下諏訪宿は、上諏訪宿より一里十二町(約5.3km)のところにあり、 本陣は1、脇本陣も1の規模であったが、 高島藩の城下町、諏訪大社の門前町、そして温泉町、そして、中山道第二十九番目、そして甲州街道(甲州道中)の追分の宿場として賑わいを見せていた。
上諏訪宿から下諏訪宿
長野地方裁判所前の交差点を北に向かって進むと、
右側に諏訪教育会館があり、その先の片羽保育園に樹形の美しい吉田の松がある。
「 高島藩士吉田式部彦左衛門が元禄三年(1690)から享保八年(1723) の間、四代藩主諏訪忠虎の大坂城主守備に随行した。 、諏訪に赤松がなかった頃で、 吉田の松はその際、持ち帰った赤松が祖先である。 」
すぐ先左、うっかりすると見落としてしまいそうな民家の陰に「一里塚跡」の碑がある。
下桑原の一里塚跡で、江戸日本橋から五十二里目である。
向かいに用水があり、水神が祀られている。
裁判所から六百メートル程いくと、湯の脇2バス停の先で道が大きく右にカーブし、
その先で左右に道が分かれている。
左が甲州街道で、右の坂道を上っていくと諏訪家の菩提寺・温泉寺があるが、
三叉路に指月庵がある。
「 指月庵は高島藩主は菩提寺である温泉寺へ墓参りの際、虫湯で入浴潔斎し、ここで休憩したところである。 」
温泉寺は高島藩二代目藩主諏訪忠恒により、慶安二年(1649)に
創建された臨済宗の寺院である。
右の坂道を上っていくと左手に駐車場があり、「温泉寺」と書かれた石碑が建っている。
「 石段を上がり、山門をくぐると正面に本堂、左に客殿や庫裏など、
右手に経蔵があった。
山門は明治二年の火災で焼失したが、その後、高島城の大手門が移築された。
本堂も明治二年の火災で焼失したが、文政十年(1827) 高島藩八代目藩主
諏訪忠知の時、造られた能舞台を移築したものである。
梵鐘は、織田信忠軍が天正十年(1582)に伊那郡市田村の安養寺から略奪し、
上之諏訪(神宮寺)まで引きずってきて陣鐘に使用したがが、
戦い後捨てていったものを寺の創立の際に流用したと伝えられている。 」
本堂の右手を上っていくと諏訪家累代の墓地があるが、
手前には和泉式部の墓があった。
和泉式部という女性は恋多いひとだったが、それゆえか各地に墓と伝えられるものがある。
街道に戻り、左の道を百メートルもいくと、右手に秋山歯科病院があり、
そこで左にカーブするが、ふれあいの家バス停の先を右に入ると、
下桑原の鎮守・児玉石神社がある。
鳥居横の大杉は樹齢二百五十年とあり、神社のご神木である。
「 この神社の創建時期ははっきりしないようだが、 古書に「下桑原鎮守大矢小玉石湯之権現として、住民の崇敬を集めていた」 とあることから古いことは間違いないだろう。 祭神は児玉彦命、玉屋命だが、 児玉彦命は建御名方命の御孫にあたる神である。 境内には五個の大石があり、諏訪の七石の一つとなっているが、 特に拝殿前の二つの大石は御祭神の御霊代といわれ、いぼ石と呼ばれてきた。 大石には沢山の窪みがあり、常に水をたたえて乾くことがないといわれる。 また、いぼを窪みの水で洗うと必ず治癒すると信じられきた。 」
街道を進むと、右手奥には白山神社がある。
十分も歩くと、右側に参道口の用水に橋が架かっていない先宮神社がある。
「 先宮神社は、古くは鷺宮神社と呼ばれ、
旧大和村の鎮守だが、諏訪大社より創建されたのは古いと伝えられている。
古事記や日本書記には出雲国の誕生に関連して、
「 天照大神の孫、瓊瓊杵尊の降臨に先立ち、武甕槌命(たけみかづちのみこと)が、
出雲を支配していた大国主命に出雲国を譲るよう迫った。
大国主命の長男の建御名方命は、国譲りに反対し、武甕槌命と相撲をしたが、
負けてしまい、大国主命は国譲りを認めた。
反対した建御名方命は科野国州羽海(信濃国諏訪湖)まで逃れたが、ついには降参し、
