小仏峠を越えると相模国になり、相模国最初の宿場は小原宿である。
宿場の入口から出口までは、わずか二町半というから、三百メートル弱という短い宿場だったが、
本陣と脇本陣、それに七軒の旅籠と二十九軒の家が軒を並べていたという。
旧清水家が本陣を経営していたが、その本陣建物が現存していた。
小仏峠から小原宿
平成二十二年十一月二十一日(日)、12時30分。
小仏峠は武蔵と相模の国境で、現在の東は東京都、西は神奈川県である。
明治天皇御小休所址の石碑を越すと、正面は小高くなっていて、
その下には八王子市が建てた道標がある。
小高い方に上っていく方には 「 小仏城山0.8km高尾山3.1km 」 とあり、 右に向かう方は 「 鹿沢バス停3.5km相模湖駅5.5km 」 とあった。
右に向かって歩くと、相模原市が建てた道標があり、
「 小仏宿 甲州道中 小原宿 」 と書かれていた。
ここは神奈川県の領域のようだが、八王子市の道標には見られなかった
「甲州道中」の道標があったので、うれしかった。
八王子は高尾山の観光に力をいれているせいか、
全て高尾山に向かうような道標になっていた。
その先には「甲州道中歴史案内図」という看板もあり、
これから向かう小原宿や与瀬宿が表示されていた。
そのまま進むと、杉林が目の前にせまり、右側の道標には「甲州古道」
、「 ←小仏宿 小仏峠 小原宿→ 」 とあった。
その先から下り坂になった。
この道は、明治二十一年(1888)、輸送力を強化するため整備された、
「大垂水峠」を通る新道が開通するまでは、甲府方面へ向かう基幹ルートだったが、
開通後は人びとや物資が行き交うことはなくなった。
この先もポイントになるところに道標があるので、助かった。
杉林の中の道をひたすら下っていく。
下り始めは歩きやすかったが、次第に石ころだらけの道に変わり、
「底沢バス停」の道標があるあたりからはV字の底を歩く道になった。
前方を歩いている三人連れも、歩きずらそうだった。
小生は荷物になるため、今回の歩きに山行用の靴は持参しなかったので、
足首をねんざしないように、注意しながら歩いた。
小仏バス停から小仏峠へ向かったハイカーが多かったのに、
我々と同じ甲州街道を歩く人は少ない。
前方の三人の先に四、五人、そして、この後、追い抜いて行った人が四、五人いた程度であった。
その先は大きな石がごろごろしていて、おまけに赤土で滑りやすいので、
注意しながら下りていった。
峠から二十分ほど下ると、「甲州古道 中峠」の標柱があった。
その先には 「←底沢バス停2.4km 小仏峠1.1km→」 の道標があり、
少し先には「甲州道中」の標柱が建っていた。
左手には鉄塔が聳えているが、平坦地である。
かって、ここには中峠茶屋があったといわれる。
小原宿から登ってきた時、小仏峠の中間点として一服するのによかったのだろう。
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V字の底を歩く |
杉林を少し進むと、右手に自動車の音が聞こえてきたので、
木立越しに見ると、中央高速道路を走る車だった。
この後は急斜面の坂で、ジグザグに下っていくと、眼下に舗装道路が見えてきた。
舗装道路に合流する手前には、
相模原市が建てた「甲州道中」と「東海自然歩道」の道標が建っていて、
右側には東海自然歩道のルートを示した案内板があった。
その下の舗装された車道に出たところで、
駐車場から小仏峠を越え続いてきた旧甲州街道の山道は終わりになった。
小仏峠越えの山道は予想していたより短かったので、少しほっとした。
舗装道路に出たところで、ぐるーと右に廻り車道に入ると、
左側も杉の木に 「 甲州道中の迂回路は右折 」 と
書かれた道標があったが、見付けづらかった。
その脇に建つ東海自然歩道の道標には 「 底沢バス停1.7km 相模湖駅3.7km 」 とあり、
その先には 「 美女谷温泉 ここより500m 」 の案内看板もあった。
車道を美女谷方面に進むと左に右に、また、左にカーブする道になり、
正面に中央自動車道の高架橋、左下には中央本線の線路が見えるところに出た。
その先に三叉路があるが、手前の左側には一本の楓の木があり、紅葉してきれいだった。
三叉路には 「←底沢バス停1.0km 甲州古道美女谷 小仏峠2.5km→」 の道標が建っている。
