『 甲州街道 (22) 初狩宿 』    


初狩宿は初雁宿とも書かれたが、下初狩(初雁)宿と中初狩(初雁)宿の二宿の合宿だった。 
人馬継立を中初雁宿が上十五日、下初雁宿が下十五日と交替で行なっていた。 




花咲宿から下初狩宿

花咲宿から下初狩宿まで三十五町三十六間なので、一里弱の距離である。 
中央道花咲JCTの高架橋を過ぎると、大月市大月町真木になる。
三軒屋交差点あたりから緩い上り坂となる。
江戸時代の甲州街道はこの先で左に入り、JR中央線の下を抜けて笹子川沿いに進むのだが、今は途中で道がなくなっているので、そのまま進み、真木橋を渡る。 
真木集落を進むと右手に真木諏訪神社がある。 その前を通過し、初月橋を渡る。
ここから大月市初狩町下初狩である。

道は左へ大きく曲り、JAを過ぎると、左手に笹子川に架かる橋とJR中央線が見えてくる。 
ここで国道20号と別れて、左側の笹子川に架かる源氏橋を渡り、中央線の踏切を渡る。
すると、左から右へ細い道が横切っている。  これが甲州街道である。 
右折して、線路に沿って進むと、左手に甲州石砕があり、馬頭観音石碑群がある。 
そのまま進むと中央線の踏切にでるので、 踏切を渡ると、文化三年(1806)に建立された「聖護院道興」の歌碑が建っている。

 「  今はとて かすみを分けて かえるさに おぼつかなしや はつかりの里  」
聖護院道興は、関白、近衛房嗣の子で 、天台宗寺門派修験宗の総本山聖護院の座主を務めた人物である。 
道興は諸国を行脚し、回国雑記を記しているが、 この歌は文明十九年(1487)に詠まれたものである。 

道は国道に合流する。
国道を少し東京方向に戻ると、「日本橋から100km」の道路標示がある。 
ここから国道20号を歩く。 このあたりは下初狩の中心地で、 初狩駅前交差点を左折して行くとJR初狩駅がある。 
下初雁宿はこのあたりにあったと思われる。
宿場の長さは七町(770m)で、本陣が二軒、脇本陣が二軒、旅籠十二軒、戸数百軒であったが、本陣や脇本陣など、どこにあったか、確認出来なかった。 

「 ここ初狩村や前宿の花咲村などこの周辺は幕府の天領で、 甲斐国郡内領と呼ばれていた。
その地名を付けた「郡内織」という良質な絹織物の産地としても有名だったが、 それらの織物に携わる女性が多かったので、 宿場稼業より、そちらに精を出す家の方が多かったのかもしれない。 」

初狩駅前交差点の手前右側の道路際に、 「山本周五郎誕生之地」と刻まれた石碑が建てられている。 
その裏に民家はあるが、山本周五郎(本名清水三十六)は、 四歳の時、山津波で生家を流されているので、関係はない。




中初狩宿

初狩駅入口交差点の左にローソンがあるので、必要なものはここで買っておくといい。
藤沢入口交差点の手前の宮川橋を渡ると中初狩宿となる。

「   中初雁宿は下初雁宿より八町二十四間(約1q)の距離にあり、 町の長さは十町四十四間(約1200m)で、 本陣一、脇本陣一、旅籠二十五軒、戸数百五十軒、、人口四百五十余人という構成だった。
中初雁宿は下初雁宿より家数も人口も多く、町の長さも長い。  また、旅籠の数も多かった。
大月宿に比べ、旅籠の数が多いのは笹子峠を控えた宿場だったからなのだろう。 」

初狩小学校東交差点の左側にある跨線橋には特急あずさが走っていた。

この下をくぐって五百メートル行くと、 リニア実験線がトンネルとトンネルの間から顔を出す光景を目にすることができる。
中央新幹線と呼ばれるリニアモーターカーは、 初狩駅がスイッチバックをやめた五年後の昭和四十八年に計画され、 現在開通に向けて工事が進められている。

初狩小学校は、明治六年に「福聚院初狩学校」として始まったという歴史を持つ学校 である。  その前に建っているのは芭蕉句碑で、隣の五十センチ程の石のかけらは芭蕉塚である。 
「  山賊乃  願とつる  葎哉  芭蕉  」
 (やまがつの おとがいとずる むぐらかな)   
数分歩くと、右側に大きな家があるが、 建物の東側に「明治天皇御小休遺跡」という石碑が建っている。 
ここは中初狩宿の小林本陣があったところである。 
建物の左側には本陣特有の屋敷門があるが、 残念ながら、建物も門も当時のものではない。 
脇本陣は、斜め向かい側にあったのだが、何も残っていなかった。 
カーブを曲がると、唐沢橋バス停があり、 小さな唐沢橋の手前に、「首塚」の道標がある。 
それに従い、左手の中央線のガードをくぐって、山の中に入って行くと、 「小山田左兵衛尉信茂顕彰碑」と右手前に「湘南塔」がある。 
ここは「瑞竜庵」という寺があったところで、寺が明治四十年頃の水害で、 土砂崩れに遭いなくなったといわれる。
その跡に立派な慰霊塔が建てられていた。  

「  これは武田勝頼の逆臣だった小山田信茂の首塚であると言われている。 
小山田信茂は、織田に追いつめられ、新府城で苦戦している勝頼を、 自らの城である岩殿城に招き入れようとした。 
しかし、調略により裏切り、笹子峠から郡内には入れ、 武田家を滅亡に追いやった。
織田信長は武田氏を滅亡された後、信茂を主君を裏切ったとして、 甲斐善光寺で処刑した。 
甲斐善光寺の北方にも首塚があるが、そちらは胴塚で、 京都三条河原でさらされた首はこの初狩にあるというのが有力な説となっている。 」

街道に戻り、唐沢橋を渡ると左側の一段高い石垣の上に石塔群があった。 
石地蔵や秋葉常夜灯なども含まれているので、道路工事などの際、周囲から集められたものと思われる。
  小林電装大月倉庫の前を過ぎると、正面に峰の山(911.2m)がそびえている。
これまで上り坂だった道がこの辺りだけ平坦地である。
左側に「笹一酒造)の看板があるところで、 正面のカーブから笹子川を渡る船石橋が見える。 
谷は狭まり、左に中央本線、右に中央自動車道が迫ってくる。 
船石橋でを渡ると、これまで国道の北側に流れていた笹子川が南側になった。 
左側の草むらには「船石」の道標と「船石の由来」碑が建っている。

「船石の由来」
「 昔この辺りに船の形をした大きな石があったが、 明治四十年の大水害で埋没した。 
親鸞上人が初狩を通ったとき、この石の上で説法を行い、 また、老婆に名号を求められて、 この石の上で布に書いて与えたという伝説がある。 」

初狩宿はこの先で終わる。

 

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かうんたぁ。