この地を出ないことで許された。
建御名方命は、その後、信濃の国つくりの神として崇敬され、
諏訪大社が誕生した。
以上が古事記や日本書紀にあるものである。 」
先宮神社に残る伝説は、建御名方命が諏訪に来た時の話である。
「 建御名方神が諏訪に攻め入った時、 この神社の祭神である高光姫命を首領にいただき、 大和村の住民達は、抵抗したが、遂には服従することになった。 その際 「 社地から出ることは許されない。 川に橋を架けることはできない。 」ということで講和が結ばれた。 」
拝殿横の大ケヤキは樹齢六百九十年以上である。
街道脇には寛永五年(1628)建立の男女双体道祖神がある。
その先枯れた大ケヤキの所に
「甲州街道」の標石、津島牛頭天王、男女双体道祖神等がある。
さらに進むと右側に天保十年(1839)建立の北村中と刻まれている常夜燈がある。
先宮神社から七百メートル程歩くと、右奥に清谷山寿量院阿弥陀寺寿量院がある。
武居酒店の角から、急な下り坂越しに初めて諏訪湖の湖面が見えた。
諏訪市大和から諏訪郡下諏訪町に入る。
旅館山水の前に差し掛かると道は急な上りになるが、
旅館山水、ホテル野路と回りこんで行くと道は平らになり、
左手に湖面が広がった。
狭い土地をも活かした千枚田(枚数は少ないが)が美しく、
大きな建物はエプソン高木事業所で、
その向こうに中央本線、国道20号が通り、更に向こう側に湖面が広がる。
諏訪湖が時々左手に見えるような高台を歩くと、左側に「茶屋橋本家跡」の石碑があり格子戸の素敵な古民家には鯉の彫刻が施されている。
「 諏訪湖で獲れた鯉が名物で、高島藩主もここに出向き、賞味したといわれる。 建物の左の門は高島城三の丸の門を移築したものである。 」
その先には、道祖神がいくつかある。
十分ほど歩くと、右側に「明治天皇駐輦趾」の碑とその横に「諏訪八名所石投場」の碑がある。
「 明治十三年(1880) 明治天皇御巡幸の際、ここから漁民達の投網を
上覧された。
往時は諏訪湖が真下まで迫っていたので、旅人は湖面に石を投げ、打ち興じたと
いわれる。 」
石投場からは上り坂で、登りきると「甲州道中一里塚」と力強く刻まれた石碑が建っていた。
植木に囲まれた場所にあるので、うっかりすると見落としそうな場所にあるが、江戸日本橋から五十三番目の富部の一里塚の跡である。
右側に「若宮神社」の社標があるが、神社は山中にある。
更に進むと、宮坂建具店の手前に小さな川があり、承知川を渡る。
ヤマザキYショップの先へ行くと、右側の石垣に「承知川橋」の記があり、
橋石は久保海道公会所の石垣に埋め込まれていた。
「承知川橋の記」
この一枚岩は長く甲州道中の承知川にかかっていた橋石である。
輝石安山岩 重量約拾参屯
伝説によると 「 永禄四年(1561) 武田信玄が川中島の戦いの砌、
諏訪大明神と千手観音に戦勝祈願し、
社殿の建替と千手堂に三重の塔の建立を約して出陣した。
しかし、戦に利あらず帰途この橋を通過せんとしたが、乗馬は頑として動かず、
信玄 ふと先の約定を思い出し、馬上より下りて跪き、
「神のお告げ承知仕り候」 と申上げ、帰国した。
爾来 承知川と呼び、この一枚岩の橋を承知橋と呼ばれるようになった。 」
と伝えられている。
この一枚岩の煉瓦模様は防滑とも又信玄の埋蔵金の隠し図とも言われて来た。
表面がこのように滑らかになったのは人馬など交通が頻繁であったことを物語っている。
この度新橋掛替に当たってこの橋石を永久に此処に保存する。
昭和五十二年 久保海道町 」
承知川を渡ると久保海道に入る。 道は大きく右にカーブし、上り坂になる。
交叉点を右折し、石段を上るとホテル山王閣がある。
ここは霞ヶ城跡で、駐車場に手塚別当金剃光盛の銅像がある。
坂を上りつめると諏訪大社下社秋宮である。
「 諏訪大社は我が国最古の神社の一つであり、
