『 甲州街道 (6) 八王子宿 』    


八王子は甲州街道の最大の宿場町として、また、多摩地域の物資の集散地として栄えた。 
八王子宿は、横山宿とも呼ばれたが、横山宿や八日市宿を中心として十五宿から成り立っていた。 
十五宿とは、十王堂宿(新町)、横山宿、八日市宿、本宿、八幡宿、八木宿、子安宿、馬乗宿、小門宿、本郷宿、 上野(上野原)宿、横町宿、寺町宿、久保宿、嶋坊(嶋野坊)宿を指すが、全ての宿が甲州街道に面していた訳ではない。 




日野宿から八王子宿

平成二十二年(2010)十月二十一日十三時三十分、日野駅近くで昼飯を済ませて、 八王子に向かって、出発。 

甲州街道は日野駅の手前の交差点で、国道256号線と別れて、左の日野坂に向かう。
日野坂は途中でJR中央線の線路に突き当たってしまうので、坂を下り、 JRのガードをくぐって左に曲がる。 
その先はかなり長い上り坂になり、「大坂上通り」と名がついているが、 日野大阪上交差点が坂の頂上である。 
甲州街道はJRの工事により、昔の道は残っていないように思えたので、雨も強くなってきたので、 交叉点は曲がらず、そのまま国道を進むことに変更。 
JRのガードを越えると、こちらも坂道になる。 
  三叉路の日野坂上交叉点は左の道を上り、中央高速をくぐると、 今度は日野坂の三叉路でた。  国道はその山を囲うように左にカーブしながら上っていく。
右側の千代田運輸を見ながら進むと、 左から前述した甲州街道が合流する日野大阪上交差点に出た。br> この先右側は日野自動車の工場で、約七百五十メートルにわたって続いている。  といっても、出入口以外はフェンスに覆われているので、なかの様子をみることは出来ないが・・・ 
西門を過ぎると赤い日野の看板があるが、その先のフェンスの高いところに、 蔦がからまった「甲州街道日野台一里塚跡」の説明板があった。

日野市教育委員会が建てた説明板
「 一里塚は慶長九年(1604)甲州街道の一里ごとに設置された。  道の両側に造られ、五間四方を基準に高さは一丈ほどである。  頂上には榎などの樹木が植えられ、旅人に木陰を提供し、距離の目安となっていた。  この付近の道巾は九メートルで、塚の上に雑木があり、南の塚は高さ二・六メートルと大きなものであった。  この塚は江戸日本橋から十里目にあたり、この説明板の西九十メートルほどの地点にあった。 」 

元の場所に設置されたのではないのだから、 もっと見やすいところに設置できるよう、日野自動車に頼んで欲しかったと思った。 

日野駅
x 日野坂を上る x 日野大阪上交差点 x 一里塚跡
日野駅
日野坂を上る
日野大阪上交差点
一里塚跡


日野台交叉点を越えると、右側は日野台五丁目、左側はさくら町である。 
左側の一区画すべてがコニカミノルタと関連工場で占められているので、 コニカのかってのフイルム名からさくら町と名付けられたのだろう。
国道256号線はこのあたりは直線の上、わずかな下り坂なので歩きやすかった。 
日野台五丁目西交叉点を過ぎると、八王子市の標識があり、八王子市高倉町になるが、 右側に蔵と屋敷門のある家が残っていた。 
日野坂付近の新興住宅群を見てきたので、これを見て何故かほっとした気分になった。 
その先には高倉稲荷神社があった。
高倉交叉点を過ぎると、左から国道20号の日野バイパスが合流したが、 この間七百メートル程だろうか?   ここからは国道20号線になる。 
国道沿いには、サイゼリア、リンガーハットなどのファミレスが多い。  紳士服の青山がある大和田坂上交叉点を越えると、 JR八高線の跨線橋の上を渡る。
このあたりから下り坂の傾斜は強くなる。 それに比例してという訳ではないが、雨脚も強くなった。 
その先の石川入口交差点では都道155号が交叉するが、直進する。 
交差点の右側に、赤い長い塀が続く料理屋があり、「とうふ屋うかい」と書かれていた。
その先の歩道橋の手前に日本橋から43kmの国道標識があった。
なお、歩道橋の先を左折する道も都道155号である。 

