『 甲州街道 (7) 駒木野宿 』    

駒木野宿は山間の静かな村で、総家数七十数戸という小さな宿場だった。 
江戸時代には小仏峠にあった関所が駒木野に移され、駒木野関所になった。
駒木野宿はその関番の屋敷などもあり、関所に付随する宿場という位置付けだった。
宿場業務は小仏宿と分担して行い、月16日から月末までを担当した。 
なお、宿場の長さは十町(1100m) で、旅籠が十二軒あった。 




西八王子駅前から高尾駅前

平成二十二年十一月二十一日(日)、西八王子駅に再び訪れた。
今日は西八王子駅から藤野駅まで歩く予定である。 
当初の計画では前回高尾駅までだったので、約1時間30分多く歩かないといけない。
前回訪れたのは十月二十一日だったが、それから一月しか経過していないのに、 イチョウがすっかり色付き、晩秋の到来を示していた。 
イチョウの黄色を見ながら、今年も早くも終わりが近づいていることを実感した。 

八王子中央図書館前を過ぎると、その先に長房団地入口交差点があるが、 このあたりのイチョウ並木の黄葉は素晴らしかった。
長房団地入口交差点は、 八王子警察追分交番から一キロ三百メートルのところであるが、 甲州街道はこの交叉点で右折し、 その先の信号交叉点を左折する。 
なお、その手前に左側に行ける狭い道があり、 右側の道との間の空き地に二基の石碑が建っている。

左側のは道標で、 「 右高尾山マデ一里半 左真覚寺マデ八丁 」 と読める。 
右側の石碑は、昭和二年に新道(国道20号)が出来て、路が真っ直ぐになったときの様子がイラスト入りで描かれているもの。  当時はここは枡形になっていて、砂川屋、地蔵堂、まんじゅ屋、新角屋などがあった様子である。  

現在の国道20号は一直線に高尾へ向かっていくが、 江戸時代の甲州街道は、田んぼの中をうねうねと曲がりくねりながら進んで行った訳で、この先の道は当時の道の名残である。 
交差点を左折して、この道に入ると、右側にthemarketPlace八王子があり、 そこに入ろうとする車で渋滞していた。
歩いている人はいないので、これらの車を見ながら、追い越して先に進んだ。 
右側に黒塗の塀で囲まれた屋敷もあったが、すぐに国道に合流してしまった。 
短い区間だったが、旧街道らしい味わいを感じることができた道だった。 
この道は国道20号の並木町東交叉点の先に出る。 
出た正面(国道の反対側)には曹洞宗の長安寺があった。
急勾配の屋根の上には徳川の紋である葵の御紋が二つあるが、 この寺は寛永三年(1626)の草創である。 
寺名の長安は大久保長安のことであろう。

「 大久保長安は慶長十八年(1613)に卒中のため亡くなったが、 その後、本多正信により、金山における不正蓄財が発覚し、一族処罰を受け、 長安も罪人であるがため、葬儀を禁止された。  寺の草創は長安の十三回忌の年にあたるが、どういう経緯で長安寺になったのか、また、葵の御紋がなぜ許されたのか分らない。 」

イチョウ並木
x 道標 x ヤマコーマーケットパレス x 曹洞宗長安寺
イチョウ並木
道標
themarketPlace八王子
曹洞宗長安寺


国道を進み、並木町交差点を過ぎると、左側に八王子市役所横山事務所があり、 駐車場の脇に、大衝羽根樫の大木がそびえている。
黄葉した国道のイチョウ並木の下を五百メートル歩くと、 右側に高尾警察署があった。
更に、三百メートル歩くと、右側の家の前に桜茶屋の立ち看板があった。 
ここは多摩御陵入口交叉点の手前で、 家の先に「武蔵陵墓地参道」と書かれた大きな標石が建っていた。

「 武蔵陵墓地は、大正天皇、貞明皇后、昭和天皇、 香淳皇后の四人の御陵の総称で、 昭和天皇陵が築造される以前は多摩御陵と呼ばれていた。 」

この交叉点を直進し、次の多摩御陵西交叉点で、 右側にある狭い道が入っていくのが甲州街道である。 
当日はこの場所で水道工事が行われていたので、旧甲州道中の道標があるのか否かは確認できなかった。
旧甲州街道は約七百メートル程残っていて、 八王子から高尾間に残る甲州街道として、貴重な存在である。 
国道からそれほど奥に入っているとは思えないのに、 かすかに車の音は聞こえる程度の静かな道である。 
道の両側にある家の敷地面積が広く、細い用水も流れていて、 黒塀と見越しの松の屋敷が何軒もある。 
この中には千人同心の小人頭だった家もあるのだろうか? 
車も中に入り込まない静寂な街道に黒板塀の民家がよく似合っていた。
こうしたところを歩いていると、時が止まっているように思えるのは、不思議なものである。 
といっても、途中の辻にお地蔵さまがあった以外には古い家も石碑なども見あたらなかったが・・・

