名所訪問

「 中山道 新町宿 」


かうんたぁ。


新町宿は、本庄宿から二里の距離で、 上州七宿の東口に当たり、江戸から十一番目の宿場である。
新町宿は、神流川の渡しを控え、宿場がないと不便なことから、 街道開設から五十年後の承応二年(1653)に誕生した新宿である。


◎ 本庄宿から新町宿

JR本庄駅の西北西にある金鑽神社(駅より徒歩17分)から千代田三丁目交叉点に出る。<br> 藤岡道(県道462号)を歩道橋で渡り、その先の三叉路で右の道(県道392号)に入る。 
道は右に大きくカーブし、小島四丁目交叉点を越える。 
小島四丁目は昔の小島村で、一里塚があった筈だが、確認できなかった。 
このあたりは現代風の住宅地に変貌しており、昔の街道がどうだったかを 想像することはむずかしい。 
左手に木の茂った小山があり、赤い鳥居が見える。 この小山は浅間山古墳で、 赤い鳥居と社殿は富士浅間神社で、江戸時代にはその前に茶屋があったという。 
道の反対側の路地に入ると、この地区の人々が伝馬役(助郷)に苦しみ、涙を流した、 という 「泪橋」跡 の石碑がある。 
現在は川はないが、橋の跡と石碑、庚申塔が建つ。 
しばらく歩くと、御陣場川にかかる、小さな橋(楠森橋)がある。 
この橋を渡ったあたりは、大字神保原(じんぼはら)町である。 
神保原は、旧石神村・忍保村・八町河原村が合併した際、 一文字づつを取って、神保原村となったが、その後の合併で、埼玉県上里町の一部になっている。 
ここは旧石神村で、本庄宿から一里、新町宿からも一里のところにあったので、 江戸時代には立場茶屋が置かれた。 
木曽名所図会にも、 「 石神より左の方に赤木(赤城)見ゆる、 富士峰に似たり。  此所立場也。 」 と紹介されている。 
国道と平行しているせいか、車の通行が多く、歩道が凸凹していたり、 片側にしかないなど、とても歩きやすい道とはいえない。 

小島四丁目
   浅間山古墳    楠森橋
小島四丁目
浅間山古墳
楠森橋

神保原一丁目交叉点で右折し、神保原北交叉点で国道17号を横断する。 
そこから大字金久保で、キムラヤ乳業の道の反対の空き地に、小さな社(やしろ) があり、その両脇に薬師像、二世安楽塔、庚申塔、 二十二夜塔などのおびただしい石碑群がある。 
五百メートル位歩くと右側に、金久保八幡神社がある。
そこから最初に右に入る道に、「金窪館址入口」 の石柱が建っている。 
右奥に金窪城跡があるのだが、簡単には辿りつかない。 
右の道を三百メートル行くと萌美保育園角に、 「館入口」の小さな石柱があるので、ここを左折し、 庚申塔と小さな南雲稲荷大明神を右折すると、金窪城跡公園の前に、 「金窪城跡」 の木柱があり、奥に 「金窪城跡」 の石碑と説明板が建っている。 

説明板 「金窪城跡」 児玉郡上里町金久保   
「 金窪城跡は、神流川に臨む崖上に残る平城の跡で、別名、汰瑯(たや)城と呼ばれた。
平安時代末期の治承年間(1177〜81)に、 武蔵七党である丹波から出た加治宗春の構築と伝えられ、 天弘年間(1331〜34) 新田義貞が改築して、家臣の畑時能に守らせたという。 
室町中期の寛政年間(1460〜66)には、 斎藤実盛の子孫といわれる斎藤盛光が居城した天正十年(1582)六月、 滝川一益と北条氏邦の神流川の合戦において、 一族ことごとく戦死し、城は兵火にかかって焼失し、斎藤家は没落した。 
その後、徳川家康の関東入国に伴い、川窪氏の所領となり、陣屋が置かれたという。 
川窪氏は、元禄一年(1618)に、丹波国に転封となり、陣屋も廃されたという。 
現在、城跡の大部分は畑地や雑木林に変っているが、 所々に遺存する堀や土塁の一部に戦国の昔を偲ぶことができる。  」 

