金沢宿は蔦木宿より三里四町二十五間(約16.7km)の所にあった宿場で、
宿場の長さは八町、本陣が一軒、旅籠が十七軒、家数百六十軒、人口は六百二十余人だった。
設置当初は宮川と矢ノ川との扇状地、権現原平にあり、青柳宿と称していたが、
宮川の氾濫など、度々の水害に見舞われたことから、
大火で宿場が全焼したのを機会に、慶安四年(1641)に現在地に移り、
名前も金沢宿に改めた。
蔦木宿から富士見公園
平成二十四年(2002)五月十七日、蔦木宿から金沢宿を歩いた。
「 五街道細見では蔦木宿から金沢宿まで、三里四丁とあり、 「 宿場を出て橋を渡ると神代、橋を渡り、机村、尼の堂、橋を渡り、瀬沢、 橋を渡り、とちの木、松目新田(此処南の方へ富士山よく見える所なり)、 橋を渡り、御射山神戸を経て金沢宿へ至る。 」 とある。
出発は蔦木宿の町並案内板から。
国道と平行した裏道が甲州街道のようで、杉田屋のマークのついた白漆喰の倉風の家の前を通る。
民家の庭に 文久二年の 「馬頭観世音」碑、隣のは文字が風化し判読しずらいが、馬頭観音碑だろうと思う碑があった。
道の右側の火の見櫓の下のJAの脇に与謝野晶子歌碑があった。
歌碑には 「 白じらと 並木のもとの 石の樋が 秋の水吐く 蔦木宿 与謝野晶子詠 」 と書かれている。
「 明治天皇が巡幸された時使用された御膳水は、
明治三十九年頃、水道になり、樋が造られた。
与謝野晶子はそのひを詠んだものである。
昭和二十六、七年まで水道として使用されていたが、
歌碑の前の樋はその当時のレプリカである。 」
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馬頭観音碑 |
国道20号の両側が木曽街道の家並で、「木曽街道蔦木宿 若竹屋」というように、
旧屋号の標札を付けた家が並んでいた。
左側の旧屋号鹿島屋、次いて扇屋を過ぎたところで、国道を別れ、
左折した先の右側に「枡形道址」の石碑が建っていた。
これが京側の枡形道であることを示していて、
ここから南が蔦木宿である。
JAからここまで百六十メートル程の距離だった。
此処から枡形道を進む。 道なりに右折するとY字路になっていて、枡形は左に進む。
ここを右に入ると右側に宝暦十一年(1761)建立の観音講供養塔、
享和九年(1809)建立の廿三夜塔、甲子塔等石塔群がある。
枡形を進むと、右側に対の常夜燈があり、その奥に石祠道祖神、更に
奥には石仏石塔群がある。
ここは蔦木宿の入口で、悪霊の進入を見張っている。
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廿三夜塔、甲子塔等 |
道祖神前で、枡形は右折、ここを直進すると、右側に不動明王像、 文化六年(1806)建立の愛宕山大権現地蔵、安政七年(1860)建立の庚申塔、 甲子塔がある。
「 愛宕山大権現は関西を中心とする火除けの神で、
中部以東は秋葉山大権現を祀るのが一般的だが、
ここは愛宕山大権現とあったので、珍しいと思った。
甲子は甲子講のことで、大黒天を祀り、庚申講と同じようにとり行っていたようだが、全国的には少ないのではないか? 」
その奥は草に覆われて石垣が見えなくなっているが、信玄堤である。
この地が甲斐の武田領時代に築かれたものである。
街道に戻り、道祖神の前を右折すると、
ひときわ大きなサイカチの古木が二本聳えている。
この木は川除古木と呼ばれる木で、富士見町の天然記念物に指定されている。
説明板「川除古木」
「 釜無川の氾濫による水害から蔦木宿を守るために、
宿の上の入口付近につくられた信玄堤と呼ばれる堤防がある。
川除古木は、この信玄堤と共に水害から地域を守るために植えられた川除木の名残りの古木であり、
現存されているものはキササゲ一株、サイカチ二株、ケヤキ一株である。
明治三十一年(1895)の大水のときには、ここの大木を切り倒して、
集落に向おうとする大水の向きを変え、集落を水害から守ったといわれる。
(以下省略)
平成十六年三月 富士見町教育委員会 」
甲州街道は国道20号に突き当たるが、手前左の草道に入る。
ここが旧道標跡である。
左手に二本杉があり、根方に小さな石造物がある。
草地を進むと、寛政十三年(1801)建立の馬頭観音像があり、
しばらく歩くと国道に合流してしまう。
なお、合流地点には「国道20号線 東京から175q」の道路標識がある。
