中の目やすともなり、
広重筆による中山道六十九次次の絵の中の一つは、
お伊勢の森付近の風景を画いたとも言われている。
明治四十二(1909)年七月、神明宮・稲荷神社・琴平社・諏訪社・菅原社・秋葉社・
戸隠社を稲荷神社社殿に合祀して、 伊勢島神社とし、鎮守様として専崇している。
昭和のはじめ項、黷フ大木は壱千五円参銭で買い取られたことからもその大きさや
樹齢を想像することが出来る。
お伊勢の森近くに、伊勢島、伊勢宮下の小字名が残っている。
昭和六十二年春、区内の篤志家によって、檜造り銅葺きの社殿が造営寄進された。
昭和六十二年十月 」
伊勢島村の現在は藤岡市の一部になっていて、地名が字の一部に残るだけである。
堤防の上はサイクリングロードになっていて、周りが見通せる。
サイクリングロードの道には、烏川に面して、新立石樋管があった。
道脇に「 水鳥が 群れ飛び遊ぶ 烏川 」 と書かれた標柱が建っていた。
道の右側を烏川が広く静かに水を流しながら流れている。
河原には子供が石を投げ水切りをしていた。
二十分程、サイクリングロードを歩き、左斜めに下る道の先に、
「旧中山道」の道標があるので、一旦、県道178号に出る。
薬師堂があり、その先の左側に宝昌寺がある。
中島(漆の内)交叉点で右折して、県道13号に入る。
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県道13号(前橋長瀞線)を歩き、烏川に架かる柳瀬橋を渡る。
江戸時代の中山道には橋がなく、舟渡しであった。
その先の岩鼻交叉点を左折すると、右手に観音寺があり、その奥に岩鼻陣屋跡がある。
「 江戸幕府は、上野国内六郡の天領を統治のため、
代官所(初代代官は吉川栄左右衛門、近藤和四郎) を設け、 寛政五年(1793)四月に
陣屋を建てた。
陣屋では、博徒や無宿人の取締り、年貢徴収、訴訟事務などを行うほか、
幕府の関東取締出役の活動拠点ともなった。
慶応元年(1865)、木村甲斐守勝教は関東郡代役となり、岩鼻陣屋で、
上野・下野・武蔵の三カ国の幕府直轄地五十万石を管理し、
生糸改印制の実施、農民による猟師鉄砲隊を編成して、一揆の鎮圧を行った。
しかし、郡代の木村甲斐守は、慶応四年二月、東山道総督府の進軍を期に罷免され、
同年三月、高崎藩が陣屋を接収し、 業務を引き継いた。
明治政府の発足により、上野国内と武蔵国西北部の旧幕府領・旗本領は岩鼻県となったが、
明治四年の群馬県の発足により、岩鼻県は廃止された。 」
観音寺本堂は明治時代に焼失したが、最近建てられたように思えた。
寺には岩鼻陣屋初代代官の吉川栄左右衛門の墓がある。
その裏は日本化薬の研修センターで、至る所に社員用の駐車場がある。
その奥に小高い丘があり、天満宮がある。 その下の広場が岩鼻陣屋跡である。
街道に戻り、県道121号を西に進む。
新柳瀬橋北交叉点を越え、JR高崎線と八高線を越える。
このあたり一帯は工場地帯である。
下町交叉点は、右から来る県道136号と交わる三叉路であるが、
この手前に、「従是右江戸道、左日光道」 の道標と、常夜燈、その奥に閻魔堂がある。
ここは、中山道と日光例幣使街道との倉賀野追分である。
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◎ 倉賀野宿
常夜燈は、上野国五料の高橋光賢という人が、若い頃の生活を反省して、造立を決意し、 自分の財産を投げ出し、不足分を人々の寄進によって、 文化十一年(1814)五月に建てた、というものである。
「 常夜燈は、 西面に 「 日光道 」 、南面に 「 中山道 」 、
北面に 「 常夜燈 」 、東面に 「 文化十一年甲戌正月十四日 高橋佳年女書 」 と
刻まられている。
