上野原宿は、上の原宿とも書かれ、
関野宿より三十四丁のところにある甲州国最初の宿場である。
新修五街道細見には、 「 さかゐ川を越えると、堺川御関所がある。
堺川御関所は、俗に諏方の御関所といふ。
江戸より甲州へ入るに女手形いらず。 甲州より江戸に入るに女手形いるべし。
男上下とも手形いらず。
塚場を過ぎると、上の原宿へ到着。 」 と書かれている。
上野原宿は、六町十八間の町並みで、新町と本町に分かれていて、
交代で伝馬継ぎ立てを行っていた。
寛保二年(1742)には郡内最初の市が開かれたといわれ、
この地方の中心として賑わっていたようである。
関野宿より上野原宿
平成二十二年十一月二十二日、天気予報で「雨」とあったが、
朝起きたら、降っていないので、出掛けてきたが、
坂を下り始めたところで、予報通り雨が降り出した。
下りきった所には、神奈川県と山梨県との境界になっている境沢橋があり、
その下には境川が流れている。境川には、江戸時代には橋は架かってなく、
平時は徒歩渡しだったようである。
想像していたより川幅が狭かったので、あっという間に越えてしまい、
山梨県に入ったという認識を持たないまま橋を渡り、その先の車道に出た。
甲州街道はここでUターンするように右に向かうのであるが、
目の前に見える大きな橋に向かってしまった。
この橋は相模湖に架かる堤川橋で、
江戸時代には相模川上流の桂川が流れていた訳だが、
今はダムとして満々の水を貯めている。
小生の頭の中では、この橋を渡ると、「山梨県」という認識になっていたので、
橋上からの紅葉の風景を堪能しながら、進んでいった。
橋を渡ったところの頭上に「神奈川県」とあったので、
少し変と思ったが、間違いに気がつかず、いろは坂のような急坂を上っていった。
小生が上っていったのは相模原市の名倉地区で、カーブを二つ周り、
民家が多くなる手前で、これは間違いと気が付いた。
風が強くなって、雨具と折りたたみ傘は揺れる。
それをカバーしながら歩いた訳で、
手元の資料を見る余裕がなかったのが、不運だった。
坂を下って引き返し、堤川橋を渡ると橋の先の道路標識に「上野原市」の表示があった。
相模原市では、「甲府古道」の道標があり、それを確認することで、
道に迷わないできたが、山梨に入るとそうした表示はないのだろうか?
それはともかく、手元の資料には、 「 橋を渡らず、Uターンするように三回、いろは坂のような標高差六十メートルの急坂を上って行く。 」 と、
書いていたので、小生の確認ミスである。
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橋上からの紅葉 |
この道は県道520号線(吉野上野原停車場線)とあるが、
バイパスができる前は国道20号だった筈である。
三曲がりする約六百メートルの坂は「乙女坂」と呼ばれるようだが、
道なりに登って行くと、相模湖の姿が見えた。
左右にカーブする急な坂道を登っていくと、
最後の右にカーブする左側に、甲州街道史跡案内図が建っていた。
道の反対の右側の石垣の上には、 「上野原市史蹟 諏訪番所跡」 の木柱と
説明板、少し離れて、 「諏訪関跡」 の石碑と 「鎮魂碑」 が建っていた。
説明板「上野原市史蹟 諏訪番所跡」
「 諏訪番所は、甲斐二十四関の一つで、境川番所とか境川口留番所とも呼ばれた。
当初は諏訪神社東にあったが、
宝永四年(1707)に境川と相模川の合流点の展望のきくこの地
(上野原諏訪木)に移された。
通行取締りと物資出入調べ、高瀬舟取締りと徴収(二割二分)、鶴川渡し場取締り、
通行手形改め(男は不要、女は江戸へ入は要、出るは不要)などの業務を番所役人九名、獄舎取締一名で行っていた。
関所の建物は四十坪程の木造平屋建て草葺きだったが、明治
四年に関所が廃止された後、
明治十三年の明治天皇巡幸の折、御小休所、お召換え所になっている。
明治十七年頃、渋沢栄一により、東京の飛鳥山へ移転されたが、その後は不明。 」
急坂を上りきったところの右側には上野原自動車教習所があったが、
江戸時代にはこのあたりまで、関所の敷地だったのではないか、と思った。
その先には、満々と水をたたえる用水路が流れていたが、