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二本杉 |
ここから国道の歩道を歩き、岩田屋建材の砕石工場の左の小道を下る。
左側の砂山を過ぎると、田園風景になるが、少し歩くと国道に合流する。
国道を進むと左側に石祠道祖神、庚申塔、甲子塔がある。
石塔群の裏の砂利道が電流ネットで通行不能に」なっている旧道である。
「←汀川歌碑公園 生地・歌碑」の道標ポールが立っていた。
「 森川汀川は、明治十三年(1880)のここで生まれ、
島木赤彦とともに、ふむろを創刊し、後にアララギに合流した。
生地には「汀川生家住居跡」の石碑が建っている。 」
この先、道路標識が「東京から176q」のあるあたりには、
道の左側に「白州塩沢温泉 フォッサマグナの湯→」の道標と
「信甲館→」の看板が立っている。
写真は振り返って写したものである。
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汀川歌碑公園道標 |
塩沢温泉の入口を越えると、火の見やぐらが見えてくるので、
国道を横断して、右側に移る。
一里塚は国道右側の下にあるので、
火の見やぐらの手前、大きな樹木があるところで、川の方に降りていく。
大きな樹木の傍らに建てられた石柱には「一里塚」と刻まれていた。
「 日本橋から四十六番目の平岡の一里塚で、元の位置から
耕地整理の際、約十メートル国道側に移動した、という。
塚の土盛りが小さく、国道の真下にあるので、気をつけないと通り過ぎるところである。 」
甲州街道は一度国道を東京側に戻り、国道を横断して右の三叉路を上る。
「富士見市 机→」の道標がある。
この道は国道の上を国道に沿って続いている。
眼下に田植えの終えた田が広がる。
その中に、木が数本、説明板と石碑が見える広場がある。
そこは明治天皇が巡幸された時、休憩されたところで、
石碑には、「明治天皇巡幸御野立所」 と記されていて、時は 「明治十三年六月二十三日」 である。
小生は地元のガイドの紹介するこの道を歩いたが、
明治天皇巡幸御野立所の場所には、
一里塚の先の火の見やぐらでから用水に沿って下り、
突き当たりを右折して進むと左側にあるようである。
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田園風景 |
その先左に道がカーブし、その後、右にカーブするが、
そこに「諏訪大明神供養塔」が建っている。
小さな川を渡ると、「農免道路 ↑小渕沢9q↑信濃境3.3q0.2q平岡→」 の標識がある交叉点に出た。
交叉点を越えて少し行くと、右手の小高いところにJA信州諏訪がある。
その手前に石塔群があった。
坂道を下るが、ここは机集落で、数百メートル続いている。
左手奥に落合小学校と保育園があるが、落合小学校は古い歴史を持つ。
「 明治六年に易知学校として誕生、 明治七年に落合村の合併で沢良学校、明治二十年に現在の名前に変更した。 」
その先に大きな忠魂碑と愛馬記念碑が建っていた。
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石塔群 |
小さな川に架かる矢の沢二号橋を渡る。
ここからけっこう急な上り坂になる。
坂の頂上の裏の崖上に奇岩のかぐら石があり、
信玄直哉碑という「机村と瀬沢村の境界を信玄が元亀三年に定めた」という碑があると
いうが、どこにあるか確認できなかった。
頂上から左にカーブし下るが、眼下には国道20号、その奥の山間には釜無川が流れている。
道の左側、ガードレールの下には大きな「大勢至菩薩」塔、小さな馬頭観音文字碑、
馬頭観音像二基、七面大明神塔が祀られている。
カーブする坂道を下って行くと、「逢沢大橋」の標識のある三叉路に出た。
左右は国道20号、右折して国道に入る。
写真は振り返り写したので、東京方面になっているが・・・
国道を歩くと橋の川の名に立場川と標示されているが、逢沢大橋を渡る。
国道に横断歩道のラインがあるので、これで国道の反対側に移る。
左の道に入りると、ここが瀬沢の枡形で右折し、突き当たりを右折する。
この集落は旧瀬沢村、甲州街道の立場になっていたところである。
上り坂を進むと左側に瀬沢郵便局があり、
その先の左側に天保十三年(1842)建立の諏訪神社常夜燈と男女双体道祖神が祀られている。
その奥に諏訪神社がある。
右側には吉見屋があり、その先が三叉路になっているが、
