鳥沢宿は、下鳥沢宿と上鳥沢宿の合宿で、半月交替で継ぎ立てを行なった。
下鳥沢宿は本陣一、脇本陣二、旅籠十一軒の宿場であった。
そこから五町三十間の距離にある上鳥沢宿は本陣一、脇本陣二、旅籠十三軒と他の宿場より多かった。
犬目宿から鳥沢宿
犬目宿の現在は扇山の登山のスタート地点になっていて、
JR四方津駅から犬目行きの富士急山梨バスが一日3本でている。
「 登山の主たる目的は富士山の展望とツツジで知られる扇山を歩くことである。 」
甲州街道は犬目宿の枡形の直角を右折する。
その直後の右側にあるのが龍澤山寶勝寺である。
ここには直径一メートルほどの石の玉に空と書かれた不思議なオブジェがある。
その先、防火用水の手前から寺に向かう車道を登ると梢の向こうに富士が顔を覗かせる。
崖の中腹に陰陽道祖神が祀られていて、その近くには夫婦道祖神が祀られていた。
枡形から二回カーブを過ぎると右側に不動明王像があり、
その先に「白馬不動尊」の鳥居がある。
その先のカーブの上には茅葺きの「瀧松苑」という蕎麦店があるが、
完全予約制である。
更に五つカーブを曲がってゆくと君恋温泉(0554-66-2688)である。
「 三人も入ればいっぱいになってしまう小さな家族風呂が一つの宿で、扇山からの下山ルートにあり、山でかいた汗を流すにはもってこいのロケーションにある。 日帰りは事前予約制で、八時から二十時で五百円である。 但し、温泉と付いているが、 温泉ではなく、沸かし湯である。 」
君恋温泉から道は下り坂となり、
最初の左カーブには「扇山〜犬目宿」の道標があり、
その脇に「不動明王」の石碑がある。
そのカーブを曲がり終えると見えてくるのが、「恋塚の一里塚」である。
「 道路の左側のこんもりした小山が、日本橋から二十一里、二十番目の一里塚である。
正面から見ると立派な塚だが、裏は沢に向かって崩壊していた。 」
一里塚からカーブを曲がると「恋塚集落」の入口で、 山住神社の赤鳥居の下を右に入る道が旧甲州街道である。
「 恋塚の地名は、東国征伐の帰途にあった日本武尊が
海神の生贄となった橘姫を偲んで思い沈んだことに由来するという。
恋塚集落は、江戸時代には馬宿を営んでいたところで、
この道は二百メートル弱しかないが、その間に家も数軒しかなかった。 」
集落が終わり、右側にある大きな建物は江戸時代馬宿を営んでいた家といい、 二百五十年前の建築である。 」
その先に、三、四十メートルの短い距離であるが、石畳道が残っている。
このあとは県道を歩く。 山中の道だが、途中の開けた所からは富士山がきれいに見える。
「 富士山の左が高畑山(標高982m)、 右が九鬼山(標高970m)、富士山の下が忍野村の杓子山(標高1597m)である。 」
牛宿から少し行ったところで、上野原市から大月市に変わる。
牛宿からから一キロ程歩くと山谷のバス停がある。
このあたりは山谷集落で、大月カントリークラブへの入口にもなっている。
道はS字を描いてカーブするが、ゴルフ場の方へは行かず、そのまま下る。
すぐに案内板があり、 「エコノ里徒歩四分えき近道」の看板があるが、
甲州街道は少し先の「鳥沢小学校通学路」の看板のある細い急な下り坂を降りて行く。
再び、県道30号に合流して、どんどん舗装路を下って行くと、
十五分程で小さな川を渡り、中野集落へ到着する。
集落の南を走る中央自動車道は、東京に向かって大きなトンネル・中野トンネルに入っていくが、
甲州街道は中野トンネルに入る直前の中央自動車道の高架をくぐる。
その先には大きな道路標識があり、その先の三叉路の左右は国道20号で、
