『 甲州街道 (26) 駒飼宿 』    

駒飼宿は、黒野田宿より笹子峠を越えて、二里五町三十二間のところにあった、 山間(やまあい)の小さな宿場である。
宿場の長さは四町余の宿場で、家数は六十軒程余、人口は二百七十人余、 本陣一、脇本陣一、旅籠六軒であった。
宿場業務を一村では出来ないため、次宿の鶴瀬宿との相宿で、 人馬の継ぎ立ては二十一日から晦日までこの宿が担ったという。




黒野田宿から笹子峠

JR笹子駅から笹子峠入口まで約二キロの距離である。
笹子峠入口のバス停は富士急行新曲司下である。
入口には「矢立の杉」への看板がある。
国道はこの先四百メートルで、笹子トンネルに入り笹子峠の下を抜けていく。
国道を分かれて左の道に入ると、いよいよ笹子峠越えが始まる。
県道と旧甲州街道とがあり、矢立の杉までいける。
右手に青い建物が見えてきたら、峠道の入口で、右折する。  ここには甲州街道の表示があるが、見づらいところにあるので、気をつける。
県道212号線を直進すると追分集落に出て、 ぐるーと回って上っていき。この道と合流する。
民家が切れると、山道に変わり、少し行くと、コンクリートの砂防ダムに出る。
迂回するように上ると、道なき道のようになり、林の中の急な坂を上ると、県道に出た。 
笹子峠入口から40分の距離である。
県道を上っていくと、新田沢に出るが、ここを渡ると 道は右に大きくカーブし 、左に大きくカーブした。 
県道は、更に右にカーブし、その後もくねくね上っていく。
「笹子峠自然遊歩道」の案内板があり、その下に「この先矢立の杉に近い入口があります→」の札がぶらさがっていた。
県道を行けば矢立の杉へ速くつけると思うが、甲州街道はここでで、 Uターンするように山道へ入って行く。 
山道を進むと、枯れた沢や木の橋が架かる沢を渡って上って行く。
橋を渡ると、右側に空地があり、ベンチがあった。
石垣が築かれているところに、 昭和十二年に建立された「明治天皇御野立所跡」の石碑が建てられていた。

「 ここは三軒茶屋跡である。 
中の茶屋とか、笹子茶屋とも呼ばれてところで、 全盛期には旅人の憩いの場として栄えたという。 
明治天皇が明治十三年に甲州を通った時は、まだ鉄道が開通していなかったので、 この道を通ったが、その際には野点の茶を振る舞われた。 」

三軒茶屋跡の石垣の上には、母と幼子の石仏がが祀られていた。  追分の集落から右折して上ってきたが、40分程で、矢立の杉に到着できた。

「 矢立の杉は、高さ二十六メートル五十センチ、 根の廻り幹回りは約十五メートルの巨木で、 昭和三十五年に県の天然記念物に指定された。  幹は地上二十一メートル五十センチのところで折れて、 この幹の中は空洞になっている。 」

かっては空洞乃中に入ることができたようだが、今は禁止されている。
傍らに朽ちた説明板があり、「 戦陣に向う武士達がまれに見る強い生命力を堅持する この大杉を神霊と仰ぎ、戦勝とまた無事にこの大杉の前に意気高く凱旋できることを 祈って一番矢を射立てたので、矢立の杉と呼ばれた。 
また、 源頼朝が富士の巻狩りで射た矢がこの杉に当たって立ったからという伝承がある。」

安藤広重は、「 夫より又のぼりて、矢立の杉、左にあり、樹木生茂り、谷川の音、 諸鳥の声、いと面白く、うかうかと越えて、休む 」 と記している。 
ここから数十メートル上ると、甲州街道の道標があり、 「←笹子新田 笹子峠トンネル→」とある。 
トンネルへは県道でも行ける。
道は二手に分かれ、右側は県道、左側は山道。 山道を進むと、上りきったところで、また、県道に合流するが、 県道をそのまま歩くと、上空に送電線が建っていて、 送電線の下を二回くぐると、「トンネルまで1q」の道標があった。 
そこを過ぎたところで、先程の矢立の杉でわかれた山道が合流してきた。
  この山道は、沢伝いに進む道で、細くて急な尾根を登り、 ここへ降りてくるのである。 歩いた人のブログではかなり苦労されていた。
その先にあるのが洋風建築風の笹子峠トンネルである。 

