『 甲州街道 (37) 上諏訪宿 』    

上諏訪宿は高島藩諏訪氏の城下町であり、甲州街道最後の宿場でもあった。
上諏訪宿は金沢宿より三里十四町(13.5km強)で、町並みは五町余(600m程)である。
本陣が一軒、旅籠が十四軒、家数は二百三拾余軒、人口は九百七十人程だった。



金沢宿から上諏訪宿

宮川に架かる金沢橋を渡ると、金沢宿の西枡形で、ここが金沢宿の西入口であった。

五街道細見には「 金沢宿から上諏訪宿は三里十四丁(約14キロ)の 距離で、木船、橋を渡り、板室、茅野、橋を三つ渡り、横内、上原、神戸、上桑原、 下桑原、ふ門寺、細久保、武津、清水町を経由して、上諏訪宿へ至る。 」 とある。

枡形を抜け、再び国道へ出ると矢ノ口交差点で、 交差点を渡った右側に鳥居と「権現の森」の碑と説明板が立っている。
説明板には「権現の森」とあり、金沢宿の前には、この森の北西に青柳宿があったことが記されている。

「 武田信玄が開発した金鶏金山は武田氏が滅びると、 それに従事した鉱夫達は青柳に定住し、金山の守護神である金山大権現をこの地に 遷座した。 以来、村人の信仰の場、憩いの場として愛され続けてきた森である。 」

鳥居の正面に承応三年(1654)に建立された「金山大権現」の石祠が鎮座している。

文化二年(1805)に、金沢宿より幕府に提出した「御分間御絵図御用宿方明細書上帳」の中に、 「宿持鎮守 除地 拾六間四方 金山権現森壱ヶ所石御祠御座候  但江戸ヨリ右之方往還ニ御座候 」とあり、この権現の森と石祠が報告されている。

石祠の左右には、江戸中期より大正期までに奉納された、御嶽座王大権現、 不動明王摩利支天、津島牛頭天王、蚕玉大神があるなど、多くの石仏が祀られている。
国道に戻るとその先の森の口バス停から、斜め左側の道に入るのが甲州街道である。
その先にT字路で、右折して国道に出ないで、左側の寒天工場の脇の道を直進すると、 正面にこんもりとした森が見えてくる。
道は三叉路に突き当たる。
甲州街道は直進し、金沢一里塚に通じていたが、今はその道はない。

一里塚跡に行く為、 T字路を左折して橋を渡り、ホテル虹色のメルヘンの先を右にぐるっと回り、 三棟の二階建ての建物を目指して、田圃の畦道沿いに川の近くまで行く。
右側の段上に稚児神社があり、 その先の右側高台に「一里塚 江戸日本橋より四十九里」と書かれた石碑が建っている。 

三叉路まで戻り、T字路を直進し、清水橋バス停がある国道に出る。
国道を三百メートル程行くと木船の集落に入る。  入口の左側には石祠道祖神と古い常夜燈がある。
木舟バス停には背の低い火の見櫓に立派な半鐘が下がっている。
木舟交叉点を越すと右手にお地蔵さんが安置されている。   その奥には露地を跨ぐ大きな火の見櫓がある。
木船の集落は八百メートル程で終わる。

道の右側にあるタイヤショップ茅野あたりで、国道は左にカーブして山の中へと向かうが、甲州街道はタイヤショップの手前の道に入り、Uターンするように坂を上る。
坂を上ると左側斜面に、正徳二年(1712)建立の馬頭観音像、 庚申塔、石倉大六天、道祖神等が祀られている。
その先、ヘアピンに左に回ると、 右側に文字が刻まれた大石とその前に小さな鳥居があり、それを囲うように鉛筆のような御柱が立っている。
鳥居と御柱は七年に一度新しく交換するといい、地元に残る昔からの風習である。
坂を上ると、JR中央本線の跨線橋を越し、三叉路を左折して線路に沿って下っていく。

旧甲州街道は、タイヤショップの先から斜めに、 JR中央本線の線路を横切っていたのだが、鉄道ができたとき、 その道は消滅してしまった。

変電所の前で小さな阿久川を渡ると、斜め右に静かな田舎道を行く。
のぞみ大橋に向う高架橋の下をくぐると左に宮川が現れるので、 それに沿った歩いていく。
小早川橋を渡ると左側に「南無阿弥陀仏」名号碑と小さな馬頭観音像がある。
早川橋を渡ると車の行き来が多い県道197号に突き当たり、この交叉点を 直進すると向ヶ丘住宅地へ入ってしまうので、宮川に沿って左折して、県道197号に入る。
道は宮川から右に離れ、百メートルも歩くと、JR中央本線のガードをくぐる。
再び宮川に沿って三百メートルも歩くと、宮川坂室交差点に突き当たるので、 右折する。

