『 甲州街道 (8) 小仏宿 』    

小仏宿は、駒木野宿と分担して宿場業務は行い、月一日から十五日を担当した。
駒木野宿より人口の少ない宿場で、本陣はなく、問屋が一軒と旅籠が十一軒である。 
小仏宿から小原宿の間に小仏峠がああり、 小仏峠越えに備えた予備的な宿という意味合いが濃かったように思われる。
江戸時代には多くの富士講の人がこの峠を越えたので、富士峠ともいわれたようである。 




駒木野宿から小仏宿

平成二十二年十一月二十一日(日)十時出発。
駒木野宿から次の小仏宿まで、二十六丁、約三キロの距離である。 
駒木野公民館から道の正面を見ると、 八王子JCTの先から高尾山に向かって橋梁工事が行われていて、 高尾山をくり抜いたトンネルを作り、高速道路への接続道路を建設するようである。 

新修五街道細見には、駒木野宿より小仏宿まで二十六丁とあり、  途中のあらい(荒井)にはふじや新兵衛の旅籠があり、 その先のすりさし(摺差)を過ぎると小下沢ばしが架かって、 小仏宿には鈴木藤右衛門の旅籠があったことが記されている。
五街道細見には、「 小な子より南へ高尾山道あり、峠に通り抜け。 」 とあるが、江戸時代の高尾山道は現在の国道20号のことで、 高尾山薬王院への参拝道であると同時に相州への街道だった。 

駒木野病院から上ってきた坂道はこのあたりが頂上で、 ここからは下り坂になった。 
坂の途中の左側には、青面金剛碑や南無阿弥陀仏碑などの石碑も建っているが、 赤いよだれかけをした地蔵尊も祀られていた。 
地蔵尊の右側には「甲州街道念珠坂」と書かれた石碑が建っている。

「 この坂、今は緩い坂道であるが、 江戸時代には息を切らすような急坂だったという。 
「 南無阿弥陀仏 !! 」 と、念仏を唱えながら登った人もいたため、いつの頃か念珠坂と呼ばれるようになったといわれる。 」

二百メートル程歩くと荒井集落で、 荒井バス停の先の三叉路にはハイク用の道標と思われるものがあった。
その先の右側にはみどり幼稚園の看板があったが、 本年四月に東浅川から引越ししてきたものである。  奥に見える緑の建物は数年前に閉鎖となった八王子市立浅川小学校上長房分校が使用していたものである。 
そのまま放置されていた建物に、幼児用に手を加えて開園にこぎつけたというから、 残ってよかったあと思った。 
左側には高尾山の山塊が迫ってきていることもあって、山里という雰囲気が強まってきた。 
荒井バス停から三百メートル程歩くと、前方に火の見櫓が見えてきた。
道の右側の駐車場の一角に天狗のイラストが書かれ、  「 こんなことは許さぬ 裏高尾圏央道反対同盟 」 の看板が建っていた。

右前方の山上で複雑に交錯している曲線は八王子JCTで、 現在は信越道に通じる圏央道(八王子川島)と中央自動車道が立体交差している。    この看板は厚木市で東名自動車道に通じる圏央道の工事にかかわるものである。 

石碑群
x 荒井集落 x 火の見櫓 x 反対同盟の看板
石碑群
荒井集落
火の見櫓
反対同盟の看板


道は上りになり、左側の川に沿ってカーブしながら続いているが、 数十メートルで人家のあるところに出たが、 道の左側に無人の古い建物があった。 
この家は、五街道細見に記載がある、 江戸時代に旅籠「ふじや新兵衛」を営んでいた家で、 軒下には講の名前を彫った札が今も掲げられている。
講札は、蛇滝で水行を行う人達が講を組んでやってきた記念として、架けたものである。
その先の橋の手前には 「上行講 是より蛇滝まで八丁」 と彫られた道標も残っていた。
道の反対側に右に入る細い道があるが、ここには 「裏高尾荒井遺跡 縄文時代平安時代の遺跡」の看板や「いのはな慰霊碑入口」の道標があった。 
また、富士台を経由し、八王子城址、標高七百三十一メートルの北高尾山稜の堂所山(どうどころやま)に上る道標も設置されていた。 
橋を渡ると、圏央道の大きな橋桁があり、上を見るとかなり高いところで、 工事中だった。  その先の三叉路には、「蛇滝水行道場入口」の木の道標があるので、左折して進み、 橋を渡ると浅川老人ホームむつみ園があり、 その先の高いところには千代田稲荷神社があった。 
左側のコンクリ舗装の細い道は小さな谷川に沿って続いているので、 この先に蛇滝があると思って上っていった。
二、三百メートル歩いて、蛇滝水行とは何かも知らずに上ってきたことに気が付いた。  また、入口近くにあるだろうという勘もあやしくなってきたので、 蛇滝はあきらめて三叉路まで戻った。 