右側角に小さい道標がある。
古くて字が摩耗していて、読めなかったが、「○○○の下に左旧道右○○」と
書かれていた。
この石は「追分石」と呼ばれるものらしい。
道を直進すると右側に諏訪神社の木落としに使用された「めど」が飾られた家があった。
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追分石 |
右下の家は漆喰壁の家なので、古い家と思った。
更に上ると、三叉路の左側の石垣の下に供養塔や道標「左スワ右山瀬」の道標などがある。
上り坂を進むとY字路があり、左の道を行く。
右に行くと国道20号に出て、地下道で横断すると「瀬沢古戦場跡」の石碑と説明板があるというが、寄らなかった。
「 天文十一年(1542)二月、 信濃の諏訪氏ら四氏連合(諏訪、小笠原、木曽、村上)が、 家督相続したばかりの武田晴信(後の武田信玄)と戦い、手痛い敗戦を負った地である。 連合軍は甲信国境の当地(瀬沢)から攻めようとしたが、 その動きを察知した晴信によって、奇襲され、信州連合軍は千六百七十一人の死者を出して、敗走した。 戦場になったのは瀬沢を中心に、新田原から横吹きの広い範囲であったようで、 武田軍も多数の戦死者を出し、九つの塚に埋葬されたと伝えられる。 」
坂を上り、小川を渡る。
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供養塔と道標 |
突き当たりの三叉路をを右折すると、ここから坂が急勾配になる。
坂の途中の左側に、文政元年(1818)建立の馬頭観世音碑、馬頭観音文字塔、庚申塔甲子塔などが叢の中に隠れるように建っていた。
江戸時代の馬もこの急坂ではばてて倒れたのではないか?
右側に展望が開け、下方には川が流れていて、その先に国道、遠方に八ヶ岳が見える 。
「坂本」という看板の手前の左側の小高いところに、
享和二年(1802)建立の観世音碑と傍らに馬頭観音像や馬頭観音文字塔があった。
当時はあの高さに道があったのだろう。
道は大きく左にカーブすると、林道になる。
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観世音碑 |
坂を上りきると、道の右側の角に享保二年(1717)建立の地蔵像や
日本廻国妙経塔、観世音菩薩塔等の石仏群がある。
道は下り坂になり、視界は開けてくる。 右手に再び八ヶ岳の山容が現れる。
道の右側に黄色の花が群生していた。 花の名は分からないが、
高原植物の一種なのだろう。
右手に知的障害者更生施設のしらかば園がある。
右側に駐車場があり、小川に架かる小さな橋を渡ると、上り坂になる。
坂の両側には家があるが、ここはとちの木集落である。
旧とちの木村は高島藩領で、地名は村内にあったとちの木に由来する、という。
右側に車道が左右にある交叉点があるが、甲州街道は直進する。
右側には芋木公民館の建物があった。
その奥にはかすんでいるが、八ヶ岳連峰が見えた。
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とちの木集落 |
集落の終わりの右側に「屋片瀬神社」と書かれた鳥居がある。
祭神は瀬織津姫で、災厄除けの女神である。
境内に入ると社殿があり、手前に 「碧玉神社」「大六天」という大きな石碑がある。
また、「福昌院跡」の石碑があり、 「 のちのよのためとおもふて
いでやさんゆのなんしょあるとも 」 というご詠歌が刻まれていた。
その奥には宝しょう印塔、観音菩薩碑や二十三夜供養塔や百萬遍供養塔などが建っていた。
明治の廃仏希釈までは神社と寺が並立していたのだろう。
社殿の右手の林には、石仏群が祀られていた。
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福昌院跡 |
街道に戻ると、屋片瀬神社の並びに石祠道祖神が祀られている。
とちのき集落の西口である。
石祠道祖神の奥には男女双体道祖神が並んでいる。
緩い上り坂を進むと、右側に馬頭観音像と馬頭観世音文字塔が一列に並んでいる。
坂道が多いので、馬が倒れることが多かったと思え、それを祀る馬頭観音碑が多い。
すぐ先に樹齢二百年以上の芋木(とちき)風除林がある。
説明板 富士見町指定天然記念物「とちの木風除林」
「 とちの木には、古くから樋口姓の者が住んでいた。
