『 甲州街道 (24)勝沼宿 』


勝沼宿は十二町と比較的長い宿場で、東から上町、仲町、本町、下町、富町、堰合と続いていた。 
宿場には本陣が一、脇本陣が二、旅籠が二十三軒あり、家数は百九十余軒、人口は七百八十余人だったとされる。
勝沼には、武田信虎の弟・次郎五郎信友が館を構え、勝沼氏を称していたが、 二代目の信元の時の永禄三年(1560)に、武田信玄により攻められて、 勝沼氏は二代で終りになった。  このことは、甲陽軍鑑に 「 逆心の文あらはれて勝沼五郎どの御成敗 」 と記されている。




鶴瀬宿から勝沼宿

国道を下って行くと、洞門が見えてきて、右側だった歩道が左側に移るが、 その先に観音トンネルがある。 
トンネルの手前の右側の小道が甲州街道で、山越えの道である。
この道を上っていくと、右側に「観世音菩薩」と書いた石碑があり、 さらに上がった所に「横吹の観音堂」と書かれたれた標柱が建っている。 
その裏には、 「  観音の 甍(いらか)見やりつ 花の雲   芭蕉 」 という句が記されていた。 
観音堂は既になく、そのうえにあるのは墓地だけである。 
甲州街道は、ここで道が消えて今はないようで、引き返した。
トンネルを抜けた先の観音トンネル西交差点で、 右側の坂を下っていくと、左にUターンし、国道の下に回り込むが、 そこに「武田不動尊跡」の標柱があった。 
横吹まで来た勝頼一行は、ここで一休みをしたが、 その際、親切にしてくれた村人に、武田家に伝わる不動尊を渡し、 戦勝を祈願したと言われている。  
不動尊跡の先に、「旧甲州街道」の標柱があるが、 国道と平行した道に、共和集落が続いている。 

入口に共和バス停があり、 昔は横吹といわれた集落だが、今も街道時代の鄙びた風景が残っていて、 往時の面影が残っている。 

古い土蔵がいくつか見られるが、崖の下で、柱で支える家も多かった。 
横吹集落の中程にある火の見櫓の下に球形道祖神がある。   これは、一番上の球を支えるように四〜5個の球があり、 台座には「道祖神」と刻まれている。 
下を覗くとさらに数個の球があったが、 地元の人の話では、 「 道祖神祭りの時はこの前に仮設の小屋を造り、 この球をそちらに移してお祭りをする。 」 という。 
中山道では双体道祖神か、文字道祖神が多かったが、 球形道祖神は山梨県だけなのだろうか? 
道祖神の隣には、横幅が五十センチ程の六地蔵が祀られていた。
甲州街道は、その先で再び国道20号に合流する。 
国道20号線を下ってくると深沢入口交差点があり、三叉路を右折すると深沢集落があるが、ここから甲州市勝沼町である。 
交差点の先に柏尾橋があるが、 その手前に「近藤勇 柏尾古戦場」と記された説明板がある。
ここは明治元年、近藤勇が率いる幕府軍の甲陽鎮撫隊と板垣退助が率いる官軍の先鋒隊が戦った地である。 

説明板
「 慶応四年(1868)三月六日、甲州勝沼の戦いはこの地で火蓋を切った。 官軍は土佐の板垣退助を総督府として甲府に三千人の兵を引き入れ待ち構える。 一方、近藤勇率いる甲陽鎮撫隊は三百人の兵が恐れをなして、 百二十一人まで減っていました。 会津から援軍が来るというのも虚報で、近藤は兵を抑えることが出来ず、 結局、八王子まで敗走してしまい、江戸まで逃げ帰った。 」 

隣の植え込みの中に、近藤勇の石像が建っていた。
交差点から右へ少し入った所に、「東神願鳥居跡」という標柱と大砲二門が置かれていた。 

説明板
「 東神願鳥居とは、この西にある大善寺の東境を示す鳥居で、 戦後まであったといい、甲州街道はその鳥居の下を通っていたといわれる。   近藤勇率いる甲陽鎮撫隊は、慶応四年三月六日、 この鳥居前の川岸に大砲二門を据えて本陣とし、江戸へ向かう官軍を迎え撃った。 」

