日野(ひの)には、甲州街道では三ヶ所しか残っていない本陣建物がある。
新撰組とも関わり合いがある地であり、
狂歌師の蜀山人(大田直次郎)も三度訪れている。
矢川駅から日野宿
平成二十二年(2010)十月二十一日、朝起きると雨が降っていた。
天気予報では今日一日雨との予報である。
あきらめるのも一案だが、わざわざ名古屋から来たので、もう少し様子を見ようとホテルで食事をしながら、外を見ていた。
思い切って歩こうと覚悟したのが九時過ぎ、
昨日終わった南武線の矢川駅に着いたのは十一時になっていた。
矢川駅入口交差点から旅を再開する。
百五十メートル先の道路の左側に市立あゆみ保育園の看板があり、
その下の矢川には豊富な水が流れていた。
道の反対に赤い屋根の小さなお堂が見えたので、
道を横切って近づくと五智如来が祀られた祠であった。
説明板
「 五智如来の由来は、江戸時代に八王子在住の越後の人、数人がこの地、四軒在家に移住してきて、
郷土で信仰してきた五智如来を祀ったのが始まりと伝えられています。
五智如来は五種の智を備えた仏様で、大日如来の別名とも言われています。
昭和前期までは夕方になると灯明や線香、供花が絶えませんでした。 」
矢川三丁目交叉点の三叉路で左に行く道は国道20号のバイパスで、
甲州街道はいつの間にか国道256号に変わっていた。
横断歩道を利用して、ここで道の左側に移り、歩いていく。
国立6小歩道橋を過ぎ、右側にあるVOLVOディーラー見ながら進むと青柳交差点で、
その先に青柳福祉センター前交叉点がある。
左側に鳥居があり小道があるが、これは青柳稲荷神社への参道である。
鳥居の左側には、お堂と黒いトタンに覆われた小さな倉庫が建っている。
お堂は青柳地蔵堂であるが、その隣の黒い倉庫はおわんこ倉といわれる、
大勢の人を集まる祭事の際に使用する漆器類を保管するための倉庫である。
「 昔、村では各戸では漆器類を最小限度しか持たず、 大勢の人に供する場合は共同で使用した。 これは全国各地でもみられた制度のようだが、 こうした倉庫が残っているのは大変珍しい。 」
道の反対側の建物前の植栽の中にあるのは 秋葉大権現常夜燈と馬頭観音である。
説明板「元青柳村の常夜燈」
「 この常夜燈には、東側には榛名大権現、北側に正一位稲荷大明神、
西側に秋葉大権現、南側に寛政十一年(1799)九月 施主村中 などの文字が刻まれていることから、青柳村の人々が建てたことがうかがい知れます。
古老の語ることによると、
昭和の初期までは村の人々が毎晩当番でローソクを一本ずつ点す習慣があったということです。 」
馬頭観世音碑の裏面には、「嘉永二年已酉二月日」と刻まれていたが、
馬頭観世音は甲州街道を歩き始めてから出逢った記憶がないので、
初めてかなあ?と思った。
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青柳地蔵堂 |
少し歩くと、左側にこんもりした林が見てきたが、
国道には「日本橋から36km」の標識があった。
その先に錦町六丁目交差点があるが、
これまでほぼまっすぐだった甲州街道は右にカーブする。
交差点の先に立川市と国立市の境界を示す標識があった。
交差点の左側には至誠学舎の施設、保育園、老人ホームなどが二百メートル程続いていた。
保育園の園内には至誠学舎の生い立ちを記した石碑があるのだが、
最近の犯罪を恐れてか、門を閉じていたので、残念ながら読むことは出来なかった。
日野橋交差点は五又路で、道は四つに分かれていたが、
この交差点は五又路と複雑な上に交通量が大変多いことで、有名である。