しかし、村は風当たりが強く、五穀は実らず、全戸が今の若宮地籍へ移り住み、
無人家の地となった。
元和六年(1620)、樋口氏が木之間から今の塚平の地へ移住した。
ここは周りが草原だったので、神戸から草刈に来た人達や甲州道中の通行人が時々失火して火災にあった。 それで、やや南の方の今の地へ移った。
このころ片瀬から小林氏が来て住むようになった。
やはり北風は強く、内風除けを作ったが、なお稲はよく実らなかった。
寛政年間(1789〜1800)に、村では高島藩へ願いを出して、
防風林として外風除けを村の上に仕立てた。
そのアカマツが、樹齢およそ200年の立派な風除けとして今日に至っている。
この風除けは甲州街道に直交し、かつ東西に100メートルずれるように設けられている。
東側は村の北西、ソリの道地籍の崖縁に沿う延長160メートルの間に植えられている。
樹高20メートル余り、いま胸高幹囲140〜240センチのもの35本を数える。
西側は延長45〜50メートルに上端の幅10メートル余、高さ2メートル余の土盛りをして植えられ、
いま胸高幹囲160〜250センチのもの14本を数える。
「風除け」と呼ばれる林は藩の許可を得て設けられるもので、
富士見町内では30余りが数えられる。
現存するものの中でこの風除林は、往時からの姿を伝える顕著なものである。
平成15年3月 富士見町教育委員会 」
防風林として寛政年間に植えられた赤松は樹齢二百年になり、
見事な並木となっていた。
これまで歩いていた集落で瓦葺き少なく、トタン屋根が多いのは、寒さで瓦が割れるというだけでなく、風が強いというのが大きく影響しているのだろうと、思った。
その先の右側の民家の手前に寛政三年建立の馬頭観音像があった。
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芋木(とちき)風除林 |
その先の右側に、少しこんもりとした周囲に樹木が茂っている。
その手前に「甲州街道コース」の標識と「道祖神」と書かれた石碑、
そして「重修一里塚」と書かれた石碑がある。
ここは塚平の一里塚の北塚である。 江戸日本橋からより四十七里目の一里塚で、
榎木が植えられている。
「重修一里塚碑」は、昭和四十二年に諏訪中学校の先生と生徒が一里塚を補修したことを示すもののようである。
傍らには標高950mの標識もあった。
先程の逢沢大橋の標高が813mなので、わずかな距離で約百四十メートル上ったことになる。
一里塚の先で、T字路に突き当たる。
甲州街道は右折するのだが、右側の土地に 「 私有地につき・・・・・・ 三菱マテリアル建材 」 の看板が建っていて、甲州街道はその先通行不可になっている。
甲州街道である右折する道を行くとJR中央本線富士見駅へ千五百メートルの距離だが、通行できなくなったのは残念である。
迂回路は左折して舗装道路に出て、右折して電柱が並ぶ舗装道路を歩く。
途中から砂利道の細い道になり、砂利道は六百メートル程で、道は原野の中を真直ぐ貫いていた。
右に大きくカーブすると三叉路に突き当たった。
この合流点には「ここは富士見町 原の茶屋」の標識があった。
左右は舗装道路の旧道で、右折して少し進むと説明板があり、左手にに透閑の馬頭観音像が祀られている。
「 三菱マテリアル建材が購入したこの一帯は湿地帯で、 道路状態が悪く、ことに春さきはぬかるみなって、人馬の通行に難渋した。 安永九年(1780)、三井透閑が高島藩から道路改修の許可を得て、 私財を投じて着手し、塚平から原の茶屋間に新道を開通させた。 改良工事は天明元年(1781)に完成、透閑は竣工にあたり、 三面六ぴふん怒の馬頭観世音像を安置した。 傍らの馬頭観音像は 文化五年(1808)の建立である。 」
合流点に戻り、舗装道路を進むと中部電力富士見変電所があり、
その先の右側に富士見公園があった。
蔦木宿からここまでは約八キロの距離であった。
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三菱マテリアルの看板 |
富士見公園から金沢宿
この集落は旧原之茶屋村で、右手に富士見公園がある。
公園の入口には「富士見公園の由来」の説明板が建っていた。
説明板「富士見公園の由来」
「 明治37年11月、(伊藤)左千夫は甲州御嶽歌会の後、韮崎より馬車で入信し、
上諏訪にて(島木)赤彦と初対面した。
明治、大正時代の日本短歌会をリードする二人の劇的な出会いである。
