教来石宿(きょうらいししゅく)は台ヶ原宿より一里十四町(約5.5km)の距離にあった。
宿場は四町三十間の長さに、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠七軒があり、家の数は百四十余軒、人口は六百八十余人だった。
地名の教来石は日本武尊が座った石に由来していると伝えられている。
蔦木宿から教来石宿
平成二十四年(2012)五月三十一日、蔦木宿から台ヶ原宿まで歩いたが。この項は教来石宿までを綴る。
蔦木宿の看板を過ぎると、道は左にカーブして、国道の上に出た (左下写真)
三叉路を直進すると、左側の金網に 「 甲州街道蔦木宿 古代米の里 」 の木札が掲げられていた。
数年前、NHKが 「 甲州街道を歩く 」 という番組を放映した時、
勅使河原さんが田植えをした場所だが、今は水が張られた田圃だった (左中写真)
左側の葡萄畑の岩の上に馬頭観音と思われる二基の石仏が、その先にも二基の石碑があった。
更に進むと右側に 「 甲子 」 「 庚申 」 などの石碑が祀られていた (右中写真)
道の反対側には、 「 応安の古碑 」と刻まれた石碑と、十体程の石仏や石碑が並んで祀られていた (右下写真)
応安の古碑は、これらの中で、「 応安の古碑 」と刻まれた黒い石碑と
「 子の神 」 碑の間の奥にある長方形の石である。
模様と上部にある段の形状から、宝篋印塔の基礎石と推定されるが、
応安の古碑は、応安五年(1372)建立で、諏訪郡内で年代確認できる碑石の中では最古のものという。
応安は、南北朝の北朝側が付けた元号で、下の二文字は干支で 「 壬子 」 とある。
ここにある石塔は全て応安のものと思ったが、それは間違いで、この石だけが応安のものである。
安政五年の銘がある馬頭観音もあり、これらが甲州街道を歩く人々を見まもってきたと思うと感慨もひとしおだった。
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道は下り坂になり、寺院境内で右折して境内を回っていくように歩くと、寺院の正面に出た。
「 南無妙法蓮華経 」 の石碑の奥に鐘楼造りの山門が見えたが、
この寺は真福寺で、日蓮に感応した住職が、日蓮宗に改宗した寺である (左下写真)
寺前の三叉路を右折して坂を下ると、右側の下蔦木集落センターの前に 「 731m 」 の表示板があった (左中写真)
急坂を百メートル少し下ると、左側の電柱の脇に 「 武川筋 逸見筋との合流地点の道しるべ 」
という立看板があり、「 へみみち にらさきまで むしゅく 」 と刻まれている、と書かれていた (右中写真)
屋根付きの中に保管されている道しるべの文字は摩耗して、そのようには読めなかったが・・・・
ここは武川筋(道)と逸見筋(道)との追分で、左の草の道が逸見筋である。
この道は七里岩の北側を通り、現在の長坂駅、日野春駅経由して、韮崎へ向う道で、
釜無川が出水して渡れないときに利用されたという。
道は国道の上で突き当たると、左にカーブして国道に合流する (右下写真)
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その手前、右側に 「 三つ辻柳の由来 」 という案内板があり、
「 川路下りますか 逸見路にしよか いっそ蔦屋に泊ろうか
ささ泊ろうか ここが思案の三つの辻柳 蔦木日暮れて道三里 さてもとうしょう道三里
下蔦木小唄の一節です。
ここに詠われた三つの辻柳のモデルになったしだれ柳の古木が甲州街道の此処堂坂の登り口にありました。 」
とある (左下写真)
この古木は六十年程前、強風で倒れてしまったが、ありし街道を偲んで、平成二十一年に植樹したという。
道の反対、左側には小さな石祠や二基の双体道祖神像、多くの石塔がコンクリートで建てられていた (左中写真)
その右手に 「 南無日蓮大菩薩 」 の石碑と 日蓮宗の御題目碑があり、その奥に建物が見えた (右中写真)
入口に 「 日蓮上人の高座石 28m 」 の標柱が建っていたが、この建物は千見寺敬冠院である。
