鶴瀬宿は駒飼宿より十八町の距離にあり、宿場の長さは三町半で、
本陣が一軒、脇本陣が二軒、そして、旅籠が四軒であった。
人馬の継ぎ立ては駒飼宿との相宿で、一日から二十日までこの宿が務めた。
鶴瀬宿
鶴瀬宿は、駒飼宿より十八町というから、二キロもない短い距離である。
駒飼宿と相宿で、人馬の継立ては一日から二十日までこの宿が務めた。
大和橋西詰交差点のエネオスのガソリンスタンド前に「日本橋から118q」の標識がある。
国道を歩くと、交叉点から二百三十メートルのところに、
日川に架かる立合橋がある。
国道には歩道が無いので左にいくと、立派な人専用の橋があった。
立合橋を渡ると、甲州市大和町鶴瀬になった。
ここは鶴瀬宿の入口で、宿場の長さは三町半、そこに二百四十余名の人が住み、
家数は五十軒位あったようである。
渡ったところの左側に、金岡自画地蔵尊碑があった。
「 これは巨勢金岡という大和絵の祖が、 平安の時代に、この地の岩に地蔵尊を描いたが、 江戸時代に入ると風雨に晒され、すっかり線が細くなり、普段は見えなくなったが、 水がかかると地蔵尊が浮かび上がるので、人々を驚かせました。 その岩も洪水で流れてしまい、今はこうして石碑にその名残を留めるのみです。 」
その先の右側に、「鶴瀬関所跡」の標柱が立っている。
鶴瀬関所は、甲州十二関の一つで、口留番所とも呼ばれた。
街道を行き来する物資や入鉄砲に出女などを取り締まっていたが、
津久井日記には、「 はや鶴瀬の関近し、女二人はここよりうら山に入ぬ 」 と、
同行の女が番所を抜けるため、裏道を通ったことが公然と記されていて、
前述の上野原の境川番所同様、監視が甘かったようで、関所といっても幕末になると、かなり形式化していたようである。
前述の田辺聖子さんの宅子さんの旅日記ではないが、
手形がなくても関所抜けが出来るルートができていたことが分かる。
関所跡の先で国道の横断歩道を渡り、反対側にでると、 ここには「鶴瀬宿」の標柱と「鶴瀬地区」の石碑がある。
鶴瀬宿の標柱
「 江戸より第三十一宿、江戸へ三十里二十七丁、甲府へ五里一丁 」 と書かれているが、ここが鶴瀬宿の本陣があったところである。
鶴瀬宿には問屋場もあり、荷物の継立を行っていたが、
通年営業ではなく、毎月一日から二十日までで、
残りの日は隣の駒飼宿が行っていたことは既に述べた。
甲州街道は、六十メートル程だけだが残っていたので、
歩いていくと、国道に合流する手前に大きな常夜灯が建っていた。
これが過去を示す唯一のものといえた。
鶴瀬宿は短く、見るものもなかったので、あっという間に終わってしまった。
この後は国道20号を歩くが、その先はずーっと下り坂である。
前方に中央自動車道が大きく迫ってくるが、国道は右折して離れて行き、
中央自動車道も日川の対岸へと移っていった。
右側に崩落防止のコンクリートが続く。
甲斐大和駅から千七百メートル、「曹洞宗鶴瀬山真竜寺」の標柱の前を通り過ぎると、
石垣の上に「古跡 血洗沢」の標柱がある。
「 土屋惣蔵が、逃亡した跡部大炊介を追尾して斬り、 この沢で血を洗い流したといわれています。 」 と書かれていた。
少し行くと、「古跡 鞍懸」と記された標柱が崖の上に建っている。
「 この地は、逃亡する長坂長閑が、 土屋惣蔵に追われて、落ちた鞍が路傍の桜の木にかかっていた所と言われています。 」 とあり、武田軍の猛将、長坂長閑の馬の鞍が桜の木に掛かっていた場所とある。
志々久保バス停を過ぎると、大和町鶴瀬は終わり、大和町初鹿野に変わる。
鶴瀬宿はここで終わる。