『 甲州街道(甲州道中の旅)を歩く (33) 台ケ原宿 』    

台ヶ原宿の長さは九町半(約1.5km)と長いが、本陣が一軒、 旅籠が十四軒だけの釜無川と尾白川に挟まれた山間の宿場だった。 天保十四年(1843)宿村人別帳によると、宿場の家数は百五十三、人口は六百七十人で、 宿場の人馬乗り継ぎも変則だった。 



平成二十三年三月、東日本大震災が勃発し、 首都圏は計画停電、電車の間引き運転などが起きたため、予約していたホテルをキャンセルして、旅行計画を中止した。  九月に再開しようとしたら、妻が入院手術となり、退院後は家事をやりながら、 妻のリハビリを手伝うことになったので、歩くことはあきらめた。 
旅行社の甲州街道ツアーの広告を見て、日帰りなら家を明けられると、娘に留守を頼み、 平成二十四年五月十七日、金沢宿〜蔦木宿、五月三十一日、蔦木宿〜台ヶ原宿を歩いた。  ツアーは上諏訪から日本橋に向うルートだったので、これまでと逆に歩くことになるがやむをえない。  また、表題に一人旅としているが、今回は団体の旅だった。 

教来石宿から台ケ原宿
教来石交差点で、甲州街道は国道20号と別れ、左の道に入り、突き当たりは右折して進む (左下写真)
流川橋(ながれがわはし)を渡ると荒田地区になる。 
道脇の看板 「 リサイクル アクセス 」 は妙に印象に残った (左中写真)
交差点があり、右に五十メートル進むと国道の荒田交差点、左折すると小淵沢駅へ向かう新道である。 
交叉点を横断して進むと、民家の一角に道祖神が祀られていた (右中写真)
石祠に入れられているが、中を覗くと双体道祖神であることが確認できたが、 このあたりが荒田地区の北の村境だったのだろう。  松山沢川に架かる小さな橋を渡ると、 「 北杜市白州町荒田 」 の表示板が建っていた。 
民家の間に 「 甲氏」 の石碑があったが、少し進むと常夜燈が現れた。 
常夜燈の脇には地蔵尊と思われる石像が二基、供養塔が一基祀られていた (右下写真)

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道は左、右にカーブすると、右側に松原公民館があり、 その前に 「 鳥原・荒田・松原 名所案内 」 の看板と常夜燈があった。  道の反対には 「 般若堂 」 と書かれた建物もあった (左下写真)
このあたりは松原集落で、右側に手入れが行き届いた植木と古そうな家があった (左中写真)
道端に咲いていたかんなの花を写しながら、歩くと、左側に白州町総合グラントが見えてきた。 
そのまま歩くと、元気な赤松が森を形成しているところに出た (右中写真)
太陽の降り注ぐ中をあるたので、何故かほっとして持ってきたペットボトルの水を飲んだ。 
「 県営白州団地前 」 のバス停のところで、国道へ合流した。 
歩道はないので、道の左側を歩くと、大きな川に出た (右下写真)
川の名は神宮川で橋の名は濁川橋である。 
ガイドの説明では、 「 川の名も濁川だったが、大正9年、東京の明治神宮を創建した時、 斉庭に敷く玉砂利をこの川の上流から採取したことから、神宮川と呼ばれるようになった。  今でも毎年ここの玉砂利を奉納している。 」 という。 
それで川の名と橋の名が違うことに納得。 

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甲州街道は前沢上交差点で、国道と別れて、左の細い道に入る (左下写真)
国道を歩いたのは五百メートルくらいだったか?  小生は蔦木宿から台ヶ原宿はずーっと上りだと思っていたが、この道はだらだら続くゆるやかな下り坂である。   
左側の松の下に 「 法界 南妙法蓮華経 萬霊塔 」 の石碑が現れた (左中写真)
その近くには馬頭観音等の石碑群が祀られていた。 
注意して見ていると、道の脇の小さな用水は歩く方向に流れているので、 神宮川から南は甲州方面に向かって流れていくことになる。 
少し歩くと右側に玉斎吾七という人の 「 槍もちのおくれて通る日長かな 」 の歌碑があった (右中写真)
大名行列でが街道から宿場に入る場合、行列を整理してしずしずと宿場に入るので、 大大名の場合は槍持ちは遅い時間になるという句であろう。 
集落から離れた松の下に 「 食料品林屋 」 という看板があったが、 休日のか、廃業したのかは分らない。  
道の右手に甲斐駒ケ岳が見えるはずだが、幾つかの山の一部は見えるが、 雲がかかっているので、どれなのか確認はできなかった (右下写真)
一方、左手の家の先には七里岩が横たわるように続いていた。 
 