コニカミノルタ
x 高倉稲荷神社 x 跨線橋 x 国道標識
コニカミノルタ
高倉稲荷神社
跨線橋
国道標識


大和田町四丁目交差点は立体交差になっていて、高架橋には国道16号が通っているが、 その下を通り抜けていく。 
少しいくと道の左側にホンムラ光研があるが、そこを左折するのが甲州街道である。  その先、少しだけ甲州街道が残っている。 
道に入ると、大和田 中央町会会館があり、その先に小さな富士見橋があった。
このあたりが旧大和田村の中心だったのだろうか?
甲州街道として残っているのは大和田橋北詰交差点までの短い区間であったが、 都内に残る貴重な旧街道だと思った。 
大和田橋北詰交差点で再び国道20号に合流すると、浅川に架かる大和田橋があった。
橋の袂には、「焼夷弾と弾痕の保存について」という説明板がある。

「説明板」
「 八王子市は太平洋戦争終結の13日前、昭和20年8月2日未明に、 米空軍のB29爆撃機180機の空襲を受け、 約450名が死没、2000余名が負傷し、旧市街の約80%の家屋が消失する被害を受けました。  そのとき多くの市民が大和田橋の下に避難し、尊い命が助かりました。  大和田橋の歩道上には、この空襲の時投下された焼夷弾の跡が17箇所残っています。  車道の部分は過去の補修により、弾痕は残っていませんが、 現在歩道上に残っている弾痕の数から推測すると橋全体では約50個以上の焼夷弾が投下されたと思われます。 」 

 今や戦争の時のことを知る人は少なくなったが、 小生は終戦を山口県徳山市(現周南市)で迎えた。  戦艦への給油施設があったため、集中的な爆撃を受け、自宅周辺に爆弾や焼夷弾が落ち、死者も出た。  通っていた小学校は焼夷弾で消滅したので、 この説明板で久し振りにその時の様子を思い出した。 
二度とあってはならない戦争で、この説明板と橋に残る跡は大変貴重なものである。 
川の右手見えるのは八王子ホテルニューグランドで、印象に残る建物である。
川を渡ると、江戸時代の八王子十五宿の入口になる。 

「 八王子は、北条氏照が深沢山に城を築いた際、 ここに八王子権現(牛頭天王の八人の王子神)が祀られていたため、 八王子城と名づけたことに由来する。  この城は豊臣秀吉の小田原攻めの際落城したが、徳川家康の関東移転により、 交通の要衝だったこの地も家康の領地になった。  家康は天下を取ると、江戸と甲府を結ぶ甲州街道の整備に力を入れた。  家康は八王子を江戸を守るための重要拠点と注目していたようで、 召抱えた武田家の遺臣で組織した八王子千人同心をここに配置したのをそのためである。 」 

橋を渡ったら、大和田橋南詰交叉点をを右折して、北大通りを進む。 
国道と変わらない広い通りを約四百メートル歩くと、左に市立五中の歩道橋がある。
その先の市立五中交差点は五差路になっているが、 甲州街道は、この交叉点の左斜めの道に入っていく。

甲州街道
x 大和田橋 x 八王子ホテルニューグランド x 市立五中交差点
甲州街道
大和田橋
八王子ホテルニューグランド
市立五中交差点





八王子宿

一方通行の狭い道で、左右は住宅であるが、 二百メートル弱歩くと、右奥にこんもりとした森が見えてくる。 
右側に「竹の花公園」の表示があり、道路に面して「史跡一里塚阯」と書かれた石碑が建てられ、公園側に面を向けた「新町竹の鼻の一里塚跡」と書かれた説明板がある。

