甲府柳町宿は、石和宿より一里二十一丁(約6km)のところにあり、
甲府の城下町に付属した宿場だった。
甲府柳町宿の町並みは東西南北四町四十七間、本陣が一軒、脇本陣が一軒、旅籠が二十一軒、家数二百余、人口九百余人だった。
旅籠屋は柳町二丁目から三丁目の両側に軒を連ね、最盛期には三十四軒が営業していたとされ、安永二年(1773)には一軒につき二人の飯盛女を置くことが公認された。
石和宿から甲府柳町宿
江戸時代には、笛吹川には川田の渡しがあり、それで川を渡り、甲府に向かっていたが、今は甲運橋と平等橋を渡る。
国道411号は城東通りと呼ばれ、ここから甲府市川田町になる。
五街道細見には「石和宿から甲府柳町宿まで一里二十一丁とあるので、
約六キロの距離である。 これまでの宿場間隔から見ると、かなり長いが、
東海道や中山道と同距離なので、遠すぎることはない。
その間通過するのは、川田、和戸、山さき、大名休憩所の玉屋があった。
酒折、かわたを経て、甲府宿に入る。 江戸より三十六里。 」 と書かれている。
城東通り頻繁に車が行き交う道であるが、
江戸時代の甲州街道は原っぱの中の一本道だったようである。
その先にアリア入口交叉点があるが、
これは「アリア ディ フィレンツェ」のアリアの意で、
1994年に誕生した貴金属や革製品ニットなどのファッションにかかわる工房が集まってできた街である。
その先右側に県立青少年センターがあるが、
この場所は、源平時代に武田信義の五男・信光の館があったところである。
兄が亡くなったことで、甲斐武田家の当主となり、その後十三代後の信虎の時につつじヶ崎へ居館を移すまで、武田家はこの地にあったのである。
甲斐武田家の発祥の地であるが、史跡はなにもない。
ここには「甲府駅まで6.2km」の道路標識がある。
その先から甲府市和戸町となる。
甲運小学校入口バス停に、「和戸町の由来」の説明板がある。
「 和戸町は、平安期、この付近を中心として栄えた表門郷(うわとのごう)の遺跡である。 」 とあり、かなり古くからある集落である。
古い家並も見られ、また、近くに球形の道祖神もあった。
その先、和戸町交叉点、国道140号との交差点である横根跨線橋南を通過する。
右側に山梨中央自動車教習所が現れた。
松原交叉点まで一直線に続いた道は、ここで右にカーブし、十郎大橋を渡る。
道の正面にそびえ、とても目立つのがホテル南の風風力3である。
川を渡り、四百メートル行くと山崎三差路交差点である。
甲運橋からここまで、約五十分だが、見るべき史跡は何もなかった。
右側にある県道6号は新宿三丁目の追分で別れた青梅街道である。
「 江戸時代の歌舞伎役者の市川海老蔵が、 甲州での興行に甲州街道を使っていたが、 川渡しで法外な金を取られてからは。この道(青梅街道)を使って甲州へ入った, と伝えられる。 」
その右手に「南無妙法蓮華経」の大きな供養塔が建っている。
「 ここは山崎刑場があった跡で、
明治五年に最後の処刑が行われた後、廃止されたという。
供養塔は日蓮宗の信者だった法悦が各地の刑場後に建てたものの一つである。 」
道路に、「甲府4q、韮崎17q」 の道路標識があり、江戸初期の甲州街道は
甲府城で終わっていたので、旅の終りを感じさせたことだろう。
その先、中央本線が近づいた辺りの右側にある「日本武尊」の碑は、
日本武尊を祀る酒折宮への道標である。
そこから四百メートル歩くと、右手にJR酒折駅がある。
酒折駅前交差点を過ぎると、酒折宮入口交差点があり、
右に入り二百五十メートル程歩くと酒折宮がある。
教育委員会の説明板「酒折の宮」
「 酒折の宮は、古代、日本武尊が蝦夷を征伐しての帰途、立ち寄った。
また、古事記、日本書紀の記録から連歌発祥地として全国に知られている。
日本武尊が東征の帰途、「 にひばりつくばをすぎていくよかねつる 」 と問うと、土地の翁が 「 かがなべて夜にはここのよ日にはとをかを 」 と答えたので、
武尊は褒めた。 それが連歌の始めで、連歌発祥の地とされる。
また、その時 尊が与えた火打袋を祭神としたのが酒折宮である。 」
境内には、芭蕉十哲の一人、嵐雪の句碑がある。
「 月の雲 雲から先に 離れゆき 嵐外 」 (嵐外は後の嵐雪)
