「 防衛と外国との交渉の窓口  太宰府(続き) 」

( 古代の防衛施設 水城 大野城 )


かうんたぁ。


水城(みずきじょう)は唐や新羅の侵攻に備えた古代の防衛施設で、 太宰府政庁への入口に土塁と水堀を築いたものである。 
昭和二十八年に国の特別史跡に指定された。 
大野城は太宰府防衛のために築かれた古代朝鮮式山城である。 



◎ 水城(みずきじょう)

水城は、太宰府市・大野城市・春日市にまたがる広い距離に築かれた、 飛鳥時代の防衛施設である。

日本書紀に  「 筑紫国に大堤(おおつつみ)を築き水を貯へしむ、名づけて水城(みずき)と曰ふ 」 とある。  
天智天皇二年(663)、 大和朝廷と同盟関係にあった百済が、 唐と新羅連合軍による白村江の戦いで敗北した為、 唐や新羅からの侵攻に備え、防衛体制の整備を始めた。 
日本書紀の天智天皇三年(664) の項に、  「 対馬国、壱岐国、筑紫国などに、防人と烽を配備し、筑紫国に水城を築く。 」  とある。
更に天智天皇四年(665)の項には 「 長門国に城を築き、筑紫国に大野城と基肄城を築く。 」 とある。 

水城跡を伝える施設・水城館が、国分二丁目交叉点近くにある。 

「 水城は、大野城のある四大寺山(大城山)の水城口城門から、 西に大野城市の牛頸台地までの間の最も狭くなっている平地を塞ぐ形で造られた土塁と水堀からなる防衛施設である。
水城館は、県道の三叉路近くにある、ひともっこ山 の下部に造られた施設で、 水城の解説と休憩所、トイレがあり、続日本100名城のスタンプが置かれている。 

水城跡
水城跡(中央下・水城館)


ひともっこ山の上に登り、西側を見ると、 木立が続く土塁(東堤)が続いているのが見える。

「 水城は、東側に東門、西側に西門があり、 その間に長さ千二百メートル、幅八十メートル、 高さ十メートルの土塁と内外に水をたたえた堀が築かれ、 福岡平野の最も狭くなった場所をふさぐように築造されていた。 
現在は、東門跡は道路工事により削られ、 東門跡から少し先まで、国道と有料道路などの建設により削られ、 更にJR水城駅付近では線路により分断されてしまっている。 」

水城復元図

「 土塁の高さは十メートル以上で、左側は太宰府方面で、 土塁は傾斜して高さ二メートル、長さ四十一メートルの平地となり、 その先に幅四・五メートル〜十メートルの溝状の内濠となっていた。 
また、右側の博多方面には幅約六十メートル、深さ約四メートルの外濠を造り、 水を貯えていた。 」

下に下りると、水城館の前の細い道と県道の間に「史跡水城址」の石碑がある。 
この狭い道が古代の官道跡のようである。
また、「東門跡」の説明板にあった。

「 博多湾の沿岸にあった那津官家は、大陸貿易の窓口だったが、 敵に攻められやすいことから、 白村江の戦い後、大宰府に移され、大宰府政庁が誕生した。 
東門からの官道は博多に至り、海を通じて都や朝鮮、中国に通じていたため、 東門は太宰府に赴任する官人の玄関口で、水城門で出迎えを受け、また送り出された。 
寛弘二年(1005) 太宰大弐として赴任した藤原高遠は、水城で太宰府の印と鍵を受け取り、 また、天平二年(730)太宰府師(だざいふのそち) 大伴旅人が、 帰京した時は水城で役人たちに見送られている。 
東門は、藤原高遠の和歌に、「 岩垣の水城の関 」 と詠われていることから、 門の両側に石垣が築かれていたと考える。 
寿永二年(1183) までは門が存在したようだが、 十三世紀の後半には門がなくなったようで、 交通の要所の為、礎石が一個残るのみなったという。 
平成二十六年に発掘調査が行われたが、撹乱されていたため、 門の遺跡は残っていなかったが、門外の脇に造られたと推測される、 L字形に曲がる溝が確認されたことや土塁との位置関係などから、 街道脇に一個残っていた礎石から、この付近にあったと推測される。 」

