野田尻宿は、鶴川宿より一里三町三十間の距離にあり、町並みは五町余で、本陣は一軒、脇本陣は一軒、旅籠は九軒あった。
明治十九年の大火で、本陣を含む殆どの建物が焼失し、往時の面影は失われたが、
国道20号と大きく離れた山間の農村のせいか、今でも宿場町の雰囲気が残っている。
鶴川宿から野田尻宿
県道30号(大月上野原線)は野田尻には直進して進むが、
江戸時代の甲州街道は大椚(おおくぬぎ)経由の道であった。
マンション明鶴の向かいの大きな家の脇を左に入ると、
道は右に折れ、その先で左折する枡形になっている。
左側の角の鶴川野田尻線の下には「経大椚至野田尻 」の道標がある。
枡形になっているところは右からの車道と合流するが、そのまま車道の坂道を歩くと、すぐに三叉路がある。
少し歩くと、正面に通学路の黄色看板がある角で、道は二つに分かれるので、
右の細い道入ると六十メートルで車道に出てしまうが、
右側の崖下に工場とその向こうを走る野田尻への新しい道が見える。
この後は車道を歩いて大椚へ向かう。
「 鶴川の標高は二百五十メートル、大椚(おおくぬぎ)の標高は三百四十メートルなので、標高差は九十メートル程。
平坦な道を歩いて行くと、左側に土蔵があり、その先は左右に曲がる上り道で、
庚申塔や馬頭観世音の石碑がある。
更に登ると右側のログハウスの向かいに鶴川宿への案内板がある。
林の中に入っていくと、馬頭観世音などの石碑や山王神社がある。
工事の際に移設されたものと思われるが、
甲州街道の通り沿いにあったものと思われる。
中央高速道が上に走る道に出るので右折して側道に入り、少し進む。
甲州街道はここで途切れてしまった。
その先に、中央自動車道を横断する「鳶ヶ崎橋」があるので、高架橋を渡る。
再び、甲州街道に出て、坂を上って二.三分行くと、右側のたてかけてある材木の前に、
「大椚一里塚跡」の看板がある。
もとはもうちょっと手前にあったようだが、日本橋から十九番目の一里塚である。
さらに行くと、左へ分かれる幅広い舗装道路があり、
その角に「上野原リーサーチ&テクノパール」と刻まれた立派な石標がある。
左の道を一里塚跡から十分程歩くと、廿三夜塔などが建っている。
「 廿三夜塔は、二十三夜の夜、 人々が集まり、月の出を待って供物を供えたという、二十三夜講が建立したものである。 」
「←上野山 鶴川宿 野田尻宿 犬目宿→」の道標があり、
「大椚宿発祥の地」 と、記されている。
大椚宿は、甲州街道の間の宿だったところである。
集落の入口付近の左側に供養塔があった。
その左側に大椚吾妻神社がある。
その下には大椚観音堂があり、
堂内には二体の仏像と木っ端仏が祀られている。
説明板
「 千手観音菩薩座像と大日如来座像の二体で、漆塗りの上に金箔を施したものである。 」
その前の道路には、大きな供養塔が建っていた。
このあたりが大椚集落の終わりで、
だらだらと上ってきた坂道もこの辺りで終わりとなる。
しかし、この先は中央自動車道の為に甲州街道が消滅している。
しかたがないので、左手にゴルフ場を見ながら、
中央道の方へ向って、ゆるい下り勾配の道を進むと、
中央道の側道に出るが、頭上には談合坂SAの文字が見えてくる。
中央道に沿って進むと、左側に小さな公園があり、
「長峰砦跡」の石碑と説明板がある。
説明板「発掘調査された長峰砦跡」
「 ここは古から交通の要所であったので、
戦国時代甲斐と関東の武将の勢力争いで、
甲斐国を北条の侵略から守る為の出城が築かれた場所であった。
江戸時代に入ると砦は無くなったが、
傍らの山道が多くの旅人が行き交った甲州道中となったのである。
中央高速の建設により、砦跡が全て破壊されてしまった為、
せめて砦があったことを後世に伝えようと作られたのが長峰砦跡碑である。 」
中央道の建設中に発見された芭蕉句碑は
甲州街道の傍らに埋もれていたものである。
句碑には、芭蕉と蕉門十哲の一人、獅子庵支考の句が刻まれている。
「 古池や 蛙飛びこむ 水の音 芭蕉 」
「 あがりては さがりてあけては 夕雲雀 連二房(支考) 」
中央道の側道には「これより野田尻宿」の道標があるので、これに従い右折すると、
中央道を跨ぐ「新栗原橋」があるので、これを渡って北側に出る。
切通のような坂道を下ると、そして開けた道になり右手下方には農村の風景が広がってくる。
野田尻宿
新栗原橋から十分弱歩くと野田尻宿の入口で、
右側に立派な植栽と建物が現われてくる。
「 野田尻宿は、東西五町余(600m弱)の宿場で、
本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠九軒、全戸数は二百九十余軒、宿内人口は六百余人だった。
天保十二年(1841)に甲州街道を旅した安藤広重は、
道中記に
「 小松屋と云へる旅籠にとまる。 広いばかりにて、
きたなき事おびただしい。
へのような茶をくんで出す旅籠屋は、 さてもきたなきのた尻の宿 」
と、酷評している。
また、その時夕食に食べた献立は、
「 塩あじ半切、汁菜、平氷どうふ、いも菜に飯だった。 」 と書いている。
広い道の両側に古い民家などは見られないが、
なんとなく昔の雰囲気が漂っている。
集落の中程まで行くとm右側の広場前に「明治天皇小休止址」の石碑がある。
ここは野田尻宿の本陣跡であるが、明治の大火で焼失し、今は何も残っていない。
また、その隣には脇本陣があったようである。
その反対側に、「野田尻宿」の石碑と説明板がある。
説明板「野田尻宿」
「 野田尻宿は、正徳3年(1713)集落起立の状態で宿を構成した。
天保十四年(1842)には、本陣1、脇本陣1、旅籠は大2、中3、小4計9の小さな宿場であった。
蔦屋・紺屋・中田屋・酒屋・鶴屋・万屋など現在も昔の屋号が残っている。
もちろん職業は違っている。
お玉ヶ井にまつわる伝説は、その昔、旅籠「恵比寿屋」で働く美しい女中「お玉」にまつわる恋物語で、
念願の恋が実ったお礼にと、水不足に悩む野田尻の一角に、澄んだ水をこんこんと沸き出させたと言う。
なんとお玉の正体は「竜」で長峰の池の主「竜神」と結ばれたと言われている。
熊埜山西光寺は、天長元年(924)真言宗として創立した歴史ある寺院である。
鎌倉時代に建長寺第9世管長智覚禅師を勧請開山として、臨済宗に転宗した由緒ある寺院である。
上野原町教育委員会 」
道はその先で左折そして右折と少し蛇行して進むが、突き当たり手前の左側に、
竜神伝説を持つ「お玉ヶ井」の石碑と、
「至る 野田尻 萩野至る」の道標がある。
道の突き当たりの正面角には、天長六年(824)の創建という古い寺・西光禅寺があるが、中央自動車道の建設により、ここに移転して新築されたようである。
野田尻宿はこれにて終了。