庚申塔、二十二夜塔など
   金窪館址入口石柱    金窪城跡
庚申塔、二十二夜塔など
金窪館址入口石柱
金窪城跡

道の右手の林の中にある陽雲寺には、武田信玄の奥方の墓がある。 

「 陽雲寺の寺名は、武田信玄の奥方の陽雲院の名に由来する。 
元久弐年(1205)の創建と伝えられる寺で、新田義貞が幕府打倒を祈願して不動堂を 造立した。 天文九年(1540)、金窪城主・斎藤定盛が、諸堂を修復し、 崇栄寺と名を改めたが、天正十年(1582)の神流川合戦兵火で焼失した。 
信玄の甥・武田信俊は、武田氏滅亡後、徳川氏に仕え、 天正十九年、川窪与左衛門と名乗って、この地に八千石が与えられ、 養母である信玄夫人を伴って入封した。 
夫人は当寺に居住し、元和四年(1618)に没したので、法号の陽雲院をとって、 崇栄山陽雲寺と名を改めた。 
寺には信玄と葡萄模様の小袖の奥方夫妻の画像があるという。 」  

境内に、 「鞍間太郎坊大神」 と刻まれた石柱があり、 立派な社(やしろ)が建っている。 
参道には石仏が並んで立っているが、その一角に新田義貞の家臣・ 畑時能(ときよし)の墓所がある。 

説明板 「畑時能の墓」  
「 畑時能は、新田義貞が戦死后も南朝のため戦ったが、歴応弐年(1339)、 越前国で足利方に討たれた。  従臣の児玉五郎左衛門光信が首を持って 敵陣を脱出し、当地に持ち帰り、ここに墓を建てて、供養した。 
児玉五郎光信も、死後、時能の墓側に葬られ、二石祠が建立され、畑児塚と呼ばれた。 」  

境内の銅鐘は、元禄時代に天命鋳物として栄えた下野国の佐野宿の鋳物師・ 井上元峰により造られたものである。 

陽雲寺
   畑児塚    梵鐘
陽雲寺
畑児塚
天命鋳物の梵鐘

陽雲寺から街道に戻ると、市の先左側に、上里町賀美公民館があり、 その前に 「中山道」 の説明板がある。 

説明板 「中山道」  
「 中山道は。江戸と京都を結ぶ街道で、江戸期以降、五街道として整備が進められた。 金窪村(現上里町大字金久保)は、江戸から二十三里余、文政期(1818〜)の家数は162軒 、絵図では陽雲寺や八幡宮が見られます。 新町宿が出来るまでは、陽雲寺の東で、 北に向きを変え、角渕(現群馬県玉村町)を経て、倉賀野宿へ向かっていました。  この道は 三国街道とか、伊香保街道と、呼ばれていた。  新町宿が設けられたのは、中山道で最も遅い承応二年(1653)頃です。
勅使河原村(現上里町大字勅使河原)は、家数280軒、 絵図では武蔵国最後の一里塚を見られます。 
現在の街道は、ここで国道17号と合流する。  川のたもとには、一般の高札と川高札が並んでいた事がわかります。  左奥には神流川畔に建てられていた見透し灯籠が移築されている大光寺が見えます。 」 

その先の土手の脇には、 「賀美村道路元標」 がある。 
公民館から六百メートル先、右側の旧家の手前に、四基の庚申塔が祀られていた。 
国道17号に合流する手前、右側の民家脇にあるお堂の左側に、 「一里塚跡」 の黒い小さな石柱が立っている。 日本橋から二十三番目一里塚である。 

