日野宿は、甲州街道五番目の宿場町で、現在の日野市の前身である。
江戸時代以前から宿場としての街割りは行われていたが、
甲州街道を整備した大久保長安により、
慶長十年(1605)に正式に宿場に制定された。
府中宿と横山宿に挟まれた小さな宿場だったが、多摩川の渡しを管理する重要な宿場だった。
分倍河原から南武線矢川駅
京王線の分倍河原駅北の蕎麦屋で、三十分程時間を消費してしまったが、
そこから旅は再開した。
その先、美好町三丁目西の交差点右側には石阪園芸があった。
ここまでは最近の家が立ち並んでいたが、
この先は地主が土地を手放さなかったのか、緑が多く残っていた。
家の敷地も大きく、門構えも立派な屋敷が多い。
歩いていて気がついたのが門である。 これはどうやら冠木門である。
これまで東海道などを歩いていて、再現したものは見たが、
この内藤家の冠木門は本物で、
府中宿の「矢島本陣」から移設したものと伝えられている。
そのまま進むと、右手から国道20号が現れてきて、本宿町交差点で合流した。
交叉点の三角地には、「本宿」を紹介する石碑が建っていた。
「 本宿(ほんしゅく)は、甲州街道沿いの現在の西府町二丁目、本宿町二丁目、
美好町三丁目の一部に集落の中心があった村落です。
地名の起こりは、甲州古街道がハケ丁を通っていた頃に、この集落が宿場であったことによります。 (中略)
江戸時代の末の集落の戸数は百六十九軒でした。
古い甲州街道は品川道から大国魂神社隋身門を通り、高安寺の南辺を抜け、
水田をぬって、四谷に向かい、多摩川を渡って、日野の万願寺へと続いていた道です。
このあたりは右から左にかけて下がる段丘に位置していて、
ハケとは多摩川の河岸段丘の崖で、その下には清水が涌き、
人々の暮らしを支えてきた。 」
古代の道の品川道や甲州古道はハケ下を通っていたのである。
三角地から左側の歩道に渡ると、国道には「日本橋から三十二キロ」の標識があった。
交叉点を横断して進むと、本宿交番前交差点にでる。
交叉点も横断すると、交番の先に秋葉大権現常夜燈があり、
由来書の木札があるが、その裏は自転車駐輪場化していた。
由来書
「 慶安から寛文にかけてハケ下から移転してできた本宿村は、
台地のため、水に乏しく度重なる火災に苦しんだ。
ついに本宿村は講を作り、寛政四年(1792)に秋葉山大権現常夜燈を造った。
以来一世紀半にわたり、当番でこの燈明に火を点し続けてきたが、
太平洋戦争の灯火管制により、中止せざるをえなくなった。 」
常夜燈の位置も都道などの道路工事により現在地に移転したようである。
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本宿碑 |
二百二十メートル先の西府町2交差点手前の右側には、
「国史跡武蔵国府熊野神社古墳」の大きな看板があり、
左側には熊野神社の鳥居と狛犬があった。
鳥居には、緑色のアンダリアで作られた全天候型の注連縄が付けられていた。
熊野神社は、もとは府中市内の別の場所にあったが、
安永六年(1777)に現在の地に移ってきた、と言い伝えられている。
鳥居をくぐると、左側に「古墳めぐり」の大きな看板があり、仮設の建物では、
熊野神社古墳の発掘調査の様子がパネルで展示されていた。
その先の熊野神社の社殿では、自転車で訪れた男性が熱心に拝んでいた。
社殿の裏の石積みの丸い小山は最近復元された熊野神社古墳である。
この古墳は国内で発掘された三例目という貴重な上円下方墳だが、
ごく最近まで古墳の存在は疑問視されていたようである。
「
神社境内の小山が古墳であるという説自体は以前から存在した。
「 関東大震災時に墳丘の一部が崩壊するまでは石室の中にはいれた。 」
という言い伝えが地元にあったが、古墳であるかどうかの確証がつかめなかった。
周りは住宅地なので、そのまま終わってしまうところだったが、
山車蔵を造る計画から念のため、平成十五年(2003)に発掘調査が開始され、
年末には上円下方墳であったことが確認され、
首都圏では珍しい世紀の大発見となった。
翌年には石室内や周辺が調査された。
その結果は先程の建物内での展示パネルの通りである。 」
熊野神社から四百五十メートル、
びっくりドンキー手前にある西府橋の下にはJR南武線の線路があった。
更に二百メートル歩くと、「日本橋から三十三キロ」の道路標識があった。
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熊野神社古墳 |
ガストを過ぎると「国立市」の標識があり、長かった府中市は終わった。