古来、諏訪大明神、諏訪南宮大明神などと称したが、
延喜式の神名帳に「南方刀美神社(みなみかたとみのかみのみやしろ)二座 」
と記されているのがそれとされる。
信濃国一之宮として 広く天下の崇敬を集め、御神徳を奉じ分社・分霊を祀ること、
全国津々浦々に五千社以上に及ぶとある神社であるが、創建時期ははっきりしない。
諏訪大社は上社の本宮・前宮、下社の春宮・秋宮の四つの神社を合わせて、
一社となっている。
主祭神は建御名方命(たてみなかたのみこと)と八坂刀売命(やさかと めのみこと)であるが、上社は建御名方命、下社は八坂刀売命を主祭神としている。
真冬、諏訪湖が全面結氷し更に寒気が襲ってくると、湖面に亀裂が入り轟音とともに氷がせり上がる現象を御神渡り(おみわたり)と呼び、
男神の諏訪大明神(建御名方富命)が女神(八坂刀売命)のもとへ渡った跡と信じられ、
諏訪七不思議の一つと言い伝えられてきた。 」
諏訪大社下社秋宮は諏訪大社四宮の一つで、
祭神は大国主神の子・建御名方命の妃八坂刀売神で、
社殿に神様がいるのは八月から翌年の一月までで、
二月から七月までは春宮にいることになっている。
駐車場右手の鳥居をくぐると天保六年(1835)建立の三方切妻造りの神楽殿がある。
左右の青銅製の狛犬は青銅製では一番大きいといわれる。
説明板「諏訪大社下社秋宮神楽殿」(国重要文化財指定)
「 この神楽殿は二代立川和四郎富昌の作である。 彼は技をすべて父にうけ、
天稟の才能と異常な努力で立川流の最高をきわめ、
幕府から内匠(たくみ)の称号を許されたほどの名匠である。
この神楽殿は天保六年(1835)富昌五十四歳の作で、父の建てた華麗な幣拝殿の前に
荘重なものをつくってよく調和させ、幣拝殿をみき立たせているところが賞賛される。 」
神楽殿の奥の建物は幣拝殿で、信濃一といわれた棟梁、 初代立川和四郎富棟の手によるものである。
説明板「諏訪大社下社秋宮幣拝殿」(国重要文化財指定)
「 この幣拝殿は安永十六年(1776)に起工同十月に落成した。
工匠は諏訪出身の初代立川和四郎富棟で、彼は当時盛んになった立川流建築を学び、
彫刻は中沢五兵衛につき、
いくつかの名建築を残した。軒まわりその他に彫刻が多く華麗なのは当時の流行であり、
それがすべて素木の生地を生かして清楚である。彫刻には独特のおおらかさがあり、
拝殿内部の竹に鶴などは代表作である。 」
六年に一度(数えで七年)御柱祭りが行われるが、
中でも一番太い御柱がこの宮の一之御柱である。
なお、御柱は社殿の左右及び社殿奥の左右に各一本づつ、
合計四本が据えられている。
鳥居横の千尋池畔には、一茶の句碑が建てられていた。
「 国中は 残らず諏訪の 尾花かな 一茶 」
御射山祭りには、全国の諏訪神社が尾花を捧げて祭りを行うそうである。
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下諏訪宿
江戸から小仏関所を通り、小仏峠と笹子峠を越え、富士山、甲斐駒ヶ岳を仰ぐように進み、諏訪湖までくると、甲州街道は下諏訪宿の追分で、五十三里余(220km弱)の旅は終わる。
国道142号を進まず、大鳥居と手水場の間に入ると、突き当たりに「番屋跡碑」があり、
下諏訪宿へ入る。
「 下諏訪宿は諏訪大社下社の門前町として古から栄え、
中仙道との追分を控え、中仙道唯一の温泉場として、大いに賑わった。
宿場の軒数は三百十五軒、人口は千三百四十五人を数え、本陣一、脇本陣一、
旅籠四十軒と多かった。 」
五街道細見には名所図会として 「 下諏訪・和田へ山路五里八町。
諏方の駅一千軒ばかりもあり。 商人多し。 旅舎に出女あり。 夏蚊なし。
少しあれどもささず。 雪深うして寒はげし。
諏訪春宮・北の坂の下り口に鎮座す。
毎年正月朔日に遷し奉る。 祭神、上諏訪と同く、建御名方命なり。 諏訪秋宮・