「中山道」の説明板
   四基の庚申塔    一里塚跡
「中山道」の説明板
四基の庚申塔
勝場一里塚跡

国道17号に合流すると、神流川橋南交叉点を左折し、JRを越えると大光寺が ある。
時間の関係からパス。 
その先に神流川が流れ、国道には神流川橋が架かっていて、 親柱には見透燈籠のレプリカが飾られている。 

「 上野国と武蔵国との国境に流れる神流川は、 往古より荒れ川で、出水毎に川流筋を変えて、旅人・伝馬・人足の悩みの種であった。 
文化十二年(1815)、本庄宿の戸谷半兵衛が、川の両側に常夜燈を建立し、 夜になると火を点して、夜道を往来する旅人の標準にした。 
浮世絵師・渓斎栄泉の木曽街道六十九次 「本庄宿」 の絵は、 神流川の渡し場を描いている。  右手に本庄側の見通し灯篭、中州までは仮橋、中州から新町側は舟渡し、 そして、遠景に上毛三山の妙義山・榛名山・赤城山が描かれている。 

その絵を頭に描きながら神流川橋を渡ると、 神流川は想像していたより、川巾が広い。  当時の様子とかなり違うのだろうが、今の流れは本庄側一つだけで、 栄泉の画にあった上州側の舟渡しがされる流れはなく、河原であった。 
橋の中程に、群馬県と埼玉県の県境の表示がある。  

「 大田南畝の壬戌日記に 「 河原ひろければ仮橋二つばかりわたる。 
これ上野国と武蔵国との境なり。 」 とあり、季節や川の状況により、 上州側は川渡りになったり、仮橋を架けたりしたようである。 」 

神流川を渡ると、右側に常夜燈二基と、「神流川古戦場跡」 の大きな石碑と、 説明板がある。 

説明板 「神流川合戦」  
「 天正十年(1582)六月十九日、信長が本能寺で倒れた直後、関東管領・瀧川一益は、 信長の仇を討たんと京へ志し、これに対し、 好機至れりと北条軍は五万人の大軍を神流川流域に進めた。  滝川一益は、義を重んじ勇猛な西上州軍一万六千人を率いて、石も燃ゆる盛夏の中、 死闘を展開し、瀧川軍は、戦死三千七百六十首の戦史に稀なる大激戦で、  神流川合戦 と呼んでいる。 
後世、古戦場跡に石碑を建立し、首塚、胴塚も史跡として残され、東音頭にもうたわれ、 神流川の清流も今も変ることなく清らかに流れている。 」  

神流川合戦では、死者の血で神流川が赤く染まったといわれる。 
この一戦で、滝川一益の勢力下にあった金窪城は落され、一益軍は厩橋に退却した。 

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神流川橋
   見透し灯篭    神流川古戦場跡
神流川
神流川橋の見透し灯篭
神流川古戦場跡碑


◎ 新町宿

橋を渡り終えると、左手に自衛隊新町基地がある。 
その先の三叉路で国道と別れ、 右の道の県道131号に入るとこの三角地に、 地元のライオンズクラブが建てた実物大に復元した、 新町宿の 「見透し灯篭」 と   「中山道 → 新町宿」 の木柱が建っている。 
  本物の見透し灯篭は、江戸時代、国道の向かいの交番あたりにあったようで、 明治時代に売却され、現在は高崎市大八木の諏訪神社の参道入口にある。 
このあたりが新町宿の江戸側入口(江戸方)である。 

「 新町宿は、本庄から二里の距離で、江戸から十一番目の宿場である。
新町宿は、上州七宿の東口に当たり、神流川の渡しを控え、 宿場がないと不便なことから、承応二年(1653)に、 落合村と苗木村を合わせ、新町宿として誕生した新宿である。  」

右側に土蔵造りの小さな八坂神社がある。 
昔は大きな柳があって、旅人が休む茶屋があったところである。 
今は大きなけやきの下に、寛政年間(1789〜1801)に建てられた、芭蕉の句碑が建っている。 
句碑には、「 傘(からかさ)に おしわけ見たる 柳かな 」と、刻まれている。 

