太宰府(だざいふ)は、九州全体を治めると共に、
わが国の守りとしての防衛と外国との交渉の窓口を行う重要な機関であった。
右大臣だった菅原道真は、左大臣・藤原時平らの陰謀により、
太宰府に員外帥として左遷され、二年後の延喜三年(903)にこの地で亡くなった。
延喜十九年(919)、左大臣・藤原中平が太宰府に下向し、道真の墓の上に社殿を造営したのが太宰府天満宮の始まりである。
◎ 太宰府政庁跡と坂本八幡宮
最初に、大宰府政庁跡と坂本八幡宮を訪問した。
「 大宰府政庁跡は、
九州全体を治める役所・大宰府があった場所である。
大宰府が記録に現れるのは、 天智天皇六年(667)に筑紫都督府が、
同十年(671)に 筑紫大宰府が 記されているが、
正式の政治機関としては、大宝律令(701) によって確立した。 」
(注) 太宰府ではなく、大宰府の文字が使われた。
唐名は都督府である。 地元ではそのことから、
都督府楼跡 あるいは 都督府古址と呼称されている。
大宰府政庁は、七世紀後半から奈良、平安時代を通じて九州を治め、
わが国の守りとして防衛を、また外国との交渉の窓口として重要な役割を果たしてきた。
「 現在の九州・西海道九国 ( 筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅) と、壱岐、対馬の行政や司法を所管し、
その威力から、遠の朝廷 (とおのみかど) と呼ばれた。
軍事面では防人を統括し、西辺国境の防衛を担っていた。 」
大宰府の面積は、二十五万四千平方メートルと大きく、 政庁や学校、倉司、税司などの建物が条里制に配置されていた。
「 水城西門から直線の道で刈萱の関にきて、
朱雀門から大宰府政庁に、外国使節は訪れていた。
大宰府政庁は、平安末期(約900年前) にはその役割を終え、
田畑化してしまった。 」
太宰府政庁跡は、調査の結果に基づいて、 礎石や平石で建物跡の区画表示が行われている。
「
江戸時代、黒田氏の福岡藩は、大宰府の調査を行い、建物礎石を発見した。
また、地元の有志により、太宰府 を顕彰する石碑が建てられたり、
簡単な保存整備が正殿跡を中心に行われてきたが、
明治以降は宅地が進み、遺跡の保存が課題になってきた。
昭和に入り、国の特別史跡に指定されたことから、
昭和四十年頃は田畑だったという大宰府政庁跡が整備され、
現在は、発掘された正殿跡の立派な礎石を中心に門や回廊、
そして、周辺の役所跡が表示復元されている。 」
政庁跡の中央奥に、「都督府址」 の石碑があり、両側にも石碑が建っている。
近くに「政庁跡」の説明板がある。
「 政庁の正殿である。 政庁の建物群は三期にわたり、変遷し、
一期は掘立柱建物、 二、三期は礎石建物が建てられ、
中、南門は二、三期がほぼ同じ規模の構造だったことが分かった。
建て替えの原因となったのは、941年の藤原純友の乱による火災である。
三期の建物は、正面七間(28.5m) 奥行四間(13.0m)で、
基壇の正面と背後の階段が三つあり、
正面を除いた周囲の礎石には、壁を設けるための加工が施されている。
柱の直径は約七十五センチ、 これをのせる礎石は巨大なもので、
円形の柱座を三重に削って装飾されていて、
屋根には鬼瓦が飾られていた。 」
中央の南側に、「大宰府政庁南門跡」 の説明板がある。
「 南門は、政庁の南に開かれた正門である。
両側に東西に延びる築地塀が取り付き、政庁全体を囲んでいた。
要人や外国使節を応接するにふさわしい威容を誇っていたであろう。
なお、役人の日頃の出入口は、築地塀に設けられた脇門を利用していたと考える。
昭和四十三年 (1968) の発掘調査で、
地表面に見える礎石群は奈良時代(政庁U期)のものではなく、
平安時代後半 (政庁V期) に建てられたものであることが判明した。
建物の平面形は変らないが、基壇が拡張されており、
U期に比べて大きくなっている。
礎石は十一個残っていた。
