吉野宿は、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠三軒の小さな宿場で、
桂川(相模川の別名)流域のため、古くは桂の里と呼ばれたところである。
ダムが出来る前の相模川は今より数十メートル低いところに流れていた。
与瀬宿から吉野宿
平成二十二年十一月二十一日(日)。
甲州街道はラーメン店の右側の雑木林辺りから、沢を渡り山へ登る道だったのだが、
現在は道がなくなっているので、
国道を歩き、中央自動車道をくぐった先の右側の道を登って行く。
新修五街道細見によると、
「 与瀬から吉野宿へ三十四丁二十八間とあり、
角屋の西横丁より二タセ越しの近みちあり。
舟賃四文づつ、二ヶ所吉野宿へ出る。 」 とあり、
勝瀬経由の近道を紹介している。
また、甲州街道を利用した場合は、横道、橋沢を経て、大指ばしを渡り、なら本、
椚戸を経て、吉野に至るルートが書かれている。
相模川の二つの瀬を越えていくと、吉野宿へは甲州街道の山道を延々歩くより近道であり、舟賃さえ払えば楽も出来た訳で、旅人の多くはこの道を選んだのだろう。
相模湖のダムが建設される前の相模川は、
現在より数十メートル低いところに流れていた。
このルートは今は湖底に沈んでいるので、確認のしようはない。
国道から別れて上っていく道は、カーブがあり、けっこう急な坂道である。
その先で中央高速道路のガードをくぐる。
その先の左側には石井モーターや棚橋集会所がある。
その先の右側から細い道が合流してくるが、
これが前述の途切れてしまった甲州街道である。
右側の駐車場の一角に、 「甲州道中横道」 の標柱が立っている。
歩く毎に高くなり、高速道路より高い位置から見下ろすと相模湖が一望できた。
手前の建物は相模湖ローヤル、白い吊り橋が勝瀬橋である。
このあたりに、近道の勝瀬の渡しがあったのだろうか?
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甲州道中横道標柱 |
更に上っていくと、右側に 「甲府古道 秋葉神社」 の標柱があり、
その左側には赤いマフラー(?)をした地蔵尊と石碑がある。
奥の畑の中には 「秋葉神社」 と書かれた質素な鳥居が見えた。
道の縁の一番右に鎮座するお地蔵様の台座には、 「地蔵大菩薩」 と刻まれていたが、この石は上の石仏などと色が違うので、後になって造られたもののように思えた。
その左にある二つの石碑は字が摩耗しているので、はっきりしないが、
南無阿弥陀仏と書かれているような気がした。
その左は庚申塔で、草むらに隠れているのは二十三夜塔である。
その先に数軒の家があったが、そこを過ぎると家が途切れて寂しい感じになってきた。
更に上っていくと、左側の丸一産業神奈川工場の大きな建物の手前あたりから、
下りに転じた。
その先の橋を渡ると、三叉路で道が左に大きくカーブするが、
草藪になっているところに 「甲府古道 間宿 橋沢」 の標柱が立っていた。
ここからまた、上りになるが、そのまま進むと、すぐに三叉路になった。
このあたりは小集落になっているが、これが道標に書かれていた、
江戸時代に間の宿があった橋沢集落なのだろう。
コンクリートで固めた石垣の上に、石碑群が祀られていたが、
下部がなくなっているものや文字が読めなくなっているものもあり、
道路工事で不要になったものをここに集めたものかと思った。
甲州街道は右折して進むが、左側のやました生花店の前に自動販売機があったのは、
ありがたい。 早速、のどを潤した。
その先の左側に馬頭観音が祀られていたが、その先で集落は終わっていた。
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三叉路 |
紅葉になった山が右手に見えるが、相変わらず上り坂である。
二百六十メートル歩くと、小さな峠で、
ここが合併前の相模湖町与瀬と藤野町吉野との境だったところである。
ここには、 「←吉野宿 与瀬宿→」 の道標があった。
その先からは右にそして左にカーブしながら、下っていく。
すると、左側の民家の前に、
「甲州古道 子の入」 の標柱がある変則的な四差路に出た。
甲州街道は真っ直ぐな太い道に入らないで、
左側の道を左にぐるーと廻るように降りていく。
右側にカラフルな家があり、左折すると、
左側にボディーショップファミリーオートという板金屋があるので、
確認しながら、進むとよい。
道はけっこう急な坂道で二百メートル程下ると、中央自動車道に架かる陸橋にでた。