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少し歩くと、 「 北杜市白州町白須上 」 の表示板のところに到着。 
左の方に広場はあり、ガイドが奥まで案内して行ったのは、白須松林跡碑と宗良親王の歌碑である。 
その一つは 「 白須松林跡 」 と書かれた石碑である (左下写真)
「 平安時代(794年〜)頃からこの地にはすばらしい松林が約四キロメートルにわたって続き、 白須松原、または、茸の産地として、京にまで知られていた。  惜しくも昭和十年代に都合により伐られてしまった。 」 と案内板にはあったが、 戦時中に戦闘機の燃料とした松根油の製造が各地で行われたので、その犠牲になったような気がした。 
その隣には、後醍醐天皇の皇子、宗良(むねなが)親王の歌碑があった (左中写真)
「 鎌倉時代末期の1331年から室町時代の1392年まで、日本では二人の天皇が在位し、 南朝と北朝に分れて争っていた。  南朝方の征夷将軍宗良親王は甲斐の国(山梨県)の武将たちを味方につけようと、 駿河(静岡県)から入ってこの地まできたが、味方につく者はなく、 松のかげで野宿し、寂しく信濃国(新潟県)の佐久地方へ向われた。  その時、詠まれた歌を歌碑として、大正11年菅原村が建立したものである。 」 と案内板にあった。 
歌碑には 「 甲斐に志らすといふ所の 松原のかげにしは しやすらひて 
  かりそめの 行きかいちとは ききしかと いさや志らすに まつ人もなし 」
( かりそめの 行きかいじとは ききしかど いざや志らすに まつ人もなし )
という歌が刻まれていた。  味方になってくれる豪族を訪ねて甲斐路まできたが、誰も待ってくれている人はいなかった、 というのは悲話である。  なお、菅原村は白須地区と台ヶ原地区で構成された村だが、昭和三十年の町村合併で無くなった。 
その左側には無数の石碑があったが、道路の改修などの際、集められたのではないか?、と思った (右中写真)
再び、甲州街道を歩くと、右側に 「 武田神社 」 と書かれているように思えた鳥居があったが、 その奥には小さな石祠が三基見えた。 
道は左、右にカーブし、その先はかなりの勾配に上り坂が前方に見えた (右下写真)

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急な坂の左側の石垣の下に日蓮宗の題目碑である 「 南無妙法蓮華経 」 の石碑が建っていた (左下写真)
道はアップダウンはあるが、間違いなく、上っていく。 
ここ白須集落には松や蔵の立派な家があった。 
左側に 「 馬場美濃守信房公菩提所 曹洞宗白元禅寺 ← 」 の看板が建っていた (左中写真)
「 自元寺は、元亀元年(1570)、白須坊田に武田二十四将の一人、馬場美濃守信房により建立、開山は端叟敦的大和尚。  天保初期に焼失したため、天保十四年(1843)に現在地に再建された。  総門は信房の屋敷から移されたものである。  馬場信房は武田信元、信玄、勝頼の三代に渡って仕えた部武将で、長篠の戦で敗れた際、 勝頼の脱出を認めた後、敵陣に乗り込み、壮烈な最後を遂げた。  自元寺にはその位牌と墓所が安置されている。 」 と言われるが、 ガイドは団体の訪問は受け付けていないというので、あきらめた。 
道を右折すると、国道の白州中学東交叉点で、交叉点を右折した先には 「 道の駅はくしゅう 」 がある (右中写真)
ここの目玉は、白州の名水コーナーで、小生もその水を飲んでみた (右下写真)
訪問の目的はトイレを借りることだったが、帰りにジュラート(アイスクリーム)を買い、食べたがうまかった。 

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台ヶ原宿
左手に 「 原田商店 」 の看板が見えてくると、台ヶ原宿は近い (左下写真)
原田商店を越えると火の見櫓のある三叉路に出るが、 角に 「 白須上・下区名所案内 」 の案内板があった。 
右折すると国道に出るので、甲州街道は左折して東に向う。 
その先の左側には 「 北杜市白州町白須下 」 の表示板があり、その先には梅屋旅館があった (左中写真)
その先の右側にはつるや旅館があったが、 左側の古い建物には 「 津留や諸国旅人御宿鶴屋 」 と書かれていて、 右側には講中の看板が三枚掛けられていた (右中写真)
つるやはかっての旅籠であるが、こちらの古い建物も手を加えられているような気がした。  当初、ひとり旅で計画していた時は、韮崎から台ヶ原宿を経て、蔦木宿まで二泊三日の旅で、 ここか梅屋旅館に泊まろうとしていた。  今回は日帰りツアーで、ここまで来てしまったので、韮崎から台ヶ原宿は日帰りできると思った。 
右側の「 北杜市白州町白須下 」 の表示板の先に 一日三回しか運行しない地域バスの バス停 「 旧清水商店前 」 があった。 
その先左側の松坂屋旅館からは旧台ヶ原村で台ヶ原宿の西の入口にあたる。 
台ヶ原宿は次宿教来石宿、次々宿蔦木宿三宿との相宿で、 甲府や江戸方面の人馬継立ては一日から二十五日までは韮崎宿へ、武家の荷物は丸一ヶ月間韮崎宿へ継ぐ。  一方、諏訪方面へ荷物は一日から二十五日は蔦木宿へ、二十六日から晦日までは教来石宿へ継ぎ立てするという 変則的な人馬継立てを行っていた。  次宿教来石宿の距離が短かったことに加え、教来石宿に宿場の力がなかったことによるのだろう。  たとある。 その先に最近建てられた 「 旧甲州街道一里塚跡 」 の石碑が建っていた (右下写真)
この一里塚は、江戸から四十三里十町余という。 
その近くには双体道祖神も祀られていた。 