なお、酒折宮の御旧跡がここより四、五丁離れた山腹にある。
酒折宮の東側の参道を出て、不老園の間の山道を登ると、
鉄柵に囲まれたところに(酒折宮旧跡」がある。
旧跡は日本武尊が立ち寄った場所であり、
後年、連歌発祥地と言われたところである。
鉄柵の中には、石垣で囲まれた奥に台座石が置かれていた。
対面の「連歌発祥地」の碑には最初の連歌が刻まれている。
「 新治(にいはり) 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる 」 日本武尊
「 かがなべて 夜には九夜 日には十日を 」 御火焼翁
日本武尊の古事記や日本書紀の記述にどれだけの真実さがあるかは疑問だが、
連歌発祥地というのは興味を引いた。
街道に戻り、五〜六分歩くと善光寺入口交差点で、直進すると、
右手に身延線の善光寺駅がある。
甲斐善光寺は善光寺入口交差点を右折し、県道109号を七百五十メートル程行くと
右側にある。
「 武田信玄は第三次川中島の戦い後、善光寺別当・栗田實久に命じて、
善光寺本尊の阿弥陀如来像や寺宝を甲府へ移転させ、栗田氏らも甲府へ移転した。
永禄元年(1558)から普請が始まり、永禄八年(1565)に本堂が完成し、
阿弥陀如来像の入仏供養が行われた。
その後、武田氏が滅びると阿弥陀如来像は岐阜、清州、浜松へ移転し、
天正十一年(1583)に甲斐善光寺へ戻されている。
慶長二年(1597) 豊臣秀吉により、京都方広寺に移されたが、翌年、信濃の善光寺に戻された。 」
境内左側の池畔には芭蕉月景(影)塚がある。
碑の右側面には 「 月がけや 四門四宗も ただひとつ 」
という句が刻まれている。 」
街道に戻ると、目の前に「善光寺駅」と書かれた身延線のガードが見える。
ガードをくぐると、甲府市城東5丁目である。
甲府城下町
ガード先の先は甲府城下の入口で、よく見る枡形道である。
この枡形ははっきり枡形とわかる大きなもので、
ここが甲府城下の入口である木戸があった場所である。
「 城下町は甲府城を中心に、城屋町、和田平町、下一条町、上一条町、金手町、工町、八日町、片羽町、西青沼町の九ヶ町からなっていたが、 今は地名が変わっている。」
枡形道を曲がり終わったところに、
甲府市の文化財に指定されている石川家住宅がある。
大正時代の建物であるが、「塗龍土蔵造り」と呼ばれる建築様式で、
甲府空襲をのがれた、貴重な建物である。
十分ほど歩いて、城東1丁目交差点を右折して、JRの線路をくぐり、
誓願寺の脇を通り、左がわに入ると甲府五山の一つである、能成寺がある。
「 甲府五山は、武田信玄が定めた寺格で、長禅寺・円光寺・東光寺・
法泉寺・能成寺である。 五山とも臨済宗である。
能成寺の正式名称は定林山能成護国禅寺で。臨済宗妙心寺派の寺院である。
信玄の父信虎の曽祖父である武田信守の菩提寺で、武田信守供養塔がある。
武田信守により創建された時は他にあったが、信玄により府中西青沼に移された、
文禄年間に徳川家康の甲府城築城の折、当地に移された。
建物は甲府空襲で焼けたので、その後に建てられたものである。
墓地には、赤穂藩浅野家の家老・大野九郎兵衛の墓がある。
「 大野九郎兵衛は浅野家の金庫番で、藩財政を運営し、
塩田開発によって赤穂の塩の製造販売を成功させた。
しかし、浅野内匠頭が自刃し、今後の方針を巡り、大石良雄と意見が対立し、
仇討ちには参加していないため、不忠扱いになってしまった人物である。
九郎兵衛は京都仁和寺の門前で人に施しを受けながら、困窮の中で亡くなった、という
のが定説だが、山形県の五色温泉近くの板谷峠に大野家主従の十六基の石碑があり、
供養塔といわれている。
この寺に何故あるかはわかっていない。 」
境内に芭蕉句碑がある。
「 名月や 池をめぐりて 夜もすがら 芭蕉 」
なお、能成寺の北に帰命寺、南に誓願寺、中央本線金手駅の北に来迎寺、
北西に長禅寺、駅の南に瑞泉寺があり、
この位置は家康が建てた甲府城の真東にあたるので、
城の守りのために造られた寺院群であると思った。
街道に戻ると、その先は直角に曲げられた道曲尺手(かねんで)の道になっている。
左へ曲がり、右に曲がるが、
その曲がり角の左側にあるのが天尊躰寺である。