官軍の数多い大砲に対し、幕府軍の大砲二門では、近藤勇達、 剣の達人も、近代兵器を前に脆くも崩れ去っていった姿が目に浮かぶ。 

勝沼町教育委員会の説明板「柏尾橋」
「 柏尾橋は、明治十三年の明治天皇の山梨御巡幸に際し、街道の拡幅整備が進められた時、架け替えられたものである。
その時の橋は、幅三間長さ十九間の欄干付き木造橋で、 深沢の両岸の岩盤中程から、二段の石垣を積み上げて橋台とし、 下段の石垣からトラス構造の橋脚を両岸から突き出し連結したもので、明治橋とよばれている。
その橋の北側には、大正から昭和初期に架け替えられた橋台、 さらに江戸時代の橋台が残っている。 
なお、下流の大善寺東参道(甲州街道ができる前の道)の橋があった場所に平成八年に祗園橋が架けられた。 」

橋を渡ると目に入るのが勝沼のシンボル、観光ぶどう棚である。 
少し歩くと、右手に大善寺がある。

大善寺縁起
 「 養老二年(718)、行基上人が甲斐の国を訪れたとき、勝沼の柏尾にさしかかり、 日川の渓谷の大石の上で修行したところ、満願の日、夢の中に、 右手に葡萄を持った薬師如来が現れた。
行基はその夢を喜び、早速夢の中に現れた姿と同じ薬師如来像を刻んで、 この寺に安置した。 
行基は薬園をつくって民衆を救い、法薬の葡萄の作り方を村人に教えたので、 この地に葡萄が 栽培されるようになり、これが甲州葡萄の始まりだ、と伝えられている。 」 

大善寺手前の崖際に、 山梨県内では最も古い句碑といわれる、 宝暦十二年に建立された「芭蕉翁甲斐塚」がある。 
「  蛤の 生ける甲斐あれ 年の暮れ  芭蕉  」 
大善寺の境内に入るには五百円が必要である(九時〜十六時)
駐車場の奥から階段を上ると、見事な山門が目に飛び込んで来る。
彫刻のある山門は、寛政十年(1798)に再建されたものである。 
山門の先は石段で、上って行くと、薬師堂がある。

「 薬師堂は、弘安九年(1286)三月十六日の刻銘があるので、 弘安の役の数年後と推定されるので、築後七百十年以上の建物である。    山梨県では一番古い建物で、国宝に指定されている。
屋根は檜皮葺き、内部は内陣と下陣に分かれ、 内陣には須弥壇を設けて、厨子を置き、中に薬師三尊像を安置している。  中央に薬師如来、両側に日光菩薩と月光菩薩、更に十二神将を配している。
なお、厨子堂は南朝時代の文和四年(1355)の作で国宝。  薬師三尊像は平安時代初期、弘仁期のもの。  十二神将像は、鎌倉時代の嘉禄三年(1227)の作で、国の重要文化財に指定されている。 」

薬師堂から右手の東参道を下って行くと、理慶尼の墓がある。
叔父の武田信玄に滅ぼされた勝沼信元の妹で、嫁ぎ先から離縁されて、 尼となったいう悲劇を味わった女性である。 
国道に戻ると、勝沼大橋の手前左側に「御身影岩」の標柱があり、 「 甲州ぶどうの祖、行基上人が修行した岩という。 」と記されている。
国道20号は左に大きくカーブした先に、勝沼大橋があり、勝沼バイパスとなっていく。
甲州街道はカーブの頂点にある柏尾交叉点で、、真っ直ぐ行く。
この道は昭和五十二年(1977)までは国道20号だった。  中央自動車道の勝沼インターが開通と同時に、バイパス工事が完成したので、 国道の地位を譲り、現在は県道38号である。 
数分歩くと、道の右側に「国見坂」の標柱がある。  旅人が笹子峠を下ってくると、甲府盆地が一望に見渡せたことから、 名付けられたのだろう。




勝沼宿

このあたりは大きなぶどう園が軒を連ねているが、江戸時代にはこの辺りから勝沼宿となっていた。

勝沼宿は、鶴瀬宿より一里三町(約4.3km)、宿場は東から上町、仲町、本町、下町、富町、堰合と続き、宿場の長さは十二町(約1.3km)と長かったようである。 」

県立ワインセンターの表示板をたら、三叉路を左に入ると、 日川右岸の段丘上に、勝沼町教育委員会が建てた、「国指定史跡 勝沼氏館跡」 の 説明板と復元された家臣屋敷がある。 
勝沼氏は武田信虎の実弟であったが、嫡男の信元が信玄によって処断され 、二代で終わっている。 
勝沼氏館跡の敷地は広いが、中央部に県立ワインセンターが建てられていて、 遺跡はなにも残っていなかった。

