『 甲州街道 (32) 韮崎宿 』    

韮崎宿は 柳町宿より三里二十町五十間というからおよそ十四キロ。 
宿場間が短い甲州街道の中では、次の台ケ原宿までの四里に次いで長かった。 
宿場は十二町(約1.3km)の長さに、本陣が一軒、脇本陣はなく、旅籠が十七軒があり、 家数は二百三十余、人口は千百四十余人だった。
韮崎宿は、富士川の舟運が開かれ荷物の集散地として賑わい、 馬宿としても栄えた宿場町だった。




甲府宿から韮崎宿

甲府宿から韮崎宿の間は、三里二十町五十間(約14.2km)と距離が長い。
これは、甲州街道が延長された後の新宿であることと関係があるだろう。

「 徳川家康が甲州街道を設けた目的は、 甲州金の確保と運搬、そして、非常時の江戸城からの脱出ルートの確保にあったことは ほぼ間違いないようである。 それを裏付けるのは、甲斐一国を直接管理できる息子などの領地にしたことでも分かる。   街道の要所に、八王子千人同心などを設置すると共に、短い区間に宿場を起き、 いつでも人馬を確保できるようにしていた。 
しかし、江戸幕府の安定と甲州の金埋蔵量の枯渇により、金座が閉鎖になるなど、 開設の主目的は薄れていく。 
一方、諸国の商品流通が盛んになり、 甲府の先の韮崎は、富士川の舟運の要所として活気を呈していた。
甲州街道の延長はこうしたことを背景にしたもので、中山道に結ぶことと共に、 韮崎で富士川の舟運との接続もできるようにした。
そうした背景で出来た宿場は、甲府までの宿場と違い、東海道並みの間隔で、距離が長かった。 」

国道52号の寿交番前交差点から道は左にカーブし、荒川に架かる荒川橋を渡り、続いて、貢川(くがわ)橋を渡る。
橋上から南に富士山がきれいに見える。  橋を渡ると、右側に二本の樹木があり、「上石田のサイカチ」と呼ばれている。

「 甲府市の有形文化財、天然記念物に指定されている珍しい木で、 もとは貢川の河川近くにあったが、河川が整備され、この位置になった。
二本とも雌図で、樹齢三百年である。 」

国道52号を歩いて行くと左手に芸術の森公園、県立文学館、県立美術館がある。
絵を鑑賞するのもよし、トイレ休憩に利用できる。
その先、中央高速のガードをくぐると、甲府市から甲斐市に変わる。
くぐったすぐ左側にん、「日蓮五百遠忌」の碑があった。
そこから一キロ歩くと、竜王駅前交叉点で、右二百メートルにJR竜王駅がある。

甲州街道は、竜王新町交叉点で右に入り、数分すると、 右側に直径が四十五センチの球形の道祖神がある。
その先の称念寺の境内には江戸時代からの井戸が残されている。
甲州街道に面したこの井戸水は、赤坂を上る旅人には甘露の水だっただろう。
中央線の踏切を越えると左にも道祖神があり、由来を書いた説明板がある。 
道は赤坂の上り坂で、振り返ると富士山がきれいに見える。 
坂の途中の右側に大きな「赤坂供養塔」と呼ばれる石碑がある。
竜王町の念仏講中が安政年間に建てたもので、「南無阿弥陀仏」と刻まれている。
その少し先の右側に、諏訪神社と赤坂稲荷大明神が並んで祀られていた。
諏訪神社には、平成十六年に行われた御柱大祭の御柱があった。
赤坂台病院の前にはローソン、頂上にはセブンイレブンがある。

頂上の交差点で直進すると、その先に三叉路は右の高速道路と平行に進む道と、 斜め左に緩やかに下り道に分かれる。
甲州街道は左の道を下る。 
ここからは鳳凰三山が正面に高くそびえ、眼下には中部横断道が見える。
下りきった角には、庚申塔兼道標が二基並んで建っている。
道標の角を右に曲がると下今井の集落で、 右側には水路が路と平行してきれいな水を流している。
また、古い立派な門構えの大きな家が多く、なまこ壁の蔵も多い。
ということは、江戸時代後期以降建てられたのだろうか?

