新修五街道細見によると、小原宿から与瀬宿までは十七丁(1.9km)とあるので、両宿は半里に満たない距離にあったが、
両宿は与瀬村に属していたことから、二つの宿場で一つの宿場の役割を果たすという片道継立の宿場だった。
宿場の長さは8丁とあるので、約一キロ、家数は八十軒で、本陣が一軒、旅籠が六軒という小規模な宿場だった。
小原宿から与瀬宿
平成二十二年十一月二十一日(日)。
小原宿の終わりを示す木標を過ぎると、どなたの作か確認なかったが、
モダンな造形の美術品があった。
その先、中央自動車道の相模湖東出口の高架が国道を横切る辺りに、
平野バス停があり、その先に右に入る狭い道がある。
道の右角には「ひらのや」の看板があるので、
ここで国道と別れて入っていくのが甲州街道である。
小原本陣からここまでも甲州街道があったが、国道が開通した際、現在の道に変えられ消滅した様子である。
小原や与瀬の地名は、 今から千二百年程前、天台宗の僧、隆弁僧正が諸国遍歴の途路、 このあたりの風景が京都の大原や八瀬に似ていたので、名付けたといわれる。
入るとすぐの左側にひらの旅館があったが、この道はかなりきつい坂道である。
我慢しながら歩いていくと、一時停止の標識があり、
右側の道の奥には中央高速道路の料金所があるようであるが、
そのまま進むと左側に塚本水道店がある。
その先で、坂の頂上になり、この水道店をぐるっとUターンする感じで曲がり、
左右にカーブしながら緩やかな坂を下っていくと、
左側にアパートのような家が建っていて、
その脇を抜けると三叉路に出た。 ここが中丸集落なのだろう。
最近、家が増えた感じで、目安にしていた平野ハイツは目立たなかった。
その先に三叉路があり、
三叉路の高いところにこちらを向いて石碑が林立していた。
逆光のために文字が読めなかったが、街道にあったものを道路工事の後、
ここに集めたのかなあと思った。
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塚本水道店 |
右折する太い道には行かずに、真っ直ぐいくのが甲州街道である。
この道を下っていくと、二百メートル程で国道に出るが、
途中の右側に階段が見えてくる。
階段に入るところに、 「 甲州道中はこの階段を降り、えんどう坂を下り、桂北小学校前に出る 」 と書かれた木標があるので、
階段にUターンするように入る。
石段を降りると坂道が続いていたが、これがえんどう坂であろう。
佐藤工務店を左に見ながら下ってゆくと、正面に中央本線の線路が見えてきた。
下りきったところから少し上ると、小さな交差点があり、 「甲州道中与瀬下宿」 の石碑があった。
そのまま直進すると、正面に桂北小学校の体育館がある国道へ出た。
横断歩道橋の角に、 「←与瀬宿 小原宿→」 の道標が目立たないところに建っていた。
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与瀬下宿碑 |
与 瀬 宿
国道を二百メートルも歩かないうちに相模湖駅前交差点で出たが、
このあたりから七百メートル程が与瀬宿だったところである。
「 与瀬宿は、日本橋から十六里四町五十八間(約63km)、 下諏訪へ三十七里十二町十四間(約146km)のところにあった宿場で、。 宿場の長さは六町五十間(744m)程である。 天保十四年(1843)に編纂された甲州道中宿村大概帳によると、 本陣が一軒、脇本陣はなく、旅籠が六軒、家数は百十四軒、 宿内人口は五百六十六人である。 小規模の宿場だったので、同じ与瀬村の小原宿と片道継立の宿場の関係だった。 片道継立とは、甲州への荷は小原宿から与瀬宿を通り越して吉野宿へ継ぎ、 江戸方面には与瀬宿から小原宿を通り越して小仏宿へ継くことをいう。 小規模な両宿は片道継立というやりかたで、宿場の役割をなんとか果たすことができたのである。 甲州街道の宿場で常備すべき人馬は、馬二十五疋、人足二十五人で、 東海道の宿場の四分の一だったが、それでも負担は大きかったようで、 両宿の隣接する中野、底沢は枝郷として、千木良村、寸沢嵐村、若柳村は助郷村、 更に、その他の十三の村が助郷村として参加して、伝馬や人足を供給したのである。 」
相模湖駅前交差点を右折すると、JR相模湖駅があり、ここから各方面にバスが出ている。
相模湖駅は、明治三十四年に与瀬駅として開業した駅だが、昭和三十一年に現在の名前になった。
道の両脇は商店街になっているが、古い家はない。
国道を五分ほど歩くと郵便局の先の右側に、酒まんじゅうの光州屋がある。
古くから伝わる名物のまんじゅうを楽しみに来たのに、あいにく、
この日はお休みだった。
その手前には 「東京から65km」 の国道標柱があった。
更に三分も歩くと、右側に黄色のイチョウが一本輝いていた.