突き当たりには古久屋生花店がある。
鳥沢宿
国道20号に合流したところから下鳥沢宿になり、
ここからは国道20号を歩くが、その先に「鳥沢小東」の交叉点がある。
「 鳥沢の名の由来は、次宿の猿橋宿の申(さる)と、
前宿の犬目宿の戌(いぬ)の間にあることから、
十二支で申戌の間の「酉(とり)」が付く「鳥沢」という名を付けたといわれる。
鳥沢宿は、下鳥沢宿と上鳥沢宿の合宿で、半月交替で継ぎ立てを行なっていた。 」
犬目宿から下鳥沢宿まで一里六町十四間の距離で、下り坂を1時間程の行程であった。
下鳥沢宿はここからJR鳥沢駅手前辺りまでで、
距離にすると四町三十間程(500m弱)である。
「 下鳥沢宿は下町、中町、上町の三町から構成され、
本陣が一、脇本陣が二、旅籠が十一軒、戸数は百四十程、人口は
六百九十人程だったといわれる。
宿の町並みは、人馬継ぎ立てや駕篭の乗降を考え、
街道筋から奥まって建てられていた。
道幅が広くなった今でも、街道に沿って庇の長い家が並び、
当時の面影を留めている。 」
鳥沢小学校の前の道路には、大月市指定天然記念物のコノテガシワの大木がそびえている。
また、JR鳥沢駅前の手前五十メートルほどの右側の歩道には、
日本橋から二十二里目(約88km)の「鳥沢一里塚跡」の標柱が立っている。
鳥沢駅前の信号を右に入った奥にある建物は、
火事になってから引っ越してきたというが、本陣だった家である。
JR鳥沢駅前辺りから上鳥沢宿で、
下鳥沢宿とはわずか五町三十間(約600m)しか離れていない。
「 上鳥沢宿は本陣が一軒、脇本陣が二軒、旅籠十三軒、 家数は百五十軒程、人口は六百五十人で、下鳥沢宿と同規模であった。 この二つの宿場は継ぎ立てを交代で行っていたので、 二つの宿で一つの宿場の役割を果たしていた。 」
国道20号鳥沢駅前交差点を二、三十メートル行くと、
左側に古い民家が二軒並んで建っているが、
二軒目の建物は、江戸時代、旅籠だった「叶屋」の跡である。
現在の建物は明治初期という。
この先、鳥沢郵便局前交叉点の先にセブンイレブンがあるが、
右側に古そうな家の横に「明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)地」と刻まれた石碑がある。
ここは井上本陣の跡地で、道の反対側には、江戸時代、問屋場があったようである。
この先から道は右にカーブし、その先、三栄工業の看板が見えたら、
国道とわかれて右に入っていくのが、甲州街道である。
右手に「馬頭尊」の碑があり、「土石流危険渓流」の看板のある横吹沢を渡る。
上り坂となると、右上には黄色い建物の市営横吹団地がある。
下り坂に変わると、国道20号に合流。 この間、距離にして五百メートル程である。
国道へ出ると、左側の眼下に桂川の流れが見え、
正面の対岸には「四季の丘」という猿橋の住宅地が広がっている。
そこから三百メートル程歩くと、左手に鳥沢消防団の火の見櫓が見えてくる。
甲州街道は、前田商店の右に入る道で、入って三十メートルで、
道は三叉路になるので、左へ進む。
そのまま進むと国道に出た。 距離的には二百メートルと短いものである。
大月市富浜町鳥沢はここまでであった。
(ご参考)「姥ざかり花の旅笠」 の関連部分
田辺聖子さんが書かれた「姥ざかり花の旅笠」の中に、
文化十年(1813)の鳥沢、鶴川、野田尻。 犬目峠が登場するので、下記しておきたい。
上記の本は、文化十年(1813)に女主人の小田宅子が、
九州の筑前国上底井野村(現中間市から、大阪、伊勢神宮、善光寺、日光、江戸、京都を
