布田五宿は、江戸時代の甲州街道の高井戸宿と府中宿のあいだに設けられた宿場である。
五宿とは、甲州街道沿いの国領、下布田、上布田、下石原、上石原の五村のことで、
五宿あわせて一宿の機能をもっていた。
継ぎ立て(隣接する宿場に物資や人馬を搬送する業務)は、一週間毎の当番で行ったが、
参勤交代の大名が泊まる本陣や脇本陣はなく、旅籠も九軒のみだったので、
宿泊者は府中宿まで行ったようである。
上高井戸宿から布田五宿
平成二十二年(2010)五月十六日(日)、笹塚駅から府中まで歩いた。
上高井戸一丁目を過ぎると、芦花公園駅入口交差点。
ここからは世田谷区で、江戸時代は烏山村だった。
烏山村が甲州街道の第一番目の宿場にとの幕府の要請を断ったことは、
前回の高井戸宿の項で述べた。
この交差点を左に入ると、京王線芦花公園駅だが、最初の名は烏山駅だった。
その後、徳富蘆花の住まいがあったところに出来た蘆花公園に改名したことから、
この土地の知名度が上がったといわれる。
公園までは南東に歩いて十五分程の環状八号線に面したところにあるので、
決して近いとは言えないのだが・・・
交差点の右側に区立烏山下宿広場という小公園があり、
緑陰の下で語り合っているカップルを見た。
江戸時代、烏山は、間の宿となっていて、下宿、中宿、上宿で構成されていた。
とらの門八幡山店の先から、道は少し左にカーブするが、
烏山下宿というバス停があり、その先左側に入ったところに、
「武州烏山宿大橋場跡」の擬宝珠状の記念碑がある。
「 かって、烏山川が流れていて、ここに橋が架けられていたが、 川は暗渠になり、橋はなくなった。 そのことを後世に残すために記念碑は建てられた。 なお、「下道」と呼ばれる古道が南に延びていて、烏山神社までいくことができる。 」
記念碑の隣に地蔵像を中心に両側に庚申塔が祀られている。
「 地蔵像は名主の下山氏が1771年に建立したもので、
「下山地蔵」と呼ばれているもの。
右側の笠付きの庚申塔は、「奉供養庚申」と書かれたもので、
元禄十三年(1701)霜月に建てられたもの。
左端の庚申塔は、三猿以下が折れてなくなっていた。 」
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武州烏山宿大橋場跡 |
少し歩くと、中宿のバス停があり、
その前に南烏山りんれい広場があったので、トイレを利用させてもらった。
中宿を過ぎると、四、五階建てのアパートやマンションが多くなり、
下宿の街道的な雰囲気が残るところと雰囲気が変わった。
松葉通り交差点の右側には松葉通りの標板があるが、そのまま進むと、
右側に寺町通りの標板がある千歳烏山駅前交差点に出た。
敷石が敷かれた寺町通りは車両通行禁止になっていた。
駅の北側の寺町通りと松葉通りには二十六もの寺院がある。
関東大震災で浅草、本所、荒川、築地、新宿などの旧東京市の寺院が焼失したが、
震災後の区画整理により、墓地の移転を余儀なくされたため、
大正の終わりから昭和の初期に、
畑や山林などの荒地だった当地に移転したものである。
駅前付近はこの地区の中心になっているようで、日曜日ということもあって、
かなりの人通りがあった。
十二時半になったので、バスターミナルの近くの中華飯店に入ったが、これが失敗。 注文を取った女性は中国人。 三十分経過してもいっこうに出てこない。
心配になったので、確認するとオーダーは通っていなかった。
東京周辺の日本そば、うどんやや中華そば店では人手不足と人件費削減のため、
中国や韓国などから来た外人を雇う傾向にあるが、
日本語が分からないため、客の信用を失い、
中小企業の経営を衰退させる要因になるなあと思った。
しかたかないので、飲んだジャスミン茶代を払い、店を後にした。
食事はできなかったが、冷房のきいたところで、休憩できたので、元気は回復し、
小田急、関東バスのバス停があるレジデンス小山ビル前から旅は再開した。
昼飯は途中のコンビニでパンを買い、かじりながら歩くことにした。
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賑わいを見せる商店街 |