また、常夜燈の四面に、寄進者の名前が並び、役者の団十郎や
柏戸・雷電為右ヱ門、鬼面山などの力士の他、木村庄之助、式守鬼一郎という行司の名もあり、 三百十二人の名が刻まれている。 」
道標に刻まれている日光道とは、例幣使街道である。
「 例幣使街道は。利根川を越え、下野(栃木県)に入る街道で、
群馬県内には、玉村・五料・柴・境・木崎・大田と六つ、栃木県には八つの宿場があった。
例幣使とは、東照宮の例祭に、御所から金の御幣を届ける使者のことである。 」
この追分には閻魔堂があり、石の道標と常夜燈といかにも「お江戸でござる」の雰囲気である。
「 閻魔堂は、正式には阿弥陀堂。
中を覗くと御堂の真ん中に閻魔大王が鎮座している。
閻魔大王は、地蔵菩薩の化身といわれ、信仰すれば地獄に落ちず、救われるといわれる。 」
下町交叉点は、江戸時代、倉賀野宿の下の木戸(江戸側の入口)があったところである。
「 倉賀野宿は、江戸から十二番目の宿場である。
宿場は上町、中町、下町の三つの町で構成されていた。
天保十四年(1843)の宿村大概帳によると、宿内人口2312人(男1417人女895人)、
家数297軒、本陣は1、脇本陣は2、旅籠32軒(大4軒、中4軒、小24軒)である。 」
江戸時代には下町と中町の境に、五貫堀が流れ、石の太鼓橋が架かっていたが、 今はコンクリートの橋になって、昔の面影はない。
「太鼓橋の由来」
「 当時、ちょっとした増水でも流られてしまう粗末な板橋があり、
それを見かねた飯盛り女たちが享和弐年(1802)、二百両を寄進し、江戸の石工に依頼し、
翌年八月に完成させたと、伝えられる中山道で有名な橋であった。 」
彼女たちは金で売られてきたので、一生ここで住み、 水泡のように消えたことを思うと、彼女等の善行には頭がさがる。 」
「 倉賀野宿は、寛保二年(1742)には宿場女郎屋が許可され、
六十四軒の宿場旅籠ができ、二百余人もの飯盛り女がいた派手な宿で、
かの十返舎一九も
「 乗るこころよさそふこそ見ゆるなり 馬のくらがのしゆくのめしもり 」
と狂歌に詠んでいる。 」
中町交叉点の先、左側のスーパーの大きな駐車場の前に「本陣跡」と書かれた 石碑がある。 ここは勅使河原本陣の跡である。
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中町交叉点を左折し、二百五十メートル程行くと、烏川に架かる共栄橋がある。
このあたりが、江戸時代に倉賀野河岸があったところである。
「 倉賀野は、烏川と利根川を利用する江戸通いの物資運搬船の最上流の河岸であった。
そのため、西上州はもとより、信越方面との水陸輸送の拠点で、
信州の大名や旗本四十二家の回米河岸となっていた。
ま米だけではなく、信州、上州の産物である煙草や屋根板・砥石などが江戸に運ばれ、
帰りは行徳の塩や干鰯などを積んで来た。
「 烏川が逆さに流れない限り、お天道様と米の飯はついてまわる 」 といわれて、
賑わい、米宿は十軒あった。 」
栄泉の描いた、 木曽街道六十九次・倉賀野宿烏川之番 では、
積荷を載せた川舟と水遊びをする子供の風景が描かれている。
しかし、現在の川の姿からは、水運盛んな様を想像するのは無理である。
「 明治十七年(1884)の高崎〜上野間の鉄道開通により、急速に衰えていった。
現在は共栄橋の左下に、「倉賀野河岸跡」 の石碑が建っているだけである。 」
街道に戻る途中、で古い家を見た。
主屋は屋根に三つの天窓(てんそう)が載った切妻造りで、瓦葺き、
総二階の典型的な養蚕農家である。
明治初期の建物のようであるが、清塚ヨシ家である。
その先に新酒ができたことを表す杉玉を吊るした家があったので、
造り酒屋なのだろうと思った。