「説明板」
「 ここ新町の一里塚は甲州道中八王子宿の東に位置し、 江戸から十二里にあたります。  明治三十年(1897)の八王子大火で焼かれるまでは大榎が涼しい木陰を作り、 往時をしのばせていたようですが、 現在は付近の鍵の手に曲がった道筋が昔の面影をわずかに残しています。 」

隣の小高いところに永福稲荷神社の社殿と力士像が立っているのが見えた。
石段を上って上がっていくと、説明板があり、力士像は八光山権五郎であることが分かった。 

「説明板」
「 永福稲荷神社は竹の鼻稲荷ともいわれるが、ここ新町の鎮守で、 祭神は倉稲魂命である。  宝暦六年八月に当地出身の力士、八光山権五郎により再建されたが、 八光山は落成当日に相撲を奉納している。  八王子宿の入口に位置したことから、江戸から往来客による信仰が厚く、 寄進された鳥居や天水桶等が現在も残っている。  毎年九月に行われる生姜祭りには、神社により軍配御守札が授与される。 」 

神社の裏には「日影塚と言われる芭蕉句碑が建っていた。

句碑の正面には 「  蝶の飛ぶ ばかりの野中の 日影哉   芭蕉翁  」 の句が刻まれている。 
裏面には、  「 榎本星布 性雅にして俳諧をよくす都の人なり 寛政十二年秋祖翁の句碑を其の駐杖の地に建て日影塚と稱す   偶々明治三十年四月祝融の災に遇ひて碑石剥落し 今やつひにそのかけを留めす   我等甚たこれを遺憾として今茲己丑の秋   同志相謀り以つて舊地に句碑を再建せり 仍つてこれを誌す    昭和二十四年九月 八木正男撰 」 とある。 
<一門の女流俳人、松原庵星布が寛政十二年八月に、上記の句碑を建てた。
明治三十年四月の大火で、碑石が剥がれ落ちてしまったため、 昭和二十四年九月、土地の同士が集まって、句碑を再建したのである。 

境内の右奥に青面金剛と三猿が彫られた笠付きの庚申塔があった。
書かれた文字が読めないが、これは「梵字真言庚申塔」と呼ばれるものだそうで、 表側には「青面金剛心呪という文字が梵字で刻まれている。
これまで各地で庚申塔を見てきたが、 梵字真言の庚申塔は始めて体験するものだった。
その左側には享保八年(1723)建立と刻まれた笠付きの石もあった。 

竹の鼻一里塚跡
x 永福稲荷神社 x 芭蕉の日影塚 x 笠付きの庚申塔
竹の鼻一里塚跡
永福稲荷神社
芭蕉の日影塚
笠付きの庚申塔識



甲州街道に下り、旅の続きを始める。 
すぐに突き当たりの三叉路になったが、 江戸時代にはここは左に直角に曲がる枡形だった。
ここが八王子宿の江戸側の入口で、「十王堂宿」といわれた宿場である。

「 江戸時代の八王子には、 十王堂宿から西の嶋坊宿まで十五の小さな集落があり、 それぞれが宿場になっていた。 
それを総称して八王子宿、あるいは中心となる宿場名から横山宿とも呼ばれた。 
江戸幕府は、「八王子十五宿」あるいは「八王子横山十五宿」といっていたようである。 」

この角を左に曲がり進むと、八王子駅入口東交叉点で、国道20号に合流する。
このあたりが横山宿で、現在の八王子市の中心である。
江戸時代には交叉点の東百メートルのところに木戸があったといわれるが、 今日では確認のしようがない。 
木戸の南方に鎮座している子安神社は、淳仁天皇の皇后安産のため創建されたと伝えられる神社である。