大衝羽根樫
x 蔵陵墓地参道の標石 x 多摩御陵西交叉点 x 黒板塀の民家
大衝羽根樫
蔵陵墓地参道の標石
多摩御陵西交叉点
黒板塀の民家


街道歩きの楽しい雰囲気も、いきなり現れた横断禁止の道路で、終わりを告げた。
甲州街道は、高尾街道で切断されているが、 道の反対側に四十メートル程続く道が残っているが・・・ 
しかたがないので、左折して二十五メートル歩いて、町田街道入口交差点に出た。
すると、これまでの静かな街道と一転し、騒々しくなった。 
交叉点を直進する道は町田街道だが、高尾までは右折して、国道20号を進む。 
道路の左側の高台の茂ったところが、熊野神社なので、 横断歩道橋を渡り、反対側に降り、坂道を上っていく。 
境内の奥まったところに社殿があり、その右側には合祀された神々が祀られていた。
社殿に貼られていた境内案内図には熊野神社の由来が書かれていた。 

「熊野神社の由来」
「 御祭神 素邪那岐命(いざなみのみこと) 創建の年代は詳らかでない。 
その昔、諸国行脚の老夫婦がこの地に紀州の熊野本宮大社を奉斉したという伝承がある。  古文書(現存せず)に応安(1368)の頃、片倉城主毛利備中守之師親が創建したとも言われている。  天正元年(1573)北条陸奥守氏照再建し、元禄四年十月享保五年十二月・・・・・嘉永四年九月など、 十回の修改築を行っている。 」 
とあった。 又、お杓文字様の由来というのもあり、 
「 中央線の南側の畑の中に杉木立があり、中に小さな石の祠があった。  ばばあ森とも、またの名をお杓文字森とも言って、いつもお杓文字が納められていた。  そのお杓文字を借りて、ご飯をよそって食べるとたちどころに風邪が治ると言い伝えられて、ばばあの森は大正年代まで付近の人達が信仰の対象に崇められていたらしい。
その祠は京王線高尾駅拡張に伴い、熊野神社の境内に遷された。  そのそばにぢぢい森もあったが、明治三十四年中央線の開通と共に無くなったが、その場所は今の信号のあたりであるとか、 このぢぢばばは夫婦は紀州から熊野神社の御影を持って当地に祭られた祖であると云われている。 」 
とあった。 

社殿の左手に大きな樫の木と欅の木が合体した巨木が生えている。

説明板「昔の恋の物語」
「 今から四百年の昔、 八王子城主北条氏照の家臣、篠村左近之助の娘、安寧姫と狭間の郷士の息子が 恋をしました。 
     (中略)   
この木は樫と欅が根元が一緒になって成長した相生の木でしたので、いつしか縁結びの木と呼ばれるようになりました。
この木の根元に、自分の名前と思いを寄せた人の名前を書いた小石二つ置くと、 願いが叶うと言われています。 」

国道に戻ると、道路の両脇のイチョウは今日見た中で、一番ボリュームもあり、 色も濃く見事だった。
少し歩くと高尾駅前交差点である。 交叉点から見える右手の山は武田氏と北条氏が戦った十々里原(とどりはら)古戦場だったところである。 

横断禁止の道路
x 熊野神社 x 巨木 x 黒板塀の民家
横断禁止の道路
熊野神社
巨木
イチョウ並木





高尾駅から駒木野宿

平成二十二年十一月二十一日(日)、当初の計画では、西八王子駅を出発し、 高尾駅前を経由して、小仏峠を越え、相模湖駅までだったが、 天候予報に雨の可能性が出てきた。 
JR高尾駅に到着したのは九時。  休憩を兼ね、駅で休憩。 

プラットホームには高尾山の象徴、天狗の面が置かれている。  観光協会がつくったもので、かなりでかい。 
峠越しに出発。 交叉点を左折して、国道20号を高尾山に向かって歩く。 
高尾駅前第二交叉点を過ぎると、右側に入る小路に 「 川原之宿関所 いちょう祭 」 と書かれた手作りの立看板があった。
万治年中(1658〜61)に、この辺りに甲州街道が移された際、 「川原之宿」と名付けたといわれるが、 それ以前の道はもう少し南を通っていたようである。 
これは地元が開催するイベントの道案内のようなので、そのまま直進した。
川原宿バス停を過ぎると、「日本橋より51km」の国道標識があった。  
両界橋東交叉点を過ぎると、道は左にカーブするが、 頭上にJR中央本線の鉄橋があり、その下に両界橋が架かっている。 
橋の下には南浅川が流れているが、江戸時代には獅子淵と呼ばれた古淵がある。
橋から見ると、紅葉には少し早い感じもしたが、水に映って秋らしい風景になっていた。 

