『 甲州街道 (18) 猿橋宿 』    


猿橋宿は、上鳥沢宿より二十六町半、駒橋宿より二十二町の距離に位置するが、 ここは単なる旅人宿というより、景勝猿橋を見学しようという人達で賑わった宿場である。 
宿場の入口から出口まで三町三十四間の短い宿場だったが、百三十余軒の家が立ち並び、五百四十人程の人が住んでいた。  本陣が一、脇本陣二、旅籠が十軒、その他、茶屋も多くあった。




鳥沢宿から猿橋宿

訪れたのは令和元年(2019)十一月十九日である。 
大月市富浜町鳥沢を終えると、 新しい狭い歩道で国道へ降りて行くと、すぐに宮谷橋に着く。 
右側に国道の橋と平行して水路橋があり、そこから先ほどの旧道は階段で下りられるようになっている。 

水路橋は明治時代の煉瓦造りの構造物で、歴史を感じさせるものである。
東京電力の看板があり、水力発電所の放水路だが、付近に発電所は見あたらないが、 懇々と水は流れていた。 

ここから猿橋入口まで、国道を九百メートル程歩く。 
宮谷入口交差点の下には先程の水路が覆いの下に流れていた。 
狭い歩道を進むと蛇骨沢を渡り、常夜灯のある七面大明神碑の下を通過する。 
「直進は甲府・勝沼・中央道、右小菅」の道路標識が現れたら、 右折して小菅方面へ進む。 
国道を真っ直ぐ行くと、その先に新猿橋を渡るが、猿橋は右折して甲州街道に入る。 
道は、居酒屋食堂仙台屋から緩い下りになり、右手には猿橋中へ入る道がある。 
 
その先に「日本三奇橋 猿橋」の看板があり、左側に猿橋へ降りる階段がある。

階段を降りると、 「 うき我を 淋しからせよ 閑古鳥 はせを 」 という 松尾芭蕉の句碑があった。 
なお、橋を渡らず、直進すると 「  かれ枝に 鴉とまりけり 秋の暮  はせを  」 という芭蕉句碑がある。 
しかし、これらの句はここで詠まれたものではないのでは?! 
芭蕉がここで詠んだ句は、 「  猿橋や 月松にあり 水にあり 」 である。

下り階段を降りると「猿橋」の欄干が見える。 
橋は渡ることができるので、橋の中程から下を覗くと、桂川の 切り立った深い谷になって、黒ずんだ蒼の水がながれ、よくもこんなところに橋を架けたものだと感心してしまった。 
橋の上には「七保浅川不動尊」と書かれた行燈などが展示されている。
対面には生活道路として架かられた近代的な新猿橋があった。

松尾芭蕉句碑
x 「猿橋」の欄干 x 行燈 x 新猿橋
芭蕉の閑古鳥の句碑
「猿橋」の欄干
行燈
新猿橋



橋を渡り、対岸に行き、下に降ると,、「甲斐の猿橋」の標柱があった。
上を向いて猿橋の構造を眺めた。

「 猿橋は桂川に架かっている橋で、 肘木けた式という独特の工法を用い、普通の橋のように橋桁は用いず、 両岸から四層にせり出したはね木を設け、それを支点に木の桁を架け渡す構造になっている。 
現在の橋は昭和五十九年に総工費三億八千万円余をかけ架けられたもので、 橋の長さは三十一メートル、川面までの高さは三十メートルである。 」

「名勝猿橋架替記念碑」の隣に「明治天皇御召し換所址」の石碑を見付けた。

「 明治天皇は西南戦争後の政情安定のため、明治十三年六月、 甲州路、木曽路を経由し、 太政大臣三条実美、参議伊藤博文他、 三百〜四百人を引き連れ行幸を行っている。  今の国道二十号線でなく、甲州街道を長野原から、鶴川宿、野田尻宿、犬目宿、 鳥沢宿を経由し、猿橋に至り、 ここから笹子峠を越える難路を行った。  馬車での移動でここでは御召し換えを行われたのだろう。 」

