『 甲州街道 (16) 犬目宿(いぬめしゅく) 』    


犬目宿は標高五百十メートルの高いところにあった宿場なので、 富士山が綺麗に見えることで知られていた。 
江戸幕府が甲州街道を開設した時、今より南方の斜面にあった犬目村の集落を 街道へ移転させて、開設した宿場である。




野田尻宿から犬目宿

西光寺の門前の三叉路に「旧甲州街道は寺の右側」 という小さな看板がある。
指示に従って右に曲がり、坂道を上って行くと、中央自動車道の上にでる。 
高速道路を横切るための石畳風の歩道橋が架けられているので、その橋で 高速道路の反対側に出ると砂利道がある。 
その先は百メートル程の杉林の道であるが、どの先の左右は県道30号(大月上野原線)で、右折して県道を進む。 
県道の合流点には、「嶽 大先達白倉宝行」 と刻まれた、 明治二年建立の「荻野富士講」の石碑がある。 
県道を数分歩くと、右の擁壁の上に「荻野一里塚跡」の標柱と 「日本橋から二十里」という説明板が建っている。 
この先はなだらかな下り坂で、坦々とした道が続く。 
中央道に沿って進むと、右に高速道路の横断橋である「矢坪橋」が現れるので、 甲州街道はこの橋を渡って中央道の反対側にでる。 

「 矢坪橋を渡らず直進すると三百メートル程先に、 「談合坂サービスエリア(上り線)」がある。 
下に七、八台の駐車場があり、外部からの利用者も利用できる。 
上野原から先はコンビニは勿論、商店もほとんどないので、 この場所は食事や休憩に利用できる。 
あずまやのある小高いところからは富士山も見える。 」

休憩後、矢坪橋まで戻り、中央高速の横断橋を渡ると、 右側に「大乗妙典日本廻国供養」と刻まれた供養塔が見える。 
ここで、県道とわかれ、右側の山に入る細い坂道は「矢坪坂」と呼ばれ、 この道が甲州街道である。 
坂の入口には「矢坪坂古戦場跡」の説明板がある。 

説明板
「 享禄三年(1530)、相模国北条氏縄の軍勢が矢坪坂に進軍、 待ちかまえたのは坂の上の小山田越中守軍である。  激しい戦いが行われたが多勢に無勢、小山田軍は敗退して富士吉田方面に逃げた。 」

狭い坂道を上っていくとスリップ止めのある舗装道路があるが、 そのまま小道をいく。  坂道は次第に山の中へと入り、緩やかな坂になったところに、 武甕槌(たけみかづち)神社の鳥居がある。 
神社は上の方にあるようである。

「  武甕槌命は、建御雷之男神ともいい、いわゆる天孫降臨で、 地上を支配していた大国主神から国土を譲り受けた時の主役を務めた神である。
  元々は鹿島の土着神で、海上交通の神として信仰されていたが、 大和王権の東国進出の際、鹿島が重要な地になってきたこと、 さらに、祭祀を司る中臣氏が鹿島を含む常総地方の出で、 古くから鹿島神を信奉していたことから、大和王権にとって重要な神とされることになり、やがて、雷神や戦いの神として信奉されるようになっていった。 」

そのまま過ぎると、民家の庭と間違える道があり、その先は薄暗い山道である。 
ここが参勤交代が通った旧甲州街道とはとても思えないが、 道端には、庚申塔や「矢坪金毘羅神社参道」道標がある。 
右上に宝しょう印塔があるところを過ぎると、山道の左に手すりのある所にでるが、 ここでまっすぐいくと県道に出てしまう。 
右に上る小道は急な藪の坂道だが、この道を進むと、左にフェンスがある道になる。 
下を通る県道とは二十メートル以上の高低差がある切り立った崖の上で、 ここが「座頭ころがし」とよばれた難所である。

「 目の不自由な二人が曲がった道とわからずに、 前の人の声を頼りにまっすぐ進んだら、 谷底に落ちて死んでしまった、という伝説があるというところで、 今でも怖いところである。 」