JR高尾駅
x 天狗の面 x 立看板 x 古淵
JR高尾駅
天狗の面
立看板
古淵


JR中央線の高架の下を過ぎると、小名路(こなじ)という地名に変わる。
少し歩くと西浅川交差点に出た。
直進する国道は大垂水峠へと向かうが、甲州街道は右に入る細い道で、 駒木野宿を経て、小仏峠へ続く道である。 
次に国道に再会するのは、九キロ先の相模原市緑区小原字底沢になる。 
その間は、山道となる上、お店はその先もほとんどない。 
交差点の角に木村屋酒店が経営するコンビニポプラがあったので、 飲料水やパン、おにぎりを購入。 これで一安心。 
交叉点を右折して三百メートル程歩くと、裏高尾町になり、 道の左側に煉瓦造りの駒木野病院が見えてきた。
日本橋から高尾までは都会の道を歩いてきたが、右折すると一変し、 静かな山里らしい風景になり、街道歩きの雰囲気になってきた。 
この道は高尾駅から小仏宿まではバスが通っているが、 道が狭く場所によっては一車線しかないので、 バスも対向車と連絡を取りながら走っている。 
病院を過ぎると、坂道になった。 左側に地蔵尊が五体祀られていた。  右の家の塀の上の木に黄色いハンカチと書かれた布が付けられていたが、 後でわかったことだが、この布はイチョウを意味しているということだった。
三叉路に出ると、道の左角に「駒木野橋跡」の石碑が建っていた。 
以前にはこのあたりに橋が架かっていたようで、 撤去した橋の名前を後世に残そうということで碑を建てたという。
当日は祭りで売る花が脇に置かれていた。 
ここからは道が狭くなり、大型バスが一台通ると対向車は退避する狭さである。 

紅葉期の日曜日ということで、 小仏峠に向かうハイカーのためのバスが増発されているようで、 見ていると続けて、四台のバスが来た。  歩行者の小生はあわてて、道脇の高台に追いやられる始末である。  これで分かったのであるが、高尾駅駅前にいた人達はバスの利用客だった訳で、 バスを利用して小仏宿の先から歩き始めるという寸法である。 

西浅川交差点
x 駒木野病院 x 黄色いハンカチ x 駒木野橋跡
横断禁止の道路
駒木野病院
黄色いハンカチ
駒木野橋跡


右側の小高いところに人が集まっていたので、バスを誘導している人に聞くと、 
「 本日は八王子追分から高尾にかけて、いちょう祭が行われる。  黄色いハンカチはイチョウのないところをイチョウで覆う趣旨で行っている。 ここでは、集落の人々のイベントが行われる。 」 
といわれた。 
誘導員の奥の竹柵に囲われた中に、「史蹟 小佛関阯」の石柱と説明板があった。
ここが国史跡に指定されている江戸時代の「小仏関」の跡のようである。
建物はないが、敷地は当時のままのようである。 
なお、関所の正式名称は駒木野関所で、上るときは手形がいるが、 下るときはいらなかった。 

八王子市教育委員会の「説明板」
「 小仏関所は戦国時代には小仏峠に設けられ、富士見関ともよばれました。  武田・今川・織田氏などの周囲の有力氏が滅ぶと麓に一度移され、 その後、北条氏の滅亡により、 徳川幕府の甲州道中の重要な関所として現在地に移されるとともに整備された。  この関所は道中奉行の支配下におかれ、 元和元年(1623)以降、四人の関所番が配備されました。  関所の通過は明け六ツ(午前六時)から暮六ツ(午後六時)までとし、 しかも手形を必要とした。 鉄砲手形は老中が、町民手形は名主が発行。  この手形を番所前にあった手形石に並べ、 もう一つの手付き石に手をついて許しを待ったという。  地元の者は下番を交代ですることもあって、自由な面もあったらしい。  明治二年(1869)一月の太政官布告により廃止され、建物もとりこわされた。 」

新修五街道細見を見ると、関守を勤める御定番として、 川村文助、小野崎松次郎、佐藤庄太夫、落合貞蔵の名前が記されている。 
石碑の前には、関所手形を乗せた「丸石」と頭を下げたという「平石」 の二つが置かれていた。
これらから、入り鉄砲出女を取り締まった関所の雰囲気を少しだけ感じることが出来た。 
その上では出店やお祭りの準備が行われていて、踊りの出番を待つ女性グループがたむろしていた。
若い娘と子供だけと思っていたが、よく見ると年配の女性もいた。  派手な衣装だったので、気づくのが遅れた。 
この高いところに、街道に面して「甲州街道駒木野宿」と刻まれた石碑が建っていた 。
下に降り、甲州街道を進むと、左側に白壁に板張りの大きな家があった。 
その先にも家が続いているが、それほど古い家もなさそうである。 
駒木野会館には祭の関係者か、多くの人が集まっていた。 
江戸時代には本陣や脇本陣もあったのかも知れないが、それに関する資料がないので、分らない。  また、関守の四家が住んでいた場所も確認できなかった。 
江戸時代の駒木野宿は総家数七十数戸だったといわれるが、 付近にアパートなども建っているので、 住民の入れ替えもあるのではないかと思った。 

小佛関阯の石柱と説明板
x 丸石と平石 x いちょう祭 x 駒木野宿碑
小佛関阯の石柱と説明板
丸石と平石
いちょう祭の出番待ち
駒木野宿碑




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かうんたぁ。