国立府中インター入口交差点は三叉路で、
左折は日野バイパス、中央自動車道へ通じる。
交叉点で道の右側に移って歩くと、谷保交叉点の手前右側の民家入口の一角に、
「獅子宿」の石碑があった。
村上天皇から賜ったという伝説のある獅子を被って、
天満宮に獅子舞を奉納する際の稽古場に、
ここにある佐藤家がなっていたことを記念する碑である。
谷保交叉点の先の右側には柾目が入った大きな一枚板の門があり、
周りを板塀で囲っている屋敷があった。
中を覗くと建物は何棟かあり、茅葺屋根を金属板で囲った家もあった。
広い敷地であるが、今でも農家をしている雰囲気があるがどうなのだろうか?と思いながら歩いていくと、その先に家に入る門があった。
その先に石塀が続くが、そのはずれの奥まったところに、
石塀に囲まれた常夜燈があり、「常夜燈(秋葉燈)」と書かれた標柱がある。
「説明文」
「 この灯ろうは、火除けの神を祀る秋葉神社に由来する火伏せの守りと
甲州街道の明かりとして建てられたと伝えられています。
裏の基壇には文久三年(1863)癸亥四月と彫られています。
かっては 「ジョートミ」 と呼ばれた回覧版が各戸に廻り、
毎夕交代で灯をともしました。
あぶらやの屋号をもつこの屋敷地に保存されており、
郷土のくらしを伝える貴重な文化財です。 」
江戸時代には、村を火難から守るため、
火伏せの神を祀った常夜燈を村の油屋近くに建てたのである。
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油屋 |
道の左側に移ると、朱色の建物、ドリミーホール国立の前に、 「関家かなどこ跡」と書かれた説明板があった。
「説明板」
「 関家は鋳物三家(矢澤、森窪、関氏) の一家と言われ、
江戸時代から明治初期まで鋳造を業としておりました。
鋳物三家の銘がある梵鐘には立川普済寺、府中高安寺、日野牛頭天王(現八坂神社)等があり、
谷保山南養寺のものには安永六年(1777)の関氏の銘が刻まれています。
また、関家には観世音菩薩坐像の鋳型が保存されており、
この原形をもとにした仏像は所沢の薬王寺にありましたが、
戦時中の供出により失われました。 」
その先には谷保天満宮前交差点の三叉路があり、右に行く谷保駅に行ける。
左手前には「天満宮」の標札のある鳥居と狛犬、
少しひょろとした細長い常夜燈があった 。
ここは谷保天満宮で、第六天神社ともいわれる神社である。
説明板「谷保天満宮」
「 昌泰四年 管公(菅原道真のこと) 太宰府に遷らせ給えし所、
第三子道武朝臣この地に配流され給う。
父君崩葬去の報に朝臣思慕の情に堪え給はず。
父の尊容を刻み、天神島(現府中市本宿)に鎮座す。
天暦元年京都北野天満宮造営の折、
当社の威霊を奉上され 村上天皇の勅により神殿を造営され官社に列せられる。
建治三年後宇多天皇の勅により藤原経朝書 「 天満宮 」 の扁額を納められる。
養和元年十一月三日裔孫津戸三郎為守霊夢を蒙り、現在地に遷宮す。 」
一般的に神社は参道を上ることはあっても、下ることはない。
ところが、鳥居をくぐると、下り坂で、二の鳥居をくぐると今度は石段があり、
下に降りていかなければならない。
谷保天満宮は、ハケ下を通っていた甲州古道に面していたのだが、
甲州街道が北側の小高いところにできたため、下り坂なのである。
雨が降っている上、神社境内はこんもりとした森になっているので、
少しじめっとしていて、陰気である。
転ばないように注意して階段を下りると、右手に拝殿が見えた。
拝殿に向かおうとすると、右側に天神様の定番、なで牛(座牛)があった。
牛の像の下に説明がある。
「 天満宮によくある座牛は、道真の亡骸を乗せた牛車の牛が悲しみの余り動かなくなり、その地に埋葬したことから始まりました。 」
とあり、この像もその様子を表現しているとあったが
この牛の像はなんかほのぼのしていい感じだった。
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油屋 |
常夜燈の左手に社務所があり、正面に拝殿があった。
拝殿は入母屋造の二十二坪で、江戸末期の造営と思われる。
その奥の本殿は流造六坪で、寛永年間(1124〜1143)の造営と伝えられるものである。
本殿奥にある三郎殿は、延喜二十一年(921)に道真の三男、道武朝臣が逝去した後、神霊を相祀して三郎殿と称したと伝えられるものである。
狂歌師の大田蜀山人は、 「 神ならば 出雲の国に行くべきに 目白で開帳 やぼのてんじん 」 と詠んでいる。