少し歩くと、烏山総合支所交差点で、そこを過ぎると、
左手に東京都住宅供給公社の住宅群が並んで建っていた。
このあたりは西町、旧の烏山村の西の境だろう。
その先の左側に宍戸コンクリート工業の大きなサイロがあり、
セブンイレブンの先には世田谷給田郵便局があった。
いつの間にか、江戸時代に給田村だったところに入っていた。
現在は世田谷区給田(きゅうでん)である。
「 給田とは、平安から室町時代には、荘園領主や国衙が、 荘官、地頭、年貢運輸者などに給与した田地または田畠地のことをいい、 江戸時代には、幕府が庄屋などの村役人へ給与された田地を「給田」と呼んだようである。 」
道の右側に、古き良き時代の屋敷を感じさせる家があった。
給田三丁目交叉点から、道は下りになり、少し右にカーブした。
下りきったところに用水のような仙川が流れていて、大橋橋が架かっている。
橋を渡ると、調布市に入った。
その先から道は上り坂になり、上りきると仙川三差路交差点があり、先程別れた国道20号線と合流した。
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大橋橋 |
甲州街道はここからしばらくは国道を歩く。
国道の両脇に植えられているけやき並木がきれいだった。
国道の歩道は狭いのに自転車の通行が大変多く、あぶない。
特に、仙川駅東交差点あたりから左はスパーや店舗があるので、
人の行き来が激しいのである。
駅や買物に自転車で来る人が、小生のような歩行者にとっては敵。
相手は自分に権利があるといわんばかりに突っ込んでくるから怖い。
仙川駅入口交差点の右側にあるセブンイレブンの店頭に、
小さな一里塚の石碑があることを後日知った。
小生は左側を歩き、一里塚の石碑を探したが、見つからなかったのは当然だった。
そのまま直進すると、左側にキューピーマヨネーズ仙川工場があった。
その先は、仙川二交差点で、甲州街道はここから下り坂になる。
この坂を滝坂というが、あまりに急な坂のため、
荷を引く馬が滝のような汗をかくことからそう呼ばれたと伝えられる。
ここで、武者小路実篤の晩年の寓居が残る実篤公園に寄り道をすることにした。
交差点を左に折れて、旧滝坂道に入る。
「 滝坂道は、甲州街道が開かれる前に、 江戸と武蔵国府(府中)を結ぶ主要な街道だった。 大山街道との追分である渋谷道玄坂から滝坂を通る街道だった。 」
京王線の陸橋を越え、道なりにしばらく進むと右側に桐朋学園大の校舎が現れるが、この道が滝坂道の一部である。
門塀の角に実篤公園への案内標があった。
道標に従って右折し、校舎の外塀に沿って歩いて行くと、
その先に東部公民館と保育園がある。
その先で右折して道なりに行くと、その先にも案内標があり、狭い道を進んでいくと、
「実篤公園」の看板があるところに出た。
ここは公園管理棟で、 「 仙川の家 ご案内 」 というパンフレットをもらった。
パンフレットによると、
「 実篤公園は、
武者小路実篤が晩年の二十年を過ごした邸宅の敷地を公園として公開したもので、
実篤の死後、遺族から調布市に寄贈され、昭和五十三年(1978)に実篤公園として公開した。
公園は無料、記念館は200円、午前9時〜午後5時、月曜日と年末年始(12月29日〜1月3日)休み) 」 とある。
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実篤公園への案内標 |
入るとすぐのところに、公園のあらましが分かる石碑があった。
約五千平方メートルあるという敷地に踏み入れると、
下り坂の両脇に、シダやヤツデなどの下草の上に、
椿などの樹木が植えられており、
この季節はまさに緑のトンネルという感じだった。
下に降りると、左側に晩年の実篤が住んでいた邸宅があった。
邸宅の公開日で、また、公開時間に偶然訪れたので、中に入った。
先生の作品や原稿の展示があり、ボランティアから丁寧な説明をいただいた。
考えてみると、白樺派の仲間の志賀直哉の作品はほとんどよんだのだが、
先生の作品を読んだという記憶はない。
それはともかく、先生の使われた仕事部屋や応接室、客室、そして、居室があった。