交差点の右側には古い多数の馬頭観音と出羽三山碑、秋葉山常夜燈、二十三夜塔が並んでいる。

弓振川に架かる建倉橋の歩道橋を渡り、坂室の交差点に出る。
右の角には坂室公民館があり、その前の道を右に行くと酒室神社がある。

「 鎌倉時代から続く御射山祭り(みさやままつり)のための濁酒(どぶろく)を作るための神社で、祭神は酒解子之神(さかとけのこのかみ)である。  酒解子之神は酒解神(さかとけのかみ)の子供で、 実は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の別名である。
本殿(神殿)は文政八年(1825)大隅流の建築家・矢崎玖右衛門の建築したもので、 見事な彫刻が施されている。
境内の東の隅には、明治三十四年(1901)に発掘された雨降り塚と呼ばれる古墳がある。   」

坂室交差点に戻り、道は北西に向かうが、 正面に見える山々は甲斐駒ケ岳に続くもので、 杖突峠を越え高遠への道、そして有賀峠を越え辰野への道がこの山々を通っている。
狭い歩道を進んでいくと、頭上に中央自動車道の大きな高架が現れる。
中央高速のガード下をくぐると、右側に「東京から192q」の標識がある。 
数分歩くと宮川交差点で、道は三方向に分かれるが、 真ん中の真っ直ぐ行く道が甲州街道である。
二分ほど歩くと交叉点で、交叉点を越えた左側に三輪神社と鈿女神社(おかめじんじゃ)がある。

「 三輪神社は古く、今から約八百十年前、 大和の三輪神社から神様を分けてもらったとあり、 宮川・茅野地区の産土神になっている。
本殿は、大隅流の建築家矢崎玖右衛門の作で、前述の酒室神社と同じである。  この建築が類を見ないもので、本殿の屋根が前方に大きく張り出しているのが特徴である。
鈿女神社は大糸線北細野駅に西にある松川村より分社したとあり、 祭神は天鈿女命である。
天鈿女命は天照大神が天の岩戸に隠れたとき、 踊りを踊り天照大神を外に連れ出した神様で、  俗に、おかめとかお多福ともいわれる。
境内にある丸い石に彫られた古い道祖神は 天鈿女命と猿田彦のカップルという夫婦道祖神である。 」

交叉点を越すと右側に味噌製造販売の丸井伊藤商店の直売所がある。
道の対面に、三階建ての宮川寒天蔵がある。
駐車場は名主を務めた五味家跡で、門前に「明治天皇茅野御小休所跡」の石碑が建っている。

「 この地に慶長の頃、千野村が形成され、 延宝六年(1678)に茅野村に改称され、間の宿として栄えたという。
明治十三年(1880)、明治天皇が山梨御巡幸の際、江戸時代に名主だった五味三郎宅で休憩し、茶の接待を受けた。 
今はその建物はなく、三階建ての蔵があるのみである。 」

すぐ先を右折した先にある曹洞宗の宗湖寺は諏訪藩祖諏訪頼忠の菩提寺である。

「 諏訪頼忠は、武田信玄に滅ぼさせた諏訪頼重の従兄弟で、 武田氏が滅亡すると挙兵し、諏訪の地を奪還したが、 徳川家康に仕えると関東へ移封になった。  その後、関ヶ原の戦いで活躍し、諏訪の地を賜り、再興を果たした。
境内には「明治天皇御膳水」の碑がある。 」

少し行くと上川橋交叉点で、観光案内の道標が建てられていて、木落しと記されている。

「 右の道に入り、中央線の跨線橋を越えると、 左側に木落とし公園がある。
目の前に小山が見える。 この山が木落しだというが以外に小さい。 
この木落しは諏訪大社上社のもので、下社より温和しい木落しとある。 
木落としが終わると、御柱は上川の川越えを行う。 」

上川橋交叉点を直進し、上川橋を渡る。
そのままいくと、茅野駅前交差点で、右手に中央線茅野駅があるが、 駅前に「姥塚古墳跡」の石碑が立っている。
姥塚古墳は八世紀末頃の築造と推定される古墳だが、 中央線の工事で取り壊されてしまった。
駅前には、ベルビアという商業施設が聳え立ち、駅はその陰で見ることはできないが、 茅野駅前交差点の左方に諏訪大社上社鳥居が見える。
鳥居の下には「官幣諏訪神社参拝道」の社標が建っている。
甲州街道はY字路茅野駅西口交差点で、左の道を進み、一本目を右折して、 県道192号を越えると左側に大年社がある。

「 大年社は諏訪大社の末社で、四月二十七日御座石神社の矢ケ崎祭り(濁酒祭り)の日、饗膳が整うと狼煙を上げ、それを見て濁酒が奉納される。  この神社は、御座石神社と同じように諏訪大社と関係が深いにもかかわらず、 御柱がなく、七年ごとに、鳥居を立て直すだけという。 」