「 江戸時代に、 谷保天神は野暮天(やぼのてんじん)と呼ばれるようになったのは、 三男の道武が刻んだ道真像の出来が今ひとつだったためといわれるが、 野暮という言葉は粋に対する言葉で、蜀山人以前に花柳界ではすでに使われていた。 蜀山人は目白でご開帳が行われた谷保天満宮を 「野暮」という言葉の語呂合わせとして詠んだのだろう。 」
拝殿で御参りした後は、本殿側に廻り、
その奥にある厳島神社と常盤の清水に行く。
常盤の清水は地下から湧いているようには思えなかったが、
厳島神社の池の水は豊富だった。
「傍らの説明板」
「 常盤の泉の名の由来は、延宝年間に詠まれた
「 とことはに 湧ける泉のいやさかに 神の宮居の 端垣となせり 」
にあり、清水が枯れたことは一度も無い。
水道がない時代には周りの人々の井戸として使われていた。 」
北側がかなりの傾斜の坂になっていて、その下をハケというのだが、
常盤の清水は上部で降った雨水を蓄えて流れ出ているのだと思った。
この後、厳島神社の脇の道を上り、一の鳥居がある国道に戻ったが、
鳥居近くの駐車場に隣接して第六天神社があった。
国立天神下郵便局を過ぎると、国立市消防団第三分団の屋上に火の見台があり
、火事を知らせる鐘があった。
国立市役所入口交叉点を過ぎると、洋服の青山国立谷保店がある。
立川警察谷保交番を過ぎると、
右側の歩道に面して赤い帽子を被せられた石仏が数体祀られていた。
国立1小前歩道橋を過ぎると、蔵のある家を数軒見かけたが、
かっては農家だったように思えた。
国立みどり農協前交叉点を越えた左側に、火の見櫓が付いた消防団の建物があり、
その前に秋葉常夜燈があった。
説明板「元上谷保村の常夜とう」
「 この常夜燈には秋葉大権現 寛政六甲寅年四月 上谷保村 天満宮
榛名大権現などの文字が刻まれていることから、
西暦1794年に建てられたことがうかがい知れます。
当時、谷保は上谷保村、下谷保村に分かれており、
この常夜燈は上谷保村の油屋(屋号、今の甲州街道北側の原田幸治氏宅)
の東隣に置かれていたものです。
その後、道路改修のときに現在地に移されました。
大正時代までは村人が順番に毎日灯を点していたと伝えられます。 」
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石仏が数体祀られている |
常夜燈がある場所は南養寺の参道で、 右側に「厄千手観音菩薩」の石柱が建っている。
「 基盤には「上谷保村、下谷保村、芝崎村、青柳村の講中」の建立であることが記されている。 裏面の、「享和三発庚三月 七回供養之」のところで石柱は折れていた。 また、側面には「泰誦観音普門之一萬巻」と書かれているように思えた。 」
南養寺は、鎌倉時代の建長寺三十七世物外可什禅師の開山で、
立川入道宗成の開基と伝わる臨済宗建長寺派の古刹である。
参道を南に百五十メートル入ると、南養寺の総門がある。
総門は、安永九年(1780)に建立された薬医門で、屋根は切妻造、銅葺きで、
大工佐伯源太の手による。
門をくぐると、左側に本堂があるが、
これは文化元年(1804)に大工佐伯源右衛門、北島安右衛門等により建築されたもので、
昭和五十六年に茅葺から銅葺に変えられたが、禅宗の客殿型本堂としては貴重な建物といわれる。
正面の大定殿は、安政五年(1793)に藤井山円成院の観音堂を移築したものである。
観音堂は、享保三年(1718)、住職の師から贈られた十一面千手観音坐像を安置するために建立されたと伝えられるものである。
関氏が鋳込んだ鐘楼は天明八年(1788)の建立された鐘楼に今も吊り下げられている。
話が少し変わるが、寺の庫裡を昭和五十七年に改修した際、
縄文時代の敷石住居跡が発見された。
説明板
「 敷石住居は、縄文中期末から後期にかけて、
中部地方から関東西部に良き見られ屋内の祭祀の場とする考えもあります。
この南養寺のように原型を留めたものは非常に貴重といわれます。 」
寺は縄文時代の住居地に建てられていたことになる。
南養寺はいろいろな意味で興味が持てる寺院と思った。
時計を見ると、十四時を過ぎていた。
今夜の会合は開催は十七時からだが、
その前にホテルで荷物を置く予定なので、 今日はここでやめることにした。
矢川駅入口交差点から右に入り、南武線矢川駅に行って、今日の旅は終了。
当初の予定では日野駅までだったが、
電車を乗り越したのと昼飯で時間を取られたことで実現できなかったのは少し残念。
でも、雨の中を歩けたのでよしとするか!!
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本堂 |