帰宅して調べたところ、水行道場とは高尾山薬王院の施設で、 もともとは修験道の道場の一つで、滝に打たれて修業をする場所である。 
蛇滝は二つある道場の一つで、落差は五メートルのようだった。  また、滝のある位置は入口から一キロ程上った所だったので、 引き返したのは正解だったのである。 
この道は高尾山に上るルートの一つ、蛇滝コースになっていて、 気が付かなかったが、三叉路のあたりに高尾山道の道標があったようである。 

三叉路の先、左手には児童養護施設のエースオーエースこども村の建っていたが、 その手前から道の両脇に家が建っていた。 
ここは摺差(すりさし)集落で、 五街道細見には 「 駒木野より小仏まで長房村のうちなり 」 と書かれているので、現在の八王子市裏高尾はそれに該当するのだろう。 
右側に、「すりさしの豆腐」という旗差しものを立てた豆腐屋があった。
このあたりから、道は狭くなり、急になった。 
駒木野病院のあたりから三人連れが、小生の前になったり後になったりしながら歩いていく。 
彼らは六十五才前後に思えたが、歩く速度は小生より遅い。 
小生は、駒木野病院とみどり幼稚園で追い越したが、 関所と蛇滝水行道場入口に寄って写真を撮っている間に追い越されていた。 
彼らは、カーブした先で休憩していた。  この後も、小仏峠まで彼らのあい前後しながら進んだが、小仏峠で休憩している間に先に進んだのか、高尾山の方に向かったのか、 二度と逢わなかった。 

旅籠「ふじや新兵衛」跡
x 道標 x 蛇滝への道 x 豆腐屋
旅籠「ふじや新兵衛」跡
道標
蛇滝への道
豆腐屋


それはともかく、先に進むと右側の駐車場の右手には常林寺があった。
左側の苔蒸した建物はポンプ場で、道がカーブすると少し急になってきた。 
この先も、集落が続いていたが、 高速道路とJR中央本線が道の左手に接近してくると、人家もなくなり、 道が左にカーブするところになると、道幅がまた、バスがすれちがえない幅に狭まった。 
右下には浅川国際マス釣り場があり、釣り人の姿が見られた。
道の右上にある線路にカラフルな列車が突然現れた。 
中央本線にはいろいろな車体の電車が走るのだと思っていたら、 先方から三人連れのハイカーが下ってきた。
彼らは、高尾駅まで歩くのだろうが、どこから来たのか、質問する間もないうちに通り過ぎてしまった。 
その先は左にカーブしながら上る傾斜のある坂だが、 その手前の日影バス停のところで、バスが三台止まっていた。 
歩き始めてかなりになるが、その間、何回かバス群が通りすぎていったが 、どのバスも満員の乗客を乗せていた。  先程のバス誘導の人がいっていたが、ハイカーを運ぶために、臨時便を走らせているという。  途中に駐車する場所もなさそうなので、ここで調整しているのだと思った。 
木下沢橋(こげさわはし)を渡ると、坂道はかなりの傾斜になった。
ふんばって歩くと、 三叉路の左角に 「左日杉沢高尾山道 右小仏峠景信山」 の道標が建っていた。
甲州街道はそのまま直進するが、道はカーブしながら上っていく。 