その先、右方に諏訪神社の社叢が見える。
そこから西北に三百メートル程歩いた右側に「慈眼寺」の看板がある。
右に入った先にある慈眼寺は、文禄二年(1593)の建立で、
慶長七年(1602)、保福寺二世広山宗沢が開山したという寺である。
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用水路 |
その先の右側の山門に、「上原山船守寺」と書かれた看板があり、 左右に大きな石碑があった。
左側の「水難交通守護」と書かれた石碑には、
「 日蓮大聖人伊豆御法難の危難を御救い申した船守弥三郎殿伊東川奈船守山蓮慶寺より分骨の地 」 とあったが、
これは 「 日蓮上人が弘長元年(1261)、鎌倉幕府により伊豆に流されたときに救った弥三郎夫婦が、
後日、日蓮より船守の御名を授けられた。 」 という故事によるもの。
夫婦の出身地という縁から昭和三十年に当地につくられた日蓮宗の寺である。
その先にあるのは久安年間(1145-50)に創建されたと伝えられる諏訪神社である。
天正五年(1577)、上野原村領主加藤信景が再建し、
慶長十五年(1610)と寛永十五年(1639)に社殿を修復、
享保二十一年に改築、文化元年に本殿銅瓦葺き、明治六年村社となった。
巨大な杉が五本並んで迎えてくれるが、社殿に行くと、
「古郡神社」の額が掲げられていた。
甲斐国誌によると、昔、上野原一帯は古郡郷と呼ばれていたとある。
平安後期から鎌倉前期に横山氏一族が進出して、古郡氏を名乗り、
館を建てて当地を支配して土着した。
古郡氏より数年遅れて、信州諏訪の旧家、上原氏が古郡郷に入ったが、
古郡氏は上原氏にこの地に土着することを望み、
上原氏もこの地に諏訪大社から勧請した御祭神、
建御名方命(湖の神、軍神、狩猟神、農耕神)を祀る神社を創建することで、
諏訪文化の普及を進めることができたと判断し、
両者の合意によりこの諏訪の地に神社が創建されたと思われる。
古文書に、 「古郡神社諏訪大明神」 とあるのは、そのことを意味するのだろう。
境内は広く、御嶽大神、榛名大神、金毘羅大権現などの碑や庚申塔、 廿三夜塔も祀られている。
廿三夜とは、陰暦二十三日の夜、願い事を叶えるために月の出を待つ風習があったが、 江戸後期になると、飲食を共にしてその時を待つための講が各地に結成され、 その講が記念に建てたのが廿三夜塔である。
丸い形の石碑は、 「 稲妻に 悟らぬ人の 尊ふとさよ 」 という芭蕉の句碑である。
神社の反対側、道脇の大木の下には、多くの自動販売機とベンチがあり、
休憩できるようになっていた。
その先の右側には白漆喰に板張の建物や蔵がある家が続いていたが、
屋根は亜鉛鉄板の屋根である。
このあたりは「芝まくりの風」と呼ばれる風が強く吹くため、
秋元但馬守が、その防風林として、享保年間(1716-1735)に
竹を植えさせたといわれるが、屋根がトタン貼りなのもその影響と思われる。
小生の故郷、栃木県北部は空ッ風という北風で有名だが、
最近までトタンの家が多かった。
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「古郡神社」の額 |
江戸時代の諏訪集落は上野原宿の馬宿だったところである。
漆喰壁の塀を巡らし、屋根付きの門で、見事な植栽、大きな蔵に瓦屋根の大きな家が
あった。
異彩を放つ屋敷で、表札には 「油屋」 とある。
屋号なのか、苗字なのか分らなかったが、江戸時代には油屋を営んでいたのだろう、と思った。
その先には、 「旧甲州街道」 と書かれた大きな石碑があり、
左手には「交通安全」のモニュメントが建っていた。
諏訪神社から五百メートル程いくと、中央自動車道を横断する陸橋に出た。
下を見ると、昨日の渋滞は夢だったのかと思える程、高速道路の車の通行は少なかった。
陸橋を渡ると、右側に疱瘡神社がある。
鳥居の前には一里塚の説明板があった。
説明板
「 ここは塚場一里塚跡で、日本橋から十八里、十七番目のものです。
二代将軍秀忠は、永井白元、本白路光重の二人を一里塚奉行に任命して、
一里塚を築かせました。
一里塚は街道の両側に五間四方の大きさで築かれた塚です。