見透し灯篭
   八坂神社    芭蕉句碑
新町見透し灯篭
八坂神社
芭蕉句碑

句碑の先、右側に諏訪神社の入口を示す鳥居がある。
鳥居をくぐると、更に鳥居があり、その手前の右側には、「神明威赫」、 左側に 「政清人和」 と刻まれた石柱が建っている。 

「諏訪神社之由来」  
「 御祭神  建御名方命と八坂刀売命    
諏訪大明神が、緑埜郡笛木村の鎮守として、今の元宮の地をトして始めて奉祀されたのは 元正の頃の頃か。 
慶安四年(1651)、室賀下総守により検地あり、中山道筋に町並の区画が行われ、 宿場町 「新宿」 が新らたに造営された。 
承応三年 諏訪大明神は村社に列し、元禄十五年(1702)には、石鳥居成る。
この頃には、笛木新町が街道筋に繁栄してきた。 
宝永五年(1708) 御神木が焼けた。 この時、光物が飛び来たり落ちた処を神域と定め、 大明神を御遷座した。これが現在の社地である由。 
享保九年二月(1724) 社殿の中へ宮殿を奉納し、 京都へ赴き、吉田家に願い、正一位の神位を授与され、御位をお宮に納める。 
享保の頃、二畝歩の土地を買いとり、鎮守の大門を作るという。  同十七年に石鳥居成る。 
延享四年正月(1747) 新町宿の大火に遭い、社殿・稲荷社・津島社等、烏有に帰した。
十年後、宝暦七年にこけら葺きの荘厳なる社殿再建成り、同年六月二十四日御遷座する。 同十一年九月には銅葺の稲荷社成り、全く旧態に復した。 
明治三十九年(1906)の失火により、社殿を全焼したが、同四十三年に先ず拝殿を再興し 、昭和十年(1934)に至り御本殿が完成され、以来神徳はいよいよ明らかに 氏子の尊崇は日をおって篤く現在に及ぶ。 」  

拝殿前の常夜燈には「文化十二年」 の銘があり、拝殿は彫刻が施されている。 
神社の奥には、元禄十五年の石鳥居の一部が保存されている。 
なお、ここに伝えられる獅子舞は無形文化財に指定されている。 
諏訪神社に並んであるのは、真言宗智山派 苗木山専福寺 である。 
万治三年(1660)の創建で、本像は大日如来、墓地に江戸和算の権威・関流八傳の 一人と称された田口文五郎の墓がある。 

諏訪神社の鳥居
   拝殿    専福寺標柱
諏訪神社の鳥居
諏訪神社の拝殿
専福寺山門

専福寺の並びの浄泉寺は、天正二年(1570)の創建で、本尊は阿弥陀如来である。
境内の大イチョウは、高さ二十五メートル程、推定樹齢四百年で、 高崎市の指定文化財天然記念物である。 
浄泉寺を出ると、左右は県道40号、かっての佐渡奉行街道である。 
交叉点を越えて進むと、右側の笠原家の門扉内に、 「新町宿高札場跡」 の標柱が建っている。 
宿場の東口からここまでが苗木新町、ここから宿西口までが落合新町で、 両町の境に、高札場が建てられた。 
天保十四年(1843)の宿村大概帳によると、新町宿の人口は1437人、家数407軒、 本陣は落合新町に2ヶ所、脇本陣は落合新町に1ヶ所おかれ、旅籠43軒であった。

「 中山道が開設された当時は、本庄宿から倉賀野宿までは、 対岸の玉村宿を経るルートであった。 
当時の落合村と笛木村は寂しい寒村だったが、 正保年間(1644〜1648)、中山道最大の大名・加賀前田家が、 倉賀野から新町を通る道を造り、加賀街道と呼ばれた。 
加賀街道が開発されたことから、中山道開通五十年後の慶安四年(1651)、  両村に伝馬役が課せられ、翌年、両村が合併し、新町になり、 承久三年(1654)には、この道が中山道になり、亨保九年(1724)、 新町が正式な中山道の宿場になった。 
特に笛木村は、強制移動がなされ、ここに居住させられた、というから、 当時の庶民は哀れである。 」 

