「  京街道 (大阪街道) を歩く  」

( B 石清水八幡宮から 枚方宿 (続き) )  


かうんたぁ。


平成二十二年二月二十四日、始発の新幹線で名古屋から京都へ行き、 京都駅から、 近鉄 ・ 京阪と乗り継いて、 枚方市駅に着いたのは七時五十分頃。 
さっそく、前回終了のかささぎ橋へ行き、 京街道の歩きを再開する。 
枚方は伏見と大阪の中間地点にあり、  淀川の京都伏見と大阪八軒屋浜とを結ぶ、三十石船の寄港地でもあり、 また、 対岸に渡る渡しもあったので、 陸上の交通の要衝として重要な位置を占めていた。 


◎ 枚方宿宿 (ひらかたしゅく)

東見付跡

鵲橋を渡ると左折して、 川沿の坂道を進む。  橋から八十メートルほど下ると、 三叉路になり、 そこには堤防をバックに、  「枚方宿東見付跡」の石碑や、「東見付」 の説明板が建っている (右写真)
説明板「東見付」 「 枚方は 牧方とも書かれたが、 日本書紀に 「 ひらかたゆ 笛吹き上る 近江のや 毛野の稚子 い笛吹き上る 」  という歌が書かれているように、古くからある土地である。  室町から戦国時代にかけては、  枚方城の城下町でもあり、 また、 浄土真宗の寺院の門前町だったようだが、 桃山時代の終りになると共に、城は廃城になり、 寺の勢力も衰えていった。 」

天野川

天野川の対岸で別れた京街道は、 東見付のここから、また始まる    (右写真 - 天野川)
説明板 「東見付」 (続き)   「 江戸時代の慶長六年(1601)に、江戸幕府により、岡新町村 ・ 岡村 ・ 三矢村 ・ 泥町 の四つの村が、枚方宿に指定され、岡新町の東見付から、泥町の西見付まで。 淀川に平行して、 長さ十三町十七間(1477m) の長い宿場町が誕生した。 また、元禄二年(1689)には、旗本 ・ 久美氏 の 長尾陣屋が 設けられた。 東見附は、天野川に接する枚方宿の東端で、道の両側に柵に囲まれた松が
植えられていました。   」

河内名所図会天川

「河内名所図会 (享和元年ー1801)  天川 」 には、 当時の天野川と、 かささぎ橋の様子が、 描かれていて、(画面が鮮明でないが)、 「 淀、伏見方向へ向かう大名行列が、 天野川の橋に差しかかり、  見送りに出た宿役人が、 東見附で待ち受ける光景が描かれています。 」  (右写真)
  元文二年(1737) の 「岡新町村明細帳」 には、 「 天の川には 長さ十七間、 幅三間一尺 の木橋が架かっていました。 」 と記述があり、 天保十四年(1843)に編纂された宿村大概帳によると、「 枚方宿は、三矢村を中心に、  本陣一軒、脇本陣二軒、旅籠が六十七軒あった、 」  と、ある。 

小野家住宅

道を右折し、 道なりに進む通りには、 宿場の面影が残っている。 
入ってすぐ左側に、 小野平右衛門住宅 がある (右写真)
「 小野家は。 江戸中期より、 村年寄と問屋役人という要職を務めた家柄である。 
当家には、 正徳六年(1716)建築 の古図と鬼瓦があるが、 現在の建物は幕末だろうとのこと。 
街道に面した広い間口の建物で、 白漆喰の壁に、 袖卯建が上がり、表門口には、揚見世(地方によっては、ばたんこといわれる)や、 下げ戸が現存している。 」

このあたりには、江戸時代、左側に町飛脚、右側に郷倉があったはずだが、その跡は確認できなかった。

枚方橋跡

三百メートルも歩かないうちに、 ラポール枚方前信号交差点から続く大通りがある交差点に出た。
交差点の左手には、 京阪枚方市駅がある。 
交差点を直進すると、三叉路というか、 変則的な交差点に出る (右写真)
駐車場の左の空間の一角に、 「枚方橋跡」 の石碑が二本建っている。 
一つは 「枚方橋」 と書かれた、 橋柱の形をしているもので、  もう一つは、「安尾川枚方橋跡」とある石柱で、 東見附などへの道標を兼ねたものである。  江戸時代の 「枚方橋」は、土橋だったようだが、 
交差点の地形から考えると、「枡形」 になっていたのではないか? 