ここを右に行くと美女谷温泉なので、日帰り温泉をしているかもと思い、右折した。
美女谷の地名の由来について、
相模風土記稿には、 「 旧説に、往昔是處より美女出ければ、遂に地名となると云ふ。 今其事実を探るに詳なることを知らず。 」
とあるが、美女とは、浄瑠璃伝説に登場する照手姫のことである。
中山道を歩いたとき、岐阜県の青墓で小栗判官の恋人、照手姫の話に出逢ったが、
当地では、ここが彼女の出生地で、顔を洗った沢や子孫が住む家もあるという。
少し歩くと、右手に上ったところに美女谷温泉があった。
ところが森閑としていて、人のいる様子がない。
一緒に上がってきた人と、玄関を探したが、入口に 「 日帰り温泉をしていない 」 旨の張り紙があったので、しかたなく引き返すことになった。
温泉を出たところを右折して五百メートル行けば、
照手姫が鏡の代わりに利用したという照手姫水鏡七ッ淵があるが、
気落ちして行く気にはならなくなった。
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きれいな紅葉 |
先程の三叉路に戻り、中央自動車道の高架を見ながら直進するが、
高架下をくぐるったところで、道の右側の要壁の上を見ると馬頭観音碑があったが、
これは小仏峠を行き来した馬を弔ったものだろう。
振り返ると、高速道路も鉄道も、小仏峠を越えないで、
その下を貫通したトンネルへ入って行くのが見えた。
その先には、「 甲州古道 左小原宿 右小仏峠 甲州道中板橋 」 の道標があり、
その近くに 「 甲州道中はここを登り、中央自動車道の下を通り、
樋谷路沢を渡って小原本陣脇に出ますが、今は通行不可能です。 」 と書かれている標柱を見付けた。
これによると、甲州街道はこの辺りから上る道だったが、
中央自動車道の基礎工事を行った時、消滅したようであった。
従って、ここから小原宿までは甲州街道はない訳である。
車道を歩き、底沢バス停を目指すことにした。
道なりに進むとやがて、JRの線路が近づき、街道と平行に進む。
道が下がり始めると中央本線をくぐる、煉瓦が貼られたトンネルがあるので、
そこをくぐって反対側にでる。
トンネルを出たところに「甲州道中 長久保」の道標が建っていたが、
その先は三叉路である。
左手に道標があったが、ここは右折して川に沿って下っていくと、
左側に底沢橋がある国道20号に合流した。
登山道が終えたところからここまで約三十分の距離だった。
ここが、これまで何度となく出てきた底沢バス停で、
国道の手前と越えたところには屋根付きの待合所があった。
左折して、国道20号の底沢橋を渡り、東京方面に進むと、大垂水峠を経て、
今日歩き始めた高尾駅前交叉点に至る。
小生が進もうとする方向には、 「大月へ31km、相模湖へ1km」 の道路標識があった。
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JRの線路 |
小 原 宿
国道を横切って反対側に出ると、バスの待合所には先程追い抜いていった人達がいた。
ダイヤを見ると、数分後に相模湖駅方面へのバスが来る。
彼らは奥高尾を縦走するトレッカーだったのかと思いながら、小生はそのまま歩いた。
その先左側に 「甲州街道小原宿 これより2町半」 と書かれた木製の標柱が建っていた。
少し歩くと右側に駐車場と建物が見えてきた。
何の施設かと思い、国道を横断して近づくと、
建物の左側の国道脇には 「 日本橋より63km 」 の標識があった。
駐車場の入口に、「相模原市 小原の郷」 の看板、
その隣に大きな甲州道中歴史案内板があった。
紅葉期の日曜日なのに駐車場はがらがら、施設にも人がいないので、もったいないなと思った。
なお、甲州街道は前述した底沢の高速道路の高架橋の下あたりから上った後、
この施設の脇あたりに出てきたのだろう。
「 江戸時代の小原宿はわずか二町半(三百メートル弱)という短い宿場だった。
小原宿は江戸より十六里目の宿場として設置され、
宿場には本陣と脇本陣、七軒の旅籠と二十九軒の家が建っていた。
宿場の規模は小さいため、隣の与瀬宿と二つで一つという片継ぎの宿場だった。
片継ぎとは、小原宿の問屋では江戸から甲府に向かう旅人や荷物を隣の与瀬宿は通過し、その先の吉野宿まで送り届ける。
