『 甲州街道(甲州道中の旅)を歩く (35) 蔦木宿 』    

蔦木宿(つたきしゅく)は 信濃国の最初の宿場で、江戸からは三十五番目。  教来石宿より一里六町(約4.7km)のところにあり、町並みは四町半(500m)、本陣が一軒に旅籠が十五軒、 家数は百軒程で、人口は五百余人の宿場だった。  宿場の南北入口に造られた枡形道が今も残されていて、 街道沿いの家々には当時の屋号を記した木札が下げられているなど、江戸時代の息吹を感じることができた。



日本橋から上野原宿まで歩いた後、 平成二十三年三月、東日本大震災が勃発し、 首都圏は計画停電、電車の間引き運転などが起きたため、予約していたホテルをキャンセルして、旅行計画を中止した。  九月に再開しようとしたら、妻が入院手術となり、退院後は家事をやりながら、 妻のリハビリを手伝うことになったので、歩くことはあきらめた。 
旅行社の甲州街道ツアーの広告を見て、日帰りなら家を明けられると、娘に留守を頼み、 平成二十四年五月十七日、金沢宿〜蔦木宿、五月三十一日、蔦木宿〜台ヶ原宿を歩いた。  ツアーは上諏訪から日本橋に向うルートだったので、これまでと逆に歩くことになるがやむをえない。  また、表題に一人旅としているが、今回は団体の旅だった。 

蔦木宿
蔦木宿は北から南に続く。 
平成二十四年五月十七日、金沢宿〜蔦木宿の旅では南の入口から本陣跡まで、 五月三十一日の蔦木宿〜台ヶ原宿の旅では本陣跡からの出発となった。 
まずは、五月十七日の金沢宿〜蔦木宿の部分を記す。 
岩田屋建材店の手前で、国道に出て、国道の右側を歩くと、交叉点で右折し、 道なりに左にカーブすると、三叉路に出る。 
ここは蔦木宿の南の入口に位置し、江戸時代、枡形になっていたところである。  入口の右側に「 庚申 」 と 「 甲子 」 の石塔と 「 愛宕山大権現欠所盗賊除・・ 」  と書かれた石像などが祀られている (左下写真)
愛宕山大権現は関西を中心とする火除けの神で、中部以東は秋葉山大権現を祀るのが一般的だが、 ここは愛宕山大権現とあったので、珍しいと思った。  なお、甲子は甲子講のことで、大黒天を祀り、庚申講と同じようにとり行っていたようだが、 全国的には少ないのではないか? 
三叉路に出ると、甲州街道は右折するが、直進すると右側にひときわ大きな古木が二本あった (左中写真)
この木はサイカチで、川除古木と呼ばれる木で町の天然記念物に指定されている。  案内板によると、  「 釜無川の氾濫による水害から蔦木宿を守るために宿の上の入口付近に造られた信玄堤と呼ばれる堤防がある。  川除古木はこの信玄堤と共に水害から地域を守るために植えられた川除木の名残りの古木であり、 現存されているものはキササゲ一株、サイカチ二株、ケヤキ一株である。  明治三十一年(1895)の大水のときには、ここの大木を切り倒して、集落に向おうとする大水の向きを変え、 集落を水害から守ったといわれる。 」 と書かれていた。 
先程の三叉路の角には 「 道祖神 」 と書かれた案内があったが、道祖神は小さな社のようだった (右中写真)
甲州街道は右折して北に向う。 
少し行くと、「 甲子 」 「 観音講供養塔 」 「 廿三夜 」 等と書かれた石碑が祀られていた (右下写真)

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その先で左折し、少し行くと道の右側に 「 枡形道址 」 の石碑が建っていた (左下写真)
これが京側の枡形道であることを示していた。 
その先で国道に出たので、国道の右側を歩くと、なまこ壁の家に 「 甲州街道蔦木宿 鹿島屋 」  の標札がかかっていた (左中写真)
その先の家々にも同じような標札がかかっていたので、 この集落では宿場時代の屋号をそれぞれ表示していることが分った。 
亀田屋の標札の家前から国道を横断して、反対側に出ると、 火の見櫓の下のJAの脇に与謝野晶子歌碑があり、歌碑には  「 白じらと 並木のもとの 石の樋が 秋の水吐く 蔦木宿  与謝野晶子詠  」  と書かれていた (右中写真)
明治天皇が巡幸された時使用された御膳水は明治三十九年頃、水道になり、樋が造られた。  与謝野晶子はそのひを詠んだと案内板にはある。   昭和二十六、七年まで水道として使用されていたというが、 歌碑の前の樋はその当時のレプリカという。  なお、枡形道址碑からここまでは百六十メートル程だった。 
この建物の裏側に行くと、 「 甲州街道蔦木宿 斗桝屋 」 標札の軒下に めどでこがあったが、これはこの近くにある十五社大明神の御柱に使われたものと思ったが、 間違いだろうか? 
民家の庭に 文久二年の 「 馬頭観世音 」 碑、隣のは文字が風化し判読しずらいが、 馬頭観音碑だろうと思う。  国道と平行した裏道が甲州街道のようで、杉田屋のマークのついた白漆喰の倉風の家の前を通り過ぎると、 公民館に到着した。 
庭の中に 「 甲州道中 蔦木宿本陣跡 」 と 「 明治十三年六月二十三日 明治大帝御駐輦跡 」  の石碑を発見した (右下写真)
公民館は江戸時代の本陣の跡地で、明治十三年六月の御巡行の際、立ち寄られたところである。 