神社の先は三叉路になっているが、突き当たりは諏訪バス営業所になっていて、 バスの出入りが多い。 
甲州街道はここで枡形となり、直角に左折し、その先で右折すると、 茅野駅西口交差点からの道に合流する。
その道を歩くと、茅野町北交差点、そして、上原交差点で国道20号に合流する。
あけぼの隧道には国道152号が通り、左は杖突峠を経由して高遠、飯田へ、 右は白樺湖を経由して大門峠から中仙道の長久保宿に通じる。
ここで寄り道をして、諏訪大社前宮と上社本宮に行ってみる。
この区間はタクシーを利用した。
諏訪大社上社前宮があるのは国道152号の高部東交叉点で車を降り、 子安神社の前を通り、南に行くと、左側に「官幣大社諏訪上社前宮」の石柱が建っている。
その先には鳥居があり、中に入ると「諏訪大社上社前宮神殿跡」の説明板が ある。

説明板「諏訪大社上社前宮神殿跡」
「 ここは諏訪大社大祝の始祖と伝えられる有賀が、 はじめて大祝の職位について以来、同社大祝代々の居館であったところで、 神殿は神体と同視された大祝常住の殿舎の尊称である。
この神殿があった地域を神原といい、代々の大祝職位式および旧三月酉日の 大御立座神事(酉の祭)をはじめ、上社の重要な神事のほとんどが、 この神原で行われた。 境内には内御玉殿・十間廊・御宝社・若御子社・ 鶏冠社・政所社・柏手社・溝上社・子安社等がある。
文明十四年(1483)正月、大祝家と諏訪惣領家の内訌による争いで、 一時聖地が穢れたことがあったが、清地にかえし大祝の居館として、 後世まで続いた。 後、この居館は他に移ったが、 祭儀は引続いて神原に於いて行われてきた。  諏訪大社上社の祭政一致時代の古体の跡を示している最も由緒ある史跡である。 
  昭和三十九年八月二十日  長野県教育委員会     」

石段を上ると十間廊がある。

説明板「十間廊」
「 古くは神原廊と呼ばれ、中世まで諏訪祭政の行われた政庁の場で、 すべての貢物はこの廊上で大祝の実見に供された。  毎年四月十五日の酉の祭には鹿の頭七十五がそなえられたが、 これらの鹿の中には必ず耳の裂けた鹿がいることから、 諏訪の七不思議にかぞえられた。 
上段に大祝の座次に家老、奉行、五官の座があり、 下座に御頭郷役人の座なども定められ、左手の「高神子屋」で演ぜられる舞い を見ながら宴をはった。 
   安国寺史友会            」

諏訪上社前宮の標石
x 前宮神殿跡 x 十間廊
諏訪上社前宮の標石
前宮神殿跡
十間廊



石段の下右側に内御玉殿がある。

説明板「内御玉殿」
「 諏訪明神の祖霊がやどるといわれる御神宝が安置されていた御殿である。 「諏訪明神に神体はなく、大祝をもって神体となす」 といわれたように、 諸神事にあたってこの内御玉殿の扉をひらけせ、弥栄の鈴をもち、 真澄の鏡をかけ、馬具をたづさえて現れる大祝はまさに神格をそなえた 現身の諏訪明神そのものであった。  現在に社殿は昭和七年改築されたものであるが、 以前の社殿は天正十三年に造営された上社関係では最古の建造物であった。 
石段の右手には御柱があった。

説明板「御柱(おんばしら)」
「 前宮一ノ御柱である。  長さ五丈五尺(約17m)目通り直径約一・二米の樅の木である。  御神徳の更新を祈る氏子の魂を結集した御柱である。  上社綱置場(御柱置場)より二十数キロの行程を数千人の氏子の奉仕により 曳行されるので、裏側は擦り減っている。  茅葺きの御宝殿と共に寅歳と申歳の七年目毎に建て替えられる御神木で、 神域の四隅に建立される。  御柱祭は天下の奇祭として有名であり、 次回の御柱祭は平成二十二寅歳に行われる。 
    諏訪大社々務所    」

石段を上ると前宮本殿がある。

説明板「前宮本殿」
「 スワ神は遠く上古の古事記、日本書記の中にみえるが、 諏訪明神の住まう所として、生き神となる諏訪大祝(おおはふり)の居館を存し、神秘にして原始的なミシャグジ神を降ろして諏訪明神の重要な祭祀・神事を 取り行った聖地である。  四方に千古の歴史をきざむ御柱を配し、 精進潔斎に浴した水眼の清流をひかえて鎮座する前宮本殿は、 その古姿を伝えながら昭和七年に改築された。   
   安国寺史友会            」