左側の道は国道256号(旧国道20号)で、
交叉点を左折すると多摩川に架かる日野橋を渡るが、
この道が一番交通量が多い。
表示板に直進とあるのは、新奥多摩街道、一番右は立川通りで、右折すると立川駅にいける。
甲州街道は右から二番目の旧奥多摩街道(都道29号)である。
この道は交叉点正面に見えるVWデーラーとGSの間の道である。
それに向かって横断歩道を歩き、車がほとんど通らない狭く静かな旧奥多摩街道に入った。
二百七十メートル程歩くと、左に入る三叉路がある。
以前にはこの角にコンビニがあったが、廃業していた。
三叉路を左折すると、右側の道路脇に「旧甲州街道」の標識が立っていたので、
この道を直進すると、下り坂になった。
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日野橋交差点 |
百三十五メートル程歩くと、道の右下に柴崎市民体育館が見えて、
窓の中ではママさん達がバレーの練習をしている姿が見えた。
坂を下りきると、右手に柴崎市民体育館の入口があるが、
その前には水が豊富に流れている公園があった。
これは、生活排水を利用していると説明があった根川緑道で、
水の流れに沿って緑の樹木が多く植えられていて、
都市に不足するオゾンも多いように思えた。
五十メートル程南に進むと、
新奥多摩街道(奥多摩バイパス)と交叉する錦町下水処理場前交叉点に出た。
交叉点を直進し、錦町下水処理場の前を通って、六十メートル程進むと、
三叉路に突き当った。
三叉路の左側には大きな日野の渡し碑と小さな歌碑が建っていた。
舟の形をした大きなモニュメントの「日野の渡し」の石碑には、
「 日野の渡しが出来たのはいつの頃だか誰も知らない。
江戸時代貞享年間この地に渡しが移されたことは確かであろう。
かって信濃甲斐相模の人々はこの渡しを過ぎると遠く異境に来たと思い、 江戸へ向かう人々は江戸に着いたと思ったという。 」
と刻まれている。
少し離れた小さな歌碑には、
「 多摩川の渡し 跡なるわが住まひ 河童ども招ひて 酒酌まむかな 芳 」
とあった。
対面の墓地(記念碑?)には馬頭観世音碑があった。
甲州街道は、この三叉路で右の道を進む。
市のグランドの間を進むと多摩川の堤防道に出た。
日野渡船場跡はどこかと河川敷に下りていくと、足元の草は雨でぬれていて
、小生の靴やズボンを濡らした。
日野橋側に歩いていくと霧雨の煙る先に合羽を着て釣りをしている人がいたが、こんな日に釣れるのだろうか?
結局、「日野渡船場跡」と書いた標柱はなかったが、
江戸時代にはこのあたりの河原から渡し舟で対岸に渡ったのである。
釣り人の先に見えるのは日野橋だが、右手にある立日橋(たっぴばし)に向かって、堤防道を歩く。
立日橋は四百メートル強の長さで、
中央には多摩モノレールの高架軌道が通る構造になっていた。
橋の手すりは低いので、圧迫感はなく、川の水も中央部に少しあるだけで、
その他のところには芦が生えていた。
対岸には大きなマンションがそびえているのが見え、
頭上ではモノレールが静かに通りすぎていった。
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多摩川 |
日 野 宿
橋を渡ると、日野市の標識と日野を表現していると思われるモニュメントがあった。