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道は緩やかな下り坂であり、家並みは街道の雰囲気を残していた (左下写真)
左側の空地に 「 修験智挙寺跡 」 の案内板があり、 「 智挙寺は甲斐国府中の宝蔵院、境町の明王院とともに、三触頭の一院として、 文政十三年には男女各二人がいて、勢力を誇り、布教に努めていた。  明治四年の神仏分離令により廃寺になった。 」 とある (左中写真)
修験道は山岳宗教と仏教が習合された信仰的宗教で、今でも甲斐駒ケ岳で山伏達が修行していることから、 甲斐国では盛んだったことが伺える。 
その先左側に石段と鳥居のある神社があり、 「 お茶壺道中と当社の由来 」 という看板があった (右中写真)
この神社は荒尾神社・田中神社で、案内板によると、
「 お茶壺道中は、江戸幕府三代将軍家光の寛永十年から毎年四月中旬、 京都の宇治に採茶使を派遣し、将軍家御用達の新茶を茶壺に納封して、 江戸城に運んだ行列である。  行列の往路は東海道であったが、帰路は中仙道を経て、甲州街道に入り、 谷村勝山城の茶壷蔵に収蔵して、熟成後の秋に江戸城に搬入されていた。  資料によれば、この茶壷行列は中仙道の奈良井宿やから下諏訪宿に逗留後、、 当田中神社に宿泊した、と記録されている。 」 とあった。 
  お茶壺道中の格式は高く、御三家の大名でさえ道を譲るほどと伝えられているものである。 
左側の石垣上に明治二十四年開庁された登記所跡の案内板が建っていた (右下写真)
その先には屋敷門がある家があった。 

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その先の右側に人が群がっているので、近づいていくと、金精軒という和菓子の老舗だった (左下写真)
百年ほど前の明治三十五年(1902)の創業ということで、山梨名物・信玄餅の元祖のようである。 
この店の斜め前にあるのは銘酒七賢でお馴染みの造り酒屋、山梨銘醸である (左中写真)
隣の建物は脇本陣であった北村家住宅で、その前に 「 明治天皇菅原行在所 」 の石碑が建っていた (右中写真)
台ヶ原宿はその先、右側に郷倉跡、高札場跡の案内板があり、 国道の台ヶ原中交差点の手前右側に秋葉大権現常夜燈が建っている。  ここは中町で、建坪九十七坪の台ヶ原本陣があった場所だが、 火災と水害に見舞われたことから防火を祈願して本陣跡に建てたのだという。  なお、国道の入口に、日本の道百選 台ケ原宿と書かれた看板が建っていて、台ヶ原宿はここで終わる。 
最後に、ガイドが予約していた造り酒屋七賢の店中に入ると、 きき酒コーナーがあったので試飲の後、幾つかの酒の中から一本の酒を購入した。 
今でも残されている明治天皇が使われた部屋を見せていただいた (右下写真)
北原家は内藤新宿に江戸屋敷があった高遠藩とゆかりが深い。  高遠にあった造り酒屋が、寛延二年(1749)に当地で分家したのが始まりという。 
案内いただいたお嬢さんから、 「 今も残る住宅兼事務所は天保六年(1835)の建築で、 その際、御用を務めていた高遠城主から竹林七賢の欄間を贈られた。  それで酒の名前を七賢とした。  当時の北原家は豪商で、台ヶ原宿の宿役人も担っていた。  明治天皇が山梨三重京都御巡幸の際には政府からの依頼があり、多額の金が政府から与えられ、 トイレや庭や部屋の改造が行われたという。  明治天皇が泊られたのは明治十三年六月二十二日とのことだった。 」 と説明があった。  七賢の欄間の彫は両側から見ても同じに見えるといい、技術的にも驚いた。  また、政府からいただいた金封も飾られていた。 
以上で台ヶ原宿は終わるが、国道から少し離れた御蔭で、街道時代の雰囲気が残された訳だが、 甲州街道を歩く人にとって貴重な存在の場所であると思った。 

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かうんたぁ。