更に奥に入ると、石柱で囲まれた中に、大きな岩があり、その上に像を入れた祠が乗っていた (左下写真)
富士見町教育委員会の案内板によると、
「 文永十一年(1274)三月、流罪を赦された日蓮上人は佐渡から鎌倉へ帰ったが、
その後、甲斐国河内の豪族波木井氏の庇護を受けて身延に草庵をつくることになった。
その合間に、上人は甲斐の逸見筋から武川筋の村々を巡錫した。
下蔦木(当時は甲斐領・蘿木郷)に立ち寄ったのはこの時である。
伝承によると、当時、村には悪疫が流行し村人が難渋していたので、
上人は三日三晩この岩上に立って説法とともに加持祈祷を行い、霊験をあらわしたという。
その高徳に村人はことごとく帰依し、真言宗の寺であった真福寺の住職も感応して名を日誘と改め、
日蓮宗に改宗したといわれる。
また、このとき上人が地に挿して置いた杖から蔦の芽が生えて岩を覆うようになったとも伝えられる。
その後、日誘はこの高座石の傍らにお堂(後に敬冠院と呼ばれた)を建てて上人をまつり、
近郷への布教につとめたという。 」 とある。
日蓮上人が三日三晩、この石の上で、加持祈祷を行い、霊験を現したといわれる石を高座石と呼んでいるようである。
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国道に出ると左折し、百メートル程歩くと、下蔦木交叉点で、 「 中央高速道 小渕沢 」 の表示板があるが、
右側に入る道を行くと、国界橋がある (左下写真)
甲州街道はこの橋を渡って、甲斐の国に入っていったのだが、
地元が猿対策のため、感電ゲートを設置したため、通れなくなってしまった。
しかたがないので、国道を更に歩き、その先にある赤い橋梁の新国界橋を渡った (左中写真)
橋の手前にある表示板には、 「 富士川 新国界橋 」 とあったが、
渡り終えた山梨県側の表示板には 「 釜無川 山梨県 」 とあり、川の名前に違いがあった。
ここで信濃路の旅は終わり、笹子峠もある甲斐の旅になる。
橋の南詰の白い建物は運輸会社のビルで、その先にセブンイレブンがあった筈だが、囲われて閉店してしまったようである。
金沢宿から台ヶ原宿まで唯一のコンビニだったが、これで買物ができるのは、手前の道の駅 蔦木宿だけになってしまった。
柵の中には 大きな 「 目には青葉 山ほとゝぎす 初かつお 山口素堂先生出生之地 」 の石碑がぽつんと建っていた (右中写真)
三叉路で国道と別れて、左の道に入ったが、この道が甲州街道で、真っすぐの道が続いている。
平坦な道から上り道に移ろうとしていた所の左側に 「 山口関所跡 」 の標柱がある (右下写真)
傍らの 案内板には、
「 甲州二十四ヶ所の口留番所の一つで、信州口を見張った国境の口留番所である。
ここがいつ頃から使用されたかは不明であるが、
天文十年(154)の武田信玄の伊那進攻の際設けられたという伝承がある。
甲斐国志(1814)」によれば、番士は二名で近隣の下番の者二名程を使っていた。 ・・・
この番所の記録に残る大きな出来事に、天保七年(1836) 郡内に端を発した甲州騒動の暴徒がこの地に押し寄せた折、
防がずして門扉を開いた判断をとがめられ、番士が扶持召し上げられの処分を受けたことである。 ・・・
今は蔵一棟を残して、更地になっている。
番所で使用した袖がらみ、刺股、六尺棒などの道具は荒田の伏見宅に残り、門扉一枚が山口の名取宅に保存されている。 」
ということが記されていた。
中に入るところに、 「 西番所跡 」 の石碑があり、 「 天保七年八月百姓一揆時に開門、
その責任をとり、名取慶助は若尾に改姓、明治四年廃藩により廃止 」 と刻まれていた。
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上っていくと、 「 北杜市白洲町上教来石 」 の標識があり、白漆喰の蔵のある家があったが、
このあたりは山口集落で、道はアップダウンはあるものの、上っていく (左下写真)
小さな橋を渡り、二つ目の三叉路を右折して国道に向うと、
国道の手前に 「 山口素堂翁誕生之地 目には青葉 山ほとゝぎす 初かつお 」
の句碑が建っていた (左中写真)