この頃よりアララギ同人の富士見来訪多く、
明治41年10月 富士見油屋歌会に来遊した左千夫は、
「 財ほしき思いは起る草花のくしく富士見に庵まぐかね 」 と、
原之茶屋の一小丘に立ちて、
「 ここは自然の大公園だ。 自然を損わぬように公園を作りたい。 」 と腹案をもらされた。
村人は、赤彦を通じ左千夫に設計を依頼し、明治44年 左千夫の指示を受け、
富士見村や原之茶屋の協力によって富士見公園は出来上がった。
早春の芽吹きから、花、新緑、鮮やかな紅葉と四囲に高峰を望むこの公園は詩歌の里としての希い多く、
左千夫歌碑が大正12年に、赤彦歌碑は昭和12年に、昭和40年に茂吉歌碑の建立を見るに至り、3基の句碑と共に歌碑公園として、文学愛好者の訪れが絶えない。 」
伊藤左千夫歌碑は、万葉仮名で、
「 寂志左乃極尓堪弓天地丹寄寸留命乎都久都久止思布 左千夫詠 」
「 寂しさの極に堪えて天地に寄する命をつくつと思ふ 」
とあった。
説明板
「 この歌碑は左千夫が詠んだ歌を赤彦が書としたものである。
明治三十七年初めて信濃に来た伊藤左千夫は、九回信州を訪れているが、
富士見、蓼科高原を特に愛した。
村人は、大正十一年七月富士見高原を讃え広めた恩人として、
謝恩の意をこめて故人の歌を刻んだ。
この歌は蓼科山歌十三首の中にあり、赤彦の書も有名である。 」
階段の前に芭蕉句碑があった。
「 眼にかゝる ときや殊更 五月不二 はせを 」
説明板
「 句碑は、明治十四年鶴鳴舎中により建てられた。
書は諏訪市中金子の岩波千尋の揮毫である。
天保の頃、独楽坊一山にはじまる鶴鳴舎は、知角、柳心、対岳等の俳人を生んだ。
この句は、元禄七年の(芭蕉の)作で、「箱根の関を越えて」と前書きがあり、
元禄八年の路通著「芭蕉翁行状記」に見えている。
数年前、東海道を歩き、箱根宿から三島宿に下るところに、同じ句の石碑があり、
芭蕉がここから見た富士を詠んだものという説明があったが、ここは富士見峠なので、
地元の俳界がこの碑を建てたのだろう。
斎藤茂吉の歌碑があった。
「 高原尓足乎手留而目守良無加飛騨乃左加比乃雲比曽武山 茂吉 」
( たかはらに あしをとどめてまもらむか ひだのさかひの くもひそむやま )
説明板
「 大正十年夏渡欧を前に、一ヶ月間富士見に静養した茂吉は、
後に赤彦と共に、「アララギ」の編集や発展に尽した。
昭和四十年十月、茂吉十三回忌を期して、富士見町が中心となり、
歌集「つゆしも」の中の富士見での作品で、自ら書き残された歌を刻んだ。 」
持参したおにぎり弁当を食べ、昼食休憩となった。
十三時三十分、旅を再開。 約三十分の休憩である。
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芭蕉句碑 |
十三時三十分、旅を再開。 ここから金沢宿までは約四キロの距離である。
この集落は旧原之茶屋村で、現在は諏訪郡富士見町富士見字原ノ茶屋である。
「 富士見の地名は諏訪方面から来た旅人がこの地にきて、
初めて富士を見たことに由来する。
原之茶屋は、御射山神戸村ととちの木村との間の距離が長く、その間、
人家も無く、旅をするのに不便だったため、明和九年(1772)、
松目新田の名取与兵衛が向原に出て、茶屋を始めたのが始まり。
その後、茶屋の周りに人家が増えて、周囲の村と紛争が起きたので、
高島藩が四十間四方の築地を築かせて、その中で茶屋を営ませたという歴史があるところである。 」
本来なら、富士山が見えないといけないのだが、
夕立が予報される天候では期待するのが無理だった。
交叉点を越えた民家の裏には手入れが行き届いた庭があった。
ここは原の茶屋公民館で、建物横の八重桜は満開で、
甲州街道最高地点を示す 「標高965m」 の表示があった。
敷地内に「明治天皇御膳水碑」があった。
明治天皇が行幸された時、食事に供された水を供された跡なのだろう。
「 明治天皇は明治十三年(1880)甲信地方の巡幸の際、
ここで休息されました。
明治天皇は平岡村の野立所までは二頭立ての馬車でしたが、
逢沢坂、とちの木坂が急坂の難路で、四人担ぎの板輿に乗り替え、
原之茶屋村に到着した。」
その先には明治天皇駐蹕之処碑が建てられている。
左側に雀踊りと呼ばれる諏訪地方独特の棟飾りを上げた旧家がある。
ここが名取与兵衛の茶屋跡で、旅籠桔梗屋跡である。
「 富士見小学校初代校長・小池春雲はここを下宿にしたところ、
