『 甲州街道 (14) 鶴川宿 』    


鶴川宿は上野原宿より十八町(約2km)と距離が短いのに宿場が置かれたのは、 鶴川の川留めに備えるためで、宿場には本陣が一軒、脇本陣が二軒、旅籠は八軒があった。




上野原宿から鶴川宿

山梨中央銀行前の三叉路歩道橋を渡ったら左に降り、県道大月上野原線に入る。 
歩道橋の左側にある狭い道が、県道大月上野原線は野田尻へ至る道で、 右側の「木食白道上人加持水井」の碑のある家の前を通り過ぎると、 右側に小田切技電のある交叉点があり、道の反対に「大乗妙典日本廻国」の石碑が建っている.
道を直進すると、五差路のようなところで、 最初の右の坂道は上っていくと行き止まりになる。 
ここでは、その先の右側にカーブミラーがある下り気味の細い道に入っていく。 
道は右にカーブし、その先の三叉路も右に進むと国道20号線に架かる鶴川入口歩道橋に出る。 
横断歩道橋を渡って、県道30号道を左にそして右にUターンするように大きくカーブしながら上っていく。 
道が高度を増すと、左下前方に鶴川に架かる鶴川橋が見える。 
江戸時代には、橋の手前あたりから鶴川の渡しで川の向うに渡ったといわれる。 
鶴川の渡しは歩行渡しが基本だったが、 水量の少ない冬季には簡単な板橋が架けられた。

「 諏訪藩の諏訪因幡守が江戸参勤の時、川留に遇ったが、 飛脚が来ると飛脚だけを通し、
またすぐに川留としたので、 諏訪家の家来達が怒り出し、自力で渡河した。 
その後、鶴川宿の宿役人は厳しく咎められた。 」 という話が残る。
川越人足に無頼の徒が多く、法外な料金を請求されるなど、旅人を悩ましたようである。 


鶴川宿

現在は渡しがないので、コンクリート橋の鶴川橋を渡ると、旧鶴川宿に入る。
橋を渡り終えると鶴川宿で、水天宮の大ケヤキが出迎えてくれる。 
水天宮の向かい側の右側に植え込みがあり、 その一角に、「旧甲州街道 鶴川宿」の標柱がある。 
  ここには鶴川宿の説明板と休憩所もある。 

説明板
「 鶴川宿は、正徳三年(1713)一村一宿として宿場を構成しました。 
また、天保十四年(1842)には戸数57戸、人口295人、本陣1 脇本陣2 旅籠 上3中3下2 計8軒の小さな宿場でした。 
宿場に入り、50メートル右手の家の前には 駒つなぎ石、 そして、理法寺の入口には、萬霊塔(天和6年-1785)、念仏供養塔(天和6年-1688)を見ることができます。 
少し進むと左手に、かつて馬宿であった若松屋が、北隣りには旅籠であった村田屋がありました。  また、旅籠である街道をこえたところが、問屋柏屋であり、 近年まで屋号をついでいました。  当時、間口24間(43メートル)奥行き18間(約32メートル)という大きな家で、 上段の間があり脇本陣もつとめていましたが、 大正10年(1921)の大火で焼失したため、 どのような間取りであったかは不明です。  また、大椚に向かう途中にはかつて本陣がありました。 また、江戸五街道の川越は、通常橋梁によるものでしたが、 鶴川は甲州街道唯一の 増水時徒渡しでした。 
そのほか、鶴川周辺には当時の街道をしのばせる名残を見ることができます。 」

説明板の先には、「鶴川宿」の碑と「 これより鶴川宿 」 と、 書かれた大きな看板もあった。 

「   鶴川宿は二町三十間(三百メートルにも満たない)短く、本陣が一軒、脇本陣が二軒、旅籠は八軒という小さい宿場であったが、 これは鶴川の川留めに備えるために設置された、と思われる。 」

バス停を左折すると鶴川神社があり、境内には「牛頭王宮」と刻まれた石塔がある。 

「 牛頭天王は日本独特の神仏習合神で、 素戔嗚尊と薬師如来が習合した「祇園大明神」として、広く信仰されてきた。  しかし、明治政府が天皇家と関係の深い素戔嗚尊を仏教で使う信仰を徹底的に弾圧したことから、急速に姿を消していった。 」 
境内中央にある穴が開いた二つの石は「駒つなぎ石」で、宿場にきた馬をつないでいたものである。 」

通りには蔵のある古い家があるが、大正十年の大火で、宿場の殆どが焼失したので、それ以降のものだろう。 
通りには、「(左)上野原宿 上野山・大捫宿(右)」 の道標がある。
マンション明鶴のあたりが鶴川宿の端だったようで、 左側の大きな家の富田家が本陣だったところといわれる。
鶴川宿は短いので、あっという間に終わってしまう。 



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かうんたぁ。