そのようにして出来たため、 新町宿は落合新町と笛木新町とそれぞれ分かれた行政行われたようである。 
それにしても、 街道や宿場を変えるそれ位、加賀百万石の力があった、ということか?! 
道の先に休憩所のような公園があり、新町道路元標の石碑がある。 
ここは御在所公園で、「明治天皇新町行在所」 の石碑が建っている。 
奥に塀で囲まれた日本家屋が見えるが、明治天皇が北陸、東海巡幸の際宿泊された ところである。 

説明板 「明治天皇新町行在所」  
「 明治天皇は、明治十一年八月から十一月にかけて、 北陸、東海地域の御巡幸(視察)を行い、 その途中の九月二日に、新町に宿泊された施設がこの行在所です。  当時は木造瓦葺平屋建ての本屋と附属棟の二棟で、旧中山道に正門を設け、 周囲は高さ九尺の総板塀で囲い、庭には数株の若松を植えてありました。  昭和五十五年一月に、新町の史跡文化財として、指定を受けました。 」  

以前は郵便局が建っていたが、今はその先に移転し、その後に行在所公園が つくられたようである。 

浄泉寺
   新町宿高札場跡    明治天皇新町行在所
浄泉寺
新町宿高札場跡
明治天皇新町行在所

御在所公園を出て、東に向うと右側に於菊稲荷神社がある。
嘉永四年の鳥居の脇に、道祖神と庚申尊の石碑が建っていた。 
於菊稲荷神社は、宝暦年間(1751〜63)に、 宿場の於菊という美女と白狐の結び付きで誕生したといわれる神社である。 

説明板 「於菊稲荷神社」  
「  戦国時代(天正十年)、神流川合戦の際、白いキツネが現れ、 北条氏が勝利を収めたのを感謝して、社を構えたと伝えられるが、 「於菊稲荷」と名付けられたのは江戸時代の宝暦年間のことである。 
神社の由来によると、
「 新町に住む於菊という美しい娘が重病にかかり、医者にも見放されため、 稲荷に救いを求めたところ、 病はすっかり治った。  その後、於菊に夢で、 「 今後は人々の為に尽くすように 」 という神託があり、 神社の巫女となり、人の吉凶、なくし物のありかまで、さまざまな事を言い当てた。 
ここから 「困ったことがあったら於菊に聞け、稲荷の於菊に聞け  」 と言われるようになり、誰いうともなく 「於菊稲荷」 と呼ぶようになった。  」
とあり、新町の名所として、遠くは江戸、相模、長崎からも、参詣人が集まり、 大いに賑わったと言うことである。 」  

双体道祖神もあったが、寄進が平成とあるので、最近彫られたものではと思った。 
神社には村上義光を題材にした武者絵などの絵馬が掲げれ、 境内には文政六年(1823)、町人の浄財で作られた水屋や太々神楽の舞殿がある。 

於菊稲荷神社の鳥居
   於菊稲荷神社    太々神楽の舞殿
於菊稲荷神社の鳥居
於菊稲荷神社
太々神楽の舞殿

貞享乙丑(1685)、木曾路を旅した貝原益軒は 「  新町の民家は二百ばかり。 町の出口に橋あり 」 と 記録しているのをみると、江戸中期にはかなりの町並に なっていたようである。 
第2公民館と隣の駐車場前に、「旅篭高瀬屋跡」 の石碑があり、 小林一茶の七番日記の一節が石に彫られている。 