常林寺
x 浅川国際マス釣り場 x 中央本線 x 三叉路の道標
常林寺
浅川国際マス釣り場
中央本線電車
三叉路の道標


上りきったと思えるところにJR中央本線をくぐるトンネルがある。 
中央本線の八王子、上野原間が開通したのは、明治三十四年(1901)のことだが、 大小の煉瓦を組み合わせたこのトンネルもそのとき作られたものだろうか? 
トンネルをくぐり、反対側にでると木下集落になるが、 道幅はバス一台分のしかない狭さである。 
大下のバス停のあたりから小仏バス停までが、 江戸時代の小仏宿があったところであるが、 左側下にはJR中央本線が走り、 右側には山が迫っているので、家が建つ面積が少ない。 
江戸時代にも問屋と旅籠が十一軒あったものの駒木野宿より更に小さな集落だった。 
一般的な家が建っているだけで、宿場の面影はほとんど残っていなかった。
高尾変電所の手前の右側にある細い道にを上ると、 石仏と庚申塔と享保四年七月建立の○○地蔵尊と書かれた石碑などが祀られていたのが、唯一古いものだった。
変電所の先には小仏バス停があり、高尾駅行きのバスが客を乗せて待機していた。 
バスから降りたハイカー達が前を歩いていた。  小生は高尾駅から一時間半以上かかったが、彼らはバスで十五分ほどで到着。 
道は舗装路されているが、傾斜がさらにアップした。 
左側の橋を渡ると、小仏山寳珠寺の境内になる。

寶珠寺は、十五世紀の開基と伝わる臨済宗南禅寺派の寺で、断食道場として知られる。 
本堂へ登る石段の左手の斜面には、都天然記念物の幹囲約四メートル、高さ約二十四メートルというカゴノキの木が、大きく枝を広げている。 
その上にある本堂はこぢんまりとした質素な建物である。

本堂の裏に回ると、不動堂が建っている。
その隣の小さな山王社の前に、「 甲府三度飛脚中 」 と刻んだ常夜燈がある。 

三度飛脚とは、月に三度甲府と江戸の間を往来した飛脚のことで、 三度笠は三度飛脚が被ったつばの深い菅笠をいう。
常夜燈は小仏宿を定宿としていた飛脚たちが奉納したものである。
彼らが小仏宿で定宿にしたのがこの寺を菩提寺にする青木家で、 かつては 「 三度屋 」 という屋号で呼ばれていたという。 

寳珠寺の隣には小さな社殿であるが、浅川神社が祀られていた。 

木下集落
x 石仏と庚申塔 x 寶珠寺本堂 x 山王社と常夜燈
木下集落
石仏と庚申塔
寶珠寺本堂
山王社と常夜燈





小仏宿から小仏峠

新編五街道細見には、小仏宿から小仏峠は二十六町とあるので、 約三キロということになる。 
寶珠寺から街道に戻ると、右側に中央自動車道の小仏トンネル入口が見えたが、 その先には  右に左にS字を描いてカーブする急坂が待ち構えていた。 
坂を上って行くと、「景信山は右」という道標があった。
坂を上りきり、少し歩くと、左側に「奥宮道場」への参道の石段があるが、 甲州街道は右の道をいく。 
その先には台数は少ないが駐車場があり、一般車はここで終りである。

表示などはなかったが、江戸時代にはこのあたりに江戸より十四番目の一里塚があったようである。 

車止めを越えると、三叉路があり、右へ登る道は景信山への直登ルートで、 甲州街道は左側の道である。
車が一台通れるくらいの砂利道であるが、 周囲は薄暗く道には水が流れているところもあった。 
道は左右にカーブしながら上るつづら折りであるが、 峠から下りる人、また、峠に向かって上る人が多かった。 
駅から小仏バス停までの間、歩いている人は十名位しか見なかったのに、 ここでは数分でそれだけの人に出逢った。 
この日は高尾山付近の紅葉の見頃ということから、今秋一番の人出だったのだろう。 
二、三百メートル歩くと、水場があったので、備え付けのコップを使って水を飲んだ。