短歌の友の島木赤彦が訪れるようになり、
これをきっかけに、伊藤左千夫、土屋文明、竹久夢二、斎藤茂吉、田山花袋など、
多くの歌人、文人が訪れるようになった。
桔梗屋は文人のサロン的役割を果たしたといわれる。 」
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明治天皇御膳水碑 |
桔梗屋の向かいに文化八年建立の金毘羅常夜燈がある。
その脇に入ると、左側に「筆塚」と書かれた石碑があり、その奥の石鳥居を上ると、段上に金毘羅神社がある。
桔梗屋の並びには句面が確認出来なかったが、句碑があった。
隣の大柳屋の屋号を掲げる蔵脇に、男女双体道祖神、百番供養塔、道祖神、庚申塔、
山燈籠等がある。
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句碑 |
集落を後にすると三叉路があるが、甲州街道は直進する。
三叉路を進むと道の左側の林の中に、旧道が残っている。
幅二間ほどの平らな部分が五十メートル程続いているが、
これが江戸時代からの甲州街道である。
その先の両側はカゴメ富士見工場の高い擁璧の下を進む。
右は林が続くが、左側は田園風景が広がっている。
大平集落に入ると道の右側に「甲州街道」の標識があった。
緩い下り坂を行くと、正面に火の見櫓が現れ、三叉路を左に進む。
左側の少し小高いところに赤松があり、奥に「金山大権現」の石碑がある。
鍛冶の神様で、槌のやりとりから夫婦和合の神でもある。
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「甲州街道」の標識 |
更に進むと、左側に数多くの石仏石塔群がある。<br>
前列に馬頭観音碑が並び、奥には「真那以址」碑と彫られた大きな石碑を中心に、
南無阿弥陀仏名号碑、一遍百萬供養塔等があった。
その奥は墓地となっていて、この集落の道が改修された時、馬頭観音は周囲から集められたのではないだろうか?
その先からは急な下り道になる。
左側の石垣の上には嘉永六年(1853)建立の筆塚碑と庚申塔、千庚申塔が祀られていた。
この坂は洗坂で、右にヘアピン状(Uターン)するように下る。
右側の山裾には明治十五年(1882)建立の「富蔵山」碑と摩耗して読めない石碑が建っていた。
富蔵山(とくらさん)は、信濃三十三観音霊場十五番札所の岩殿寺の山号である。
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石塔群 |
洗坂を下りきると国道20号に突き当たる。
甲州街道は左にヘアピン状に曲がるが、
ここは旧御射山神戸村の東枡形跡である。
御射山神戸村(みさやまごうどむら)は、江戸時代、間の宿であった。
「 この地に鎮座する御射山社では、毎年、 御狩り神事の祭事である御射山祭りが行われる。 諏訪神社上社から二神を迎え、捕えた獲物を供え、豊作を祈念した。 この狩りを行うのが御射山で、 この地が諏訪大社の入口(戸口)にあることから神戸となり、御射山神戸となった。 」
甲州街道はなくなっているので、その前の
富士見パロラマリゾート入口交叉点から国道20号を歩く。
思沢川に架かる神戸大橋を渡ると右側に「標高902m」の標識がある。
火の見ヤグラが見える御射山神戸交叉点の右側に「←瑞雲寺」の標識がある。
「 瑞雲寺は曹洞宗の寺院で、厄除け十一面観音を安置する薬師堂は 文政八年(1825)の建物である。 」
更に進むと、神戸八幡交叉点があり、
右に入ると、右側に筆塚があり、その先にはJR中央本線のすずらんの里駅がある。
左に入ると御射山神戸八幡神社がある。
「 御射山神戸八幡神社は、千二百年以上の歴史を持つという古社で、
鎌倉時代、諏訪大社で行われた御射山祭りに始まるといわれる。
諏訪大社は古来、風除けの神様として信仰され、
神への生贄に鹿などを射止めて奉納したのが御射山祭りの起源である。
本殿は宝暦十二年(1762)の建築で、一間社流造、唐破風、こけら葺きである。
本殿の左には樹齢三百九十年以上という大ケヤキが聳えている。
御射山祭りの際、御座所で諏訪神社からの二神を迎える。
境内には芭蕉句碑「 雪ちるや 穂屋のすすきの 刈のこし 」 がある。 」
交叉点の国道に 「東京から184km」 の道路標識があった。
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御射山神戸八幡神社 |