諏訪大社は古代から大祝が諏訪明神の現世神として神格され、 諏訪の領主であり、祭主の政教を一元化していた。  その為、大祝が居住するところが神殿になっていた。
その残滓が前宮にある。
 

内御玉殿
x 前宮一の御柱 x 前宮本殿
内御玉殿
前宮一の御柱
前宮本殿



諏訪大社上社本宮へは国道152号の高部東交叉点から西に県道16号を行き、 西沢川橋を渡り、三叉路で県道と別れ、左の道を進むと神社前バス停に着く。
中世になると、大祝の居館が宮田渡に移り、江戸時代になると藩主の諏訪家と 大祝諏方家と分かれた。 
東参道から入ると入口御門があり、その左側には出早社がある。

説明板「入口御門」
「 文政十二年(1830)建立、上社宮大工棟梁原五左衛門親貞、 弟子藤森廣八が構築をし、巧微な彫刻が施されている。
   諏訪大社          」

その先の右側に二の柱、その奥に勅使殿と五間廊があり、 左側には摂末社遙拝所と絵馬堂、その奥に東御宝殿と大国主社がある。
御手洗川を渡り、二の鳥居をくづると、布橋という廊下を通る。
かって大祝が通った折に、布が敷かれていたことからその名が付いたという。
の先が四脚門と西御宝殿があり、奥は斎庭になっている。

説明板「四脚門」
「 寛永十三年(1636) 徳川家康が寄進したもので、江戸初期の特徴をよく 表現しており、国に重要文化財である。
かっては大祝(おおほうり)が硯石と呼ばれる磐座へ登るために使った門だが、 現在は神社の祭日に、御輿、神官・行列などの通過を許すだけで、 平素誰も通さないことになっている。 」

入口御門
x 上社布橋 x 四脚門
入口御門
上社布橋
四脚門



斎庭に入ると、国の重要文化財に指定されている幣拝殿がある。

「 拝所との間に広い庭がある。 斎庭(ゆにわ)と呼ばれる 禁足地になっている新鮮な場所である。 正面の拝殿は、後ろの扉の前に幣帛を置くので、幣拝殿という。  この奥に、普通の神社は本殿があるが、上社にはない。
幣拝殿の左右に片拝殿、その奥は神居である。 
私事の祈祷をおこなう場所は「勅願殿」で、幣拝殿は恒例祭典や重要神事を 行う場所である。
この建物は天保六年(1834)に上棟式をしており、工匠は上諏訪の人、 幕府から内匠の称号を許された名匠二代立川和四郎富昌の作である。  拝殿と幣殿をつづけ本殿を設けない諏訪社様式で、 安定よく彫刻も美しく富昌の代表作であり、また左片拝殿にみる蟇股から 脱化した粟穂に鶉の彫刻は写生に徹した富昌の至芸である  」

勅願殿はその右側の小高いところにある。
勅願とは「勅命による祈願」「天皇の祈願」という意だが、 諏訪大社上社本宮は古く「祈祷所」と記された祈祷を行う場所である。
天流水舎(てんりゅうすいしゃ)は「宝殿の天滴」で知られ、 「諏訪大神」が水の守護神として崇敬される所以となっている。

「 俗にお天水と称されるどんな晴天の日でも雫が三滴は屋根上の穴から降り落ちると云われ、諏訪の七不思議の一つである。 」

勅願殿
x 上社布橋 x 天流水舎
勅願殿
上社布橋
天流水舎(てんりゅうすいしゃ)



神楽殿は、四方吹き流し、桁行四間、梁間三間の入母屋造りの建造物で、 文化十年(1827)の建立である。
大太鼓は同時に奉納され、胴は樽と同様に合わせ木つくり、神龍が描かれている。 この大太鼓は元日の朝にのみ打たれる。

諏訪大社の参拝を終え、神社前バス停に戻ると、法華寺があり、「吉良義周の墓」の看板があった。
石段を上り、本殿の裏に行くと、説明板があり、小さな墓があった。

説明板「吉良義周墓」
「 吉良義周(1686〜1706)は米沢藩主上杉網憲の次男であったが、 父にあたる吉良義央(上野介)の養子となり、 元禄十四年(1701)吉良家を継いだ。  元禄十五年十二月十四日、赤穂浪士による江戸本所の吉良邸討入りに遭遇し、 自身も手傷を負う。 翌年、評定所に呼び出され、 大目付より「仕方不届」として領地召上を申し渡され、 諏訪安芸守忠虎(四代高島藩主)へ、預けの身となった。  高島城南之丸へ囲まれた義周への処遇は、 丁重かつ儀礼を尽くしたものであったことが伝えられている。  しかし、配流から三年後の宝永三年(1706)一月二十日、 二十一歳の若さで病死してしまう。  幕府による検死の後、同年二月四日、法華寺裏手に埋葬された。  墓石には「室燈院殿岱嶽徹大居士 神儀宝永三水之丙戌天正月廾日」 と 刻まれている。
諏訪市指定史跡 指定昭和54年2月15日 諏訪市教育委員会    」

