白野宿(しらのしゅく)>は、中初雁宿より一里八町のところにあり、
町の長さは五町十二間で、本陣は一軒、脇本陣も一軒、旅籠が四軒で、戸数八十余軒、人口三百十余人だった。
この宿場は、隣の阿弥陀海道宿とその次の黒野田宿との三宿で、人馬継立業務を行っていた。
中初雁宿から白野宿
その先は河原の集落で、集落を抜けると、国道は左に半円形にカーブする。
「 江戸時代の甲州街道は、右側の民家と工場の間の道に入り、上っていった。
ここは、南に山塊が突き出たような地形で、
南には北方川と滝子川がこの山塊を挟むように流れている。
中央本線はこの山塊(尾根)をトンネルで抜けていく。
甲州街道はこの尾根を越えて進んでいたのだが、今は道が途中でなくなっているので、
進むことはできない。 」
国道を歩くのだが、歩道が無いのである。
右は高い崖、左のガードレール下は笹子川の深い谷で、更に、その先は右へカーブしているので、大変危険と感じる道である。
大型トラックがすれ違うと怖い道を通り抜ける。
尾根を回り終えると、「甲府」という道路標識があるが、国道を直進せず、
右の狭い道に入る。
尾根から大月市笹子町白野に変わり、江戸時代の白野宿である。
「 白野宿は、中初雁宿より一里八町(約5km)のところにあり、
宿場の長さは五町十二間(約590m)で、本陣が一軒、脇本陣も一軒、旅籠が四軒で、
戸数八十余軒、人口三百十余人だった。
この宿場は、隣の阿弥陀海道宿とその次の黒野田宿との三宿で、
人馬継立業務を行っていた。
白野宿が担当したのは一月のうちの二十三日から晦日までだった。 」
この道は車も通らないので安心して歩くことができる。
宿場の中程にどっしり構えた大きな家は、旅籠「よろず屋」の跡である。
この建物は、江戸時代のものではないようだが、宿場内では存在感のある大きな建物である。
宿場の出口に近い、宝林寺参道の右側は、天野脇本陣があった場所で、
今は民家になっている。
宝林寺参道入口の柏の木がある家が今泉本陣だったところである。
その先の三叉路で、再び国道20号線と合流するが、江戸時代の白野宿はここで終わりである。
白野宿跡は落ち着いた静かなたたずまいの集落であった。