駅中にあり。 毎年七月朔日、ここにうつし奉る。 毎度、神輿に乗せ参らせず。
七月朔日には祭礼あり。 春宮にまします時、秋宮空社なり。
秋宮にまします時は、春宮空社なり。
名をしおふ下の諏訪は、此の街道の駅にして、旅舎多く、紅おしろいに粧うたる
うかれ女たちつどひ、とまらんせとまらんせと袖ひき袂をとりて、
旅行の人の足をとどむ。 町の中に温泉ありて、此の宿の女あないして、
浴屋の口をひらき、浴させける。 その外よろづの商人多く、駅中の都会なり。 」 とあり、下諏訪宿はこれまでの甲州街道の宿場とは異次元の世界のように描かれている。
番屋跡碑」を左へ曲がると明治六年(1873)創業の新鶴本店という和菓子屋があるが、ここの塩羊羹は絶品で、ほんのり甘しょっぱい味が緑茶によく合う。
新鶴本店は幕末尊王派で南画家の天龍道人の住居跡である。
ここで甲州街道は国道142号と合流する。
「木曽路名所図絵 下ノ諏訪宿」 にも描かれている、
綿の湯前広場が中山道との合流点で、そこが甲州街道の終点であると共に、
中山道の江戸あるいは京都への追分でもある。
ここには「神話と伝説 綿の湯」の説明板があり、
その隣に「甲州道中終点 右江戸へ五十三里十一丁
中山道 下諏訪宿問屋場址
左江戸より五十五里七丁 正面京都へ七十七里三丁 」
と書かれた石碑があり、
甲州街道の終点に問屋場があったことがわかる。
説明板「神話と伝説 綿の湯」
「 諏訪大社は、上社の本宮・前宮と、下社の春宮・秋宮の総称です。
その昔、上社に地にお住まいの諏訪明神建御名方命のお妃八坂刀売神が、
日頃御使いになっておられたお化粧用の湯を綿に浸し「湯玉」にして下社の地に
お持ちになりました。 その湯玉を置かれた所から湧いたのがこの温泉で、
綿の湯と名付けられました。 神の湯ですから新聖で、やましい者が入ると神の怒りに
触れて、湯口が濁ったといい、「湯口の清濁」は下社七不思議の一つに数えられています。
下諏訪宿は中山道と甲州道中が交わるところ、全国一万余の諏訪神社総本社の門前町で、
湯の沸く宿場として親しまれ街道一賑わいました。 下諏訪宿の中心が綿の湯界隈です。
(以下省略) 」
広場には永六助が書いた「綿の湯」の石碑と、往時の下諏訪宿を描いた絵と
「下諏訪宿 甲州道中中山道合流之地」と刻まれた石碑が建っていた。
(注)下諏訪宿には三度訪問しているが、上記の二つは同じ場所で、
下が古く上が新しいと思う。
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広場の脇の右の道を入ると、突き当たりにある、旅館、「聴泉閣かめや」は旅籠跡である。
「 本陣制度廃止後、本家岩波太左衛門の弟、芝吉氏が分家して、
本陣の一角で亀屋旅館を始めたが、現在は聴泉閣かめやとして営業している。
かめやの建物は建て変えられたので昔の建物ではないが、
分家に譲られた本陣の上段の間と中庭は当時のままのものという。
上段の間入口に、元禄時代狩野派の御用絵師が描いたといわれる「杉戸絵」が残されているという。
皇女和宮の御降嫁や明治天皇の御巡幸にも使われた。
また、多くの作家が宿泊した旅館としても有名である。 」
その隣に中山道で随一と称される庭園を持った本陣の岩波家がある。
「 下諏訪宿の本陣を任されていたのは岩波家で、 元禄元年(1688)から明治維新で廃止されるまでの三百年余り続いた。 下諏訪宿は、塩尻峠と和田峠の間にある宿場で、しかも温泉付きとあったので、 徳川将軍代々の正室や諸大名が宿泊したのは頷ける。 本家岩波家は元のままの門構えの家で中を見せてくれる。 宿の古い文書、道具などを展示していて、有料で公開している。 」
綿の湯広場まで戻り、右折すると「ききょう屋」という旅館があるが、
木曽路名所図絵に桔梗屋として描かれている旅籠で、元禄元年(1689)の創業である。