隣に 「追慕 吉良左兵衛義周公  吉良町」の石柱が建ち、 「吉良義周公に捧ぐ」の説明板があった。

説明板「吉良義周公に捧ぐ」
「 義周公未だ赦されず、ひとり寂しくここに眠る。  公は上杉網憲(吉良上野介長男)の第二子として生をうけ、 五歳にして上野介あとつぎとして吉良家の人となった。  名門の血を継ぎ、優れた才能を持ち、 将来を期待された義周公に突然不幸が襲った。 元禄事件である。  世論に圧されて、いわれなき無念の罪を背負い、 配流された先でつぎつぎに肉親の死を知り、悶々のうちに若き命を終えた。  公よ、あなたは元禄事件最大の被害者であった。
しかし、ここに幽閉の二年有余、高島藩主忠虎公をはじめ藩の手厚いご対応、 また当法華寺十一世春巌和尚の温かなご配慮に、 われら吉良町民はせめてもの慰みを覚えるのである。 公よ、安らかに眠り給え。
 平成六年吉日          吉良町     」

神楽殿
x 法華寺 x 吉良義周墓
神楽殿
法華寺
吉良義周墓



 

街道に戻る。

上原交叉点から二百五十メートル位歩くと、 上原八幡交叉点で、八幡前バス停の左側に八幡神社がある。
八幡神社は何の変哲も無い小さな神社だが、その歴史は古い。
境内には、当時の参道と駕籠置石が残されている。 

「由来碑」
「 鎌倉時代に鎌倉鶴岡八幡宮から勧請し創始された神社である。
高島藩主諏訪氏が江戸参勤の際は、城からこの神社までは騎乗できて、 下馬後道中安全を祈願し、旅支度を整え、駕籠に乗り換えて、江戸に向かった。  帰りもこの神社前まで駕籠できて、ここから馬に乗り換えて城に入ったといわれる。 
境内には男女双体道祖神、奉納六部供養碑、喜永元年(1624)建立の秋葉山常夜燈等がある。 
八幡神社の左手に「光明寺跡」の石碑が立っている。
光明寺は八幡神社の別当寺であった。

上原から頼岳寺入口までの国道沿いには、いろいろな名前の小路が並んでいる。
ENEOSのスタンドを過ぎると、「鍛冶小路」の標石がある。  この小路に入ると右側に「金剛寺跡」の石碑があり、JR中央本線を越えた先には 千鹿頭神社がある。 

「 千鹿頭(ちかとう)神社は狩りの守護神で、 諏訪神社上社御頭祭に奉納される鹿を供する神社である。 」

新井バス停脇の石垣上に「塔所小路」の標石がある。
足元には男女双体道祖神がある。
この小路が上原城口である。
塔所小路に入りJR中央本線の踏切を渡ると筆塚がある。
更に進むと土道になり、坂道を上って行くと、 「上原城諏訪氏館跡」の石碑が建っている。
碑から南の平坦地一帯が諏訪氏の館跡である。

「 諏訪頼重は武田信玄の姉を妻としていたが、 義理の弟の信玄に攻め滅ぼされてしまうことになる。 一方、武田勝頼の母は信玄の側室である諏訪頼重の娘、諏訪御料人である。 」

車道を越えると、土道の上り道の先に鳥居がある。  ここが上原城の入口で、永明寺公園の一角にある。
諏塔所小路から、山道を登った二キロ程の距離にある。

「 上原城は文正元年(1466)に諏訪信満が築いた山城で、、 諏訪地方を治めた諏訪氏が五代七十余年にわたって君臨した城である。  諏訪氏滅亡のあと、武田氏の譜代家老板垣信方が諏訪郡代として入城し、 武田家の信濃領国支配の拠点となるも、武田家が滅亡すると、天正十年に廃城になった。
現在は、主郭、土塁、二の郭などの遺構が残っていて、 県の史跡に指定されている。 」

播磨小路というのもあった。 
その先の上原頼岳寺交差点の角には柿澤翁、土橋翁の筆塚がある。 
交差点を右折すると山の中腹にある頼岳寺へ行ける。
甲州街道は交差点を越え、左側のダイヤ精工の工場の門を過ぎたら 右側のスバル販売店と「甲州街道・渋沢小路」の道標を右折する。
右側に上原郵便局があり、JR中央線のガードをくぐる。
次第に上り坂になり、左に大きくカーブし、大門追分の三叉路に出る。