追分道標がある交差点

道なりに斜め左に進むと、正面の交差点に、東急リバブル が入る黄色いビルがある (右写真)
交差点までくると、枚方駅へ行き来する人通りは多い。  黄色い建物の一角に、 「文政九丙戌年(1826)十一月建之」 の道標がある。  道標の正面に 「右 大坂ミち」、 側面に 「 右 くらしたき 是之四十三丁、左 京六リ や王(わ)た 二リ  道」 ・、「願主 大阪 和泉屋次右衛門 近江屋又兵衛 綿屋伊兵衛 小豆嶋屋勘右衛門」  と、刻まれている。

宗佐の辻碑

この交叉点は、 京街道と磐船街道とのの追分だった。
交差点の左側の BARBAR SHIKITA の角に、 「宗佐の辻」 と書かれた道標が建っている (右写真)
「 宗佐の辻とは、 角野宗佐の屋敷があったことから、そう呼ばれたようで、  「 送りましようか、送られましょうか、せめて宗左の辻までも 」 と、俗謡にあるように、  遊郭から客が帰るときに、 遊女がこの宗佐の辻まで見送ったという。 」

ビオルネ

江戸時代には、 このあたりのどこかに、 紀州徳川家の七里飛脚所があったようである。 
交差点を右折し、 江戸時代は 岡村 だった通りを進むと、 ラポール枚方南信号交差点から続く大通りの交叉点がある (右写真)
交差点の右側にあるビルは、 SATY などが入っている ビオルネである。
その前に、正面 「京街道(枚方宿)、、側面に 「 ← 特別史跡 百済寺跡」 の道標が建っている。

岡本町公園

ビオルネビルの脇を通るブロック舗装の歩道を歩くと、 左側に岡本町公園があり、 「京街道と枚方宿」 の説明板が建っている(右写真)
「 枚方市は、 淀川に面して、 古くから交通の要衝であったが、 中世末に 願興寺 (願生坊) の寺内町として、町づくりが始まった。  豊臣秀吉は、 淀川左岸に文禄堤を築いたが、 その堤の道が、 江戸時代になって、 京街道になって整備された。 この公園の街路の飛石が 旧京街道 の中心線である。 
歩道に色の濃い四角のブロックが一直線に敷かれているのは、 そのことを示している。   」 

東海道 枚方宿の案内板

ビオルネ側にあった、「東海道 枚方宿」 の案内板には、 東見附から西見附までの地図や、  主な史跡の案内が記されている。 (右写真)
「 枚方宿は、 京都伏見と大阪高麗橋の ほぼ中間 の 二十キロのところにあった。
当初は陸上交通の要衝として繁栄ていたが、 幕末近くなると、  三十石船による船便で、 伏見から大坂までいく旅人が多くなり、 枚方宿の経営は難しくなっていった。 」

狭い通り

ビブレ歩道は、公園までで、 その先の交差点を横断して進むと、 道幅も街並みも、 がらっと変わる。 
通りの道幅は江戸時代当時の道幅のままではないかと思えるし、  宿場を思わせるような情緒が残っている。 交差点の先の左側には、 宿場にマッチさせて、 最近改装されたと思われる建物、 マンションは、 景観を損なわないように建設されている (右写真)
そうして心使いが大阪に近い大都市で行われているのはうれしいなあ、と思いながら歩いていく。

常夜燈

交差点の先の三叉路の右側に、道標と、「 妙見宮 」「 他力 」「 開運講 」 と、書かれた、 文政十二年(1829)建立の常夜燈があった (右写真)
「 旧三矢村 岡村 の村界 」 と書かれた道標が、建っていたので、 ここは、岡村と三矢村の境界である。 ビオルネ前の 「東海道 枚方宿」の案内板に、 三叉路の手前に、 「下井戸跡」 と書かれて
いるが、 これは何を意味するものだろうか? 

専光寺

この三矢町には、歴史を感じさせる建物が残っている。 三叉路の左側に、専光寺がある。
その塀の一角に、 枚方市が建てた 「高札場跡(札の辻)」 の道標がある (右写真)
「 江戸時代、三矢村が、 枚方宿の中心をなし、 札の辻に、高札が掲示されて
いた。 また、本陣や脇本陣、問屋場など、宿場の機能の中核をなしていた。 専光寺の手前あたりに、
脇本陣があったようである。 」

くらわんかギャラリー

枚方の伝統的建物は、 広い間口と出格子、 漆喰塗りの連なる虫籠窓 の構成で出来ている。
この通りの古い建物には、この伝統的な構成をしたものが多い。 
そこから少し行くと、右側に、 白漆喰の壁に、袖卯建のある建物がある  (右写真)
「 江戸中期の享保年間に、 塩問屋として創業した塩熊商店の小野家が、  店舗兼母家として、使用していたものである。  現在は、 くらわんかギャラリー という名前で、 郷土品展示や民芸品の販売を行っている。  建物は、 明治二十九年に、 火災後再建したものである。 」