一方、江戸方面へ向かう旅人や荷物は与瀬宿から小原宿を通過し、
直接小仏宿まで送り届ける、という方式を取っていたのである。 」
少し先の右側に生け垣で囲まれたところに屋敷門があり、
「甲州街道 小原宿 本陣」 の石碑があった。
この屋敷門がある家は、甲州街道に三ヶ所残っている本陣建物の一つ、
「小原宿本陣」である。
門前の「説明板」
「 小原宿本陣は、江戸時代に信州の高島、高遠、飯田三藩の大名及び甲府勤番の役人が、江戸との往復の時、宿泊するために利用した建物である。
本陣を営んだ清水家の祖先は、後北条氏の家臣、清水隼人介で、
北条氏減亡後、当地に土着し、後に甲州街道小原宿が設けられてからは、
代々、本陣に問屋と庄屋を兼ねていた。
この建物の年代に関する資料は不明であるが、
天保十四年に編纂された甲州道中宿村大概帳には
「 本陣凡建坪八十四坪門構え二而玄関之無宿入口壱軒 」 とあり、
現在の建物の建築様式から推測しても江戸時代後期の十八世紀末期から十九世紀初期の頃の建築と思われます。 」
最近まで清水家が住居として使っていたが、現在は相模原市の所有になり、
無料で一般公開されている (9時30分〜16時、11月〜3月は15時まで。月休)
門をくぐって中に入った。
本陣だった建物は、神奈川県内に唯一残る四層のカブト造りの入母屋風の重厚な建物である。
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屋敷門と石碑 |
玄関には定紋がつき、敷居が高い構造、 間口が十三間、奥行七間、建坪九十一坪の建物の中には、 上段の間、控えの間、畳が敷かれた十五畳が一間、 八畳が三間、六畳が三間、四畳が三間、二畳が一間など多くの部屋があった。
小原本陣パンフレットには、 「 現在の建物の建造年代は定かではないが、 およそ二百年位経過しているものと思われます。 大名止宿の本陣らしい特色として、お座敷風の厠(便所)、湯殿(風呂)、 大名が使用した段の間には、欅の1枚板が使われていた床の間があり、 縁の下からはずせる忍の止宿の動静を探る仕組みになっていました。 」 と記されていた。
戸を開け放して端から端まで見渡せるようになっていたので、
屋敷の広さを実感することができた。
また、「 上段の前庭には松の木、泰山木、木蓮などの老樹、檜、かや、ドウダンツツジの巨木が、
由緒ある本陣の生証人のごとく見守っています。 」 と、
小原本陣パンフレットには書かれていたが、
築山のある庭が非常に立派で、上段の間からの眺めが素晴らかった。
これまでみてきた東海道や中山道の本陣と違っていたのは、
受付のあるところの土間先の板の間から大きな階段が二階に架かっていて、
二階を蚕室として使っていたことである。
なお、養蚕に使われていた二階には、昔の道具(石臼、千歯、大八車等)が展示されていたが・・・
また、一階の十五畳ほどの板敷きには、馬を繋いだといわれる広い土間があり、
勝手には古色蒼然とした自在鍵のさがる囲炉裏があった。
見学に訪れている人が十名程度と少なかったので、ゆっくり見ることができた。
本陣の道の反対の古い建物は西浅川以来のコンビニのはずだったが、今はなかった。
本陣見学者をあてこんで、開業したのかもしれないが、
本陣見学者が最盛期で今日の人数では商売にならないだろう。
小原宿の紹介に、「 小原宿は、街道の両側に家並みが続き、 大久保沢川の樋谷路沢より渓水を引き、 二百四十間の樋を懸けて、宿中を流す用水設備を備えていました。 飲料水は水道のように各戸に導水し管理していたことは、他の宿場にはみられないことでした。 」 とあった。
この通りには樋を懸けた用水が流れていた訳だが、
その後の大火で宿場の建物は全滅したので、当時の面影は残っていない。
この先にある古そうな大きな家はいつ頃建てられたものだろうか?
と思っている内に、
道の右側の土手にある「南無阿弥陀仏碑」のところに来てしまった。
その先には小原宿道標があり、短い宿場の終わりを告げていた。
小原宿は 「これより2町半」 の道標からここまで、四〜五分で通り過ぎてしまうという短い宿場だった。
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大きな階段 |