金網越しに高速道路を見ると、パトロールカーが来ていて、
路肩に事故を起こした車と警官の姿が見えた。
それでなくでも渋滞する時間に入っているのに、東京方面は延々と車が続いていた。
陸橋を渡りきると、道は木立の中に入り、薄暗くなり、写真の感度は落ちてきた。
道は右に、続いて左にカーブするが、左にカーブする手前の右側に広報板があり、
その手前に 「甲府古道 赤坂」 の標柱が立っている。
甲州街道はここで車道と別れて、右側の農道のような草の道に入っていく。
左にカーブしても行けるのであるが、
観福寺をぐるーと迂回することになるので遠回りになるし、
そこで直進する道に入ると行き止まりになってしまうのである。
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金網越しに高速道路 |
十六時前なのに、霧がかかってきている上、周囲が薄暗くなってきたので、
でこぼこした道は気を付けないと転びそうで、周りの景色には目がいかない。
前方を見たまま百メートル程歩くと、観福寺を回ってきた車道に合流した。
ここには、 「甲府古道 椚手」 の標柱が立っていた。
右折して車道に入り、カーブする道を歩くと、右側に小山設備があり、
その先の左側の低いところには、 「 甲府古道椚手」 の道標があった。
この細い道は観福寺の南に続く道だろう。
この先の右側にも同じ道標があったが、道標の上部に歩く方向が示されている。
その先の右側の小高いところに石碑群が祀られている。
二十三夜塔もあったが、
蚕影山(こかげやま)と書かれた大きな石碑があった。
蚕影山は養蚕の神で、茨城県の「蚕影大権現」を祀ったものである。
このあたりは山地で、水田による収穫が乏しかったことから、
江戸中期以降、養蚕が導入されると、
明治期には横浜まで出荷して、巨万の富を得たものも現れた。
養蚕は昭和五十年代の貿易自由化と化学繊維の登場により廃業に追い込まれた。
その他、南無阿弥陀仏碑や○明真言供養碑などもあった。
その先の三叉路は直進し、相模湖インター入口を目指して下ってくると、
狭い歩道橋に出た。
相模湖を囲む山々は黄色や赤や朱に色どられて、
紅葉の最盛期を迎えているなあと思った。
しばし眺めた後、急坂を百メートル下ると、国道20号に合流した。
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紅葉に彩られた相模湖 |
吉野宿
貝谷のラーメン屋の先から延々続いた山道はここで終わり、
甲州街道は右折して国道に入ったが、このあたりから江戸時代の吉野宿である。
吉野宿の町並みは三町二十間とあるから、三百五十メートル程だったようで、
そこに本陣が一軒、脇本陣が一軒、旅籠が三軒、戸数は百軒余があり、
宿内人口は五百二十余人と小原宿とほぼ同規模だった。
江戸と甲府の中間点に位置していたが、本陣を中心にあらゆる業種が軒を連ね、
旅人に必要な物品を提供できる宿場だったと伝えられている。
国道を百メートルも歩かない右手にセブンイレブンがあり、
その先左側に「郷土資料館」と書かれた建物があった。
旧藤野町が旧旅籠藤屋の建物を購入し、
「郷土資料館ふじや」として、開館したものである。
吉野宿は、明治二十九年の大火で、江戸時代の古い建物や郵便局、
村役場、小学校などの町の重要施設が全滅した。
火事は暮れも押し詰まった十二月二十九日十九時三十分に発生し、
折からの強風に煽られて瞬く間に全町が火の海になり、
焼失した家屋は百三十五軒に及んだという。
郷土資料館の建物は、当時旅籠を営んでいた藤屋が大火の後、
明治三十年に建てた木造二階建ての建物である。
館内では当時の様子を示した模型などの展示の他、
郷土の生活道具などの資料も飾られているようだが、
開館時間が終了していたので、中には入れなかった。
(郷土資料館ふじや-無料、10時〜16時、月休、) 」
道の反対側に、 「 東洋蘭 春蘭 」 の温室がある屋敷があるが、
この家は名主の吉野家が務めた本陣の跡である。
新修五街道細見には、「 本陣は吉野十郎右衛門、脇本陣は船橋太郎兵衛とある。 」
とある。
本陣の建物は、江戸末期に計画され、明治九年に完成した五層楼を含む壮大なものだったが、吉野大火で焼失し、唯一土蔵だけが残ったという。
今も残る土蔵は当時の面影が残るようで、痛々しかった。
屋敷の一角には、「聖蹟」と刻まれた大きな石柱と説明碑があった。
説明板