ききょう屋の前を行くと、歴史民族資料館がある。
「 下諏訪町歴史民俗資料館は、
江戸時代の宿場民家の特色を残しているといわれ、
道に面した側に「縦繁格子」をはめ、「みせ」と呼ばれる大戸の横にある広い板の間、
そして「通り庭」という、建物の内部にあって裏庭に通じる土間などがある。 」
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本陣の左手に遊泉ハウス児湯があり、その先の交叉点を直進すると、
下り坂で右側に鉄鉱泉本館がある。 鉄分の多い源泉で古い。
しばらく歩くと、右側に御作田神社があり、その先の左側に伏見屋邸があろ。
その先に変則的交叉点があるが、この辺りが中山道の江戸方入口で、番所があった。
左に入ると諏訪大社下社春宮の鳥居があった。
如木に囲まれた荘厳な雰囲気である。 中にはいると筒粥殿(つつがゆでん)があった。
説明板
「 下社特殊神事の一つであるあとます。
筒粥神事の神粥炊上げが行われる建物で、毎年一月十四日夜から十五日早朝に
かけて神職がいろりを囲み、一晩中葦筒を糸と小豆の粥に入れて炊き込み、
葦筒四十四本の内四十三本は作物の豊凶を、残りの一本は世の中を占います。 土間中央のいろりは江戸時代初期のものである。」
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中に入ると御柱や狛犬があり、神楽殿があるのは秋宮と一緒だが、 規模が小さい。 軒下注連縄を付ける様式は一緒だが、秋宮より小さかった。
「 諏訪大社下社春宮の主祭神は八坂刀売命(女神)で、 祭神がいるのは二月一日から七月まで、八月一日の御舟祭で秋宮に遷座し、 翌二月一日に春宮に帰座される。 」
秋宮の中心となる建築は、正面中央にある幣拝殿と、 左右にある廻廊形式の片拝殿、それらの背後にある、東西の宝殿である。
「 幣拝殿は拝殿と門を兼ねたような形式の建物で、
間口の柱間が一間、奥行が二間で、背後の壁面に扉口を設けている。
ニ階は四方がふきはなちで、屋根は切妻造・平入の銅板葺(元は檜皮葺)で、正面は軒唐破風をつけている。
左右の片拝殿は廻廊形式で、梁行の柱間が一間、桁行が五間で、
屋根は片流れの銅板葺である。
幣拝殿と片拝殿は安永八年(1779)に完成したと考えられ、
大工棟梁は高島藩に仕えた大工棟梁・伊藤儀左衛門の弟、柴宮(当時は村田姓)長左衛門矩重である。
幣拝殿の建築様式の特徴は建築彫刻の数の多さとその躍動感にあふれた表現
である。
正面の腰羽目の波、虹梁の上の牡丹、唐獅子。唐破風内部の飛竜、
一階内部の小壁の牡丹、唐獅子、扉脇の竹、鶏で、
名作が多く建築彫刻の名手である柴宮長左衛門の腕前がよくうかがえる。
その奥にある、東西の宝殿は葺・切妻造・平入の簡素で、
古風な形式を持ち、甲寅の七年ごとに新築する式年造替制度がとられている。
」
以上のような社殿形式は諏訪大社に特有のものであり、
また、その幣拝殿と左右片拝殿に似た形式は長野県内の諏訪神を祀るいくつかの神社でも用いられている、と説明板にあった。
ここから桔梗屋まで戻り、立町を二、三十メートル歩くと、御柱グランドパークの一角に、
高札場が復元され、法度や掟書きの木札が下げられていた。
ここが中山道の京都側の宿場の入口である。
甲州街道の旅のくくりに、日帰り温泉「旦過の湯」で、ひと風呂浴びて帰ることにした。
「 鎌倉時代、慈雲寺を訪れる大勢の修行僧のために建てられた旦過寮
の湯とのことで、湯口は58度もあり、切り傷によく効くということで、
昔、合戦で傷ついた武士が入浴して治した、と伝えられる。 」
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以上で、甲州街道(甲州道中)210kmの旅は終わりである。