「 尊躰寺は、武田信玄の父・武田信虎が柳町付近に創建した寺である。
天文二年(1533)、後奈良天皇から深草院功徳山天尊躰寺の勅額を賜ったことから、
寺名としている。
徳川家康が甲斐入国の際、宿舎としたとされる。 天正年間、家康が数度入国した際も
宿泊したが、寺の真向三尊を信仰したと、寺は言う。
文禄慶長(1592〜1614)期にに、家康の命令により、浅野氏が甲府城を築城したが、
その時、躑躅ヶ崎館を中心に配置されていた寺院とともに、
現在地に移転させられたのである。 」
境内には、大久保長安、富田武陵、山口素堂などの墓がある。
「 甲斐奉行 大久保長安の墓所 」
「 大久保長安石見守は、甲斐国生まれ、初め信玄に猿楽師として仕えた。
信玄没後は、大久保忠隣の庇護を受けて、家康に従う。
関東入部後代官頭となり、のちに石見銀山、佐渡金山奉行となり、
慶長6年甲府代官となる。
11年には伊豆代官になる。 いずれも産出金銀を激増させ、
幕府の財政基盤を確立した。 慶長11年に石見守となり、老中として国政にも参与した。 その財力は役目柄並びないものであった。 」
「 目には青葉 山ほととぎす 初がつお 」 と、
詠んだ山口素堂の山口家の墓地があり、
左側に「山口素堂墓」と刻まれた小ぶりの墓碑が建てられていた。
街道に戻り、城東通りを歩いて行くと、中央交叉点手前右側に印傳博物館がある。
「 印傳とは印伝のことで、インデンと読み、
印度伝来から印伝となったといわれる。
印伝とは、羊や鹿の皮をなめしたものをいい、細いシボがたくさん有り、
染色した皮に漆で模様を描いたものである。
東大寺の正倉院には印伝の足袋が残されているという。
甲州印傳の技法を今に伝える印傳屋は、天正十年(1582)創業というから、
本能寺の変が有った年で、以来、延々四百年続く老舗である。 」
印傳屋から二百メートル先にNTT甲府支店西交差点があり、 NTTの前に新聞発祥之地碑がある。
「 現存する我が国最古の新聞は山梨日日新聞で、 「峡中新聞」として明治五年七月一日この地で創刊された。 この碑は創刊百周年を記念して昭和四十七年に建てられた。 」
甲州街道は、この交叉点を直角に左折し、遊亀通りに入るが、
北方に甲府城(舞鶴城)があるので、立ち寄る。
甲府城へは交叉点を直進し、甲府警察署東交叉点を右折し、
十分程歩くと、左が山梨県庁で、右側に舞鶴城公園がある。
ここが甲府城の跡である。
「 甲府城は、県庁と舞鶴城公園とJR甲府駅の北までに及ぶ大きな城であった。
甲府城は、古くは甲斐府中城、また、
その形から舞鶴城(ぶかくじょう)とも呼ばれた。
甲府城は、豊臣秀吉により、関八州に移動させた家康を見張る城として築城を開始し、
甥の羽柴秀勝、次いで腹心の加藤光泰に引き継がれ、
豊臣政権の重臣・浅野長政、幸長父子によってほぼ完成した。
慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いで勝利すると、徳川家康は甲府を天領とし、
江戸城で異変があったとき、避難する先として甲府城を想定し、
甲府に通じる甲府街道を整備した。
また、甲府城主に徳川一門の徳川義直を任命、その後も忠長、綱重、
綱豊(将軍家宣になる)が甲府藩主を務めた。
甲府藩は将軍家に最も近い親藩なので、藩主は江戸定府のため、
武田氏の遺臣である武川衆(武川十二騎)を中心をした城番が藩政を行った。
宝永元年年(1704)、武川衆の血を引く柳沢吉保、吉里親子が藩主となり、
甲府城と城下町は整備をさせ、大きく発展した。
享保九年(1724)柳沢氏は大和郡山の転封されると、甲斐一国が幕府領(天領)となり、
甲府勤番の支配となった。
城跡は昭和四十三年(1968)に県指定史跡になり、
本丸を中心とした部分は、明治三十七年(1904)に舞鶴公園となった。 」
徳川家康が築き直した城は、明治以降は放置状態であったが、
石垣の積み直しが行われるなど整備され、公園として解放されている。
濠に架けられた遊亀橋を渡り、石垣に沿って坂を登ると坂下門跡となる。
この門は鍛冶曲輪と天守曲輪の間にあった門である。
坂下門からさらに上って行くと、天守台石垣が見上げるようにそびえている。
天守台からの眺望は素晴らしい。
天守台を降り、銅(あかがね)門跡を通ると、
