黒野田宿は、笹子峠に一番近い宿場であった。
宿場業務は隣の阿弥陀海道宿、その隣の白野宿と、三宿で行っていて、
毎月一日から十五日までの人馬継ぎ立てを担当した。
難所の笹子峠を控えた宿場だったことから、旅籠が十四軒もあり、
三宿の中では一番賑わっていた、という。
黒野田宿
笹子駅を後にして、国道を西へ六百メートル程歩くと、
古い「煙草小賣所」の看板がある奈良屋の前に、黒野田のバス停がある。
黒野田宿は、阿弥陀海道宿より十二町(1.3km程)とあるが、
大月市笹子町黒野田は駅の手前から始まっている。
黒野田宿は、難所の笹子峠を控えた宿場だったことから、
旅籠が十四軒もあり、三宿の中では一番賑わっていた、という。
緩い坂を上って行くと、左側の火の見櫓の下に、
「笠懸地蔵」と呼ばれる石地蔵があった。
そのすぐ先の左側、天野氏の屋敷門は立派なものである。
五街道細見には、 「 黒野田宿には五十軒の家があり、駒飼宿へは二里八丁、 本陣殿村茂助、休憩所林屋慶蔵、追分との間に橋四ヶ所あり。 」 と書かれている。
ここが黒野田宿の本陣跡のようであるが、
五街道細見にある本陣殿村茂助跡かは分からなかった。
黒野田宿にはひどい旅籠もあったようで、安藤広重の「甲州道中記」には、
「 扇屋へ行く、断る故 若松屋といへるに泊る。 此家古く、今きたなし、 前の小松屋(野田尻宿)に倍して、むさいこといはん方なし。 壁崩れ、ゆか落ち、地虫座敷をはひて、畳あれども、ほこり埋み、 蜘蛛の巣まとひし破れあんどん、欠け火鉢一つ、湯呑形の茶碗のみ家に過ぎたり 」 と書かれている。
黒野田橋を渡ると、道は右にカーブするが、右側に普明院がある。
門前の左側に「一里塚跡」の標柱があり、
右側に「日本橋より二十五里」と刻まれた石碑が建っている。
ここは黒野田一里塚跡で、日本橋から二十七里の筈だが、
二十五里になっているのは変である。
境内には、 「 行くたびに いどころ変わる かたつむり 」
という、芭蕉句碑が建られていた。
緩い登り坂が続き、橋を渡るとその先は追分の集落である。
街道に大衆食堂しらかば、手打ちそばうどんやまびこなど、何軒かの食堂がある。
道が大きくカーブし、右手に追分集落があるところが笹子峠入口で、
ここには道標が幾つかある。
甲州街道はここで国道を分かれ、左の道に入って行く。
この先は険しい笹子峠が待ち受けている。