横山という名前は、武蔵国で勢力を持っていた土豪の横山党より出ている。 
かってのこの一帯は横山郷と呼ばれたが、 その後、八王子城が建てられる際、そこに八王子権現が祀られていたことから、 八王子城と名付けられ、それが地名になった。 
江戸時代に横山十五宿とも、横山宿と呼ばれたのも上記の経緯を考えると納得できた。 

江戸時代の横山宿には本陣や脇本陣があり、八王子宿の中心だった。 
甲州街道は国道20号で右折して真っ直ぐ進む。 
その先右側に横山地域安全センターがあり、その隣に市守神社大鳥神社の鳥居が建っている。

「 市守神社は、市守稲荷とも呼ばれているが、 祭神は倉稲魂命(うがのみたまのみこと)で、 横山宿と八日市宿で行われた六斎市の商売繁盛の神として祭られたものである。 
大鳥神社は江戸時代中期の頃に、天命鷲命(あめのひわしのみこと)が配祀された。  毎年十一月の酉の日には大酉祭が行われ、今も酉の市として賑わっている。 」

八王子駅入口交差点から八日町交叉点にかけては、八王子宿として大いに賑わったところであったが、 ビルが林立し、江戸時代の面影はすっかり消えていた。
脇本陣だった川口家などがどこにあったかは確認できなかった。 

枡形
x 八王子駅入口東交叉点 x 子安神社 x 鳥居
枡形
八王子駅入口東交叉点
子安神社
鳥居



その先に横山町交叉点があるが、左右の道は狭く、左から右への一方通行である。

「  交叉点を右折し、北に向かうと大義寺があり、境内には松原庵星布の墓がある。 
また、八王子一小の左側にある八幡八雲神社は横山党の根拠地だったといわれるところである。 
この北方の妙薬寺には横山氏の墓があるという。 」

この一帯は、現在は元横山町二丁目だが、江戸時代は本宿と呼ばれたところである。 
横山郵便局前交叉点を過ぎると、道の左側に倉のある商店がある。 
左側にはざるや風呂の手桶などが店頭に並んでいる店があり、 看板を見ると、「あらもの米屋、創業安政元年 守谷豊蔵商店」とあったが、 これらは甲州街道の雰囲気を残す数少ないものだと思った。
八日町交叉点は五又路のスクランブル交叉点である。 
交叉点を左折すると、その先は寺町なので、江戸時代には寺町宿があったのだろう。 
交叉点を越えると八日町で、江戸時代、八日市宿があったところである。
今はビルが林立して、 本陣だった新野家、脇本陣だった山上家などの屋敷がどこにあったか、 その痕跡もわからなかった。 
その中で、八王子市夢美術館の前に建っていた「甲州道中八日市宿跡」の石碑だけが、 ここが宿場町だったことを示していた。

その脇にあるプレート「説明板」
八日市宿跡と書かれたプレートには、
「 戦国時代の終わりごろ、それまで関東を治めていた後北條氏が滅ぼされると、 徳川家康が新たな領主となり、 それまでの八王子城下(現在の元八王子)から現在の市街地へ移転され、 東西の道(甲州道中)が整備され、東から横山、八日市、八幡の三宿が開かれました。  江戸時代に入ると、八王子は甲州道中の宿場町として、 また、地域経済の中心都市として発展しました。  なかでも、八日市宿は横山宿と並び、本陣と脇本陣が置かれ、 山上家や新野家が本陣役を勤めるなど八王子の中心的役割を担っていました。  四のつく日は横山宿、八のつく日は八日市宿で、六斎市が立ち、 多くの人々で賑わいました。 」 

当時の八王子宿の絵図は痛んでいてよく見えなかったが、 元八王子の道は曲がりくねった道なのに対し、 三宿を結ぶ甲州道中は直線なことや馬乗宿がこの南にあったことが分かり、 おもしろかった。 
八幡町交叉点を越えると江戸時代の八幡宿に入る。
右折すると大横町という地名だったので、このあたりに横町宿があったのだろうか?と思った。 
八幡町交叉点を越えると右側に仏壇の岡田屋があり、 道の反対には別の仏壇屋があり、  その隣には埼玉屋本店という豆の店もあった。