大月土木事務所が建てた説明板「笹子隧道」
「 四方を山々に囲まれた山梨にとって昔から重要な交通ルートであった甲州街道。  その甲州街道にあって一番の難所といわれたのが笹子峠です。  この難所に開削された笹子隧道は、昭和十一年から十三年まで国庫補助を入れて、 二八万六千七百円の工費を投入し、昭和十三年三月に完成しました。  坑門の左右にある洋風建築的な二本並びの柱形装飾が大変特徴的であります。  昭和三三年、新笹子トンネルが開通するまでこの隧道は、山梨、 遠くは長野辺りから、東京までの幹線道路として甲州街道の交通を支えてきました。 
南大菩薩嶺を越える大月市笹子町追分(旧笹子村)より大和村日影(旧日影村)までの笹子峠越えは、距離十数キロメートル、幅員が狭くつづら折りカーブも大変多いため、 まさしく難所で、遥か東の東京はまだまだ遠い都だったでしょう。 
昭和前期の大役を終え静寂の中にあるこの隧道は、平成十一年、登録有形文化財に指定されました。」 

笹子峠入口からここまで、二時間かかった。
このトンネルは現役で、県道「日影笹子線」のトンネルとして使用されている。
このトンネルの上にあるのが笹子峠である。 
トンネルをそのまま歩けばトンネルの出口に五分で出る。  それに対し、笹子峠を越えると三十分程かかるという。 
二度とくることもないと思い、トンネルの右側にいく。
右に笹子雁が腹摺山への道標と峠周辺の案内図を見て、 上ると程なく標高千九十六メートルの笹子峠に到着した。 
両側がかなり切り立っていて狭いことや反対側からの地形などを考えると、 最初はもっと上に街道があったのを、 後期に開削し、通りやすく改良したのだろう。 

笹子峠は甲州街道の江戸と下諏訪宿のほぼ中間地点である。 
甲州街道を通る人は、昭和十三年に下の笹子隧道が完成するまでは、この峠を通っていった。  しかし、昭和三十三年に、新笹子トンネルが完成し、 国道20号は新しいトンネルを抜けるようになった。 
さらに、中央道の開通により、その車の多くが、その道を通り、 笹子峠が忘れ去られようとしている。




笹子峠から駒飼宿

笹子峠は、町村合併前の笹子町と大和村との境であり、 大月市笹子町黒野田はここで終わる。 

「 笹子峠には道標があり、右雁ヶ腹摺山へ1時間10分、 左カヤノキビラノ頭へ1時間30分とあるが、左右の道は登山道である。 
直進の大和村日影かいやまと駅は2時間30分、手前の笹子駅には2時間の表示があった。 」

一服後、道標の先を真っ直ぐ下って行く。 
峠を少し下ったところに、「天神宮」の鳥居のある社殿があった。
この先は左に曲がり、坂を下ると、トンネルの出口よりかなり甲府よりの県道へ出た。
県道に入るとガードレールの間を左に下って行く道があるので、 この道が甲州街道である。 

県道を百メートル下るとあずまやのある展望スペースがあるので、寄るのもよいだろう。
ここからは八ヶ岳連峰の赤岳、横岳が良く見える。 

ガードレールの間から甲州街道に入ると、数分で県道に出逢う。 
県道に接近するところに、「甘酒茶屋跡」の標柱があるが、 ここは五街道細見に記されている名物あま酒茶屋があったところである。
この標示板は県道から見やすい位置にあるが、 甲州街道は県道には出ないで、ガードレールの外側に沿って真っ直ぐ進む。
甲州街道はこの後、県道と左手に大きく離れて、下って行き、 再び会うのは約三十分後の清水橋である。
甲州街道は緑色の「甲州街道峠道」の標識を目印に、下っていく。 
山道は林道に出るが、この道は、県道から派生して、 山奥へ入るもので県道ではないので注意。
林道を左に進むと、少し先の右側に壊れかけた道標「甲州街道道峠道」があるので、 それに入り右の谷に向かって下りていく。
道がかなり細いが、植林された杉林の中の平らな道をいくつかの沢を渡り進むと、眼下に笹子沢川の支流が立ちはだかってくる。
どんどん高度を下げると、沢にでるので、沢に沿って下って行くと、 笹子沢川に架かる丸木橋があったので、渡る。

なお、この橋から水面までの高さは人の背丈ほどしかなく、周囲はV字谷となってかなり狭いので、鉄砲水には十分な警戒がいる。  水かさが増し危険を感じたら、無理して渡らず、県道に引き返すことが大切だろう。 

道は穏やかになり、右に古い石垣を見ながら進むと、 左側に「馬頭観世音菩薩」の標柱があるが、石仏などはなかった。 
すぐに緑の道標のある分岐点で、「← 自害沢天明水、甲州街道峠道→」と、 標示されていた。
草地の道をジグザグしながら下って行くと県道に出た。
左へ曲がれると清水橋で、ここには「笹子峠」の説明板がある。

「 徳川幕府は、慶長から元和年間にかけて、 甲州街道(江戸日本橋から信州諏訪まで約五十五里)を開通させました。  笹子峠はほぼその中間で、 江戸から約二十七里(約百粁)の笹子宿と駒飼宿を結ぶ標高壱千五十六米、 上下三里の難所でした。  峠には諏訪神社分社と天神社が祀られていて、 広場には常時、馬が二十頭程繋がれていました。  峠を下ると清水橋までに、馬頭観世音、甘酒茶屋、雑事場、自害沢、 天明水等がありました。 」 