東門付近の水城跡
     水城復元図      史跡水城址碑と礎石
東門付近の水城跡(東堤)
水城復元図
史跡水城址碑と礎石


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交叉点の東側には、「水城大堤之碑」 と書かれた石碑と説明板がある。

説明板「水城大堤之碑」
「 この碑は大正四年(1915) 大正天皇の即位の記念事業として水城青年会が建てたものである。 
碑文は、水城在住の郷土史家、武谷水城が書き、 背面には水城跡の由来と、 水城村出身の技師・竹森善太郎が行った水城跡の実測結果が刻まれている。  台座は宝満山から、棹石は博多から水城青年会が自ら運搬したものである。 
(碑文の訳) 天智天皇3(664)年筑紫に大堤を築き水を貯え、名付けて水城という。  今からへだてること1252年。  称徳天皇の天宝神護元年3月、太宰小弐従五位下妥女朝臣浄庭を修理水城専知官とす。  今からへだてること1151年。  今、東堤長さ176間3尺(約320m)、西堤384間3尺(約700m)、總長561間(約1020m)、 最高所5間5尺(約10.6m)、基盤の最広所19間1尺7寸(約35m)、中央欠堤所96間(約175m)。  西堤は近年中断し、二堤となる。  この所はすなわち東方関門の跡で片側の礎石が遺存している。  その西方の関門はすなわち吉松墜道の地なり。 」

史跡水城址碑の先まで行くと、 褐色の駐車場のような土地の上に、「特別史跡水城跡 太宰府市」 の木の看板が建っていて、 その近くに 「古代官道(東門ルート)」 の説明板があった。

「 官道は東門からほぼ直線的に造られ、 外側は北西約10qで古代の港湾施設とみられる博多遺跡群に至った。  また、東門を入ると、南東へ1.2qで、太宰府条坊に入り、政庁に至った。  官道からその先で分岐しして、筑前国分寺に至る道も造られた。 」

水城館まで戻ると、大友旅人と遊女児島の歌碑があり、以下のように記されていた。

「 天平二年(730)冬十二月、太宰府師、大伴旅人は大納言に進み、 太宰府を離れた。 
水城で旅人を見送る官人たちに交じって、日頃旅人がなれ親しんでいた、 遊行女婦(うかれめ)がいた。 名は児島。 
別れに際して、娘子(をとめ)児島(こじま)は旅人に二首の歌を送った。 
「 凡(おお)ならば かもかもせむを 恐(かしこ)みと 振り痛き袖を 忍びてあるかも 」 
「 倭道(やまとじ) は 雲隠りたり 然(しか)れども まが振る袖を 無礼(なめし)と  思ふな 」 
(歌の意)
あたり前ならああもこうもしましょうものを 恐れ多くて  痛いほど激しく振りたい袖を我慢しているのです。 
大和への道が雲に隠れ、あなたのお姿はやがて見えなくなるでしょう。  それでも、私が別れを惜しんで振る袖を無礼だとお思いになりませんように。 

それに対する返歌 大納言 大伴旅人の二首 
「 倭道(やまとじ) の 吉備の児島を 過ぎ行かば 筑紫の児島 思ほえむかも 」 
「 ますらをと 思へる吾や 水茎の 水城のうえに 涙拭(のこ)はむ 」 
(歌の意)
大和への道の途中に吉備国の児島を通ったならば、 きっと同じ名の筑紫の児島のことが想われることだろう。 
涙などこぼさぬ強い男だと思っていた自分でも、お前との別離が悲しく、 水城の上に涙を落すのだ。 」 
これが二人の永久の別れとなった。 都に帰った旅人は、翌年七月、六十六才で亡くなった。 」 

歌碑や東門跡の礎石を見ていると、古代の水城を行きかう人々の息吹が感じられた。 

水城大堤之碑
     古代官道(東門ルート)跡      水城跡(太宰府側)
水城大堤之碑
古代官道(東門ルート)跡
旅人と児島の歌碑


水 城へはJR鹿児島本線水城駅から南西数百メートルのところにある(徒歩10分) 
西鉄都府楼前駅からバスで約10分、徒歩では約40分  


◎ 大野城

「 大野城は、 大宰府政庁の北側背後に聳える標高四百十メートルの四王寺山(大城山)の山頂に、 水城が造られた翌年の天智天皇四年(665)に築かれた古代山城(朝鮮式山城)である。 」