その上にはエノキ、ケヤキ、松、モミなどの木を植え、目印とされました。
植えられたのはエノキが多かったが、この塚に植えられていたのはモミだったようです。 」
疱瘡神社は、江戸時代から明治にかけて流行した疱瘡(水疱瘡から天然痘)からの守護を祈った神社であるが、一里塚の跡地に移転して祀られたということのようである。
五分程歩くと、上野原郵便局の先に新町交差点があり、
右側からは名倉入口交叉点で別れた国道20号が合流してくる。
なお、国道20号線は新町交差点の手前で、八王子から別れた案下道(陣場街道)が合流する。
案下道は甲州道の裏街道として古くから知られており、交叉点から入った花井集落には口留番所があったという。
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疱瘡神社 |
上野原宿(上の原宿)
「上野原」という地名は、四方が崖になっていて、
俗に「河岸段丘」といわれる崖の上の広野原だったことから、
生まれたといわれる。
新町交差点のあたりから上野原宿になる。
上野原宿は、南東から北西に広がる六町十八間(約760m)の町並みに、
百五十余軒の家があり、七百八十余人が住んでいて、
そこには本陣は一軒、脇本陣は二軒、旅籠は二十軒があった。
宿場は新町と本町の二つの町に分かれていて、伝馬継ぎ立ては上十五日を本町が行ない、下十五日は新町と交互に行なっていた。
交叉点の右に入ったところには浅間神社があり、 その先の右に入った細い道の先の高台には曹洞宗の寺の福泉寺があった。
「 福泉寺は鎌倉時代に、
上野原地方の臨済宗の道場として建てられた寺で、鎌倉建長寺の末寺だったが、
正平年間(1346-1368)に火災のため烏有に帰し、以後無住だった。
江戸時代に入り、保福寺三世の朝山宗暾和尚が慶長三年(1598)五月に開山したが、
延宝年間(1672-1681)には曹洞宗の教化の動きが郡内地方に押し寄せ、
曹洞宗へ開宗したと、伝えられる。 」
街道に戻り、国道を百五十メートル行くと新町二丁目交差点があり、 そこを左折すると牛倉神社がある。
「 社名を大宮牛倉明神ともいい、 創建年代は不明、甲斐国志によれば、永禄九年(1566)に加藤影忠、信影父小により、 社殿が再興された。 神社の祭礼は、郡内三祭の一つで、勇壮な暴れ御輿として有名である。 」
神社から出た国道の正面に、蔵造りの家があったが、隣のフルーツ屋の看板には、 懐かしい青果の文字があった。
上野原宿は、寛保二年(1742)に郡内最初の市が開かれたといわれ、
郡内地方の中心として賑わっていたところである。
郷土史家萩原頼平が甲斐国に関する資料を集めて編集し、
昭和七年に刊行された「甲斐志料集成」という書物がある。
そのの第一巻にある「津久井日記」には、
「 商人軒を並べ、織もの、畑物、干魚、うつは、何くれとなくひさくにそ。
酒売門には鮎の魚ほこら顔にならべ立るも、所の名物なれこそ 」
と記されていることからも、江戸時代の上野原は郡内地区の中心地として、
商業活動が盛んだったことが分かる。
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牛倉神社 |
ここから先は上野原市の中心部をなし、商店街の旗には、
「 大けやきの街うえのはら 」 という字と 「 ケヤッキー 」 というマスコットキャラクターが描かれていた。
上野原名物の酒まんじゅうを売る店で、あんこと味噌の酒まんじゅうを一個づつ購入し食べながら歩いた。
明誠高校入口交差点の先、右側にあるホテルルートインコート相模湖上野原が、
上野原宿の脇本陣跡である。
東京電力上野原営業センターを右に入ったところが本陣跡と聞いていたが、
肝心の東電の建物が見つからない。
東電があった場所は空き地になっていたが、右の細い道を二十メートル入ると、
堂々とした屋敷門があった。
門をくぐると、石塀の先の門に、「旧本陣」の表示があり、
藤田という標札がかかっていた。
「
本陣は明治天皇巡幸の際は御小休所となったが、家屋の大半が火災で焼失、
屋敷門だけがかろうじて火災の損壊を免れたという。
門の左右の漆喰塀部分の痛みが激しいので、行政が手を差し伸べて保護しないと、