この先に左に入る道があるので、甲州街道は国道と別れてその道を行く。
角には 「馬頭観世音」の石碑が建っていた。
国道を歩いたのは七百五十メートルであったが、
十分とは言えないが、歩道があるので、ありがたかった。
上り坂を行くと、右側に石仏石塔群がある。
その先右側の消防ホース格納庫脇に、「片瀬明神跡」の碑がある。
坂を上りきったあたりの左側に大木が現れ、道の反対側には一里塚の説明板があった 。
説明板「御射山神戸の一里塚」
「 関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は、江戸を政治の中心とするため、
慶長七年(1602)に江戸と地方を結ぶ幹線道路として五街道を定めた。
甲州街道(甲州道中)はその一つで、最初は甲府までであったが、
慶長十五年ころになって下諏訪まで延長整備された。
(中略)
この一里塚は集落の北はずれにあって、江戸日本橋から四十八里め(四十九里との説あり) の塚であるといわれ、明治中期までその役割を果たしていた。
道路の東塚にはエノキ、西塚にケヤキが植えられたが、
ここは御射山神戸(みさやまごうど)一里塚で、江戸から四十八番目(49という説もある)である。
慶長年間に東塚にエノキが、西塚にはケヤキが育っていたが、
東塚のエノキは明治初期に枯れてしまったという。
残っている西塚のケヤキは、塚がつくられた慶長年間に植えられたと推定され、
樹齢はおよそ三百八十年を数える。
現在では目通り高で、幹の太さが周囲六・九メートル、
樹高は約二十五メートルの巨木となり、永い歳月と風雪にたえて堂々たる風格をそなえ、樹勢もなおさかんである。
甲州街道でこのような塚・ケヤキともに往時のものが保存されている例は他になく、
実に貴重な存在である。
平成十年三月 富士見町教育委員会 」
左右両方の塚が現存しているという、貴重な一里塚で、見上げるようなケヤキに感心した。
江戸方面からくると急坂なので、旅人はここで息つく人も多かったのではないだろうか?
木の下には昭和四十四年に富士見町 御射山神戸区が建てたの一里塚碑があり、
その隣に「標高標柱 917m」が立っていた。
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御射山神戸一里塚 |
金沢宿
数百メートルの上り坂はここまでで、ここからはなだらかな下りである。
木立の道が終わると左手には入笠山の稜線が広がる。
その先には甲斐駒ケ岳が見えるというが、今日は曇天のため、見えなかった。
左側には八重桜が満開で、正に春を感じさせる風景があった。
千五百メートルくらい下ると富士見町から茅野市に変わる。
左側にエプソンの富士見ハウスが現れると、これ以降はエプソンの施設が連なっている。
坂は急な下り坂になり、エプソンのテニスコートの先の右側に下り坂がある。
左側にセイコーエプソンの金沢精和荘があり、道幅も広くなる。
道幅が広くなったのはこの企業によるものと思った。
左側に欠けた馬頭巌音像がある。
その先、道が狭くなると、家が左右に建っている。
ここは青柳の集落で、JR青柳駅は国道の向う側にある。
左側の家の物置の前に石祠道祖神が祀られている。
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青柳集落 |
その脇に、男女双体道祖神、寛政七年(1795)建立の奉納百番四国供養塔、庚申塔等があった。
この後、坂をドンドン下って行き、国道20号に突き当った。
ここには金沢区上町集会所がある。
ここから金沢宿である。
「 甲州街道が開設された時、現在地の北方、
権現の森の西辺りに、青柳宿が新設されたが、
度重なる宮川の氾濫や慶安三年(1650)の火災で焼失したのを機に、
慶安四年(1651)に高地の現在地に移転し、金沢宿と改称された。
新設された宿並は計画的に造られ、大火の教訓から幅員は五間(約9m)と広くとり、
宿並の中央及び両側の家屋の奥に各三尺(約90cm)巾の用水が設けられた。
宿場は上町、中町、下町で構成され、京方が下町となっていた。
宿場の長さは八町(約870m)で、この長さはここ東口から西の枡形の距離と一致する。
宿場の家数は百六十一軒、宿場人口六百二十二人、本陣一、問屋二、旅籠十七軒でした。 」
国道に出て、橋を渡ると上町公会所前バス停がある。