復元された内松陰(うちまつかげ)門があり、今はその先は車道が通る道である。
内松陰門を出て甲府駅前まで来ると、武田信玄が鎧兜に采配を握り、床几に腰掛け一点を睨んでいる。
甲府宿
街道に戻り、甲州街道を進む。
南北に続く遊亀通りは旧柳町通りで、県道3号の起点になっている。
この周囲が甲府柳町宿である。
「 甲府柳町宿は、甲府の城下町に付属した宿場であった。
柳町の町並みは、東西南北四町四十七間(約500m)で、
本陣一、脇本陣一、旅籠二十一軒、家数二百余、人口九百余人であった。
旅籠屋は柳町二丁目から三丁目の両側に軒を連ね、
最盛期には三十四軒が営業していた。 」 とある。
なお、五街道細見の甲府には「 町九十六丁(約1km)で、
はんくわの町なり 」 と記されている。
町の構成と思うが、 「 板がき町、一条町通り、八日町通り、
柳町通り一〜三丁目、片羽町、西青沼町、飯田新町 」 とある。
遊亀通りには、甲府ワシントンホテルプラザが大きくそびえているが、
江戸時代は柳町通りで。甲府宿の中心だったようである。
ホテルの向かいの柳町大神宮がある辺りに、江戸時代には
本陣の藤井屋庄太郎と脇本陣の佐渡屋幸一郎があったが、
その場所は分からなかった。
ホテルプラザの南の交叉点は銀座通り東交叉点、
その南の問屋街入口交叉点の東の通りは連雀通りになっている。
「 江戸時代、柳町二丁目から三丁目の両側には、
二十軒以上の旅籠が軒を連ねて、営業していた。
安永二年(1773)には一軒につき二人の飯盛女を置くことが公認された。 」 と、
あるのはこのあたりだったのだろう。 」
新宿以外で、飯盛女の存在はここ甲府が始めて出ある。
しかも、幕府が公認したのが幕末に近い、安永二年(1773)のことで、
この頃の甲州街道は江戸城から甲府城へ脱出する道ではなく、
江戸から諏訪大社や富士詣、善光寺参拝の観光の道に変わってきたのではないか?
甲州街道は、この後、三回、角を曲がりながら、進む。
その先のアーケードを横切った、問屋街入口交差点で左折する。
左側に大きく冶作鮨とあるビルがあり、突き当たりにうなぎの若荒井桜町店がある。
突き当たったら、三叉路を左折すると、桜町南交差点に出る。
この三叉路を右折すると、側に甲府商工会議所の立派なビルがある。
そのまま大通りを三百五十メートル行くと、相生歩道橋交差点に出る。
ここは甲州街道の国道52号と本栖湖に通じる国道358号の交差点であり、
右折すると千二百メートルでJR甲府駅へいける。
歩道橋で駅前からの平和大通りを越え下に降り進むと、
丸の内郵便局東交叉点の左角に、「南みのぶみち 西志んしゅうみち」 と、書かれた道標がある。
この交差点で右側に移り、その先の県民文化ホール北交叉点を右折し、
穴切大神社入口交叉点を左折すると、穴切大神社がある。
「 穴切大神社は、近世まで穴切明神と呼ばれ、
甲府盆地の湖水伝説に伝承する神社である。
延喜式神名帳にも記載された古社で、
現在の祭神は現在大己貴命、少名彦命、すなのおの命であるが、
当初の祭神は穴切明神あるいは蹴裂明神ではないかという説がある。
それは、 「 甲府盆地は太古、湖水であったが、山を切り崩して水を落すことで、陸地化した、という伝説に基づく。 」
随神門は江戸時代後期の寛政六年(1794)の建立で、入母屋造平入、二層の楼門である。 彫刻は立川流初代の和四郎富棟によるもので、
桁回りの彫刻が素晴らしい。
本殿は、桃山時代に造られた一間社流造という建物で、国の重要文化財に指定されて
いる。
なお、県民文化ホール北交叉点の右手に天然寺と法輪寺があるが、
その奥の公園は西青沼公園である。 五街道細見の甲府宿の項に西青沼町とあるのが、
それに該当するだろう。
穴切大神社側は現在は宝2丁目、県民ホール側は寿町であるが、
五街道細見の甲府宿の項の最後にある飯田新町はここなのだろうか?
県民文化ホール北交叉点の南の通りは昭和通り、そこを進むと飯豊橋がある。
二つの地名をまたぐ橋と考えるち、飯は飯田新町を示すのでは結論付けた。
街道に戻り、左側の一本裏道に入ると、金比羅神社の境内に
「 物云えば 唇さむし 秋の風 」 と書かれた芭蕉句碑がある。
ここが飯田新町であれば、甲府宿はここで終わる。