ガラスをふんだんに使っているので、ガラスを通して、緑がまぶしく目に入ってきた。
「いただいた資料」によると、
「 実篤は、水のあるところに住みたいという子供の頃からの願い通り、昭和三十年、
七十歳の時にこの地へ居をかまえ、最寄りの駅が仙川だったため、
仙川の家と呼びました。 この家で、長編小説の一人の男などを執筆し、
野菜や花など自然をモチーフにした数多くの書画の制作に励みました。
」 とある。
邸宅から出て、記念館に向かう途中には、竹林があり、
竹が風に吹かれて、音をたてていた。
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仕事部屋 |
下に降りると、実篤銅像があり、右手には八橋の架かった菖蒲園があった。
銅像の左側の池は下池で、中の島があるかなり大きなものである。
上の池には水源となる湧水があり、
下の池には鯉が泳いていて、野鳥も多くやってくるようである。
実篤は、安子夫人と池に飼う鯉にえさをやり、
集まる野鳥に餌場を作ってやったという。
園内にはあづまやがあり、ひと休みして自然に親しむひとときが過ごせるのだが、
先があるのでのんびりしている訳にはいかない。 新緑の良さを体感できたので、
木々が鮮やかに紅葉する秋に、又、訪れてみたい。
トンネルをくぐった先に武者小路実篤記念館がある。
中に入る時間がなくなったので、ガラス越しに中を覗き、道路に出た。
こちらからはつつじヶ丘駅の方が近い。
右へいけばよかったのだが、左にいったためどこを歩いているのか分からなくなった。
近所の人に聞いて、記念館の裏の右側の坂を上っていくと、
左側に「滝坂皇大神宮」の石柱と鳥居にある小さな社に出た。
「 神社は、以前は公園管理棟のあたりにあったようで、
池とあわせてひとつの神域になっていたという。
皇大神宮とあるように、祭神は天照皇大神(あまてらすおおみかみ)で、
寛永年間(1624〜44)に吉田兵部が伊勢神宮を勧請して建立されたもの。
今では地元でも忘れられたような存在だが、昔は縁日にはたいへん賑わい、
大正五年の祭りは盛大に行われて仙川折り返しの臨時電車も出たという。 」
滝坂皇大神宮から少し上ると、実篤公園の入口に出た。
この後、先程の道を戻ったが、途中で近道をしようとしたのが間違い。
道が行き止まりになり、やっと国道に出たと思ったら、
仙川二交差点より駅寄りのところに出ていた。
これでなんとか、甲州街道の旅へ復帰した。
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滝坂皇大神宮 |
仙川二交差点を越えると、
右手の少し高いところに茅葺屋根を銅板で囲ったような屋根の屋敷が見える。
この屋敷は、江戸時代、川口屋という馬宿を営んでいた家で、
この前に「瀧坂旧道」の石碑が建っていて、
右に入ると三百メートル程旧道が残っている。
国道を下っていくと、坂の途中の左側に「滝坂小学校発祥の地」と書かれた標柱が建っている。
標柱横の説明文を読むと、
明治維新後、村ぐるみで教育に取り組んだ様子が窺える。
「 滝坂は現在でも急な坂ではあるが、
街道時代は、昔は雨が降ると滝のように水が流れたという急坂で、
登りきった所と下り切ったところに休み場所があったという難所であった。
京王電車の開設や国道の工事により、現在のような車が走れる傾斜になったようである。 」
坂を下りきったところで、
坂の脇の切り通しの道と比較すると傾斜の違いが分かる。
現在の滝坂小学校は、切りとおしの整地されたところに建っている。
少し歩くと、滝坂下交差点があるが、
交差点手前の右手は三鷹市中原一丁目である。
ここは、昭和三十年代に、京王帝都電鉄が「つつじヶ丘」と名付けた高級住宅地として、開発分譲したところである。
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切りとおしの道 |
国道には「日本橋から21km」の道路標示が建っていた。
このあたりは、つつじヶ丘を付けた地名が多いが、江戸時代は金子村だった。