草の生えた山道を上っていくと、人家のある道に出た。 
そのまま進むと舗装路のある新田の集落になり、舗装された道が続く。 
三百メートル行くとYBSの鉄塔の先で、安達野バス停のところで、県道と合流。
その先の右の斜面に、「これより甲州街道 犬目宿」 の標板と左に「君恋温泉 これより1.5km」 の道標がある。 

「  犬目宿は上野原あたりが標高約二百六十メートルなのに対し、扇山の麓の 標高五百十メートルという高いところに設けられた宿場である。 
江戸幕府は、正徳二年(1712)、現在の集落より南方の約六百メートル下の斜面にあった集落をこの地に移転させ、翌年、犬目宿として開宿した。 
国道20号やJR中央本線はこの南にある御前山の下を通っているが、 そこは桂川が流れる深い峡谷であったので、 江戸時代の甲州街道はそこを避けて、こんな高いところを通っていたのである。  」

犬目宿

犬目宿は、野田尻宿より三十一町(約3.5km)の距離にあり、 宿場の長さは、五町二十六間(約600m)、家数は五十余軒、人口は 二百五十余人であった。

犬目宿の入口には、「犬目兵助の墓」の標板があり、野菜の無人販売所があった。
表示に従って左の坂道を登って行くと、一般の墓に混じって、兵助の墓標が建てられている。

「 犬目兵助は天保の飢饉の際、住民を救おうとして、 一揆を起こした一人で、義民として慕われている。  天保四年(1833)に続き、天保七年(1836)にも大飢饉が発生したため、 飢餓するものが続出した。  各村の代表者が救済を代官所に願え出たが、聞きいれてもらえなかった。  また、米穀商に穀借りの交渉をしたが、らちがあかない。  そのため、犬目村の兵助と下和田村の武七を首謀者とした一団は、 熊野堂村の米穀商、小川奥右衛門に対して実力行使に出た。  これは歴史に残る甲州一揆といわれるものだが、首謀者は当然死罪となる。  犬目村の兵助は家族を捨てて旅に出て、秩父で巡礼に姿を変えて、全国を回った。  晩年は、こっそり犬目村に帰り、役人の目を逃れて隠れ住み、慶応三年に七十一歳で没した。 」

小高い丘から遥か遠くにくっきりと富士山の姿。
葛飾北斎は富嶽三十六景で、「甲州犬目峠」 の題で、 犬目峠を歩く旅人と富士山を描いている。 
先程のところに戻り、先を行くと、「下宿バス停」の脇に、 木陰にたたずむ「牛頭観世音碑」があった。 
三百メートル先の左側、犬目公民館の前に「犬目宿」の碑と犬目宿説明板があり、 その裏に「犬目宿直売所」があり、休憩も出来る。

「 宿場には本陣一軒と脇本陣が一軒(本陣が二軒ともいわれる)、 旅籠は十五軒があったが、 ここも昭和四十五年の大火で昔の建物はほとんど焼失している。 」

その先の左側に、「義民犬目の兵助の生家」の説明板があり、 兵助の離縁状などが、生家の水田屋に残されているという。 
右前方に火の見櫓が見えるが、その先のちょっと奥まった所に、 「明治天皇小休所址碑」がある。 

「 現在は普通の民家であるが、ここは脇本陣であった笹屋跡である。   脇本陣の斜め前の犬目バス停の前のいえがが本陣跡。 本陣跡の道路向かい側が問屋場大津屋跡で、その先隣が旅籠屋だったという。 」

宿場の外れは枡形になっていて、甲州街道は直角に右折する。 
その先にあるのが龍澤山寶勝寺であるが、犬目宿はこれで終わりである。 
犬目宿は大火で古い建物は失ったが、今でも山間のひなびた街道という雰囲気は残っていた。  



甲州道中目次へ                                      続 き (鳥沢宿)



かうんたぁ。