その先の右側に天眞山自性院がある。
明和二年(1765)に造られたという参道の石畳道の入口には、 球形の石を二段重ねにした球形道祖神があった。
右からの道と合流する下今井上町交差点で、下今井集落は終わる。

五街道細見では、「 甲府宿から韮崎宿まで三里二十一丁五十六間(約16km)とし、橋を渡り、上石田、富竹、竜王下川原、冨竹新田、大下条新田、竜王新田 を経ると、赤坂を上り、下今井、志田、うつのや、たばたを経て、かまなし川の橋を 二つ渡ると韮崎宿へ到着する。 」 とある。

その先の中央線のガード手前にも、二段重ねの道祖神があった。
中央道をくぐると、下今井交差点だが、国道20号には入らないで、 甲州街道は右の県道6号を線路沿いに進む。 
右側に「泣石」と呼ばれる大きな石がある。

「 武田勝頼が韮崎に築いた新府城に火を放ち、 小山田信茂のいる岩殿城を目指して落ち延びる時、 北条夫人がここで立ち止まり、涙したと言い伝えられ、 石の割れ目から水が流れ出ていたが、中央線の工事で枯れてしまった、という。 」

塩崎駅入口交叉点の右手にJR塩崎駅がある。
そこから二百メートル進むと、志田集落で古い家並みが見られる。
道路に「三界萬霊塔」と「二十二夜塔」が建っていた。
双葉西小学校の前を過ぎると右側に山梨県有形文化財に指定されている石鳥居があった。
これはその奥に鎮座する船形神社の鳥居で、柱に応永四年(1397)の銘があることから、六百年以上前の室町時代の建立ということになる。 
左側のセブンイレブンの前には宇津谷バス停がある。
その先で六反川を渡るが、手前右側の双葉電気を右に入ると、橋の手前に、
「  ひる見れは 首すし赤き 蛍哉   」  と書かれた芭蕉句碑がある。

「 この角には昔東茶屋や蛍茶屋があったというが、今はない。 
芭蕉は、六反川には蛍がたくさんいることを聞いて、この地を訪れたが、 訪れた時間が悪く、光る蛍を見ることができなかった。
その時の芭蕉の残念な顔が浮かぶ句である。  」  

六反川を渡り、田畑交差点で、甲州街道は右の細い上り坂の道に入る。
路は緩やかに右にカーブし、金剛地集落へ入っていく。
上り詰めた三叉路の右側には二十三夜塔が二基並んでいる。
三叉路を直進するとR中央本線の線路だが、甲州街道は左へと曲がる路を行く。
柳本土木で、道は右にカーブすると右側に金剛地公民館があり、  その前に火の見櫓がある。

金剛地集落は四百メートル程の集落だったが、旧街道らしい家並みが続き、 鳳凰三山をバックした蔵や土塀の風景が印象的であった。 

三叉路で左の急坂を下ると、先程田畑交差点で別れた県道4号に合流する。
その先の三叉路を左に進み、塩川に架かる塩川橋を渡る。
塩川の上流には、清里や野辺山や瑞牆山がある。
橋の途中が甲斐市と韮崎市の境界なのだが、 「韮崎市」の標識は塩川橋西詰交差点の手前左側に立っていた。
甲州街道は交差点を右折して、県道4号を、JR中央線沿いに進む。
左側には甲府地方法務局、北巨摩合同庁舎、市民病院などの公共施設が続く。
中央線の線路を離れていくと、下宿(しもじゅく)交差点に出る。




韮崎宿

下宿交差点から先が韮崎宿である。

「 韮崎宿は、富士川の舟運が開かれ荷物の集散地として賑わい、 馬宿としても栄えた宿場町である。
宿場は十二町(約1.3km)の長さに、本陣が一軒、脇本陣はなく、旅籠が十七軒があり、 家数は二百三十余、人口は千百四十余人だった。
街道沿いの家は、鋸歯状に道路に一定の角度をつけて斜に建てるよう計画され、 建てられていた。 」

下宿交差点の南側(斜め左)からくる道は、県道42号で、富士川街道(見延道)である。 
交叉点を左折すると船山橋があり、釜無川が流れている。
橋の袂に、「船山河岸跡」の碑がある。

「 天保六年(1835)釜無川の水を引き入れ、大岩で船山河岸が 築かれました。  この河岸は鰍沢(かじかさわ)河岸の上流にあたり、 富士川水運(舟運)の終点として大いに賑わいました。  明治三十一年(1898)の釜無川の大水害により、河岸は流失してしまいました。 」

江戸時代の韮崎は、駿河湾の海産物の陸揚げや年貢米の積み出しなど、 物資の集散地として、大いに賑わったのである。
碑の奥に姫宮神社がある。 
境内には明治天皇駐○碑や鏡石がある。
下宿交差点に戻ると、左手に鰍沢横丁がある。

「 下流に鰍沢河岸があり、東海道岩淵河岸と繋がっていた。 
江戸時代初期、幕府の命令で、角倉了以が開いた舟運である。
江戸で一朝有事があった時、将軍は服部半蔵の手引きで江戸城を脱出して、 八王子千人同心に護衛され、甲州道中を辿り、この河岸から舟で一気に駿河に至る ライフラインであったのである。 」