「 大門街道はここから矢ヶ崎を通り上川沿いに渋川に出て、 柏原を経由して大門峠に通じる街道で、現在の県道192号である。 」

三叉路には道標と常夜燈が建っている。
常夜燈には 「右東京 左大門道」とあり、  道標の正面には 「右江戸道」 、左側面には 「左山浦道」 とあり、 その後の大きな道標には、「右江戸道」と書かれている。
甲州街道はこの三叉路を左折するが、右折して大門道を行くと、頼岳寺がある。

「 曹洞宗少林山頼岳寺は江戸初期の寛永八年(1631)の開創で 高島藩の初代藩主、諏訪頼水が開基で、諏訪家の菩提寺である。  諏訪氏は代々、諏訪大社の大祝を務めてきた家系であり、また、源氏や北条家の御内人として当地を支配してきた。  諏訪頼重の死後、諏訪宗家は断絶したが、従兄弟の頼忠は、武田家滅亡後、徳川家康に仕え、諏訪氏を再興した。  その子、頼水は関ヶ原で功をあげ、高島藩三万石の大名の処遇を受け、諏訪氏は 江戸時代を通じての諏訪地区を支配した。 」

山門の先の杉並木参道を上ると、本堂にいく途中の左側にある池の上に、
芭蕉句碑 「 名月や 池を巡りて 終夜(よもすがら) 」 がある。
本堂の裏山に頼忠(永明寺殿)、同夫人(理昌院殿)、頼水(頼岳寺殿)の墓がある。 

街道に戻り、大門追分を過ぎると右側に「甲州道中」の標石がある。
ここで茅野市ちのから諏訪市大字四賀に変わる。
赤松の右手に長方形の常夜燈があり、その先の右側に火燈(ひとぼし)公園がある。

「 諏訪神社へ奉納する行事で、御柱の年の盆(七月十五日)の夕方、 公園の右後方の山(頼重寺の裏山で前山の峰)に近い火燈場で、 諏訪大社への鳥居火が灯され、左側には三ッ星の大きなかがり火が焚かれる。  点火の合図は国道沿いの五王ノ鬼塚で、ここで合図の松明が点灯すると、 鳥居と三ッ星に一斉に点火される。 」

公園の先右側に曹洞宗神向山頼重院がある。
参道には「上原城主諏訪頼重公廟所」の石碑がある。

「 頼重院は諏訪頼重の菩提寺で、頼重の本墓は甲府の東光寺にあるが、 ここには遺臣がひそかに遺髪を持ち帰って葬ったといわれ、供養塔がある。 」

供養塔の傍らに新田二郎の 「 陽炎(かげろう)や 頼重の無念 ゆらゆらと 」 が ある。
左側に神戸公民館、その先の右側に秋葉山大権現常夜燈と男女双体道祖神がある。
頼重院から十数分歩くと、右側が一里塚バス停、左側に「一里塚跡」碑がある。

「 明治時代に取り壊されてしまった神戸一里塚の跡で、 江戸から五十一里の場所であるので、五十一里塚とも呼ばれていたという。  」

更にすすむと、立畷川バス停の先の左側、ゴミ置き場の陰に、巨大な秋葉山常夜燈 と道標「 左江戸みち 右大明神江 」 がある。 道標は諏訪方面を向いており、諏訪からは左方向が江戸になる。
道沿いに信州特有の雀返し(家)おどり と呼ばれる棟飾りの旧家がある。
四賀桑原の集落を抜けた辺り、霧ケ峰入口交叉点手前でみえる右手の小山が桑原城跡である。

「 諏訪頼重が上原城の北の備えとして設けたものである。
武田信玄の猛攻に対し、頼重は上原城を自ら焼き払い、桑原城で籠城した。  戦意を喪失した頼重は、信玄の和睦に応じ、躑躅ヶ崎に同行し、東光寺に幽閉され、 謀られたと気付いた時は遅く、自刃させられた、と伝えられている。 」

四賀桑原交差点の先の三叉路を右にいったところに足長神社があるが、長い石段の続く大きな神社である。

「 諏訪大社の祭神に随神する足長祭神を祀っている。  上桑原村の産土神、足長とは八岐大蛇神話の足摩乳命のことである。  拝殿は天保十二年(1842)の建立で、神楽殿は文久二年(1862)の建立である。 」