旅した旅日記を基に書かれたものである。
女主人の小田宅子は伊勢神宮までは関所手形を用意しての旅だったが、
その後の善光寺や日光東照宮、江戸、江の島への旅はなりゆき任せの旅で、
手形の用意はなかったようである。
江戸初期にはきびしかった「関所の女改め」はこの時代にはもう、
かなり綱紀が弛緩していたようで、小田宅子一行は関所を迂回したり、
役人に袖の下を渡したりして通っていったようである。
「 小田宅子さん一行は江戸見物を終えての帰路、
東海道から金沢八景、鎌倉、江の島を見学して、東海道の藤沢宿に出ている。
普通は、この後、東海道の小田原から箱根に出るが、
ここには女改めで有名な箱根の関所がある。
彼女らは、藤沢の若松屋という陶物の問屋に寄り、
「 箱根の裏を越しめんとして、みちしるべの文をものせり 」 と、
箱根の関所を避けたルートが書かれた計画書を手にいれ、東海道からははずれて、現在の県道43号で西北へ向かい、厚木村の釜形屋に宿泊。
翌日は西北へ向かい、荻野、田代を経て志田峠を越えた。 」
現在の道では国道412号で、田代へ出て、志田峠は東名厚木CCの西にある。
ここでは雲に覆われない真っ白な富士山を見て、感動している。
日記には 「 なお西へ。 沼田村に着く。 この川の向ひに年坂の関とてあり。
日も七つという時になれば、いそぎて沼田川を渡たる 」 云々とある。
沼田村とは、現在の相模原市緑区(相模湖町)寸沢嵐のことだろう。
地図を見ると、みの石沢キャンプ場の南に、関所跡の表示がある。
また、この近くに、「ねん坂の関」というおいしい蕎麦屋があるので、
間違いないだろう。 」
甲州街道の関所といえばここは小仏関となるが、年坂関は
それを避ける間道にあった関所なのだろう。
地元の人に頼んだのはねん坂の関を避ける間道だったようで、なかなからちがあかなかったようである。
地元民でも関所破りに手を貸すのには勇気のいることだったのだろう。
「 日が暮れる。 畠の中、桑の林などおしわけてつつ、甲斐の国へ通う道筋に出むとて、勝浦(かつら)川を渡り、いそぎて小原村につく。 そこの小松屋にやどる。 」 とあり、 日が暮れる時になって、関所をやぶって、小原宿に泊っている。 」
江戸時代、江戸へ入るには鉄砲、出る時は女性の監視がきつく、 箱根の関を越えるには手形の提示はもちろん、持物検査など厳しかったので、 手形をもたない宅子一行は相模湖の南にあった年坂の関の地元の人が利用する間道を利用するように、藤沢の若松屋から紹介状を貰い、ここに来た。
「 箱根や鈴鹿、新居の関ではありえないが、年坂の関など小さな関所では地元民が 街道を行き来するため、関所以外の間道を通ることを関所の役人が目をつぶっていた。 宅子一行はその道を使って、相模湖の北側の小原宿へ辿りついたのである。 」
翌日、藤沢から案内してきた人を帰して、 都留郡の上ノ原村(現在の上野原市)から馬を利用して、鳥沢の叶屋に泊っている。
宅子さんの旅日記には 「 翌日は、鶴川、野田尻。 犬目峠から見る村の景観は興深かった。 犬目峠を越えれば太々神楽が行われていた。 太鼓三味線で囃子、獅子舞まで出て面白い。 小西という村に至ったが、このへんは総じて養蚕がさかん、泊る家もなかった。 辛うじて泊めてくれた叶屋という家も、家の隅々まで棚を作って蚕を飼っていた。 」 とある。 」
前述の鳥沢駅から二百メートルの叶屋跡が上記の宿で、江戸時代の鳥沢宿
の様子がよくわかる。
彼女らは、翌日、猿橋、初狩、鶴瀬、勝沼と歩き、栗原に泊っている。