「 吉野家は、鎌倉時代の承久の変(1221)の時、一族は天皇方に従い、
宇治勢田で北条義時を討ったが、戦いに敗れ、故郷の吉野を去り、
この地に住み着いた。 江戸時代に甲州街道が開設されると、
名主だった吉野家は本陣を務めることになった。 江戸時代末期に計画された本陣は、木造五階建ての偉容をほこり、
明治十三年には明治天皇の行在所となり、陛下は二階で昼食をされたとのこと。
建物は明治二十九年暮の大火で焼失した。 」
真っ直ぐな道を進むと、吉野小学校手前の右手奥に吉野神社がある。
まわりはかなり薄暗くなってきたが、そのまま進むと沢井川に架かる吉野橋に出た。
高速道路の渋滞の余波がここにも及んで、橋の上の東京方面は大渋滞になっていたが、吉野宿はここまでである。
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「聖蹟」の石柱 |
吉野宿から藤野駅
高尾駅から歩いてきたが、吉野橋まで来ると、十六時十七分を示していた。
新修五街道細見には、 「 吉野宿から関野宿は小ざるはしを渡り、
藤野を経て二十六丁、 」 とある。
又、 「 小ざるはしは十四間、親渡すために掛けしか小さる橋 これもこうふの路と知るべし 」 と書かれている。
吉野橋の左側の袂の手前に、「小猿橋」と書かれた説明板があった。
江戸時代、吉野宿の出口に流れる沢井川は、川面まで十九メートルの高さと急流のため、川中に柱を建てることが出来ず、両側よりの「刎出し木」による工事により、
なんとか橋が架けられたようである。
説明板
「 小猿橋は現在の吉野橋よりやや南寄りにあり、
長さ十四間(約25m) 幅二間(約3.6m) 高さ五丈八尺(約25m) の欄干付きの板橋でした。
この橋は、大月市の猿橋と工法も形も同じで、その規模が少し小さいことから、
小猿橋と呼んだと言われています。
元禄十一年(1698)の記録によれば、橋の周囲の地形、地質が悪く、
迂回路の場所がないことから、掛替工事が非常に困難でした。
その工事費は、江戸幕府の支出で行われ、額は四百両であった。
その後、次第に工事費の負担は減り、文久二年(1862)には七拾両となり、
徐々に幕府の支出はなくなっていった。
地元では人馬通行橋銭の徴収、
宿場の貸座敷や旅籠の飯売下女からの刎銭等を財源として、掛替工事を行っていた。
その折、八王子千人隊、萩原頼母を組長とする一部が工事の警備、
木材搬出の指揮に当ったと言う。
明治初年からは官費で行われるようになり、
明治中期頃には上流約五百メートルの地点に新猿橋という木橋ができた。
大正八年、道路法の制定と共に、甲州街道は国道八号線となり、
昭和八年八月の吉野橋の完成に伴い、小猿橋と新猿橋は消滅した。 」
吉野橋を渡ると、右側に吉野ポンプ場があり、
その反対の左側には中華料理の福龍がある。
江戸時代の甲州街道は、その反対側の右側にある狭い坂道である。
ここで国道と別れて、入って行くと右側に原田電気があった。
公文式藤野町教室を過ぎると、道は一車線しかない狭い道で、かなりの急坂だったが、甲州街道の距離は短く、その先の三叉路ですぐ終わった。
そのまま直進すると 右側に藤野中学校の校庭がある。
校庭の先は三叉路になっていて、直進するとGSがあり、
その先で国道に合流してしまうが、甲州街道は、この三叉路を右折する。
すると、藤野中学校の入口があり、そこにはガンダムのような人形が掲示されていた。
、藤野中学校入口の三叉路を左折して、逆一方通行の道を五百メートル程進むと、
左側には相模原市藤野総合事務所がある。
更に百メートル進むと、右側に中央本線の踏切がある交叉点に出た。
交叉点の手前には 「清袋寺あと」 の標柱があり、
線路の脇の金網前には「甲州道中」の道標が立っていた。
この交差点を右折して踏切を渡っていく道が陣馬街道である (右下写真)
陣馬街道は、和田峠を経て八王子市の甲州街道の追分交差点に至る道で、かっては案下道(あんげみち)とも呼ばれた。
甲州街道の脇街道の役割を果たしていた道であるが、
最近は陣馬山に登るハイカーの道になっている。
交叉点を横断して、線路に沿って進むとJR中央線の藤野駅に出た。
時計を見ると、まだ十六時二十三分だが、JRの上野原駅にはかなりの距離があるので、今日はここで終えることにした。
今日は西八王子駅から小仏峠を越え、ここまできたので、満足した。
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藤野中学校入口 |