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街道に戻ると、倉賀野駅入口交叉点の左側に、倉賀野仲町山車倉がある。
その前に、 「中仙道倉賀野宿中町御伝馬人足立場址」 の大きな石碑が建っている。
石碑の斜め前(北側)に、立派な門の連子格子の家があるが、
その前に 「中山道倉賀野宿 脇本陣跡」 の黒い石標がある。
脇本陣を務めた須賀喜太郎家である。
その斜め前(向い)にあるのが、須賀庄兵衛脇本陣跡。
民家のブロック塀の前に、「中山道倉賀野宿 脇本陣跡」 の石碑がある。
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脇本陣のすぐ先の健康会館の前に、復元された高札場がある。
その先の上町交叉点で左折し烏川に出て、東に少し行くと、井戸八幡宮がある。
「 正保三年(1646)、倉賀野城三の廓跡に、
一夜にして出現した井戸が起源と伝えられる。
井戸は今も残り、その上に神輿が保管されている。 井戸は十年に一度開帳される。 」
その隣にある雁(かりがね)児童公園には、「倉賀野城址 」の石碑が建っている。
「 倉賀野城は、鎌倉時代、
この地に落ち着いた武蔵児玉党の子孫が倉賀野氏を名乗り、南北朝の頃、築城した城である。
戦国時代に、上杉・武田・北条氏の勢力争いに巻き込まれ、
天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に陥落し、廃城になった。 」
街道に戻り、倉賀野神社入口で左に入ると、倉賀野の総鎭守である倉賀野神社がある。
倉賀野神社の祭神は大国魂大神で、本殿は丸彫り彫刻で飾られ、鷹や梟、兎などが素晴
らしい。
「 倉賀野神社の旧社名は飯玉宮(いいだまぐう)といい、
あるいは飯玉大明神、飯玉社と呼ばれていたようである。
その後、大国魂(玉)神社と呼ばれた時代を経て、明治四十三年の神社合併令により、
近郷の諸社を合祀して現在の名前になった。
倉賀野神社の社伝によると
「 創建は崇神天皇四十八年、皇子豊城入彦命が東国経営に当たり、斎場を設けて、
松の木を植えて亀形の石を祀ったことから始まる。
日本書紀によれば、豊城入彦命は上野国の一大豪族上毛野君の祖である。 」 とある。
大和時代より、上毛野国を安堵するために建立されたという古い神社で、
御祭神の大国魂大神は大国主命(おおくぬしのみこと)の荒魂(あらみたま)といわれる。
なお、古には同じ神を荒々しく神威さかんな側面を荒魂、柔和な徳を備えた側面を
和魂(にぎみたま)と称え、 異なる神名で呼び分ける習わしがあった。 」
本殿の建物は一間流れ造り、銅板葺き、元治弐年(1865)に上棟したもので、
社殿は総ケヤキ造りで、数多くの彫り物があり、それに彩色をせず、彫物師の腕を
みせている。 拝殿正面の向拝にある彫刻は、 「飯玉縁起」 を描いているようで、
三代目喜代松の作とされる。 北村喜代松は信州鬼無里(きなさ)村に彫刻屋台の名品を
多数残していることで知られる人物である。
神社には天明七年(1787)、
狩野探雲が六十三歳のときの作画で、大板四枚を繋ぐ大作の厄除雲龍図もある。
「飯玉(いいだま)縁起」
「 光仁天皇(771-780)の御代、群馬郡の地頭、群馬大夫満行には八人の子がいた。
末子の八郎満胤は芸能弓馬の道にすぐれていたのだが、兄たちは八郎を夜討ちにして、
鳥啄池の岩屋に押し込めてしまった。
三年後、八郎は龍王の智徳を受けて大蛇となり、
兄たちとその妻子眷属まで食い殺し、さらに、その害は国中の人々まで及ぶようになった。
帝(みかど)はこれを憂え、年に一人の生贄を許した。 生贄の順番になった
小幡権守宗岡は十六歳の娘、海津姫との別れを嘆き悲しんでいた。 都から旅して
立ち寄った奥州への勅使・宮内判官宗光はこれを知り、海津姫と共に岩屋へ入り、