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国道に出てみると、門の表札に 「 本陣 大坂屋 」 とある (左下写真)
案内板には、 「 蔦木宿は、元禄十五年、延享三年、明和八年、寛政六年、文化六年、元治元年計六度の 大火に遭い、罹災戸数も知られているが、本陣の類焼についての詳細は不明である。  この宿駅は明治維新による宿駅制度の廃止、さらに、鉄道が宿駅から離れたところに敷かれたため、 次第にさびれていった。  本陣主屋は、弘化三年(1846)に建築、明治四十年に南原田に移築されたが、昭和五十年代に老朽化で取り壊された。  この表門は、江戸時代末期の元治元年(1905)の火災後のものと考えられ、明治三十八年に他所に移築され、 利用されていたが、平成二年に町歴史資料館に保存された。  平成四年、現在地に復元された。 」 とあった。 
蔦木宿は四町半(500m)の町並みで、両脇に梅と柿の木の並木があり、旅人の心を癒したといわれる。  本陣が一軒、旅籠が十五軒だったが、十返舎一九の金草鞋(かねのわらじ)には、
「 あくれば、二里半ほどゆきて、つた木の宿にいたる。  この宿にも大さかや源えもんというよき宿屋あり 」 と記されている。 
蔦木宿は旅人の宿への奪い合いが激しかったようで、十返舎一九は、その様子を 
「 名にめでで 蔦木のしゆくや たび人にからみつきたる とめ女ども 」 と狂歌に詠っている。 
今回の金沢宿から蔦木宿のツアー旅はこの本陣跡で終った。 

平成二十四年五月三十一日、蔦木宿から台ヶ原宿までのツアーに参加し、再び公民館を訪れた。 
公民館の前の国道には上蔦木交叉点があり、 「 信濃境駅 」 の標識があったが、 JR中央線の信濃境駅には北に約三キロ程の距離がある (左中写真)
国道を歩くと、左側に十五社大明神の鳥居と常夜燈があった (右中写真)
十五社は諏訪神社と同様に、七年に一度御柱祭があり、最近では平成二十二年に山出しと里曳きが行われたという。     蔦木簡易郵便局の軒先にはその際使用されためどでこが展示されていた (右下写真)
めどでこは、棒に縄のリングが付いたもので御柱を引くのに使われるのだろう。 


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十五社の先には曹洞宗鹿島山三光寺の標柱がある (左下写真)
寺院はその奥にあるが、歴史は古いようである。  蔦木宿などの長野県東部は、かっては、甲斐国に属していたが、 武田信玄が諏訪家と婚姻を結んだ時、化粧料として諏訪家の下賜され、信濃国になったという。  三光寺は、元の名を真如山満願寺といい、真言宗に属した。  鎌倉時代中期、甲斐守護となった武田信重が還俗前年の応永二十四年(1417)に、甲斐国に創建したのが始まり。  天正二年(1574)、門鶴和尚により曹洞宗に改宗、その後、数回移転し、慶長年間に現在の寺号になった。  鹿島山の麓である現在の蔦木に移ったのは宿場が出来た頃というので、江戸時代初期だろう。  三代目の和尚の時代に寺入り事件があり、和尚は泉州に退かれた。  元禄七年(1694)、諏訪高島藩初代藩主、諏訪頼水により再開基され、頼岳寺四世群亀応逸和尚を勧請し、 開山したという寺で、 現在は頼岳寺の末寺になっている。 その先で、国道と別れて、左折し、三光寺第三駐車場の表示がある道に入っていく (左中写真)
この道は江戸時代、蔦木宿に入る江戸側の枡形道で、宿場の安全を守っていた。 
  突き当たりの三叉路には 「 ← 三光寺 」 の標識があり、正面の小高いところには三光寺の堂宇が見えた (右中写真)
ここには枡形道路の碑があり、碑文には、 
「 桝型道路 蔦木宿は甲州街道(甲州道中)の宿駅として、慶長16年(1661)ころつくられた。  桝型道路は南北の入口に設けられ、以来、宿内への外からの見通しを遮り、 侵入者の直進を妨げて、安全防備の役割をはたしてきた。  平成3年の道路改修のため、南の枡形道路を移転したので、その図を示し、残す。 」 と記されていた (右下写真)
それによると、この蔦木宿の江戸側の枡形は、工事前は三光寺の門前まで行って曲がっていたようである。 
甲州街道は、この後、少し上り坂の用水脇の細い道を南に向う。 

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小さな用水脇の道を少し行くと、右側に 六角常夜燈としだれ桜の下に、小さな石の社殿があった (左下写真)
常夜燈の大きさに対し、社殿が小さいのには驚いたが、火災にあって、木造からこの社殿になったのではないか、 と思った。  その脇に 「 道祖神 道路の悪霊を防いで、行人を守護する神 」 の看板があり、双体道祖神が祀られていた (左中写真)
常夜燈左側には 「庚申 」 碑や石仏が並べられて、祀られていた (右中写真)
金網で囲われたこの一角は、道路改修により、このようになったのだろうと思った。  
その先には 「 蔦木宿の由来 」 と書かれた看板が建っていた (右下写真)
この看板から、蔦木宿を地元一丸となって、PRしようとしている姿が感じとれた。 
これで蔦木宿は終わる。 

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かうんたぁ。