『 甲州街道 (30) 石和宿(いさわしゅく) 』    

石和は、この地に住していた石和(武田)五郎信光が、 兄の武田有義の死により武田家の宗家を継いて、甲斐国守護となって以来、 信虎が躑躅ヶ崎に移転するまで甲斐国の守護所として、 政治の中心となっていたところである。
石和宿は栗原宿より一里二十町三十間(約6.4km)、宿場の長さは六町余(約700m)、 本陣が一軒、脇本陣が二軒、旅籠が十八軒、家数は百六十余、人口は千百四十余人だった。




栗原宿から石和宿

下栗原交差点から国道を十分歩くと、日川高校前交叉点がある。
日川高校は、正月の花園大会へ36回以上も出場しているラグビーの名門校である。
一町田中交差点の先から道は大きく左へカーブし、 日川橋を渡ると、笛吹市一宮町田中になる。
甲州街道は日川橋から二、三十メートル先にある「笛吹市」の標識から、 右へ入る道である。
曲がるとすぐにある白山神社には、丸石型の道祖神があった。
道祖神は直径七、八十センチの大きな丸石が一つ、台座に乗っている。
そのまま、街道を進むと日川の土手に出るが、そのまま並行して百メートル進む。
日川と笛吹川の合流点で、左側にホテルエンゼルがある土手に出る。

「 目の前の笛吹川は、明治三十年の大洪水で出来たもので、 石和温泉街の中を流れる小さな川が、当時の笛吹川の跡のようである。  従って、石和宿は笛吹川の河岸の東側にあったことになる。  なお、当時の甲州街道は、日川の土手あたりから、左斜めに陸地を歩いて笛吹橋の西側に抜けていた。  」

今は笛吹川があって、甲州街道がなくなっているので、 笛吹川に沿って、広い道を三百メートル程、南下して、国道に合流する。
笛吹川の対岸にある大きな建物は石和温泉の旅館である。
シテイホール東翔苑の先で、国道が合流し、その先の交叉点で左折して、 笛吹川に架かる笛吹橋を渡る。
橋を渡ると、笛吹市石和町川中島になり、江戸時代の石和宿に入る。




石和宿

橋の上から笛吹川を眺めると、右岸の河川敷に、 丸太と蛇篭で作られた砲台のような物が転々と並んでいる。
これは、笛吹川の氾濫に悩まされた武田信玄が、考案した「聖牛」というもので、 水流を和らげると効果があるとして、復元されたものである。
道を渡ったら市街地に下りないで左に進み、笛吹橋西バス停の前を通り過ぎると、 松並木の下の道へ降りる細い道がある。
左側の松並木に沿って進んでゆくのが現在の甲州街道である。
三百メートル程の松並木が終わるところで、 道は右にカーブし笛吹川から遠ざかっていく。  その分かれ道の下りる途中に、「笛吹権三郎」の像と由来碑がある。

由来碑「笛吹権三郎の事」
「 今から六百年ほど昔、芹沢の里(現在の三富村上釜口)に、 権三郎という若者が住んでいた。  彼は鎌倉幕府に反抗して追放された日野資朝一派の藤原道義の嫡男であったが、 甲斐に逃れたと聞く父を母と共に尋ね歩いて、 ようやくこの土地に辿り着き、仮住まいをしている身であった。  彼は孝子の誉れ高く、また、笛の名手としても知られており、 その笛の音色はいつも里人の心を酔わせていた。  ある年の秋の夜のことである。  長雨つづきのために近くを流れる子西川が氾濫し、 権三郎母子が住む丸木小屋を一瞬の間に呑み込んでしまった。  若い権三郎は必死で流木につかまり九死に一生を得たが、 母親の姿を見つけることはついにできなかった。  悲しみにうちひしがれながらも権三郎は、日夜母を探し求めてさまよい歩いた。  彼が吹く笛の音は里人の涙を誘い同情をそそった。  しかし、その努力も報われることなく、ついに疲労困憊の極みに達した権三郎は、 自らも川の深みにはまってしまったのである。  変わり果てた権三郎の遺体は、手にしっかりと笛を握ったまま、 はるか下流の小松の河岸で発見され、同情を寄せた村人の手によって、 土地の名刹長慶寺に葬られた。  権三郎が逝ってから間もなく、 夜になると川の流れの中から美しい笛の音が聞こえてくるようになり、 里人たちは、いつからかこの流れを笛吹川と呼ぶようになり、 今も芹沢の里では笛吹不動尊権三郎として尊崇している。 
これが先祖代々我が家に伝えられている権三郎にまつわる物語です。 
 昭和六十年五月吉日      
山梨県山梨市七日市場四九三番地  長沢房子(旧姓広瀬)      」

