◎ 石垣島
十一時三十分に羽田を出て、石垣空港に到着したのは15時過ぎでした。
泊まるホテルは離島ターミナル近くのホテルで、空港から45分の距離だった。
夕食は島の西側にある和流ダイニングみふねで、15分の距離である。
今回の旅は久しぶりの旅行社によるツアー参加である。
ここ十年の旅は自分で企画・手配する、手作り企画でしたが、
石垣周辺は旅行社に任せた方が問題が少ないと判断した。
部屋に入り、一服し、その後、ホテルの売店を覗く。
ホテル前、道の反対には小公園があった。
垂れ下がった枝の先に、赤い花・夜來花(ゆうらいしゃん)が咲いていた。
歌謡曲・支那の夜にある花だな! と思った。
和流ダイニングみふねに着くと、入口に沖縄の織物に関する展示場があり、
その奥に売店があった。
バックやシャッツなど、沖縄製のものが売られていた。
売店を通り過ぎると、食事の会場があり、
この日のメニューは島野菜10種と豚のしゃぶしゃぶであった。
食事をしていると、青年があらわれ、蛇三味線の演奏と島唄、沖縄民謡が披露された。
始めて三年目といい、那覇で聞いたものに比べると、まだまだというレベルであったが、
一生懸命であることは分かり、好感は持てた。
◎ 西表島
夜が明けると、八時前にホテルを出て、石垣港離島ターミナルまで歩く。 五分程で到着。
これから、西表島へ行く。 船着場に行くと、石垣が生んだ英雄・
具志堅用高の銅像があった。
8時15分発のプレミアムドリーム号には、後ろ半分に修学旅行の中学生が乗っていた。
船は定時に出港した。
石垣港を出ると、船は南西に向って進む。
右に竹富島を臨み進むと、航路の左側にはサンゴ礁と思えるところがあり、
それに接近する位のところを進んでいく。
夏ならばもっと明るい海面なのだろうが、冬に近いため少し黒ずんだ色であった。
「 左手にハート型の島 」 と船内アナウンスのあった黒島が見える。
住民は二百人に対し、黒毛和牛が数千頭いるといわれる畜産の島である。
横に広がるテーブル状の台地が広がっているが、それ程高くないので、
地球温暖化で沈むのではないか、と心配した。
その先、左側に見える二つの島は、 新城島(あらぐすくしま・別名ぱなりしま) である。
船は北西に向きを変え、西表島の大原港に着船、石垣島から45分の船旅であった。
大原港FTは浮桟橋になっている。 この桟橋ができるまでは大型船が、
着岸できなかったという。
桟橋を出ると、「西表島 仲間」 の木柱と、西表島(大原周辺)案内図があった。
浮桟橋から数十メートル離れたところに別の浮桟橋があり、
そこには、「仲間川遊覧」 と書かれた船が停泊していた。
この船が仲間川マングローブ観光に使われる船である。
これから仲間川マングローブ観光である。
クルーズ船は40人位乗れる屋形船で、仲間港を西に向って、進む。
正面の仲間橋が見えてきて、橋をくぐると仲間川の河口に入った。
「
仲間川は、南風岸岳付近を源流とする二級河川で、河口部は川幅が二百メートルを
越えるところもあるといい、広さを感じた。
川の深さは10メートル程で、潮の満ち引きにより、
数メートル上下するという。 」
仲間川は、その先で二つに分かれ、源流があるのは左側の川で、川幅は狭くなった。
このあたりから、川は蛇行して流れており、勾配は緩やかである。
このあたりには海水が流れ混んでいて、マングローブの群生林が川の両側に展開している。
この一帯は、仲間川天然保護区域として、国の天然記念物に指定されている。
「
マングローブ林は、オヒルギ、メヒルギ、ヤエヤマヒルギなどで構成されている。
マングローブの木々は、古代に植物の間で生存競争があったとき、
戦いに敗れて、陸地から海に追われ、海水に根を張って、生きるようになったものである。 」
目の前に、群生するオヒルギがあった。 呼吸根は水没して、ほとんど見えない。
「 支柱根が短く、少ないが、呼吸根は、屈曲膝根と呼ばれ、 湾曲し人の膝のように見える根をぼこぼこと泥の中から出ている。 訪れた時は干潮から満潮に移る途上であったが、干潮時には根が空気に触れる のだという。 」
オヒルギは、別名、赤花蛭木とも呼ばれる。 その名の由来は、
直径三センチ位の赤い花をつけるからである。
最盛期は過ぎていたが、当日もちらほら咲いていた。
「 オヒルギは、
筒状の細長いがくの先に花弁があり、その中にめしべ部分がある。
めしべの前に、おしべ部分の赤色の花がある。
花は厚く、ラッパ状に下を向き、先端が八〜十二枚に裂けている。
花弁は、筒状のがくの中にあるので見えないが、これが胎生種子になる。
種が樹上で発芽し、幼根をある程度伸ばすと、がくの内側から先端の芽などが
抜け落ち、下が泥ならそのまま成長するが、多くの場合は、
海流散布で、分布を広げる。 」
メヒルギは国内では七〜八メートル程の小高木である。
「
幹は直立し、樹皮にはタンニンを多く含む。
幹の下部に支柱根を出し、成木は幹の周囲に与球根を持ち、
干潟の湿地に安定して株立をする。
花は白色で、胎生種子の形状は細長く、 笄(こうがい・かんざし) に似てることから、
リュウキュウコウガイの別名がある。
また、発芽した幼根の太さが、オヒルギより細く、女性的であることから、