八王子で感心するのが個人商店がまだ健在なこと。  スーパーなどで町の商店街が全国的に衰退していく中で、個人商店が頑張っているという印象を受けた。 
これは八王子の商圏が広いことと、 新宿副都心まで距離があることが幸いしているのだろうと思った。 

本郷横丁東交差点の手前右側に八王子おりもののショーケースがある。 
この建物は八王子織物共同組合である。

「 八王子織物は先染めの絹織物で、当初は八王子周辺の村々で織られていたが、 甲州道中の誕生による六斎市の開催により、周辺の村々から繭や生糸、織物などが集まられ、それが地元を始め、大消費地の江戸などに出荷された。  八王子の織物業が発展した要因には、桐生や足利という織物技術の先進地や江戸という大消費地に近かったことがあげられる。 」 

着物の消費離れにより、八王子が織物の産地であることを知らない人が増えたのは残念である。 

横山町交叉点
x 守谷豊蔵商店 x 八日市宿跡碑 x 八王子織物共同組合
横山町交叉点
守谷豊蔵商店
八日市宿跡碑
八王子織物共同組合


本郷横丁東交差点の右角には大きな蔵造りの雑貨店があった。
このあたりは本郷町で江戸時代には「本郷宿」があったところである。 
本郷横丁東交差点を左折し、狭い道を行くと踏切の手前右側に、 「産千代稲荷」の標柱と鳥居がある。
その左側には、「 史蹟大久保長安陣屋跡」の大きな石碑が建っている。
この辺りは、江戸時代、小門宿と上野宿があったところである。 

「 大久保長安は、八王子に係わりが深い人物である。 
信玄により武士として採用されたが、 武田家が滅んだ後は徳川家康の家臣となり、関東代官頭として八王子に陣屋を置き、 八王子宿の建設を進めた、 浅川の氾濫を防ぐため、「石見土手」と呼ばれる土手を築いた。  陣屋は小門町と上野町にまたがっていた。 
産千代稲荷神社は、慶長八年(1603)、八王子奉行大久保石見守長安の陣屋内に、 鬼門除けの守護神として勧請されたもので、 祭神は倉稲魂命(うがのみたまのみこと)である。
このあたりは、江戸時代より大木が多く、小門の稲荷森と称したようである。 」

本郷横丁交叉点を右折するのはあきる野方面の秋川街道である。

蔵造りの雑貨店
x 大久保長安陣屋跡 x 
産千代稲荷神社 x 本郷横丁交叉点
蔵造りの雑貨店
大久保長安陣屋跡
産千代稲荷神社
本郷横丁交叉点


交叉点を越えると八木町で、江戸時代には「八木宿」があったところである。
八木町は道路の北側だけで、しかも三百メートル程と短い。 
道路の左側には柿渋色の暖簾が架かったこんにゃくの「なかのや」があった。

「  なかのやは、自家工場でつくったこんにゃくや寒天をここではお茶と一緒に楽しめる。  また、こんにゃくや寒天の様々な商品を販売している。 」

八木町の先は追分町で、道路標識には、「これより三百メートル先は  大月・高尾国道20号 陣馬高原都道521号 」とあった。 
二百メートルも歩くと、追分町交差点に出た。
右折する道は陣馬街道で、甲州街道は左折である。

陣馬街道は甲州街道の追分から西へ分かれ、 和田峠を経て神奈川県相模原市に至る街道である。 
甲州街道の裏街道だったことから、甲州裏街道または甲州脇街道とも呼ばれた。 
若い頃、峠のある陣馬山に富士山を見るため、二度登った思い出がある。 