与瀬神社前バス停があり、交叉点の先左側にセブンイレブンがあるが、>
甲州街道は、交叉点で右側の坂道を上る。
角の小高いところに 「甲州古道 与瀬本陣」 の標柱があった。
樹木や下草に覆われているせいか、三メートルの高さの「
明治天皇与瀬神社御小休止址碑」は見付けられなかった。
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与瀬神社前交叉点 |
坂道を上っていくと、右側に石造りの門があり、奥の方に石柱などが見えた。 ここが与瀬宿本陣跡である。
「 与瀬宿本陣は代々清水家が勤めていて、
建物の建坪は百十一坪で、門構え、玄関のある建物だったが、当時の建物はない。
所有者も変わり、敷地の一部にはマンションも建っていたが、
今でも広い敷地で秋の紅葉がきれいであった。 」
右側の石垣に沿って急坂を登って行くと三叉路で、
道の右手には小さなお堂があり、石仏が祀られていた。
三叉路の正面には「慈眼寺」の石標があったが、
ここは駐車場で、駐車場からの参道には馬頭尊碑など四つの石碑が建っていた。
また、ここには相模原市が建てた、「与瀬神社、陣馬山、慈眼寺、与瀬遊覧道路」
の道標があった。
甲州街道は三叉路を左折していく道であるが、
慈眼寺などに寄り道をすることにした。
更に上ると中央高速道路に走る車が見えてきた。
その先に、中央自動車道を渡るための幅広い歩道橋があった。
時計を見ると、まだ十五時二分だが、既に小仏トンネルを通り抜ける東京方面の渋滞は始まっていた。
高速道路が出来るまでは石段で慈眼寺へつながっていたのだが、
高速道路で分断されたため、歩道橋が架けられたが、広場と思えるほど広かった。
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道標 |
歩道橋の先の右側に慈眼寺、左側に與瀬(よせ)神社の大きな鳥居が見えた。
石段を上り山門から入った慈眼寺は、高野山真言宗に属し、
天正年間に、頼源阿闍梨により開創されたと伝えられる寺である。
明治五年の神仏分離までは、与瀬蔵王大権現の別当寺で、
江戸時代には相模国津久井郡にある数少ない寺院だったようである。
現在の建物はそれほど古くはないように思われた。
寺の境内から鳥居の先に出ると、神社に上る百メートル以上の石段が迫ってきた。
身を軽くするため、脊負ってきたリックを人目につかないところに置いて上ることにした。 それでも、最後は足もすくむような急階段だったが、どうにか上り切ることができた。
神社のしおりには、
「 與瀬神社は、大和吉野山の蔵王権現を祀ることから、
権現様と親しまれている神社です。
古い昔より、よせのごんげんさまとよばれてまいりました此の神社は、
新編相模国風土記等によりますと、
古より相模川の北岸に在ったお社を現在の所にお祀りしたもので、與瀬大権現と称し、
御神像の台坐に室町時代の享禄(1528 〜1532)の年号ありと記されております。
(中略)
御祭神は日本武命を御祀り申上げ、数々の御霊力の中、厄除、開運、
子供の健康祈願、虫ふうじに詣られる方々が非常に多く、
與瀬のごんげんさまの虫ふうじという言葉で多数の人々に親しまれ、
大きな信仰を集めております。
創建当時より、村人を始め、遠近の信仰者により守られ、
あるいは金峯山慈眼寺の別当により管理され、諸星神主家の司祭によって、
今に至る此の神社が大体只今の形状に調いましたのは元録年間と推察され、
現存する元録の銘ある石段、宝暦年間に江戸の商人より寄進された神輿等、
江戸時代の社頭の繁栄が偲ばれます。
明治三十七年二月、拝殿より出火、権現造の壮麗を極めた社殿は、
ことごとく焼失してしまいました。
焼失後、氏子、崇敬者が一丸となって、境内地の整備、社有林への植林等を行い、
本殿は大正三年に、拝殿は昭和二十四年に再建された。 」 とあった。
なお、現在地に遷宮されたのは江戸時代の天和二年(1682)である。
境内には明治の神社統合令により、集められたと思える、御霊神社、岩神社、八幡神社などの社があった。
珍しいものでは石室の中にあった幸(さい)の神。
社殿裏の山道には 「←相模湖駅0.8km 明王峠4.1km」 の道標や神奈川県が建てた 「←相模湖10分 与瀬神社 明王峠 陣馬山→」
の道標があり、陣馬山への縦走コースの入口になっているようである。
急斜面の石段を注意しながら下ると、樹木の間から相模湖が見えた。
鳥居をくぐって街道に戻り、振り返って鳥居の先を見ると、
急な石段だったことが確認できた。
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與瀬神社拝殿 |
寄り道に要した時間は二十四分だった。
陽はかなり傾き始めていたが、右折して西に向かう。
街道を進むと、三百メートル程先の右側に中央自動車道の石垣が現れたので、
一瞬どうしたらよいかと戸惑ったが、石垣に沿って進むと、
左側に人が通れる歩道があることが分かった。
この角には、「与瀬上宿」の標柱が右の草むらに隠れひっそりと建っていた。
甲州街道は、以前、中央自動車道の石垣を突っ切る形で、真っ直ぐ延びていたのである。
階段を下ると、頭上に中央自動車道、真下には中央本線の線路とトンネルが見えた。
細い道が国道に平行してあるので、この道を右折して進むと、
下に降りる階段があった。
階段を降りると、国道に出たが、
その先の標識には「降雨時の走行中止」の注意が表示されていた。
国道20号を歩き、走行注意の標識の先まで到着した。
この辺りが与瀬宿の終わりと思うのだが、それを示す表示はなかったが、
ラーメン店があった。
地図上では与瀬集落はもう少し続いていると思えたが、江戸時代の与瀬宿はこのあたりが終わりではないだろうか?
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国道脇の側道 |