東海道 淀川の浮世絵

安藤広重の京都名所之内 淀川の浮世絵に、 三十石船に 煮たきをするくわらんか舟が  接近している様子が描かれている (右写真)
「  くらわんか とは、 淀川舟便の三十石船が、 枚方浜へ寄港すると、 小舟で漕ぎ寄せ、  船客相手に、 「 さあさあ、飯くらわんかいっ! 酒くらわんかいっ! あん餅くらわんかいっ!  みな起きくされっ! なんじゃい! 銭がのうて、ようくらわんか? 」 と、 威勢のよい声で、  寝ている人までたたき起し、 酒や飯を売り付たかけ声のことである。 」
東海道五十三次を書いた十辺舎一九は、 享保二年(1802)に、 三十石船とくわらんか舟 を書いている。 

本陣跡

その先の交差点の先の右側は、工事用塀に囲まれていたが、 その角に、枚方市が建てた「本陣跡」と、「淀川旧枚方浜へ」 の矢印の付いた道標が、建っている (右写真)
(注) 工事中であったこの場所(三矢町6) は、 現在、三矢公園になっている。
「 江戸時代、初期は宇野新右衛門、享保二年からは池尻善兵衛家が代々営む本陣が、 あった場所である。 池尻善兵衛は、本陣の他、 庄屋と問屋役人を兼ねた。 間口二十間、 敷地四百七十坪、
建坪は二百十五坪、 部屋数二十五の立派な建物が建っていた。 御三家の紀州徳川家や、 松江藩 ・
高松藩 ・ 岸和田藩など、西国大名が、参勤交代で宿泊し、第十五代将軍 、徳川慶喜も宿泊した
ところである。 明治三年(1870)に本陣は廃止になり、取り壊された。 明治二十一年(1897)、 
浄念寺にあった、河内郡役所が、 移ってきた。 」

右側の三矢町7のマンションの角に、 「 すく國道第二号路線京道 左枚方街道渡場 」 と、 書かれた道標がある。 
その先、 左側の卯建のある旧家の角に、「 大阪、京街道 旧矢村 」  「 志賀美神社→ 」  と、書かれた道標がある。

浄念寺

坂口医院のすぐ先は、右、そして、左に屈折する枡形となっている。  その角に、 西御坊と呼ばれる浄念寺があり、門前に、「浄土真宗と枚方寺内町」 の説明板がある  (右写真)
説明板「 枚方は、浄土真宗とゆかりの深いところである。 永禄二年(1519)に、 蓮如上人の子、
実従 が順興寺に入寺し、一家衆 (本願寺宗主の一族) 寺院として、栄えた。 枚方はこの寺を中心に、
蔵谷、 上町、 下町などの町場が形成され、 商人など多くの人々が住んだ。 このような真言寺院を
中心とした集落を寺内町という。 しかし、本願寺勢力の低下とともに、 順興寺は廃止され、
寺内町は衰退した。 江戸時代に入り、 淀川に沿って、 枚方宿が形成され、 台地上にあった都市機能
も、宿場に移ってきたと考える。  本願寺の東西分裂後、 東本願寺は再興された寺院に、願生坊 
の名を与え、西本願寺は浄念寺を本寺兼帯所として、特別な扱いをした。 人々は願生坊を東御坊、
浄念寺を西御坊と呼ぶようになった。 」

河内名所図会 枚方万年寺

時間の関係から寄らなかったが、坂口医院の間の道を行くと、京阪の踏切の先に、願生坊、 さらに先に、 志賀美神社がある。 なお、 願生坊は、永正十一年(1514)、蓮如上人の子で本願寺第九世 ・ 実如上人が開基し、 後に願生坊となり、 西御坊の浄念寺に対して、 東御坊と呼ばれる寺院である。 
「河内名所図会」 に描かれている、 万年寺は、 万年寺山の山頂にあった寺であるが、 明治維新により、廃寺になった。 その跡は梅園などになっている  (右図 ー 河内名所図会 枚方万年寺)

木南家屋敷

浄念寺の前を左折すると、 枚方パークハイツの手前に、道標があるので、 鍵屋資料館の方へ右折する。 この辺りは、 当時の泥町村で、 少し行くと右側に、 枚方宿の問屋役人だった、 木南家の古い重厚な屋敷がある (右写真)
説明板「旧枚方宿問屋役人 木南喜右衛門 屋号は田葉粉屋」
「 木南家は、 楠木一族の後裔で、 江戸時代初期から、 庄屋と問屋役人を兼ね、 また、くらわんか 船の茶船鑑札を所持し、 枚方宿と泥町村の運営に大きな影響を行使した。 現在の建物は 明治期の
建築で、 長い間口に 出格子と虫籠窓が連なる伝統的な表屋造りで、 広い敷地内に 四棟の土蔵を
配している。 」