国道には歩道がなく、白線の狭い道なので、歩いていて危険を感じる。
国道は右にカーブすると、その先に金沢上町バス停がある。
その先に金川があり、小さな橋を渡ると、中町に入る。 左手の丘上に金毘羅神社がある。
その先の左側が、曹洞宗金鶏山泉長寺の参道口で、
入口に地蔵尊坐像、聖観音菩薩碑、参道口にあらゆる生物の霊を供養する萬霊等が
安置されていた。
「 山号の金鶏山は、武田信玄の所縁の金鶏金山に由来する。
参道を進むと、正面の山門の右側に「おてつき石」がある。
江戸時代、参勤交代の大名や藩主が通行の際、
「 自分は宿場の宿役人です 」 と 石に手をついて口上したを述べてという。
おてつき石は宿場の東西に置かれていたようで、この石は上町のものである。 」
金沢交叉点には、右側 「金鶏の湯」 左側 「金沢公園入口」 の表示板があった。
金沢交叉点を渡ると、左側の火の見やぐらのところに、「長野縣」と
「明治天皇金澤行在所跡」と刻まれた小さな石柱があり、
その奥に、金沢歴史同好会が平成10年に建てた「金沢宿本陣跡」の説明板が建っていた。
ここが金沢宿の本陣があったところである
説明板金沢宿本陣跡」
「 五街道は幕府直轄で道中奉行の支配下に置き、
約四里(約)15キロメートル)おきくらいに宿場を設け、
大名の参勤交代や公用旅行、荷物の継ぎ建ての業務にあてさせた。
甲州街道の宿場には二十五人の人足と二十五匹の馬を常駐させ、その任に当たらせた。
本陣は大名や公家が泊まったり、休憩する施設で、
公用の書状や荷物の継ぎ建てを行っていた。
金沢宿には二軒の問屋が置かれ、主は名字帯刀が許されていて、世襲であった。
金沢宿は慶安年間の始めまでは現在地の北方権現原にあって、青柳宿と称したが、
度重なる水害と前年の火災で焼失したのを機に、慶安四年(1651)現在地に移転し、
金沢町と改称した。
本陣の敷地は約四反歩(約40アール)あって、敷地内に高島藩や松本藩の米倉などがあった。 小松家は青柳宿当時から代々本陣問屋を勤めていたが、
隣村の茅野村との山論で、家族を顧みる暇もなく、寝食を忘れ、
町民の先に立って働いた四代三郎左衛門は、延宝六年(1678)、
高島藩は伝馬を怠ったとの廉で、町民の見守る中ではりつけの刑に処され、
家は闕所断絶した。
その後、明治初年まで白川家が本陣問屋を勤めた。
金沢宿を利用した大名は高島藩・飯田藩・高遠藩の三藩であったが、
江戸後期になると幕府の許可を得た大名が東海道や中仙道を通らず、
甲州街道を通行し、金沢宿に泊っている。
平成十一年五月吉日 金沢財産区 金沢歴史同好会 金沢区 」
(補足) 山論とは、隣村の千野村(茅野)との金沢山の所有地や入会権をめぐる争いで、諏訪藩は千野村にその権利を認める裁定をくだしたが、
それに納得しない小松三郎左衛門らは藩主に直訴したり、
御用天馬を隠して抵抗したため、小松三郎左衛門は百姓一揆のかどで、
宿場のはずれで処刑されたというものである。
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泉長寺の参道口 |
金沢宿には本陣が一軒あるのみで脇本陣はなかったが、
交叉点の向かい側にあった下の問屋の樋口家が、脇本陣の役割を担ったといわれる。
本陣跡の二〜三軒先の木鼻彫刻が施された家が、江戸時代、茶屋を営んでいた近江屋という。
下の問屋から二百五十メートルところの右側に明治中期の建築の横棟造りの旧家(小林氏宅)がある。
馬方と馬が共に宿泊できた馬方宿で、家前には丸い穴の馬継ぎ石が残っている。
向かいにも馬継ぎ石が残されていて、人馬の往来が盛んであった証拠である。
金沢下町バス停の先の左側に秋葉常夜燈がある。
頂部に電灯が組み込まれているので、近世のものだろう。
その先の火の見やぐらの右側の小路が甲州街道で、すぐに三叉路がある。
ここが高遠追分である。
ここには宝暦八年(1758)建立の「左たかとう道」の道標がある。
旧道の左側に如意輪観音を安置した祠があるが、
ここが小松三郎左衛門が磔にされた刑場跡である。
旧道はその先で宮川に突き当たる。 左折して宮川沿いに歩く。
突き当たりには石仏石塔群がある。 特に大きいのが水神明王で、宮川の氾濫のないように建てられている。
宮川には金沢橋が架かっているので渡ると、甲州街道はすぐに右折だが、
昔の橋はもっと右手にあり、
その先が宿場の西の出入口になっていた枡形があったという。
金沢宿はここで終わる。