山道はここで終り、ここからは県道の舗装路を四キロほどをじぐざくに下っていくことになる。 
清水橋から県道を下り、大きなカーブを二回曲がると、 右側に「桃の木茶屋跡」の標柱がある。
かつてはここに「桃の木茶屋」と呼ばれた三軒の茶屋があったというが、 今は雑木林に変わっていた。
甲州街道は、この先、笹子沢川を渡り、右岸を進むことになるのだが、道は残っていないので、そのまま進む。 
大持沢橋を渡ると、左の高いところに飯田コンクリートという会社があった。
この後も山中の道を下ると、木立の間から駒飼宿(こまかいしゅく)の集落が見え隠れしてくる。
右に左にと大きなカーブを曲がると、峠越えの道は終わりに近づく。 




駒飼宿

駒飼宿の入口に架かる橋は天狗橋。
手前右側に「津島大明神」の小さな祠がある。 
ここには日影上バス停があり、駒飼宿跡はここが起点である。
橋を渡ると右側から小さな道が合流する。 
駒飼宿入口右側には、芭蕉句碑が建っている。
「  秣(まぐさ)負ふ 人を枝折(しおり)の 夏野かな  」

駒飼宿は、笹子峠越えを控えた山間の宿場で、 本陣と脇本陣が一軒、旅籠は六軒という小さな宿場だった。
今は甲州市大和町日影である。 」

芭蕉句碑の少し先の左側の空地が脇本陣「富屋」があった場所で、 「史跡 甲州道中 脇本陣跡」の標柱が立てられている。
数軒先の左側には、「史跡 甲州道中 駒飼本陣跡」の標柱があり、 ここが駒飼宿本陣跡で、明治天皇の小休所跡でもある。 
大きな敷地には何も残っておらず、古い樹木に名残をとどめるだけである。

「 本陣は、参勤交代で、信濃高遠藩、高島藩、飯田藩が利用した以外は、甲府藩、徳川家御用役人、甲府勤番の利用が盛んな宿場だった。  甲州街道は、徳川家康が江戸有事の際、甲府城へ脱出するため設けた街道なため、 街道に面するほとんどの村が宿場となり、馬と人足が用意されていたと、思う。
従って、江戸時代に入り、諏訪まで延長になっても、 上記の藩以外の藩の甲州街道利用を認めず、遠回りになる中仙道を利用させた。 」

その先に、駒飼宿の説明と当時の屋号が記された地図が掲示されている。
道の右奥に入ったところにある大きな萬霊塔の後には国宝山養眞寺がある。

「 国宝山養眞寺は、慶長年間、甲斐国の支配を固めていた家康が、 配置した甲州街道沿いの戦略的な寺院とされる。
江戸の徳川家康が、万一の時、甲府城へ避難する際、防衛砦となる要塞寺院として、 街道沿いに建立された寺院の一つである。 」

その先で、甲府街道は、県道から左下へと分かれる道をいく。 
藤屋、塚本屋、柏屋、大黒屋と旧家が並ぶ細い道を下っていくと、 「大和十二景 甲州街道」や「旧甲州街道」の標柱が立っている。
集落を離れると、笹子沢川の下流に出た。  川に架かる小さな橋を渡り、緩やかなカーブを曲がると、 目の前に中央自動車道の巨大な橋が現れた。  これは笹子トンネルに入る直前に上下線二本に別れたもので、 笹子トンネルを抜けて、巨大な橋として、目の前にある。
橋をくぐると、その先に国道20号線との交差点、大和橋西詰交差点がある。 
県道が右から迫ってきて、交差点の手前で合流する。 
なお、県道の笹子峠入口バス停前には、「日影地区」の石碑と、 甲州街道周辺図がある。 
また、日影諏訪神社の鳥居の脇には、石でできた球形の道祖神がある。 
笹子沢川は、大和橋付近で日川と合流し、やがて笛吹川となり、 更に富士川となって、駿河湾に流れ込む。 
以上で、駒飼宿は終わりである。

この交差点を右折して七百七十メートル先の中央本線の甲斐大和駅へ向かう。
国道沿いにはお食事処のうゑのやがある。 
また、駅の手前にある諏訪神社の本殿の彫刻は素晴らしい。 
江戸時代初期の建立とされるが、 竹林の七賢人をはじめ、上り竜、下り竜など見事な彫刻が周囲に施されている。 
甲斐大和駅の裏には武田勝頼銅像がある。

「 滝川一益に追われた勝頼は天目山を目指したが、 この先の大和田村田野で捕捉され自害し、甲斐武田氏は滅亡した。
この奥、三十分ほど歩いたところに、景徳院という寺院があり、ここに勝頼の墓がある。  」


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かうんたぁ。