道標
x 駐車場 x 三叉路 x 水場
道標
駐車場
三叉路
水場


ここから二百メートル程上ったら、林道は終わって、山道に変わり、 高度を上げていく。
ここから小仏峠までの距離は林道部分とほぼ同じのようである。 
周りに植えられているのは杉だろうか? 道は曲がりくねって、続いていた。
日が差し込んでいるところが一部あったが、全体的には薄暗い。
林の中にある名を知らない雑木はかすかに色付き始めていた。 
少しきついなあと思いながら上っていくと、
「旧甲州街道 相模湖  」 と書かれた道標があったが、 それには相模湖町と標記されていた。 
ここはまだ八王子市の領域だが、 神奈川県の旧相模湖町が甲州街道を通る人のために、県境を越えて設置したものである。
ここまでくると、標高が高くなって、歩いてきた八王子市の市内が見えた。 
いよいよ最後の急登である。  勾配が緩くなったら、峠はもうすぐで、まだか、まだか、と待ち望んだ小仏峠にやっと着いた。 
広場の中央にはたぬきの置物があり、「小仏峠頂上 海抜560m」  と書かれた道標があった。
この峠は武蔵国と相模国の国境であるが、 多くの人に知られるようになったのは武田信玄の関東遠征以降である。

「 永禄十二年(1569)、武田信玄の関東遠征の時、 別動隊の小山田信茂が甲斐国大月から八王子に向かう際、小仏峠を越えた。  滝山城の北条氏照は、これまでの常識である奥多摩方面からの侵入に備え、 戸倉城などを増強し、迎えうつ準備をしていたが、 不意をつかれたため、北条軍はやむをえず、滝山城に籠城することになった。 
小仏峠は、その後、甲斐国と武蔵国を結ぶ要路となった。 
江戸時代に入ると、甲州街道のルートに指定され、 駒木野関所が置かれた。 」

山道
x 杉林 x 旧甲州街道の道標 x 小仏峠頂上海抜560mの道標
山道
杉林
旧甲州街道の道標
小仏峠頂上の道標


広場の右手の山裾には、赤いよだれかけをかけた地蔵尊が祀られていた。

「 小仏峠の地名は、奈良時代、行基菩薩が寺を建て、 小さな仏を安置したところからつけられたというが、 この地蔵様が小仏の語源になったものかはわからなかった。 
その脇には、道標と案内看板があったが、これらは全て登山コースのものであり、 甲州街道の一文字もなかったのは残念である。 」

小仏峠についたのは丁度正午。 
今日は結婚記念日であるが、朝はいそがしかったので、ここで妻に「おめでとう」の メールを打った。  最初、電話をかけたのだが、通じなかったので、メールにした。 
メールは届いたかなあと気にかけていたが、自宅に帰ると、ありがとうの声がしたので、無事届いたようである。 
以前の小仏峠には大きな茶屋が二軒あり、賑わっていたが、 茶屋は営業を辞めてかなりなるようで、ブルーのシートで覆われて、廃墟の様相を呈していた。
茶屋後の先には「明治天皇小佛峠御小休所址及御野立所」と書かれた石柱が建っていた。

「 明治天皇の御小休止跡の石碑は、 明治十三年(1880)に明治天皇が山梨巡幸の際、ここを通行されたので、 それを記念して建てられたものである。 」

その左側にある「御野立跡」の石碑は、 三条実美が高尾山薬王院を訪れた時に詠んだ歌碑である。
「  来てみれば こかひはた織 いとまなし 甲斐のたび路の 野のべやまのべ  」   
こかひはた織とは、蚕飼い機織りのことで、 この地方は養蚕が盛んだったことが窺える歌である。 

「 三条実美は幕末から明治にかけて活躍した尊皇攘夷派の公家で、 父実万は井伊直弼が行った安政の大獄で処分され、本人も京都から長州へ逃げたり、 太宰府に幽閉されたりしたが、王政復古で政界に復帰し、太政大臣になり、 明治二十二年には内大臣を務め、臨時の総理大臣までなった人物である。 」

このころはまだ中央本線は開通していなかったので、 甲州方面に向かう人達はこの峠を越えていったのだろう。 
石碑の前には多くのハイカーが休憩して昼飯を食べていたので、 小生も椅子にかけて、高尾のポプラで買ってきたいなり寿司とパンを食べた。 
腹こしらえができたので、出発したが、その先には道標があった。
「← 小仏城山0.8km高尾山3.1km  鹿沢バス停3.5km相模湖駅5.5km→」 と表示されていたが、この先は神奈川県で、坂を下りきると小原宿である。 
 

地蔵尊
x 茶屋跡 x 明治天皇小佛峠御小休所址 x 道標
地蔵尊
茶屋跡
明治天皇御小休所址
道標




甲州道中目次へ                                      続 き (小原宿)



かうんたぁ。