橋の袂に猿橋の説明板があった。 

説明板「名橋 猿橋」
「 猿橋架橋の始期については定かでないが、諸書によれば「昔、推古帝の頃(600年頃)、百済の人、志羅呼(しらこ)が この所に至り、猿王の藤蔓をよじ、 断崖を渡るを見て橋を造る」とあり、その名はあるいは白癬(しらはた)、 志耆麻呂(しきまろ) と様々であるが、これ以外の伝説は見当らない。 
史実の中では、文明十九年(1486)二月、聖護院の門跡道興はこの地を過ぎ、 猿橋の高く危うく渓谷の絶佳なるを賞して詩文を残し、 過去の架け替えや伝説にも触れています。 
応永三十三年(1426)、武田信長と足利持氏、 大永四年(1524)、 武田信虎と上杉憲房との合戦の場になった猿橋は、戦略上の要地でもありました。 
江戸時代に入り、五街道の制度が確立してから甲州道中の要衝として、 御普請奉行工事(直轄工事)にて九回の架け替えと、 十数回に及ぶ修理が行われてきました。 この間、人々の往来が頻繁となり、 文人墨客はこの絶景に杖をとめて、多くの作品を今に残しています。 
昭和七年、付近の大断崖と植生を含めて、猿橋は国の名勝指定を受け、 今日に至っています。  昭和九年、西方にある新猿橋の完成により、 この橋の官道としての長い生命は終わりましたが、 その後も名勝として生き続けています。 
今回の架け替えは、嘉永四年(1851)の出来形帳により架けられており、 江戸時代を通じてこの姿や規模でありました。 
昭和五十八年着工、昭和五十九年八月完成、総工費三億八千三百万円であります。 
橋の長さ、三〇・九メートル、橋の幅、三・三メートル、橋より水際まで三〇メートルです。  
    大月市教育委員会   」

桂川に架かかる猿橋(さるはし)は、江戸時代、岩国の錦帯橋、木曽の桟とともに、 日本三大奇橋の一つとなっていた。 
「 推古天皇の時代、即ち、七世紀頃、百済からの渡来人志羅呼(芝耆麿)が、 猿の群れが川を越える様子を見て発案し、架橋に成功した。 」 という逸話から、 猿橋の名が付いたというのが定説だが、工法からの算橋が訛って、猿橋となったという説もある。 
渓谷美をとりいれた猿橋は、古から文人や画家の題材として誉高く、 また、国の名勝にも指定されている。 

日本三大奇橋「猿橋」
x 肘木けた式の「猿橋」 x 明治天皇御召し換所址 x 説明板
日本三大奇橋「猿橋」
肘木けた式の「猿橋」
明治天皇御召し換所址
説明板






猿橋宿

橋を渡り下ると、その一角に「山王宮」の赤い鳥居と小さな祠があった。 
その横には字が読めなくなった芭蕉の句碑があり、 「 枯れ枝に 鴉とまりけり 秋の暮 」 と刻まれている。
その近くに猿のオブジェのような造形物があり、説明板があった。

説明板 「三猿塔の由来」
「 奈良朝の昔、此辺の交通は至極難渋であって、 此渓谷を渡る事などは思いもよらなかった。  茲に桂川渓谷は、奥は小金沢から大菩薩峠に続く大幽谷で、 当時このあたりは老樹鬱蒼なほ暗き原始林におおわれていた。  猪鹿やことに山猿は群をなしていた。  或日白毛の老猿が黷フ枝に吊さがると、子猿共は互に手足をつないで、 向岸の藤蔓に飛つきながら、 懸橋の形となりそれをたよりに両岸を往復した。  之にヒントを得た百済の造園の博士芝○麻が構築したのが、 日本三奇橋の一つと呼れる茲の猿橋であると云う伝承から、 現在白猿の霊像が祀られている。  茲に三猿の塔を造成、その霊徳を萬世に伝えることにした。 
野口雨情は 「 甲州猿橋 お山の猿が お手々つないで かけた橋 」 という句を詠んでいる。 
山王は猿の神である。 」

山王社の近くの大黒屋は江戸時代、旅籠だったようで、 国定忠治が逗留し、広重も昼食をとったという老舗である。
現在は「忠治蕎麦」の看板を掲げる蕎麦屋になっていた。
店先の看板に「国定忠治定宿」とあり、 「 役人に取囲められたのを尻目に野鳥入りの蕎麦をたいらげ、 追う役人達から桂川の雨後の激流に飛び込み、逃げきった。 」 とあった。 
猿橋の南西は広い猿橋公園になっていて、公園を横切って、 大月市の郷土資料館にいくと、 猿橋の模型と猿橋宿の町並み模型を見ることができる。 
山王社を跡にして、集落に入ると、左側に猿橋の無料駐車場があり、 そこに「甲州街道 猿橋宿」の標柱が立っていた。

「 猿橋宿は、三町三十四間だったので、三百四十メートル程の集落だったと思われるが、そこに本陣が一軒、脇本陣二軒、旅籠が十軒あった。 」

家並みを抜けると、新猿橋西交差点で、この交叉点あたりが猿橋宿の東口である。
国道と合流したので、右折して大月方面へ向う。 
猿橋小入口交差点を過ぎると、酒の大布屋、立派な駐在所、厚焼きせんべいの幡野屋、手作り豆腐の高見屋などが軒を連ねる。
活気はあったが、宿場だったという感じは残っていない。 
本陣などがどこにあったかなど、当時の痕跡は分からず仕舞であった。 

山王宮
x 三猿塔 x 大黒屋 x 猿橋宿の標柱
山王宮
三猿塔
大黒屋
猿橋宿の標柱





甲州道中目次へ                                      続 き (駒橋宿)



かうんたぁ。