メヒルギと命名されたという。 」
さらに遡ると、中流右側にヤエヤマヤシが群生している。
岸にに近づき、ヤエヤマヤシの幼木が紹介された。
この地区は、ウブンドルのヤエヤマヤシ群生として、
国の天然記念物に指定されている。
その先で、マングローブはなくなる。
船員から、 「 中流までしか潮は遡らないため、
ここからの上流は、陸上に育つ樹木に変わる。 」 と、説明があった。
マングローブのツアーはここまでで、船はここで引き返し、帰路に着いた。
「 ツアー時間は七十分だった。
なお、ツアーの開始時間は潮の満ち干で変わるので、確認した方がよい。
下船した大富地区は、昭和二十七年に、波照間島より、先程の大原地区は、
昭和十三年と昭和十六年に、新城島よりの集団移住により、誕生した、という。 」
次は、由布島観光である。
貸切バスに乗り、県道215号を北上すると、美原地区の由布島入口に到着した。
「
由布島は、周囲二キロ、面積は0.15uの小さな島で、島民が百十一人、
二十五世帯を数える時があったが、昭和四十四年の台風で、島全体が水没する台風により、
壊滅的な被害を受け、対岸の西表島へ移住し、美原集落を形成し、三世帯のみが島に残った。
当時は、果樹や甘藷が栽培され、各戸に水牛が飼育されていた。
移住後の由布島には、ヤシの植樹などが行われて、昭和五十六年に植物園として開業し、
今日に至る。 」
西表島と由布島の間の海は、大人の膝位の深さで、満潮時でも1m程しかならない。
そのため、移動手段には水牛車が利用され、島の重要な観光資源である。
「 由布島へ徒歩で渡ることは可能である。
その場合は牛車の邪魔にならぬように、海中に建てられた電線の下を歩かなければならない。
水牛車は10台以上あり、雄か雌か、成牛か幼牛かで、乗せる人数が違う。 」
◎ 由布島
水牛車に乗ると、御者の合図で海に入っていく。
「
牛の本能なのか、前の牛に続き、島に向って進むが、牛の性格により進むペースが
まちまち。
御者の中には三線を引くものがあり、その牛車では島唄などが聞けた。
行きの牛車は順調に進んだが、帰りの牛は気まぐれで、海の中で小便し、
しばらくあるくと走行をやめ、しばらく休憩とばかり立ち止り、
行きの二倍の時間を要した。
この島渡は徒歩だと五分、牛車で十五分が標準という。
御者は、「
牛は一日三回往復が普通で、四回あるときはいやがるという。
牛は分かっていて、終了と分かるとさっさとねぐらに帰る。 」 と、いわれた。
島の中央部に、レストラン&ショップの水牛商店がある。
そこで和琉幕の内弁当を食べた。
思った以上にうまかったので、よかった。
食事後島内を散策する。
その先に、昔あった由布島小中学校の校門跡があった。
説明板「由布島小中学校の跡地」
「 昭和23年 島分教場が開校。
当時の校舎は、島の住民による木造かや葺きのものでした。
幾度も台風による被害に逢い、建て直されました。
昭和26年 モルタル瓦葺きの校舎完成。 昭和34年 中学校の校舎完成。
昭和44年 台風エルシーによる高潮で島全体が水没、
島ぐるみの移転を決める。
昭和45年 島民の移転にともない閉校、
現在では、当時の功門と校舎の一部が残っている。 」
十字路を右折すると、海岸の脇に、由布島茶屋がある。
浜の入口に、マンタの文字の上に、マンタ像がある石碑があった。
海岸の名前はマンタの浜とあった。
「
沖に見えるのは小浜島、沖合には石垣島、黒島、新城島が遠望できた。
由布島と小浜島の間にはマンタが回遊する姿が見られることから、
その名がついたという。 」
さらに北に進むと、ブーゲンビレアガーデンがある。
「
温室の中に成育されていたが、温暖なので、暖房する設備はないようだった。
名古屋の東山植物園で見慣れた植物だが、ここでは三十種類以上あるようだが、
一本の木が貧弱なので、華やかさで劣っていた。
この島にはその他、蝶々園と果樹園などあるが、自然を感じることができるが、
素人的な小規模のもので、特筆する程ではなかった。 」
気になったのは、道端にあった、「あじー 飛び出し注意」 と、
書かれた黄色い標識である。
和牛商店の売店では、これをデザインしたTシャッツなどが販売されていた。
この地を表現するキャラなのだろうと、思った。
説明板
「 沖縄方言で、おじいさんのことを、おじ―といいます。
おじーの生態
急に草むらから飛び出してきます。 草刈りで、右に出るものはない。
おじーが作った野菜が世界一。 一年中島ぞうり 」
スイレンの池を見ると、水牛が水に浸かったいた。
水牛は、牛車を引いた老後は、水牛の池で、暮らすという。
池には、のんびりしている牛が多くいた。
以上で、由布島観光は終りである。
十二時二十五分、水牛車で島を出て、西表島に戻り、バスで大浜港へ戻った。
港近くの交叉点に交通信号があったが、バスの運転手の説明では、
「 島内に交通信号は二つしかなく、児童の教育用とのこと。 都会に出た時、
困らないため!! 」 とのことだった。
訪問日 令和五年(2023)十一月十四日〜十五日
この続きは 「 南西諸島(石垣島・西表島・竹富島・小浜島)を巡る(続き) 」 をごらんください。