『 甲州街道 (24) 阿弥陀海道宿 』    


阿弥陀海道宿(あみだかいどうしゅく9は、元禄年間以降に、 吉窪村落に作られた宿場である。 
本陣が一軒、脇本陣も一軒、旅籠が四軒、戸数七十余軒、人口三百三十人程だった。
この宿場だけでは宿場の業務を負担しきれないため、当宿と白野宿と黒野田宿の三宿が交代で行っていて、当宿の人馬継立ては十六日から二十二日までだった。 




白野宿から阿弥陀海道宿

白野宿を出て、ヤマザキショップの前で、再び国道20号線と合流した。 
国道に合流してすぐ、原入口バス停の右側には旧甲州街道があるので、 右に入っていき、JR中央線のガードを潜る。 
ガード下の左側に、立石坂の「立石」という木柱が立っていた。 
ガードを潜ると左折して、立石坂の緩い坂道を上っていく。 
原の集落に入り、右側の民家の石垣には、 三界の万霊を祀るという「萬霊塔」が建っていた。
右側にある笹子町河原公民館の先の右側に、稲村神社がる。
神社前には沢山の石碑がある。
左端が親鸞上人念仏塚、右端が毒蛇済度奮蹟である。

「毒蛇済度奮蹟」
「  去る程にこの前方の低地が昔時、 甲斐沼地としられた葦ヶ池なりしと伝へる。
其の池の總面積は最大時は三丁歩余り 葦ヶ窪郷の四分の一をしめてるとの説も伝へられる。
鎌倉時代、西暦一二二五年代 浄土眞宗の開祖親鸞上人が 甲州等々力の積舎萬福寺に参詣の帰路、 此地の地頭、北面の武士、小俣左衛門尉重澄宅に立ち寄りしところ 葦ヶ池にまつはる毒蛇済度の祈願をこんせいされる。
葦ヶ窪の地頭小俣左衛門尉重澄には、よしなる娘有り、 たまたま京より来りし半僧修業僧、晋挺奈良興福寺法性宗の高僧行基が造った、 阿弥陀海の阿弥陀堂にこもりて 断食修業中 その晋挺に心をよせしが 僧業の身には女性のその意を深く説得され、 其の意の通ぜさるを嘆き悲しみ この池に投身若き生涯を果てしときく。
地頭のこん願に依り 上人供養三七二十一日間 小石に大字の名号を墨書きし、 池中に投入するや、 よしの霊は成佛済度され 池中に異様な轟き有りて、 よしの霊は観世音大士の姿となり、 上人の池中に投入れた小石が白虎を帯びて先達となり、 郷人の驚き騒ぐ中東南の空高く 消え去りて遠く、伊豆の手石浜に落ちし、 と伝へる。
今も手石浜の阿弥陀「くつ」には、参詣の人の絶え間なしときく。
池には葦草が群れ、低地なる故に葦ヶ窪の地名起源と伝へられる。
葦ヶ窪の地頭小俣左衛門尉重澄は後に、親鸞上人の徳を慕って出家。
僧行を積僧唯念と稱し、真木菩福寺一世開山となる。
又此の時期、太布乃名号で知られる、龍泉寺。
寺の下の作太郎も上人の徳を慕って僧業し、永讃坊乗信として、 真木福正寺三世住職となる。
両寺共教行信證浄土真宗なり。
         合掌 」 
(大意)
「 親鸞上人が甲州萬幅寺参詣の帰途、この地の地頭小俣左衛門尉宅に泊まったおり、 葦ケ池の毒蛇済度を懇請される。 上人は二十一日間小石に六字の名号を墨書し池中に投入するや霊は東南の空高く消え去り・・・とある。  葦ケ池の毒蛇は実は小俣左衛門尉の娘、よしだった。  この地に修行に訪れた若い僧に恋せしが実らず、池に身を投げ大蛇になったのだという。 」 

稲村神社の境内には「合体道祖神」という、 男根女陰両体の自然石の道祖神が祀られている。
甲州街道は、その先で、JR中央本線で分断されている。
手前の三叉路を左に入ると目の前はJRの小さなトンネルである。 
トンネルの手前、左側の畑の片隅に、「葦ヶ池由来」の石碑がある。 
前述の よしが恋いこがれ、その恋を成就出来ずに身を投じた池は、ここにあったのである。
トンネルを抜けると国道に合流する。



阿弥陀海道宿

緩い坂道を上って行くと、道は左へカーブしながら笹子川橋を渡り、阿弥陀海道宿に入る。

「 地名の由来であるが、かって宿場入口近くに阿弥陀堂があって、 行基が刻んだ阿弥陀如来像が祀られていたという。 このことからこの辺りを阿弥陀ヶ谷と呼んでいたが、 それが訛って阿弥陀海道になったといわれる。 
阿弥陀海道宿は、白野宿より十八町(約2km)のところに位置しで、 宿場は四町(約四百五十メートル)という短く、小さな宿場であった。
(注)新修「五街道細見」には白野宿より二十六丁となっている。
本陣が一軒、脇本陣も一軒、旅籠が四軒、戸数七十余軒、人口三百三十人程で、この宿場だけでは宿場の業務を負担しきれないため、当宿と白野宿と黒野田宿の三宿が交代で行っていた。
なお、当宿の人馬継立ては十六日から二十二日までだった。 」

甲州街道は「デイサービス和の家」の先で、右の狭い道を直進するが、 その先には旧笹子小学校があり、分断されている。 
そのまま国道を行くと、左側に先程看板があった大正時代の創業という「笹一酒造」の工場があり、酒遊館で試飲も販売もしている。

酒遊館(即売所)前の駐車場の一角に、 世界一大きいとギネスブックにも登録されている大太鼓が置かれていた。  口径四メートル八十センチ、胴長四メートル九十五センチ、 重さがなんと二トンとあった。 」

20号線を進むと笹子局の先に交叉点があり、 右側の笹子川にかかる阿弥陀海橋からくる道と合流する。 
この道を北に進むと集落があり、小さな道が左右に、また、楕円状張り巡らされて いるので、このあたりが阿弥陀海道宿跡なのではないだろうか?
甲州街道を集落内を通り、西側に抜け、川を渡り、笹子駅の先の中央道が国道と交差するあたりに出ていたと、推定したが間違いだろうか?
ここまで歩いてきたが、阿弥陀海道宿の本陣や脇本陣、旅籠も阿弥陀堂の所在地はわからない。 宿場を示す看板や石碑が見つからない。
笹一酒造から百メートルほどで、笹子町吉久保から笹子町黒野田と変わった。
国道には「東京から106q」の標識があった。
その先に笹子駅入口交叉点があり、左折し、 上り坂を右折した突き当たりに小さな笹子駅があった。 
駅前広場には桂太郎筆の笹子隧道開通記念碑が建っている。

「 笹子隧道は、全長四千六百五十六メートルのトンネルで、 完成したしたのは明治三十五年である。
今も下り列車専用として使われている。 
笹子は急勾配であったため、機関車はスイッチバックして、坂を上っていった。
笹子駅には、当時のスイッチバックが出来る線路構造物が、駅の南東に残っている。  
また、当地の名物、笹子餅が駅や主要列車内で売られていたが、 今も駅前の笹子餅本舗で製造され、販売されている。 」

阿弥陀海道宿はどこか、表示も説明板もなかったので、 その形跡は残っていない、と思った。 


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かうんたぁ。