『 甲州街道 (23) 白野宿 』    

白野宿(しらのしゅく)>は、中初雁宿より一里八町のところにあり、 町の長さは五町十二間で、本陣は一軒、脇本陣も一軒、旅籠が四軒で、戸数八十余軒、人口三百十余人だった。 
この宿場は、隣の阿弥陀海道宿とその次の黒野田宿との三宿で、人馬継立業務を行っていた。 




中初雁宿から白野宿

その先は河原の集落で、集落を抜けると、国道は左に半円形にカーブする。

「 江戸時代の甲州街道は、右側の民家と工場の間の道に入り、上っていった。 
ここは、南に山塊が突き出たような地形で、 南には北方川と滝子川がこの山塊を挟むように流れている。 
中央本線はこの山塊(尾根)をトンネルで抜けていく。 
甲州街道はこの尾根を越えて進んでいたのだが、今は道が途中でなくなっているので、 進むことはできない。 」

国道を歩くのだが、歩道が無いのである。 
右は高い崖、左のガードレール下は笹子川の深い谷で、更に、その先は右へカーブしているので、大変危険と感じる道である。 
大型トラックがすれ違うと怖い道を通り抜ける。 
尾根を回り終えると、「甲府」という道路標識があるが、国道を直進せず、 右の狭い道に入る。 
尾根から大月市笹子町白野に変わり、江戸時代の白野宿である。 

「 白野宿は、中初雁宿より一里八町(約5km)のところにあり、 宿場の長さは五町十二間(約590m)で、本陣が一軒、脇本陣も一軒、旅籠が四軒で、 戸数八十余軒、人口三百十余人だった。 
この宿場は、隣の阿弥陀海道宿とその次の黒野田宿との三宿で、 人馬継立業務を行っていた。 
白野宿が担当したのは一月のうちの二十三日から晦日までだった。 」

この道は車も通らないので安心して歩くことができる。 
宿場の中程にどっしり構えた大きな家は、旅籠「よろず屋」の跡である。 
この建物は、江戸時代のものではないようだが、宿場内では存在感のある大きな建物である。 
宿場の出口に近い、宝林寺参道の右側は、天野脇本陣があった場所で、 今は民家になっている。
宝林寺参道入口の柏の木がある家が今泉本陣だったところである。 
その先の三叉路で、再び国道20号線と合流するが、江戸時代の白野宿はここで終わりである。 
白野宿跡は落ち着いた静かなたたずまいの集落であった。



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かうんたぁ。