現在見える礎石は、本来の位置のもの、移動されたもの、
コンクリートで所在に使ったもの の三種類がある。
なお、両側の柘植は築地塀を表示している。
南門は高さ十八・二メートル、 正面五間(21m)、 奥行き二間(8.2m)で、
正面入口に三ヶ所の扉が設けられていた。
また、大宰府政庁の玄関口にふさわしく
二階段で、 入母屋造りの屋根を乗せた壮麗で堂々とした門だったようである。 」
大宰府政庁南門跡の右手に、大宰府展示館がある。
大宰府跡の発掘で出土した溝をそのまま公開すると共に、
太宰府の歴史を紹介する資料を展示している。
この近くに令和の新年号で話題になった、坂本八幡宮がある。
「
坂本八幡宮は、大宰府政庁跡の左奥にあり、大伴旅人の邸宅跡である。
なお、手前左手は蔵司跡である。
大伴旅人は、大納言を歴任した奈良時代の政治家で歌人で、
万葉集の選者・大伴家持の父である。
神亀五年(728)〜天平二年(730) の晩年に、太宰府帥として赴任した旅人は、
着後に妻比郎女を亡くした。
帰任する年の天平二年(730) の正月十三日、 西海道の官人達を自宅に招き、
当時中国から入ってきた梅の花を見ながらの歌会の宴を開いた。
俗にいう梅花の宴である。
新年号 の 「令和」 は、 梅花の宴を記した万葉集の梅花の歌32首の序文にある。
「 初春の令月にして 気淑く風和ぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は颯後の香をくんず 」 より出典された。 」
坂本八幡宮の由緒
「 嵯峨天皇の弘仁二年(811)に、
太宰府や九州を守護する四王寺が、釈加仁の像を造立し、て開眼供養を行い、
住職の鳳詮法師は、坂本に住して善正寺と号すとあり、
平安時代にはこの地に四王寺の座主坊としての善正寺があった。
その後、天台宗の寺院になり、境内に八幡宮が祀られた。
戦国時代になると寺は廃れ、土地を経営する坂本集落が誕生し、
村の鎮守として寺にあった八幡社が再興された。
これが坂本八幡宮である。 」
令和の年号発表以来、多くの人が訪れるようになり、我々もその一人である。
地元の奉仕者から御朱印をいただいた。
太宰府展示館 : 福岡県太宰府市観世音寺4丁目6−1
092−922−7811
太宰府政庁跡へは西日本鉄道大牟田線都府楼前駅から徒歩15分
◎ 太宰府天満宮
この後、太宰府天満宮を訪れた。
太宰府といえば、太宰府天満宮である。 名物に梅かえ餅がある。
「 右大臣だった菅原道真は、
平安時代の昌泰四年(901)に、左大臣・藤原時平らの陰謀により、
太宰府に員外帥として左遷され、二年後の延喜三年(903)に、
この地で亡くなった。
道真の死後、京の都では怪奇な出来事が起こったので、道真の怨霊の仕業と囁かれ、
延喜十九年(919)、左大臣・藤原中平が太宰府に下向し、道真の墓の上に社殿を造営したのが安楽寺天満宮の最初である。 」
現在の本殿は、桃山時代の 天正十九年(1591) の建築物で、 国の重要文化財に指定されている。
「 本殿は五間社流造で、屋根は檜皮葺き、正面に唐破風の向拝を設け、 左右側面に各一間で、これも唐破風の車寄を付け、廻廊が前方の楼門まで廻されている。 」
拝殿の右手前には、太宰府に赴くため都を発つ道真が、庭先の梅を見て、
「 春風吹かば においおこせよ 梅の花 あるじなしとて
春な忘れそ 」
と詠んだ飛梅が植えられている。
太宰府天満宮へは、博多バスターミナル(JR博多駅博多口)1Fの11番乗り場
または福岡空港国際線ターミナルから、西鉄バス太宰府ライナー旅人で、行ける。
電車の場合は、西鉄福岡(天神)駅から特急又は急行に乗り西鉄二日市駅へ行き、
そこで乗り換えて、太宰府駅へ行く。
太宰府防衛のための施設として、
水城(みずき)や古代朝鮮式山城である大野城が造られた。
この後、それを探して訪れた。
この続きは 「 太宰府(続き) 水城と大野城 」 をごらんください。