頭を振り尾をたたく大蛇に向かって、一心に観世音菩薩を唱名、琴を弾いた。
すると、大蛇は黄色の涙を流して悔い改め、神明となって衆生を利益せんと空に飛び
上ったのである。 そして、烏川の辺へ移り、「 吾が名は飯玉 」 と託宣し、
消え失せた。
これを見ていた倉賀野の住人・高木左衛門定国に命じて、勅使宗光が
建てさせたのが飯玉大明神である。 」
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倉賀野神社の境内に、赤い幟に 「正一位冠稲荷大明神」と書かれている、冠稲荷がある。
この稲荷はかっては太鼓橋の近くにあって、宿場の女郎たちに信仰されてきた。
玉垣には、「 金沢屋内りつ・ひろ・ぎん」 などと刻まれ、
文久三年(1863)の常夜灯には、「 三国屋つね 」の名がある。
宿場町で、水泡のように消えた女たちの生きた証しである。
「 倉賀野宿には寛保弐年(1742)、宿場女郎屋の鑑札が許可され、
六十四軒の旅籠ができ、二百人ほどの 飯盛り女がいたという。 旅籠一軒に飯盛り女は
二人という定めがあったが、それ以上いた計算になる。 女郎奉公に出された彼女達が
信心したのが、 冠稲荷(三光寺稲荷) で、江戸時代には太鼓橋の近くにあったが、
明治の神社統合のとき、この境内に移された。
社殿は前橋川曲の諏訪神社に売られてき、常夜灯と玉垣は当神社と養報寺に移された。
本殿前の常夜灯は太鼓橋近くから移されたもので、
文久三年(1863)、飯盛り女の三国屋つねが寄進したものである。 」
飯盛り女の数が多すぎて、弊害があったとみられ、
享和3年(1803)には手入れが行われ、刑に処せられた者が出ている。 十返舎一九も
「 乗こころ よさそふこそ 見ゆるなり 馬のくらがの しゅくのめ
しもり 」 と狂歌を詠んでいる。
境内を歩くと、飯塚久敏の橘(たちばな)物語の石碑があった。
「 飯塚久敏は、倉賀野宿出身の文人で、
越後の歌人・良寛の非凡さに着目し、没後十二年に、良寛初の伝記を書いた。
それが橘物語である。 碑文には
橘物語の書き出しの部分が以下のように刻まれている。
「 いまはむかし ゑちごの国に良寛とゐふ禅師あり 梅さかりなる頃人のもとに
こころあれバ たづねてきませ うぐいすの こづたひちらす うめの花見に
天保十とせせまりよとせというとし 」
橘物語が書かれたのは、天保十とせせまりよとせというとし、即ち、天保十四年のことで
ある。 」
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「北向道祖神」 の幟がはためく先に、小さな祠があり、
「 上町惣子供 施主大島三右衛門 」 「 文化二年乙丑正月吉日 」 と刻まれた、
一体の双体道祖神が祀られている。
安政三年(1858)の倉賀野の大火の時、延焼をくい止めた火伏の神とされ、
倉賀野城跡にあったのを昭和十二年に、ここに移設した。
境内には、太々神楽の舞台や、脇本陣須賀庄兵衛家の妻・円が、
浪速から買い付けたという天明神輿があり、
倉賀野宿の繁栄振りをかいま見ることができる。
倉賀野宿の上の木戸(京側の木戸)は。倉賀野神社入口交叉点あたりにあったようである。
木戸跡の先の右側にあるのは安楽寺である。
入口の左側に、「馬頭尊」 と刻まれた石碑が
あり、山門には 「瑠璃光殿」 の額があったが、これはお薬師さまが
祀られていることをしめすものである。
ここで倉賀野宿は終わる。
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倉賀野宿 群馬県高崎市倉賀野 JR高崎線倉賀野駅下車。
(所要時間)
新町宿→(1時間20分)→柳瀬橋→(40分)→倉賀野宿