横断歩道橋を渡り、陣馬街道と甲州街道との間に下りると、 八王子警察署追分交番があった。
  交番と交叉点の角の間に「追分道標」があり、正面に 「左 甲州道中高尾道」、 右側面に「右 あんげ道」 と書かれていた。 

「 これは文化八年(1811)、江戸の足袋職人清八が建てたものであるが、 昭和二十年の八王子大空襲で壊れたのを修復したものである。
あんげ道は陣馬街道と呼ばれる道のことであるが、かつて武州案下(現・八王子市内)を通っていたことにちなみ、 案下道(あんげみち)と呼ばれたのである。 」

なかのや
x 追分町交叉点 x 追分交番 x 追分道標
なかのや
追分町交叉点
追分交番
追分道標


道標の裏側に「千人町」とあった。

「 地名の千人町は、 徳川家康が武蔵国の治安維持と国境警備の重要さから、 旧武田家臣団を中心とした家団を作ったのが「八王子千人同心」である。
彼らはこのあたりに屋敷を構えて、江戸城に異変が起きたときの備えたことから、 千人町の名前が付いた。 」

交叉点から陣馬街道を西に向かうと並木道になって続いていた。 
陣馬街道を少し進んだ三叉路のところに、 八王子千人同心屋敷跡記念碑が建てられていた。

説明文
「  大久保長安は徳川家康に武蔵国の治安維持と国境警備の重要さを指摘し、 八王子五百人同心の創設を進言した結果、 旧武田家臣団を中心とした八王子五百人同心が誕生した。  慶長四年(1599)には更に増員を願い出て、倍増の八王子千人同心となった。   千人の同心は千人町のあるところに屋敷を構えて、江戸城に異変が起きたときの備えとなした。 」 

全員がここに居を構えていた訳ではなく、 このあたりにあったのは千人同心の小頭たちの住居で、 その他の同心達は各地に散らばり、日頃は農業に従事し、 事あるときのために、武道の修業に専念していた。 
新撰組の井上源三郎の家も千人同心であり、将軍家茂が上洛した時には、 兄が供をしている。 
傍らにあった「八王子千人同心」の説明板には、 誕生から消滅までの経緯がくわしく紹介されていた。

陣馬街道を少し進んだあたりが八王子十五宿の嶋坊宿と久保宿である。  明治に八王子町が誕生した時、両宿が合併して久島町となったことが記載されているが、その後この名前は消滅している。  現在の日吉町がその地でだろう。 

追分町交差点まで戻り、交叉点を左折する。 
交叉点をいくつか過ぎると、西八王子駅東交叉点の右側の山梨中央銀行の前に、 「馬場横丁」と記された道標がある。
ここは千人同心のための馬場訓練場が有った場所である。 
交叉点の反対側に西八王子駅がある。
雨の中、南武線の矢川駅から出発し、日野宿を経て、八王子宿に入ってきたが、 今日は名古屋に帰らなければならない。
時計を見ると、十七時だった。   雨はほとんど上がっていたが、雲が立ち込めて薄暗い。 
当初の計画は高尾駅までであったが、ホテルで実施か中止かと迷っていて、 出発時間が遅すぎた感がある。 
高尾までは無理と判断し、西八王子駅で終了することにした。
快速に乗れたが、荷物を新宿駅のローカーに預けてきたので、 新宿駅で降りざるをえなかった。  小田急デパートのトイレを利用して、着替えと洗顔などを行い、  新宿駅西口で新幹線の切符を購入し、 再び中央線に乗って、東京駅から名古屋に帰った。   街道歩きで短時間降られたことはあったが、一日中雨だったのは初めて。  土砂降りでなかったのはせめてもの幸いであった。 

記念碑
x 説明板 x 馬場横丁道標 x 西八王子駅
記念碑
説明板
馬場横丁道標
西八王子駅




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かうんたぁ。