街道に戻り、交差点から中に入ると、左側に日蓮宗大蓮寺があり、 境内に縁切り地蔵(延命地蔵)が祀られている。 
病気や貧困などから断ち切りたい縁にご利益があると、いわれる。
右側に昭和五年創業の井筒屋醤油店がある。
道の向かいの創業百年の仏壇仏具の喜月屋に馬つなぎ石が残されている。 この石の穴に、手綱を通して馬を繋ぐいていました。
東海道には馬つなぎ環があったが、韮崎宿では石だった。
千野眼科医院の手前の小路を右に入ると、 突き当たりに「一橋陣屋跡」の石碑と説明板があったが、 陣屋跡は茶色の門構の公園になっていた。

「説明板」
「 巨摩群三万四十四石余の一橋領を治めるために、 宝暦三年(1753)、宇津谷村からこの地に陣屋が移設されました。  その後、寛政六年(1794)に陣屋は駿河榛原郡相楽町に移転されました。 」

吉宗の第四子、宗尹が開いた一橋家の陣屋で、租税、訴訟、断獄などの民政を行ったところ、という。
街道に戻ると、千野眼科医院の前に、平成五年建立の「韮崎宿本陣跡」の石碑がある。

「碑の側面の説明書き」
「 坪数はおよそ百二十坪、本陣は問屋を兼ね、人足二十五人、馬二十五疋を常備し、 継ぎ立て業務をこなしました。  甲州道中を通行する参勤の大名は高島藩、高遠藩、飯田藩に限られていましたが、 日程の関係上、韮崎本陣に宿泊することは少なかったといいます。 」

本陣跡の向かいに清水屋旅館があるが、創業が弘化二年(1845)という老舗である。
本町第ニ交叉点手前の上田商店にも駒つなぎ石がある。

韮崎宿の特徴である、道路に対して斜め(鋸歯状)に建つ家を見ることができる。
これは「斜交家屋」といわれ、宿場の設立時に街道に面した家屋を斜めにするよう指示し作らせた計画的もので、中山道などでもみられた。
戦争時などの襲撃を避けるためとか、街道の埃が家の中に吹き込むのを防ぐためとか、 馬の荷物を積み降す際に、通行の邪魔にならないよう作られたなど、 いろいろな説があるようである。  韮崎の場合は、富士川の舟運が開かれ荷物の集散地として賑わい、馬宿としても栄えた町だったことから、 馬の荷降ろしが効率的に行えるように計画的な町作りをしたのではないだろうか?

本町第ニ交叉点を右折すると、JR中央本線韮崎駅に行ける。
次の本町交叉点は信州道(県道27号)の追分である。 
中山道岩村田宿へ十八里の佐久往還である。
岩村田宿の龍雲寺には伊那駒場で逝去した武田信玄が埋葬されている。
交叉点を越えた右側に、「窟観音石」の石碑が建っている。
参道を入ると雲岸寺の本堂があり、 右手の岩崖絶壁の中段には、岩壁に張り出した窟観音堂がある。

「 雲岸寺は曹洞宗の寺院で、寛正五年(1464)霊場窟観音を守るため、 建立された。 慶長八年(1603)徳川家康は黒印他、一石四升と屋敷百五坪を寄進し、 保護した。  窟観音堂は七里岩に懸崖造りで作られたお堂で、建立したのは弘法大師で、 天長五年(828)である。 
中央の窟室内には 祀られているのは、天長五年(828) 弘法大師作の御尊像、 奥の窟室は「窟観音」の本殿で、天長五年(828)、弘法大師空海作の本尊 「聖観世音菩薩」が安置されている。
手前の窟室には寛文七年(1667)の千体地蔵尊が安置されている。
観音石仏を洞窟に安置したのが始まりといわれる。 」

七里岩の上に昭和三十六年に造立された白亜の平和観音像が見られる。  この山はここから七里(28km)続く七里岩のスタート地点である。
街道に戻ると、すぐ左手ににらさき文化村公園があるが、 小林一三翁の生家跡である。

「 小林一三は韮崎の豪商でかつ大地主で、 阪急東宝グループの創業者であるとともに、 宝塚歌劇団の生みの親として有名である。 」

市役所東交叉点を左に入ると、市役所の敷地に「武田太郎信義」の騎馬像が 建っている。
武田橋を渡った釜梨川対岸の地は武田氏発祥の地である。
信義は源頼朝に従い、富士川の戦いで、平繊盛(これもり)の大軍を敗走させました。
市役所前の通りには「七里岩ライン」と名付けられていた。
韮崎宿はこの辺で終りである。 


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かうんたぁ。