甲州街道は直進する。  四賀集落は六百メートル程続くが、この辺りは車の往来も少なく、 雀おどりを付けた家もあり、信州らしい風情があった。
右側に石祠に納まった男女双体道祖神があり、その後に秋葉山常夜燈がある。
川を渡ると、秋葉山常夜燈と男女双体道祖神があったが、 川が村の境だったのだろう。
右側の岩窪観音前バス停には「岩久保観音」碑と石仏石碑群がある。
左側の火の見ヤグラを過ぎると、左から道が合流してくる。 
細久保バス停を過ぎると右側の武津公民館の前には、 祝言道祖神といわれる男女双体道祖神と秋葉山常夜燈が建っている。  その奥に、「こんぼった石」という、親が漁に出ている間子供が遊んだという石がある。
旧道赤羽根バス停を過ぎると道は左にカーブし、その先で国道20号に合流する。 
清水1.2丁目交差点の手前には崖屋造りの家があり、 中山道の木曽福島宿を思い出させた。 
清水1.2丁目交差点の右の細道には清水町清水があり、さらに進むと高島城殿様御膳水 がある。 
明治天皇が御巡幸の折、供されたので、明治天皇御膳水碑が建っている。



上諏訪宿

元町交差点のあたりが上諏訪宿の東口である。

「 上諏訪宿は諏訪大社の門前町であり、また、高島藩三万石の城下町でもあった。  家数二百三十二軒、人口は九百七十三人、 本陣が一、問屋一、旅籠が十四軒で、この周辺では韮崎宿に近い規模である。 
上諏訪宿の長さは五町余(560m程)で、商人町の清水町、角間町、上町、中町、 武家町の本町、片羽で構成されていた。 」

この地は、室町期にこの地方を支配していた諏訪氏の本拠地で、 諏訪宗領家が武田氏に滅ぼされるまで諏訪地方の中心地だった。

五街道細見には 名所図会として、「 下諏訪へ三里。  古来より申し伝ふる七不思議という事あり。  御渡り、八栄鈴、御作田、浮島、根入松、御射山、湯口清濁等なり。  御渡りとは、信濃は日本にて最地高くして、寒気深き国なる故、諏方の湖の上に、 冬はじめて氷はりて、第三日、もし薄ければ第四、五日の頃、上の諏方より下の諏方の 方に、横巾五尺ばかり、大なる木石などの通りたる如く、氷の上にあと付きて見ゆる。 これ例事必ずあり、奇怪の事なり、これを御渡りといふ。  また神先ともいふ。 此の御渡りありて後人わたる。 御渡りなき内は渡さず、 氷薄き故なり。   」 とある。 

元町交差点で道は二手に分かれるが、どちらも甲州街道である。
この分岐点に「十王堂跡」の石碑がある。

「 高島藩初代藩主諏訪頼水の娘・亀姫は嫁ぎ先で、 書状を下男に託したところ、日頃から折り合いが悪かった下男が書状を川に捨て、 永明寺に駆け込んだ。 頼水は下男の引き渡しを寺に要求したが、 寺はそれを拒否したので、頼水は寺を焼き払い、下男の頸を刎ね、ここに捨てた。  地元民は祟りを恐れ、お堂を建立し、亡者の裁きをする十王を祀りました。 」

元町交差点の手前右側には天保十二年(1841)の創建の片間天神社がある。
道の反対、左側に銘酒真澄で有名な蔵元宮坂酒造である。。
寛文二年(1662)の創業で、高島藩の御用酒屋を勤めた。  真澄の名は諏訪大社の宝物の真澄の鏡に由来する。
交叉点で右手の裏道に入ると、寺町というか、多くの寺院がある。 
貞松院は文禄二年(1593)、高島藩初代藩主諏訪頼水の開基で、 頼水の正室の戒名貞松院殿による。

「 頼水の正室は三河岡崎藩初代藩主本多康重の長女で、 家康の御声掛かりで、頼水の夫人となった。 良妻賢母の誉れ高く、 高島藩三百年の安泰の基礎を築いた内助の功が多大であったといわれる。  正保二年(1645)に亡くなると、嫡男の二代目藩主忠恒が遺言により、 この寺に葬り、伽藍を修復し、母を中興開基に定めた。  その際、慈雲院だった名を、貞松院に改名した。 」

貞松院の墓所には松平忠輝の墓がある。

「 松平忠輝は、徳川家康の六男で江戸で生まれ、三河松平家を継ぎ、 十九歳で越後高田藩六十一万石の大名となった。  大坂夏の陣では大和から大坂城を攻める総大将を命じられていたのに、 遅参して参戦できなかった。 それにかかわらず、大坂城を所望したため、 家康の逆鱗にふれ、改易となった。 忠輝は宗国を転々とした後、 諏訪頼水の預かりとなり、高島城南の丸へ幽閉され、天和三年(1683)九十三歳で亡くなった。 」

路地を奥に進むと正願寺がある。 河合曽良の菩提寺で、場内に曽良像、 墓地に河合曽良の墓がある。
六十二歳で辞世の句 「 春にわれ 乞食やめても 筑紫かな 」

「 河合曽良は諏訪下桑原の生まれ。 松尾芭蕉の門人となり、 奥の細道に同行した。 晩年は幕府巡見使として、九州熊本、壱岐に渡るが、 宝永七年(1710) 長崎県の隠岐で病没。 
生まれ故郷の諏訪にひっそりと墓石が建てられていた。