案内板には 「 史跡 山口素堂生誕の地 諸藩に講じ詩歌を教え、
傍ら茶香煉瓦を楽し、薫風の俳諧を世に行わんとして、
名を素堂に更め、其月庵一世となり、所謂葛飾風の一派をなした。
享保2年76才没 当地は農民俳句が盛んに行われている。 」 とあった。
街道に戻り、先に進むと 民家の脇に 「 奉納 巡礼四国八拾八箇所供養 」 の石碑があった (右中写真)
その先は国道と接近するが、国道に沿って道が続いているので、そのまま進むと上教来石集会施設の脇に
「 白洲町観光マッフ 」 という案内板があった。
その先で国道に合流したが、国道の反対側に教慶寺の地蔵菩薩や
「 庚申 」 「 甲子 」 などの石塔が並んで建っていた (右下写真)
読みづらくなった案内板には 「 この地蔵は、鎌倉時代の1246年に中国から帰化した蘭渓道隆(大覚禅師、1213年〜1278年)が
村内で相次いでいた火災、悪病、強盗などの災厄を取り除こうと鎮在したもので、
最近でもいくつかの交通事故を救ってくれた霊験あらたかな地蔵様である。 」 とあった。
甲州街道の旅の安全を祈願し、家内の健勝を祈った。
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国道を数十メートル歩くと、左に入る道があったので、国道と別れて入っていった。
すると道際に座っている老婆がいる、と思ったが、よく見ると案山子だった (左下写真)
数体あったが、どれも人間に見える力作である。
その先には立派な松がある家もあり、道端にはカンナの花も咲いていて、のんびり上っていった。
集落から離れて進むと左にカーブするところの右側に、御膳水跡と記されたパネルが建てられていた (左中写真)
「 明治13年、明治天皇が御巡幸の際に、この細入沢の湧水をお汲みになり、
お誉に預かりました。 」 とあったが、沢は涸れてしまったようで、
細いパイプから水が流れていたが、飲めるものかは分らなかった。
このあたりは甲州街道と田圃は平行にあったが、この先、坂で勾配がきつくなり、上るにつれて、
左側の田畑とに高低差がついていった。
道の左側のガードレールの先に 「 庚申 」 塔などがあったが、忘れ去られた存在である。
右側に森が見えてくると、高くしたところに 「 明治天皇御田植御通覧之址 」
と書かれた大きな石碑があった (右中写真)
現在地からは田圃が見えないので、少し歩くと左下に田植えが終えた風景が見えた (右下写真)
明治天皇は、明治十三年六月二十三日、この高台から眼下で行われた田植え風景をご覧になったようである。
当時は、早乙女達が絣の着物に赤い紐を締めて、田植唄を歌いながら、苗を植えたのだろう。
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その先の森の中には諏訪神社があった (左下写真)
入口にある山梨県教育委員会の案内板には、
「 諏訪神社の創建及び沿革について詳しいことは明らかでないが、
古来から教来石村の産土神として崇敬を受けてきた。
本殿は天保十五年(1844)に再建されたものだが、
諏訪出身の名工、立川和四郎富昌が棟梁となって建設された素晴らしいもの。
一間社流造、屋根は柿葺き、正面中央に軒唐破風付の向拝をとりつけた本殿には、
向拝正面に中国の故事のひょうたんから駒の丸彫、身舎壁面の猩々と酒壺、背面の唐獅子、
小脇羽目の昇竜と降竜、蟇股の竹に雀、脇障子の手長と足長の浮彫が施されている。
これらの豊富な意匠や奇抜な図柄、加えて、
精巧な彫刻は、全体の均衡を失わず、よく立川流の作風を伝えており、富昌の傑作品の一つである。 」
ということ等が書かれていた。
ただ、傍にあった地元の方が建てたと思われる諏訪神社の由来には、
「 元和三年(1617)御朱印山より現在地に社殿造営遷座して、産土神とした。
天保三年(1832)信州諏訪の宮大工棟梁立川和四郎によって造営された。
本殿はケヤキ造り総彫刻、屋根は鱗葺の覆屋で精巧を極めている。
拝殿、石華など全て改新を了し、面一新した。 」 とあり、本殿の年次が異なるが、
片方が開始で、片方が竣工の年か?
