花咲宿は下花咲宿と上花咲宿からなる宿場であった。
下花咲宿は本陣が一軒、脇本陣が二軒、旅籠は二十二軒で、家数七十軒程、
宿内人口三百七十人余であった。
上花咲宿は下花咲宿より五町五十八間(600m程)の距離にあり、
本陣が一軒、脇本陣が二軒、旅籠が十三軒、そして、七十余軒の戸数、人口三百余人の人口だったとされる。
花咲宿
花咲宿は下花咲宿と上花咲宿という二つの宿場で、
一つの宿場の機能を果たす合宿である。
下花咲宿は大月宿より十三町四十二間(千五百メートル)の距離なので、あっと言う間に到着である。
江戸時代は下流に架けられた橋を渡り、宿場に入ったが、その道は分からない。
国道に架けられた大月橋を渡ると、大月市大月町花咲である。
下花咲宿の長さは四町十六間というから、四百七十メートルと短かい。
そこに七十軒程の家があり、三百七十人余の人が暮らし、
本陣が一軒、脇本陣が二軒、旅籠は二十二軒あった。
下花咲宿は上花咲宿と共に、一つの宿場を構成していて、
人馬継立は、上花咲宿が上十五日、下花咲宿が下十五日と交替で行なっていた、という。
少し歩くと左側の空地に江戸から二十四里目の下花咲一里塚がある。
一里塚の説明板の後に、こんもりと土が盛られ、
エノキが植えられている。
平成七年に整備させた際、庚申塔や馬頭観音、地蔵など、
多くの石塔が集められたらしい。
その中に天保十三年(1842)建立の芭蕉句碑があった。
「 しはらくは 花の上なる 月夜かな 芭蕉 」 という句碑である。
その先の下花咲バス停の右側にファミリーレストランのガストや藍屋が営業しているが、
その間に挟まれたようにあるのは星野家住宅である。
星野家は名主と問屋をつとめた名家で、下花咲宿の本陣だった家である。
現在の建物は、嘉永五年(1832)に再建されたと推測されるもので、
国の重要文化財に指定されている。
家の前に「明治天皇花咲御小休所」と「本陣」の石碑が建っている。
大月市教育委員会のパンフレットによると、
「 星野家は、甲州街道大月宿の西隣にある花咲宿の名主を務めていた旧家です。
下花咲宿の本陣であり、幕末には薬の商いも行っていたほか、
農地解放前には、二十五町歩ほどの田畑を所有し、
養蚕では百貫ほどの収穫があったと伝えられています。
江戸時代には、甲州勤番をはじめ大名や幕府の役人らが宿泊しましたが、
天保六年(1835)の火災で焼失し、その後、再建されました。
再建の年月を示す資料は未発見ですが、嘉永五年(1852)に記された家相図によると、
間取りと規模が現在の母家と一致しており、
天保末からこの間にかけて再建されたと考えられています。
現在の母家は、焼失以前のものと比べると、規模は少し小さくなりましたが、
間取りと部屋数は変えず、街道により近づいて建てられました。
明治十三年(1880)六月十八日には、
明治天皇が京都へ御巡幸の際に小休所にあてられました。
江戸時代から続く荘厳なたたずまいは、由緒ある歴史を今に伝えます。 」 とある。
四百メートルも歩くと、右側に大月インター入口がある。
BOOK・OFFの先の右手に西方寺橋があり、その先に大月公民館上花咲分館がある。
上花咲宿は下花咲宿より五町五十八間の距離にあるので、ここからは上花咲宿である。
上花咲宿は本陣が一軒、脇本陣が二軒、旅籠が十三軒、そして、七十余軒の戸数、人口三百余人の人口だったとされる。
右側のセレモホールはなさきの先、四十メートルのところに右へ入る道があり、。
右側に廿三夜碑、左には数十基の石碑が並んでいる。
この細い道はかっての甲州街道と思われたが、四十メートル程先で住宅地につきあたり、行き止まりになってしまった。
花咲宿は花咲交差点を過ぎた大月JCTの高架下あたりで終わる。
江戸時代の町名の上花咲はバス停に残っているだけで、
上花咲宿の本陣や脇本陣がどこにあったのか分からず仕舞だった。
国道に歩道がないので、側溝の蓋の上を歩いていくが、
大型トラックが多く行き交い、とてものんびり歩くことはできなかった。