貞松院の隣に日蓮宗高国寺がある。

「 高国寺は寛永元年(1624)の創建で、 後に高嶋藩三代目諏訪忠晴の生母永昌院によって再建された。 」

表通りの国道を進むと、角間橋を渡ると左手に八剣神社がある。

「 諏訪湖の神事、御神渡りの際、神社の神職が検分し、 御神渡りの方向で農作物等の 吉兆が占われ、諏訪大社上社に注進される。  諏訪大社はその内容を朝廷と幕府に報告される慣例になっている。 」

その先は銘酒の醸造元が軒を連ねている。
銘酒横笛の蔵元伊東酒造は造り酒屋らしからぬ建物である。 
道路反対側の本金酒造は宝暦六年(1765)の創業である。 
鍵之手交差点は枡形跡である。 
交叉点の右手に銘酒麗人の蔵元酒造がある。 寛政元年(1789)の創業である。
で、その先には舞姫酒造があった。 

諏訪1・2丁目交差点の右側に「上諏訪町」道路元標がある。
諏訪中央駐車場の辺りが問屋場跡である。
貞亨二年(1685)以降、代々小平家が問屋を務め、本陣を兼ねた。

諏訪1・2丁目交差点を左に入り、しばらく行くと高島城がある。

「 高島城は、豊臣秀吉の家臣で、 安土城や大坂城の築城にも携わった築城の名手・日根野高吉により、 文禄元年(1592)から慶長三年(1598)までの七年かけて築城された。 
築城当時の高島城は本丸、二の丸、三の丸、衣之渡郭をほぼ一直線上に配置した連郭式の城郭であった。
中門川、衣之渡川などの川を堀とし、 諏訪湖と阿原(沼沢地)に囲まれ、 大手門から縄手(欅並木)だけが城下に通じていた。  城の際まで諏訪湖の水が迫り、湖上に浮いて見えることから、 諏訪の浮城とも呼ばれ、 また、「 諏訪の殿様よい城持ちゃる うしろ松山 前は海 」 とも歌われた、 難攻不落の水城であった。
  関ヶ原合戦後、日根野氏は下野国壬生に転封になり、諏訪頼水が入城し、 十代藩主諏訪忠礼まで二百七十年、諏訪氏の居城となった。  明治八年(1825) 廃藩置県により、高島城は廃城になり、建物などが壊され、 現在残る遺跡は本丸跡の高島公園だけである。  」

現在ある構築物は最近のものである。
本丸に入る門は冠木門で、冠木橋と共に復元されたものである。 
本丸を囲む水堀は紅葉が美しい。
門の石垣前にある説明板「高島城本丸の堀と石垣」

「 天守閣の石垣と本丸の正面と東側の石垣は規模が大きいが、西側と南側の石積みは簡単なものであった。
衣之渡郭、三の丸、二の丸などの石垣も比較的小規模である。
石垣は野面積みで、稜線のところだけ加工した石を用いている。
地盤が軟弱なので、沈下しないように大木で組んだ筏の上に石垣を積んでいる。 」

説明板からは築城時の困難さを感じることができた。
撤去された天守閣は、昭和四十五年(1970)に復興された。

冠木門
x 水堀と櫓 x 天守閣と石垣
冠木門
水堀と櫓
天守閣と石垣



街道に戻ると、諏訪1丁目交差点の八十二銀行の前に、「史跡虫湯跡」の碑がある。
虫湯は蒸湯とも呼ばれ、武家専用で高島藩主もこの湯で入浴潔斎後、寺社へ参詣したと いわれる。
T字路に出てると、ここが裏道との合流点である。
甲州街道はここで左に向うが、右折すると左側の高台に手長神社がある。
手長神社の手水鉢の水は、なんと源泉掛け流しだった。 

「 手長神社は 古くから領主、武家や庶民からの崇敬を受け、 高島城の鬼門に位置することから諏訪藩家中の総鎮守とされた神社である。  祭神は手摩乳命(てなづちのみこと)だが、別名を手長彦神といい、 諏訪大社の祭神の建御名方神に随従する神であるという。 
建御名方神が諏訪大社に祀られる以前からこの地で信仰されていた神とされ、 日本神話では、建御名方神の先祖の奇稲田姫の母神の名として登場する。 
最初は桑原郷の総鎮守で、足摩乳命とともに祀られていたが、 鎌倉時代に桑原郷が上桑原と下桑原に分けられたとき、 下桑原に手摩乳命を祀る手長神社が作られ、 上桑原の足長神社とともにそれぞれの鎮守とされた。 」

上諏訪宿はこのあたりで終わる。



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かうんたぁ。