枚方船番所跡の道標

建物が建つ先の塀の角に、 「枚方船番所跡」の道標が建っている (右写真)
右折した先に、古い石柱が建っているのが見える。
道を挟んで、 「淀川舟運  枚方浜(問屋浜) 跡」 の説明板がある。
「 江戸時代には、 この辺りまでが淀川の浜で、 船高札場と船番所があった。 
船番所では、 淀川を往復する過書船、 伏見船、 二十石船 の検閲を行っていた。
過書船とは、 幕府が営業許可を与えた船が関所を通過できる令状で、 これを備える船である。 」

鍵屋資料館

街道に戻り、直進すると、 右側に、鍵屋資料館がある (右写真)
「鍵屋」 の軒行灯を掲げた、白漆喰の建物に、垂れ幕を張った建物である。
「 鍵屋は、 淀川で京都と大坂を往復する三十石船の船待ち客や、  街道の旅人が泊まる船宿を営んでいた。 創業は、 天正年間 (1573〜1592) というから古く、 淀川三十石船唄に 「 鍵屋浦には碇(いかり)はいらぬ、  三味や太鼓で船止める 」 と、 唄われた老舗である。  」

鍵屋主屋内部

京阪電車が開通して、船運がなくなった後は平成九年まで、料亭を営んでいた。
  平成十三年に、 市立枚方宿鍵屋資料館 となった。 (右写真 - 建物の内部)
「 現在の鍵屋の主屋は、文化八年(1811)の建築である 表玄関は京街道に面し、 裏口は淀川に接した岸辺にあり、 三十石船の乗降に、 最適な構造になっていた。 三十石船は、 淀川の京都伏見と大阪八軒屋浜を結び、 二十八人の乗客を乗せ、 それを船頭四人と臨時の引き子数人で、 川の上り下り行っていた。  淀川は底が浅いため、 櫓は使えないため、 棹を操り、 それで上れないところは岸から
引いていた。 朝出て夕べに着く船を 昼舟 といい、 夕べに乗って 朝に至るのを 夜舟 といっていた。 
伏見からの出航は夜に出て、 早朝に着くのが一般的だったが、 その船が枚方へ寄港すると、
くらわんか船が、漕ぎ寄せてきた訳である。   」

西見付案内板

上りと下りでは、労力に違いがあるため、 船賃は、上りは下りの2倍以上であったようである。 
また、 享保の頃の下りは七十二文だったが、 幕末の繁忙期にはその倍になったこともある。 
道を進み、交差点に出ると、 右角に 「西見付」 の案内板が建っている (右写真)
ここには、 かり (草かんむりに刈という字) 捨高札場があり、 枚方宿の西のはずれだった。 
これで、枚方宿は終わる。


旅をした日      平成二十二年(2010)二月二十四日



(ご参考) 「姥ざかり花の旅笠 (集英社文庫)」 の 「枚方」 の部分

田辺聖子さんが書かれた 「姥ざかり花の旅笠」 の中に、  枚方に関する記述があったので、 参考までに、 転載させていただく。 
この本は、 天保十二年に旅した、 小田宅子が書き残した東路日記を基にしたものである。 

「 宅子さんらは 三十石舟に乗った。 淀川の水車もなつかしかった。  いざ大阪へ。 見え渡るたる御城うるわしくというのは稲葉丹後守さま十万二千石の淀城だろう。  あれが石清水八幡、こちらが山崎などと ゆびさしながらのうちに 舟は下る。  岸の柳は長雨に水隠れているのも面白い。 はや、河内の国、 枚方である。
東海道分間延絵図で見ると、 満々たる淀川の岸に 過書役場、 伏見船役所が書きこまれている。 
川舟の監視所で通行する舟から 運上金を徴収する。 それより有名なのはくらわんか舟だろう。  三十石舟に漕ぎ寄せて、 船客に飲食物を売りつける小舟であるが、 口汚いので有名。 
「 くらわんか、くらわんか、 牛蒡汁、あん餅くらわんか、巻ずしどうじゃ、酒くらわんかい、銭がないのでようくらわんかい 」 
その由来、といっても伝説であるが、 徳川家康が大阪夏の陣で淀川べりまで追われ、  渡るに舟がなくてあわやというところ、 漁夫が舟を漕ぎ寄せ、 危急を救った。   戦後その恩賞として 漁夫の望みにまかせ、 淀川の上がり下りの船客に 飲食類の一手販売を許したという。  それゆえ その悪口も 天下御免の悪口としているそうな。 
枚方には遊女町もあった。 「 ここは枚方鍵屋の浦よ 鍵屋浦には碇はいらぬ、 三味や太鼓で船とめる  (淀川三十石船歌) 」 
以上のように書かれていて、 当時の枚方の様子が目に浮かぶの気がしたが、 皆様はどう思われたでしょうか!!



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