説明板
「 勝沼氏は武田信虎の弟信友、その子信元の家系である。
その行動は、「妙法寺記」「甲陽軍艦」また石橋八幡、岩殿七社権現棟札等により知られる。
勝沼氏は御親類衆として武田軍団の一翼を担っていたが、 永禄三年(1560)信玄により滅ぼされた。 
館は日川の断崖を利用して築かれているが、対岸を往時の往還が、 また館のすぐ西を南北に鎌倉往還が通過、当時の交通の要衝であり、 武蔵・相模方面への警固、連絡的役割を担っていた。  館主体部は「甲斐国誌」「甲斐国古城跡志」によって御所の地に相当すること、 二重の堀や太鼓櫓と呼ばれる高台のあることが早くから知られていた。  また昭和45年には、古銭250枚が出土している。 
昭和48年、県立ワインセンターの建設問題がきっかけとなり、 五か年にわたり山梨県教育委員会による発掘調査が行われた。  その結果、建物跡、門跡、水溜、溝、土塁、小鍛冶状遺構等が検出されたほか、 多くの遺物が出土した。 
遺跡は層序や溝、建物跡の重複関係によって三期にわたることが確認されている。  内郭拡張の際土塁内側を削っているが、それに対応して外側に土塁を設けたことが、 外側土塁下の生活面によって確認されている。  内郭の構造の変還のみならず、それが館の拡大と関連して把握することができる貴重な遺跡である。 
なお、御所北西には御蔵屋敷、奥屋敷、加賀屋敷、御厩屋敷、工匠屋敷、長遠寺(信友法名は長遠 寺殿)等の地名や泉勝院(信友夫人開基)があり、 広大な領域に遺構が広がっている可能性もある。 」 

街道に戻り進むと、右手に雀宮神宮、その対面に上行寺がある。
この三叉路で直進する甲州街道は県道214号となり、 その先の上町交叉点から県道34号になる。
その先右側の歩道の際に、「勝沼宿脇本陣跡」の標柱がある。
勝沼宿は、本陣一軒、脇本陣二軒、旅籠二十三軒と賑わった宿場だったが、 この辺りは上町で、宿場中心だったようである。 
その先に大きな松の木があり、近づいて見ると、 「勝沼本陣 槍掛けの松」と表示されていた。
ここは本陣の跡で、本陣に大名、公家などが泊まると、槍を立て掛けた松という。  
道の反対側に格子戸の家が数軒あり、宿場町らしい雰囲気が残っていた。 
上町交差点の左側に萩原家住宅があるが、江戸時代の豪商だった家である。  隣は仲松屋で、江戸時代後期に建てられ、明治前期に建て増しされた商家の建物である。
その先右側に三階建ての白い土蔵がある。 以前この形式の土蔵を見たのは、東海道の見附宿だったと思う。
勝沼宿には多くの土蔵が残るが、背が高いだけに存在感のある土蔵だった。

その先右側に旧田中銀行前のバス停がある。
旧田中銀行の古い建物は、国登録有形文化財である。
この洋風の建物は、明治三十年に郵便局の電信局舎として建てられ、その後、銀行の社屋になったという。

笹子峠からずっと続いている下り坂は、この辺りで多少緩くなるが、 まだまだ下っている。
勝沼小学校手前左側の「山城日玉園」の看板がある家は、日蓮が宿泊した場所である。
勝沼小学校入口の右側に「ようあん坂」の標柱と 「海抜四百メートル」と刻まれた石碑がある。 
ようあん坂は勝沼で最も急な坂のようで、海抜四百メートルとあるので、 標高千九十六メートルだった笹子峠から七百メートルも下ってきたのだが、 まだ下り坂が続くようである。 
勝沼小学校の前には「明治天皇勝沼行在所跡」の石柱があり、 その下に「勝沼学校」の碑があった。
ここにも球形道祖神が祀られていた。 

「勝沼学校」の碑
「 勝沼学校は、明治六年、 南部下山大工の松木輝殷が建てた藤村式学校建築で、 明治十三年六月の明治天皇御巡幸の折に行在所となった。 」

そこから四百メートル歩くと勝沼地域総合局入口交差点で、更に二百メートル歩くと 甲州市勝沼町勝沼の集落は終わる。 


甲州道中目次へ                                      続 き (栗原宿)



かうんたぁ。