日野の名前の由来については諸説あるようで、 武蔵名勝図会には、 「 府中にあった国府の烽火台が置かれたことにより、 飛火野あるいは火野と呼ばれていたのが、和銅六年に日野に改めた。 」 とある。 新編武蔵風土記稿では、 「 武蔵七党の一つ、西党の祖、日奉宗頼が、 遠祖天御中主神を勧請して日野宮権現を祀ったという伝説に基づく。 」 という説と 「 応永三十二年頃、日野中納言資朝の玄孫、宮内資忠が当所に移住し、 土淵ノ庄をはじめて日野と号した。 」 という説を載せている。
立日橋南交差点で、モノレールは左にカーブしていくが、
その下に 「 ようこそ 新撰組のふるさと日野へ 」 の看板があった。
甲州街道は右側の大きな道で、その先のスポーツ公園前交叉点は直進である。
右側の市民の森スポーツ公園、クレアホームアンドガーデンの前を通り過ぎると、
その先に新奥多摩街道入口交差点があり、旧国道20号に突き当たる。
交差点を右折し、二百五十メートル程歩くと川崎街道入口交差点がある。
三叉路の左奥角には「高幡山不動尊道」と書かれた大きな道標があった。
左に入る道は川崎街道で、道路にその表示板があったが、
高幡不動尊は南東に二キロ程行った浅川の先にある。
高幡不動尊の正式名は高幡山明王院金剛寺、
奈良時代に建立された寺院で、関東の三不動の一つとして親しまれている。
新撰組副長の土方歳三はこの近くの石田に生まれ、
この寺を菩提寺としていた関係からか、土方歳三の立像や殉節両雄の碑がある。
この道標は大きなものなのに、隣にスパーアルプスと書いた赤い看板があるため、気がつかないで通り過ぎそうになった。
交差点を直進し、七十メートル歩くと、左側に「日野宿本陣」の看板があり、幟がはためいていた。
日野宿には本陣一軒と脇本陣一軒、旅籠が二十軒あった。
「日野宿本陣」の看板の左側の屋敷は下佐藤家で、正式には脇本陣である。
看板の先に見えるマンションクレール日野が、本陣だった上佐藤家の跡地である 。
日野宿本陣でいただいた資料を要約すると、
「 日野宿は多摩川の渡し場を管理するなど甲州道中の重要な拠点でありました。
そのため幕府の支配はゆるやかで、
二人の名主と配下の番頭たちによる農民自治の伝統が長く残りました。
日野宿には大きな本陣と脇本陣が長屋門を構えて並び立っており、
建物の規模や内容において、他をはるかに凌駕する威容を誇っておりました。
日野宿の本陣は佐藤隼人(上佐藤家)、脇本陣は佐藤彦五郎(下佐藤家)で、
両家は名主と日野宿問屋を兼帯していました。
脇本陣の下佐藤屋敷は嘉永二年(1849)正月十八日の大火によって焼失しましたが、
当主の彦五郎俊正は準備に十年かけて、文久三年四月に上棟し、
翌元治元年十二月から住み始めました。 」
というようなことが書かれていた。
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高幡山不動尊道の道標 |
門を入ると、佐藤彦五郎俊正が建てた建物は大きくて、
本陣の式台部分しか写真に収まらなかった。
長屋門は大正十五年の大火で類焼したとあるので、入った門は長屋門ではなかったが、傍らに当時の写真が掲示されていた。
長屋門の説明
「 当時の門は本陣式台の真正面に位置していた。
門の左手の格子が見えるあたりが幕末に天然理心流の道場として使われた剣術道場の一角である。 」
天然理心流道場跡の大きな石碑もあった。
係員からは、「 近藤勇や土方歳三、沖田総司らが出稽古に来たという天然理心流の道場は、道場といっても専用の建物はなく、前庭を道場としていた。
現在の駐車場辺りが道場として使われた庭である。 」 という、説明を受けた。
道場が開かれたのは佐藤彦五郎が近藤周助に師事していたからで、
土方歳三の姉が彦五郎のもとに嫁いでいたこととも関係があるのではないか?
