『 甲州街道 (20) 大月宿 』    


大月宿は、駒橋宿より十六町二十六間の距離で、甲州街道第二十番目の宿場であるが、家並の間に田畑があり、本陣が一、脇本陣が二軒あったが、 旅籠は二軒だけという寂しい宿場であった。 




大月宿

JR中央線に平行する「さつき通り」は道幅が狭いが、これが甲州街道である。
大月駅前のビジネスホテル濱野屋は、明治三十三年創業の老舗旅館で、 冨士講の定宿として賑わったという。 
その先には、鍾馗様が看板を守っている木村屋菓子舗がある。 
商店街を抜けると大月二丁目交差点で、国道20号に合流する。 
このあたりからが大月宿である。 

「 大月の名の由来は、宿場手前の三島神社にあった大欅(けやき)を大槻と呼んだことから、大月の名が起こったといわれるが、 宿内の無遍寺不動堂から見た月が、扇山と高畑山の低い所から出て、月が大きく見えたことからという説もある。 
大月宿の長さは四町余(450m程)と短かく、本陣が一軒、脇本陣が二軒、 旅籠は二軒だけで、宿場の戸数九十戸余、人口は三百七十余人と少なかった。 」

市役所前を過ぎると、滝口商店があるが、ここが大月宿の本陣跡である。
「明治天皇御召換所址」の石碑と説明碑があった。 

「説明碑」
「 明治大帝は王政維新後民情安定に大御心を注がれ給ひ   明治十三年六月十六日 宮城御發輦 二品伏見宮貞愛親王を始め   太政大臣三條實美 参議寺島宗則 仝伊藤博文 仝山田顕義 宮内卿徳大寺實則 文部卿河野敏謙 内務卿松方正義 侍従長米田虎雄 山口正之 陸軍中将三浦梧樓 宮内少輔土方又元 太政少書記官 伊東巳代治等 百官有司供奉し   峻坂難路の甲州街道を降らせられ 小佛の険を越へ鳳輦親しく我縣に臨み  一週日間に亘り縣下の民風土情を宸察あらせらる  此の砌仝十八日 大月町字大月先々代溝口五左ヱ門宅に御駐輦あらせられた由緒深き尊き御遺跡なり 」 

明治天皇が明治十三年に一週間かけ山梨県視察した際、 ここにあった本陣溝口邸でお召し替えされたことが碑に記されている。 
道の反対側にある駐車場辺りが脇本陣跡のようである。 
数分歩くと、大月橋東詰交差点で、左下には富士急上大月駅がある。 
ここが大月宿の西の入口で、大月宿はここで終わる。

「 大月は第二次世界大戦の時、飛行機を造る軍需工場があった。
終戦の二日前に空襲を受け、 都留女学校(現在の大月高校)から学徒動員されて学生が犠牲になった。 
その影響もあってか、大月宿には当時の遺跡は残っていなかった。 」

江戸時代、宿場をでると大月追分があり、 甲州街道から東海道へ抜ける「豆州相州道」があり、 この街道は富士山道、富士道(富士山参詣道)とも呼ばれた。

「 三叉路の大月橋東詰交差点は甲州街道と冨士道との追分で、 冨士道は大月宿が起点である。 
冨士道は谷村を経て桂川沿いに富士山の麓の吉田に至っていた。  更に上吉田で「鎌倉道」と合流し、 籠坂峠を越えて東海道の伊豆国三島宿や相模国小田原宿へ通じていた。 
現在の甲州街道は国道20号で、直進して桂川にかかる大月橋を渡る。 
左折する富士道は国道139号線になっている。  」

大月橋東詰左側の小さな広場の中央の祠の右手に道標が三つ建っている。
道標には、「左富士街道 右甲州街道」、「左ふじのみち 右甲州道中」、 「左富士の道 右甲州道中」と刻まれている。 

「  富士浅間神社への御参りする冨士講は江戸後期にはブームになっていたようで、 冨士講の人達が富士山に向かう際、この追分に気が付かず直進してしまうと、 富士山には行けないので、道標は重要であった、と思われる。 」

甲州街道の行く手に桂川があるので、 江戸時代の甲州街道は川前で右折して川岸に降り、 下流の笹子川の合流点に近いところで、橋を渡った、という。 
現在はその道は残っていないので、大月橋を渡って進む。


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かうんたぁ。