石碑 「史跡 旅篭高瀬屋跡」  
「 十一 雨  きのふよりの雨に烏川留る  
かかることのおそれを思えばこそ 彼是日を費して門出はしつれいまは中々災いの日 をよりたるやう也  道急ぐ心も折れて日は斜ならされど、 新町高瀬屋五兵衛に泊  
雨の疲れにや  すやすや寝たりけるに夜五更のころ 専福寺とふとく染めなしたる 提灯てらして枕おどろかしていうやう 爰のかんな川に灯篭立てて夜のゆききを介 けんことを願ふ全く少きをいとはず施主に連れとかたる  かく並々ならぬうき旅 一人見おとしてたらん迄  さのみぼさちのとめ給ふにもあらじゆるし給へとわぶれどせちにせがむ 
さながら罪ありて閻王の前に蹲るもかくあらんと思う  十二文きしんす 
   手枕や  小言いふても  来る蛍     
逆へ帰らんとすれば  神奈川の橋もなく前へ進んと思へば烏川舟なし   
ただ篭鳥の空を覗ふばかり也    
   とぶ蛍うわの空呼したりかり    
   山伏の気に喰はぬやら行蛍     
             一茶七番日記より         」  

俳人・小林一茶は、文化七年(1810)五月十一日、中山道を下ってきたが、 烏川の増水で川留をくらい、旅籠高瀬屋に宿泊していると、夜更けに突然起こされ、 専福寺の者に 「 川渡りの助けのための灯籠を立てるため 」 と、 神流川岸に建てる石灯籠の寄進を強要され、幾度と断わったが根負けして、 懐のさびしいところを十二文寄付した。 
 「 手枕や  小言いふても  来る蛍  」 という句は、そのしつっこさに 根をあげてよんだ句である。 

その先の左側の民家の前に、「小林本陣跡」 の標柱が建っている。 
宮本町バス停先を左に入ると宝勝寺がある。 
宝勝寺は敷地も広く、建物もかなり大きい。 
宝暦十一年の大きな鐘楼門があり、 山門脇には、安永四年の百番巡拝供養搭と六地蔵がある。 

於菊稲荷神社の鳥居
   旅籠高瀬屋跡    宝勝寺山門
旅籠高瀬屋跡
小林本陣跡
宝勝寺山門

隣の八幡神社には八幡絵馬というのがあるが、 文久三年(1863)、高橋屋・丸富楼・絹屋の遊女達が奉納したものである。 
また、寛政五年(1793)の宿場の大火で燃失した神輿を享和元年(1801)に復元したものも保管されている。  神輿は宮本、仲町、橋場の町内に御旅所を設け、落合宿の年番の町内が奉仕した、 と、説明板にある。 
  八幡神社を北に向うと、弁天橋の手前に、弁財天が祀られている小さな祠がある。 
ここには 「 むすぶより はや歯にひびく しみずかな 」 の芭蕉句碑がある。 

説明板「弁財天」  
「 温井川の中の島に祭られた弁財天は、治水の都合で昭和48年に現状のようになった。 
弁財天の社は天明3年5月に建立された。 
境内には芭蕉の句碑があり、 この島には清冽な清水が湧きでて旅人ののどをうるおしたという句である。 」 

境内には弁財天を祭る小さな祠と、その周りに庚申碑二つと、道祖神石碑が一つあり、 安政弐年(1855)に建立されたという芭蕉句碑は古く字も読めない状態である。 
渓斎栄泉の木曽街道六十九次の新町宿 の絵は、 弁天橋と温井(ぬくい)川  を描いたとされるが、絵にある山や崖は見当たらない。 
説明板にあったように昭和四十八年の工事で姿を変えてしまったのだろう。 
新町宿はここで終わる。 

八幡神社
   弁財天    弁天橋と温井川
八幡神社
芭蕉の句碑がある弁財天
弁天橋と温井川

新町宿  群馬県新町第二区  JR高崎線新町駅下車。  
(所要時間) 
本庄宿→(2時間30分)→神流川古戦場→(15分)→新町宿



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