貴重な歴史的な遺産が消えてしまうだろう。 」
国道に戻ると、富士急 本町一丁目バス停が空き地の前に立っているのに気付いた。
いつのまにか新町から本町に入っていたようである。
本町交叉点を過ぎると、道の左側に土蔵造りの家があり、
「三井屋」の文字が漆喰壁に浮彫されていた。
三井屋は屋号のようだが、ガラス戸は閉まっていて、
何の商売だったのかは分らなかった。
本町交叉点の右側には「金物横丁」の表示があったが、
かっては合金の地蔵尊が祀られていたようである。
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本陣の屋敷門 |
その先左側に大和屋薬局、その先に山梨中央銀行がある三叉路で、左接するのが甲州街道である。
ここで寄り道をする。
直進してあきる野市に通じる県道33号線に入り、少し先で右折すると上野原小学校室内運動場前に出る。
ここで右折して、学校に沿って進むと、左側の高台にある校庭の端に、大きな木が見える。
この木が上野原のマスコットのケヤッキーの原形になったものである。
樹齢八百五十年という貫禄のある大ケヤキがどーんとそびえていた。
その先の三叉路を左折すると、右側に池があるが、この池は「月見ケ池」という用水堀で、
上野原用水を溜めるために昭和に入ってから作られたものである。
用水堀というが、かなり広い池で、紅葉の池が美しかった。
少し先には保福寺があったが、別名は「月見寺」と呼ばれる寺である。
「 保福寺は今から四百年ほど前の天正十年(1582)、
武田信玄の重臣、上野原城主だった加藤丹後守景忠が、
中巨摩郡甲西町の深向院住職、日州宗雲を開山に請うじて開いた寺である。
この寺や池を有名にしたのは小説家の中里介山で、
彼が書いた小説の「大菩薩峠」の中に、
「 甲州上野原の月見寺の時の・・・・・ 」 と記されたことで、
この寺は保福寺ではないかといわれたことから、有名になった。 」
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月見ケ池 |
山門脇には、「 父母の しきりにこひし 雉子の聲 はせお翁 」
という芭蕉句碑が建っている。
山梨中央銀行前の三叉路に戻る。
三叉路は県道33号は斜め右へ、国道20号は斜め左へ分かれる。
甲州街道は歩道橋をくぐらないで、左側のかじやの看板がある菓子屋の先で直角に左の狭い道に入る。
ここから大月市に入るまでは、商店や食堂はもとより、
コンビニもない所を歩くことになる。
道に入ってすぐ、右側の民家の庭には、木食白道上人加持水井碑と井戸枠らしいものが見えた。
「 寛政九年、水に困っている村人のために、白道上人が祈祷し、 その場所に掘った井戸が村人を助けたという話の井戸である。 」
時計を見ると、十二時少し前、雨は相変わらず、しとしと降っている。
昼飯を採るため、本町の頑固一徹ラーメンまで戻り、
餃子とラーメンがセットになったメニューを注文した。
食事が来る間、外を眺めていたが、雨がやむ様子もない。
このまま甲州街道を進むと、鳥沢駅までは公共交通機関がほぼないところで、さらに
山道が多い。
冬の日暮れは早いこともあり、無理に歩くことは禁物と判断し、
ここで旅は終えることを決断した。
食事を終えて、支払いを済ませ、上野原駅に向かって歩き始めると、
土砂降りになってきた。
牛倉神社の南側にバス停があり、数人の人が待っていたので、
ダイヤを見ると数分後にバスが来ることが分かった。
雨の中、無理して歩くことはないと、しばし待った後、
バスに乗ると十分位で上野原駅に着いた。
乗って分ったのは、上野原駅と上野原市内とはかなりの段差があること。
それは今後に役立つと思ったが、リックに付けていた伊勢神宮の参拝時に受けたお守りが雨で千切れて、無残な姿になっていた。
鈴が付いて、ちりちりと音がするので、熊よけになると思って付けていたが、
紙がのりで貼り合わされていたもののようで、雨には勝てなかった。
無理をすればこのようになるよ!、という啓示を受けた感じがしたので、旅を打ちきったのは正解と思った。
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加持水井碑と井戸枠 |