その先の通りは権三郎通で、道の右側の小さな水路にはきれいな水が流れていた。  少し歩くと三叉路になり、この突き当りで水路は右への道に沿って流れていくが、甲州街道は左へ進む。
そこから約一`歩くと、遠妙寺交差点があり、ここで国道に合流する。
笛吹市石和町部と変わった名称であるが、国道は、「市部本通り」と名前を替える。  この辺りから石和宿の中心になる。
右側には謡曲の「鵜飼」の発祥地となった鵜飼山遠妙寺がある。

寺の由来
「 当山は、往昔文永十一年夏の頃、高祖日蓮大上人御弟子、日朗、日向両上人と共に、当国御巡化の砌り、鵜飼漁翁(平大納言時忠郷)の亡霊に面接し、 之を済度し、即ち、 法華経一部八巻六万九千三百八十余字を河原の小石一石に一字ずつ書写され、 鵜飼川の水底に沈め、三日三夜に亘り施餓鬼供養を営み、 彼の亡霊を成仏得脱せしめた霊場であります。  之に従って、当山は、宗門川施餓鬼根本道場として広く信徒に知られ、 又、謡曲・鵜飼はこの縁起によって作られたものであります。 」

山門を入ると、市指定文化財の仁王門がある。
江戸末期の寛政年間に再建されたという仁王門は、 三間一戸側面二間楼門重層入母屋造瓦葺の建物である。
その先に本堂、左手に大黒天、その奥に鵜飼翁供養塔と鵜飼勘作の墓(五輪塔)がある。

説明板
「 平時忠漂泊(鵜飼漁翁)が犯した禁漁の程度では簀巻きの刑にならないのだが、 源氏の御代になり、平家出身ということから簀巻きの刑に処せられた。
その怨念を解くため、日蓮上人と高弟の日朗・日向上人が登場し、解決した。
この話を聞いた世阿弥が謡曲の鵜飼をつくった。
その逸話から、江戸時代に入り、 遠妙寺は身延山久遠寺と共に江戸への出開帳が多かったといわれる。 」

国道の石和バス停の高速バス上り新宿方面の前に、「石和本陣跡」の石碑があった。

説明板
「 明治十三年天皇がお越しになる直前に大火に遭い消失してしまいました。
現在は主蔵が一棟残るのみとなっています。 」 

斜め前方左側の下りの高速バス停の南に、笛吹市石和小林公園があり、 その一角に足湯がある。 足の疲れをとるには重宝で、気持よい。
石和と言えば温泉であるが、歴史は浅く、昭和三十六年(1961)に果樹園の中から突如として温泉が湧出したことが始まりである。

「 小林公園は、戦後の財界総理といわれた小林中翁の旧邸宅跡である。
公園入口の右側には翁の文庫倉が、石和町民族文化財展示館として残されている。 」

その先の右側にあるのは石和八幡宮で、鶴岡八幡神社から勧請したという神社で、 ここにも、球形道祖神が祀られている。
少し行くと石和温泉駅入口交差点で、ここを右へ八百メートル行くと、 中央本線石和温泉駅がある。
石和駅に行く途中に石和橋がある。 ここにも笛吹き伝説の説明板があり、 明治四十年の水害までは笛吹川はこの川が本流だったという。
国道を進むと、右にカーブし、笛吹警察署北交差点、ファミリーマートを経て、甲運橋東詰交差点に出る。

「 江戸時代には、石和の渡しがあり、笛吹川を越えていった。
別名は川田の渡しといい、四月から十一月までが渡船、 十二月から三月にかけては長さ六十間余(40m程)の仮橋を架けて通行していた。   また、石和河岸からは身延詣での舟が発着していて、 講中の人々の通路として賑わったといわれる。 」

甲運橋を渡ると万延元年(1860)に建立された、「川田」の道標が建っている。
道標には 「 左甲府 甲運橋 身延 」 、「 右富士山 大山 」 、「 左三峯山 大嶽山 」 と書かれている。

これで石和宿は終わる。 


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かうんたぁ。