明治天皇御小休所址及建物附御膳水碑も建っていたが、
明治天皇は二度立ち寄られたという。
この屋敷は、戦後売却され、数年前までは手打そば 日野館として営業されていたが、 日野市が購入し、月曜日を除き二百円で公開している。
入館料を払って中に入ると、右手に宿場関係の資料が展示されていた。
土間と座敷の間に大黒柱があったが、黒光りして大きく見事なものだった。
土間から座敷に上がり一通り見学する。
一番奥の左側に十二畳半の床の間付きの部屋がある。
「 建築当時の建物では、この部屋の左側の庭に張り出して、 上段の間(十二畳半)と御の間(十畳)の二部屋があったが、 明治二十六年の大火で、彦五郎の四男、彦吉の養子先の有山家が焼失したため、 この二部屋は有山家へ移築された。 現在の十二畳半の部屋は今回の公開にあわせ、 元の中の間(七畳半)と下の間(七畳半)をつぶして、上段の間を復活させた。 」
時間がないので、駆け足で施設見学をすませたが、
新撰組のフアンや本陣建物に興味のある方はゆっくり訪れるとよいだろうと思った。
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座敷の間の大黒柱 |
通りに出ると、道の右側に市立日野宿交流館があった。
建物の前に「甲州街道日野宿問屋場高札場跡」と書かれた石碑が立っていた。
江戸時代には、ここに問屋場があり、街道の真ん中に高札場が立っていたといわれる 。
建物前に、昭和初期以前の日野の風景写真が「まちかど写真館inひの」という名で、
展示されていた。
マンションクレール日野の隣の古そうな家の前でも写真は展示されていた。
その先の右側に「新撰組六番隊組長井上源三郎」の幟が立っていて、
右に入ると井上源三郎資料館があることを示していた。
「 井上源三郎は日野宿出身の新撰組隊士で、
鳥羽伏見の戦いで戦死した人物である。
日野駅東交差点を左に入った宝泉寺の境内に井上源三郎の碑がある。 」
日野市役所入口交差点を直進し、三百四十メートル程行くと、 左側の花輪病院の手前に八坂神社がある。
説明板「八坂神社」
「 多摩川の土淵の地で、洪水の後、拾い上げられた牛頭天王像を勧請し、
祠を建てたのが神社の始まりといわれるが、創立年代は不詳である。
古書には、応永五年(1398)、普門寺が開基され、
牛頭天王社を管理するようになったとあるので、六百年以上の歴史を持つ神社である。 この地に遷座されたのは、普門寺の移転によるもので、
甲州街道の道筋が定められた元亀元年(1570)頃と思われる。
本殿は寛政十二年(1800)の建立で、一間社造りの様式によるが、
実際の大きさは間口二間奥行二間半棟高五間で、
屋根は流れ造りの総ヒノキ、正面に千鳥破風、軒は唐破風の向拝を付したものである。
白木の全面に精巧な彫刻が施されていて、江戸後期を代表する神社建築として、
日野市指定重要文化財になっている。
胴羽目部分の彫刻は中国前漢の高祖劉邦を描き、南面には鴻門の会の図がある。
農民出身の劉邦が漢帝国を覇者になる運を開いた大切な場面であり、天然理心流の人々の憧れだったといわれる。
本殿には天然理心流近藤周助門人により安政五年(1858)に奉納された額があり、
欅板に大小二本の木刀が架けられている。 」
本殿は神明造の大きな覆屋に囲われており、
内部は賽銭箱の脇の穴から覗けるだけなので、
本殿に彫刻があることは暗い中でぼんやりと見ることはできたが、
奉納額などは確認することはできなかった。
九月に行われる八坂神社の例大祭は、都内はもとより近県でも有数な神事で、
絢爛豪華な祭り絵巻が繰り広げられる。
特に、千貫みこしと呼ばれる神社の神輿の渡御で有名である。
覆屋の左手にあるのは八幡社で、享保十八年(1733)に鶴岡八幡宮から勧請したもの。
本殿と拝殿が並立に間口二間半、奥行二間の流造亜鉛葺である。
この先はJR日野駅で、その先は日野坂。
時計を見ると、十三時五分、腹も減ったので、近くの中華料理店に入り、休憩、日野宿はこれで終わりとした。