「焼米ヶ原尾花礎石」 の碑のある駐車場に;「大野城」 の説明板があった。

説明板
「 大和朝廷が、新羅、唐の連合軍の来襲に備え築かれた防衛施設の一つで、 北西の水城、南方のきい城とともに、太宰府政庁を中心とした防衛ラインを形成し、 百済の亡命高官二名の指導のもとに築城されたことが日本書紀に記されており、 山頂や山腹に土塁が、谷間には石垣が全周八キロにわたって築かれていた。  現在確認された城内への出入口は五ヶ所、 食料の備蓄や居住に利用されたと考えられる七十余りの建物が、 丘陵を造成した平坦面に残されている。 」 

「野外音楽堂の入口」の看板があるが、 そのまま進むと、左側の崖に石垣が見えてくる。 
その先に車を二・三台停められるスペースがある。
少し引き返すと谷部石塁である。
四天寺川には石塁があり、その上に石垣がある。 
石塁端部を回り込むと石垣沿いに上に登る道がある。 
石垣はカーブして築かれているが、 これは支持基盤となる硬い岩盤に沿って築かれたためこのような形になっているのである。 
この道を行かず、駐車したところから直登の道を行くと、土塁が横に連なるようになっていた。 

尾花地区土塁
     谷部石塁      百間石垣の土塁
尾花地区土塁
百間石垣の谷部石塁
百間石垣の土塁


四天寺川脇に、「特別史跡 大野城跡 百間石垣」の説明板がある。

説明板
「 大野城の城壁は土を高く盛り上げた土塁で囲まれているが、 起伏の激しい地形のため、谷間は土塁ではなく、 石を積み上げたダムのような石塁とし、 急斜面部は石垣を作るなど工夫をこらしている。 
この百間石垣の名称は四天寺川の部分を石塁とし、 それに続く山腹部を石垣とした城壁で、 長さが百八十メートル程あることから名付けられたものである。 
平均四メートル位の高さが残っており、川底部では石塁幅が九メートルほどある。  外壁部の角度は七十五度前後である。 
この川から今までに三個の礎石などが発見させており、 川に近い場所に城門があったと考えられる。 」

急登の道の先には、礎石群みたいのものがあった。 
合流した道の左の道は、先程の川端からの道だったようで、 この道からの方が楽だったなと思った。 
右側に道を進むと崖のようなところに石垣が組まれている。 

「 ここは先程土塁が続くと思った上部で、 石垣の角度は七十五度前後でほぼ垂直の壁のようになっている。 
石垣から水がしみだしているところがあるが、 百間石垣には水を排水するための穴がいくつかあけられている、という。 
石垣も裏込めに栗石を使用した透水性の高い構造である。 
昭和四十八年、平成十一年、十五年と度重なる水害で被害を受け、 大部分が修繕、平成七年に復元され、現在の状態に至っている。 」

ここから引き返したが、急勾配の石垣は他に類がないように思え、 階段を下りて駐車場まで下りてくるが、  振り返ってみると急斜面に作られているということを身に染みて体感でき、 圧巻である。 
なお、説明板にあった川底から発見された礎石は、 県民の森の管理事務所の前に置かれているようであるが、 このあたりに城の北側の入口、宇美口城門があったとされる。 
また、同じ時期に大石垣、原地区土塁、大宰府口城門などを復元整備したというが、 今回はこれでタイムアップ。 
一般的な城めぐりと違い、大野城の史跡をしっかり見るためには、 事前に資料を取り寄せる必要がある。 

礎石群
     土塁と石垣      直角な石垣
礎石群
土塁と石垣
ほぼ直角の石垣



所在地:福岡県糟屋郡宇美町四王寺、太宰府市、大野城市 
西鉄太宰府線太宰府駅から徒歩40分 

旅をした日   令和元年(2019)五月二十五日




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