吉野宿から関野宿は、藤野を経て二十六丁の短い距離で
関野宿には本陣と脇本陣が一軒あるだけであった。
宿場の先の境川が相模国と甲斐国の境をなしているので、
相模国最後の宿場でもあった。
藤野駅から関野宿を経由し堤川橋
平成二十二年(2010)十一月二十二日八時四十分、藤野駅に到着。
予報では朝から雨とあったが、起きた時には降っていなかったので、
八王子のホテルで朝飯を食べながら、
しばらく様子を見て出発することにしたが、
列車のダイヤが悪くてこの時間の到着となった。
甲州街道は線路に沿って西に延びていると思っていたが、その道はないようなので、
駅の正面を進み、藤野駅前交叉点に出た。
すると、交叉点の先には、シーゲル堂と藤野案内所と書かれた漫画チックな看板の店があった。
営業していなかったので、看板の意味は分らないが、
藤野周辺を紹介しているのかと思った。
交叉点を右折して、国道を西に向かって進むと、
平行する線路が最初は高いところにあったが、
歩く度に国道が高くなり、平行になってきたが、
ここには 「東京より70km」 の道路標識があった。
ここは晴天であれば、一歩歩く毎に大きな空が広がってくることで有名な所なのだが、
今にも雨が降りそうな天気ではそれを望むのは無理である。
道の左側から眼下に相模湖が見え、その先の山肌には手紙のようなものが見えたが、
これは、高橋政行氏が制作した緑のラブレターという作品である。
設置されているのは、旧藤野町名倉地区にある芸術村の一角で、
これは山肌にある巨大なラブレターのオブジェである。
国道は更に上ると右にカーブするが、そこにはJR中央本線を越える陸橋があり、
正面の山裾には中央自動車道、
左側には相模湖藤野ダイヤモンドマンションが見える。
この先、南北七十メートルの間には、国道20号、JR中央本線、
そして、中央自動車道がひしめきあいながら、建っている。
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緑のラブレター |
JRの線路に走る特急あずさを見ながら進むと、国道は山裾で左にカーブし、
山裾とマンションの間を進んでいくが、
歩行者用には、中央自動車道の橋脚の中を歩くように歩道橋があった。
相模湖を見下ろす絶景が見えるかなあと思ったが、
マンションなどが邪魔して駄目だった。
高速道路高架下の歩道は、左に中央線の線路と国道を見下ろすように進むが、
二百メートル位で終わりになった。
地上に降りて、国道の右側を歩く。 このあたりから、関野宿だろう。
関野宿は町並み一町十六間(百八十メートル弱)の小さな宿場で、
新修五街道細見には、宿は二十一軒とあるが、
三軒しかなかったという資料もある。
安政年間刊行の東講常宿帳には、「 定宿なし。 川ばたに休所あり。 」 と記されているが、これという旅籠もなかったのではないか?
道の左側に古そうな家が建っていたが、明治二十一年など、三度の大火により、
建物は全て焼失したといわれるので、それ以降の建物であろう?
「本陣跡」の表示があると聞いていたが、見付けられないまま進み、
道の右側の増珠寺の看板を見て、右折して、参道に入った。
中央高速道路が接近するところに入口があったが、
そこにあった赤い帽子とよだれかけしたお地蔵さんと紅葉した樹木が印象的だった。
中に入ると、禅寺らしい建物の本堂があり、境内には石碑などが建っている。
「
増珠寺は、曹洞宗の津久井功雲寺の末寺で、功雲寺七世、
潮翁能音大和尚が永世年間(1504〜1521)に沢井の古寺に開山したのが始まりといわれる。
その後、堂宇は火災に遭って焼失したが、寛政七年(1795)、
一堂大和尚が現在地に本堂を建立し、増珠寺とした。
また、元治二年(1865)には、十三世の岩渕大和尚が開山堂と位牌堂を建立したと、伝えられてきた。 」
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お地蔵さんと紅葉 |
境内には何本もの楓が植えられていて、今年一番といってもよい紅葉に出逢うことができた。
お堂の左手にある参道の石段を降りると国道に出た。
振り返ると、石段左側の法面には、
関取追手風喜太郎が建立した「安昌久全信士」の石碑と関野宿講中が建立した庚申塔があった。
説明板
「 追手風喜太郎は、寛政十一年(1799)に当地で生まれました。
巡業途中に立ち寄った叔父の追手風小太郎に弟子入りし、
文政三年(1820)春場所に西三段目から二枚目になり、
文政十二年には前頭筆頭、天保二年(1831年)の春場所から追手風に名を改めました。
その後、小結、関脇とすすみ、天保七年には西大関になり、
同十年に引退後も相撲界の発展に寄与しました。
土俵を退いてからの追手風は、年寄となり、相撲会所の要職に着くと共に、
門下からは多くの名力士を出しました。
また信心深く、故郷の増珠寺にも五具足、燭台などを寄贈しています。 」
右側の壊れかかった石碑が 安昌久全信士碑で、喜太郎が建てた叔父、追手風小太郎の追悼碑である。
また、実家の佐藤家の墓地には、
昭和四十六年に建立された追手風喜太郎と弟子の横綱雲竜久吉の碑が建てられているという。
増珠寺を過ぎ、関野町小渕の横断歩道橋を過ぎたところで、右へ入る坂道があるので、甲州街道はこの道に入り、坂を上る。
坂道を二、三分上ると、左側に細い道があるのでここを下ると、二分程で再び、
国道20号に出た。
なお、この細い道に行かないで進んでいくと、三柱神社がある。
カーブする道を道なりに下っていくと、右に入れる道があり、
その先にも民家が多くあるので、
江戸時代の甲州街道はこれらを結ぶ線上にあったのではないかと思えるのだが、
真実はどうなのだろうか?
小生はこの三叉路の狭い道には行かないで、国道を道なりに進むと、
カーブした左側に明泉学園相模湖セミナーハウスの駐車場があった。
そこから下を見下ろすと、相模川に架かる赤い橋が見えた。
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右へ入る坂道 |
坂を下り切ると名倉入口交差点があるが、甲州街道はここで国道と別れて、
左側の舗装道路に入っていく。
ここには、 「甲州古道 下小渕下」 の道標があり、上野原宿は直進と、
左道の矢印が付いていたが、道標のかなたに見える道は国道20号なのか、
小生が歩く旧国道20号なのか分らなかった。
その詮索はともかく、道標の案内に従って、
左の道に入るとかなりの下り坂である。
その先は左右が雑木林に囲まれているような道になり、
左右にカーブしながら下りていくと、途中で心配していた雨が降り出した。
しかたなく、折りたたみ傘をさして降りていくと、突然小さな橋が現れた。
橋に境沢橋と書かれたプレートが付いていたので、
この狭い川が相模国(現神奈川県)と甲斐国(現山梨県)との国境に流れる境川であることが分かった。
現在は神奈川県と山梨県の県境になっているが、
江戸時代には、ここが関野宿のはずれだった。
新修五街道細見には、 「 さかゐ川 此の所にて夏の頃あゆ魚やすし。 」 と書かれているが、
この橋を渡ると甲斐国に入っていく。
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下り坂 |