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八坂神社 |
高幡不動尊
平成二十二年(2010)十一月二十二日の夕方、高幡不動尊を訪れた。
当日はもみじ祭と万燈会が行われる日だった。
高幡不動尊の正式名は高幡山明王院金剛寺で、真言宗智山派別格本山である。
お寺によると、
「 その草創は古文書によれば大宝年間(701―704)以前とも或いは奈良時代行基菩薩の開基とも伝えられる。 平安時代初期、慈覚大師円仁が清和天皇の勅願により東関鎮護の霊場と定めて山中に不動堂を建立し、不動明王をご安置したのに始まる。 建武二年(1335)八月の大風により、山中の堂宇が倒壊したので、 康永元年(1342)、住僧の儀海上人が麓に移して建てたのが現在の不動堂である。 なお、続いて建てられた仁王門ともども重要文化財に指定されている。 」 とある。
京王八王子駅から新宿駅行きに乗り、高幡不動駅で降りると、 駅の右手に参道があり、 道の両側に飲食店やお土産店が並んでいたが、五分程で仁王門に着いた。
日野市教育委員会の説明板「 重要文化財 金剛寺仁王門 」
「 室町時代に当初楼門として計画されましたが、途中何らかの理由で計画変更され、
上層の主要部を覆うような形で、屋根が架けられ、近年まで外観は単層だった。
昭和三十四年(1959)の解体復原修理の際に、当初の設計どおりに楼門として復原され、屋根は銅板葺きに変えられました。
仁王尊は室町時代のものと推定されています。 楼上の扁額は、江戸時代初期の運敞僧正(号泊如)の筆によります。 」
仁王門をくぐると、左に水舎、正面に大香炉があり、旗かけの松があるが、
源頼義が前九年の役(1051〜1062)で奥州征伐に向かう途中、不動尊に戦勝を祈願し、
軍旗を立てかけたと伝えられる松で、現在の松は二代目である。
その先には不動堂が建っていた。
「不動堂は最初は山中に建っていたが、
建武二年の暴風雨で倒壊したため、現在の地に移建されたものだが、
この建物は国の重要文化財に指定されている。
足利時代の高幡不動尊は、汗かき不動と呼ばれて、
鎌倉公方をはじめとする戦国武将の尊祟をあつめた。
本尊の不動明王像は、空海によって安置されたといわれる高さ三メートルの大きな座像で、丈六不動三尊と呼ばれるものだが、現在は奥殿に遷座されている。 」
奥殿の前には上杉憲顕の墳があるが、上杉憲顕は初代関東管領で、
山内上杉氏となった人物である。
不動堂の左手に石段があったので、上っていくと大師堂があったが、工事中である。
「 安永八年の火災により、奥にある大日堂をはじめ、
大師堂、山門、客殿、僧坊等が全て焼失。
本尊の不動明王は、汗かき不動とか、火防の不動という名で親しまれ、
古くから信仰を集めてきた仏だが、この火災には勝てなかったようである。 」
その前には五重塔が建っていたが、
これは昭和五十年以降に再建されたものである。
境内にある建物の多くは昭和五十年以降に建てられたもので、
最盛期を凌ぐ程の寺観を呈するようになったといわれるが、
これは歴代の住職達の努力による。
五重塔の周辺の紅葉は見頃を迎えていたが、不動堂や大師堂、
そして、五重塔周辺では、僧侶を始め、多くの人々が万燈会の準備のため、
参拝者には目もくれず、準備に没頭していた。
その迫力に圧倒され、境内をゆっくり見て回るという気は薄れた。
下に降りると、周囲はかなり薄暗くなっていて、
綿菓子屋などの屋台の明かりが明るく見えた。
駐車場の左手にある池には弁天堂が祀られていたが、
そこに入るところに、土方歳三の銅像と殉節両雄の碑が建っていた。
「 土方歳三の銅像や殉節両雄の碑は、 新選組副長として活躍した土方歳三の菩提寺である縁から境内に建てられたもので、 歳三の墓は末寺のひとつである愛宕山石田寺(あたごさんせきでんじ)にある。 」
これから、万燈を奉納した人達が集まってくるようなので、
関係のない小生はここで退散した。
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五重塔 |