拝殿奥の本殿はそれを囲う建物で覆われていて、その周囲は目の細かい金網で覆われていた (左中写真)
従って、金網越しに暗い内部を覗き、本殿の彫刻を見たのだが、素人目でもすごいということが分った。
ここで十五分程休憩したが、国道には車が行き来するのに、この境内はしーんと静まりかえって怖い暗いだった。
諏訪神社を出て二百五十メートル程いくと、歩道橋のある国道に出た。
国道の右側を歩いて行くと、右側の空地の中に 「 明治天皇御小休所址 」
と書かれた大きな石碑が建っていたが、ここは、かつて教来石宿の本陣があった場所である (右中写真)
教来石宿は南北四町三十間(460m)の長さに、本陣と脇本陣が各一軒、旅籠は七軒あったというが、
この辺りが教来石宿の中心だっただろう。
空き地は白い菊のような花が咲き誇り、きれいだった (右下写真)
教来石宿の人馬継建ては変則で、江戸方面への武家荷物は取り扱わず、その他の荷物を一日から二十五日は台ヶ原宿へ、
二十六日から晦日は韮崎宿へ継いだ。
諏訪方面へは二十六日から晦日の間だけ蔦木宿へ継ぐなど、申し合わせ内容が複雑なため、
違反が多く訴訟になることもあったようである。
台ヶ原宿と蔦木宿があるのに幕府が教来石に宿場を置いたのは、甲斐と信濃国境の山口に関所が設けられたこととも関係があり、
国境の防備的な性格を持たせた宿場だったといえようである。
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この後、教来石の由来になった教来石を訪れる。 地名の由来となった石とはどんな石なのだろうか、興味津々。
国道を百メートル程歩くと下教来石交差点に出るが、その手前の 「 ヴィレッジ白州 7.4km → 」 の看板
のところを右折する (左下写真)
上っていくと地蔵菩薩(?)があり、中に入った建物は民家のようだが、これは無住の寺院である (左中写真)
境内には石仏が何体か点在していた。 建物の脇を通り、裏口から出ると先程の道と合流するが、
その先右側に墓地があったが、その一角に大きな石が数個転がっていた。
ガイドはずかずかと墓地の中に入って行き、岩の上に石祠が乗っているのを指差して、
これが 「 日本武尊が座ったという石だ 」 と説明した (右中写真)
教来石は想像していたよりかなり大きなものだった。
他の巌に石仏が祀られていたが、それらは教来石ではない、ともいった。
日本書紀によると、日本武尊は東征で甲斐の酒折宮で連歌を詠んだ後、
信濃国を経由して、美濃国に神坂峠を越えて入っている。
古事記には信濃の訪問した所の記載はないので、教来石に立ち寄ったという伝承は奈良時代にはなかった筈である。
教来石の地名は何時からあるのか分らないが、後日の人が言い出したことには変わりない。
この後、下教来石交差点に出て、交叉点を渡り、左折して細い道に入ったが、これが甲州街道である (右下写真)
教来石宿の項はこれで終わる。
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