「 金子氏の所領であったという説もあり、 現在の三鷹市新川にある「島屋敷跡」は金子時光の館跡ではないかと考えられている。 駅名も当初は金子駅だったが、分譲地の名前に合わせてつつじヶ丘駅に改名した。 駅前からは深大寺、神代植物公園行きが出ている。 」
滝坂下交差点を過ぎると、つつじヶ丘交差点がある。
このあたりの地名は頭につつじヶ丘が付いているが、
分譲地開発後に変えられたのだろう。
国道の両脇は五階建て位のマンションが建ち並び、
一階は食品スパー、レンタルビデオなどの店舗が入っている。
なお、左折していくと京王つつじヶ丘駅がある。
西つつじヶ三丁目の陸橋の左側には調布市神代出張所のプレハブみたいな建物があった。
調布自動車教習所を過ぎると、柴崎駅入口交差点で、
更に歩むと、「のがわ」と大きく書かれた川が見えてきた。
野川に架かる馬橋を渡ると、国領である。
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西つつじヶ三丁目の陸橋 |
布田五宿
野川を越えると、江戸時代の国領村で、野川西、調布警察署前交差点を過ぎると
、旧甲州街道入口交差点に出る。
国道はここで右に曲がっていくが、旧甲州街道(都道119号)は直進するので、
この道に入るが、この道は府中の本宿町まで続いている。
甲州街道の江戸から三番目の宿場は布田五宿だった。
「
布田五宿は、国領、下布田、上布田、下石原、上石原村が連帯して一つの宿場となり、宿場の仕事を交替で果たしていた。
江戸時代の北多摩地方は幕府の天領と旗本領であったが、
布田五ケ宿は天領であったようである。
布田五宿の長さは三キロあまりで、街道に沿って町並みができ、
旅館や酒、豆腐、菓子、そばや茶屋などの商いをする店があったという。
しかし、本陣や脇本陣はなく、旅籠も宿場全部で九軒というから、
宿場としては大変小さなものだった。
その中で、江戸に一番近いところにあったのが、国領宿だった。
国領宿の家数は六十一軒、宿内人口は三百八人で、旅籠は一軒だった。 」
国領駅入口交差点の左右の道は狛江通りで、
右側のビルの壁の美容室さくらの日本髪を結う江戸風俗の大きな看板はインパクトがあった。
国領駅の脇に、
三十四階建てのマンション・グランタワー調布国領ル・パサージュが建っているが、
このあたりに高い建物がないので、遠くからもよく見える。 このビルは日本総合地所が平成16年(2004)に建てたもので、
百十八メートルの高さという。
交差点を越えていくと、左側に庚申塔を祀るお堂がある。
道を挟んだ先には力王の幟が立っていて、
地下足袋を売る商家が現役で頑張っていた。
その先の朱色に塗られた民家は古い形式の建物で、先程のグランタワーとは対照的だと思ったが、街道を歩いていて、こういう建物を見るとほっとする。
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庚申塔を祀るお堂 |
布田駅前交差点の右手は三鷹通りで、ここから調布駅にかけて、
下布田宿があったところだが、
下布田宿の家数は九十五軒、
宿内人口は四百二十九人で、旅籠は三軒だったという。
交差点右角の常性寺は、布田のお不動さんとして信仰されている成田山系の大きな寺院である。
「 鎌倉時代の創建当初は多摩川沿いにあったが、
慶長年間に現在の場所に移転した。
中に入ると目につくのが、「調布不動尊」と「成田山長楽寺」と、
両側に書かれた標板のある不動堂である。
調布不動尊は、江戸時代に、当山の中興の祖、祐仙法印が、
上総国成田山新勝寺より成田不動尊を勧請したのが始まりである。
その奥に本堂があり、本尊の薬師如来(金剛仏・丈二尺五寸)座像が安置されている。 」
本堂の右側の庭の植え込みには、道祖神など、いろいろな石碑や石仏があるが、
どういういわれのものかの説明がない。
甲州街道などの工事の際出たものをここに移したと想像したが、間違いだろうか?
境内はかなり広く、右手に地蔵堂と馬頭観音堂があった。
正面の地蔵堂は一願地蔵堂といい、
一つだけ願いを叶えるという一願地蔵尊が安置されている。
右側の馬頭観音堂の馬頭観音塔は小橋の馬頭観世音を祀るものである。
教育委員会の「説明板」
「 甲州街道の小橋付近にあった馬すて場に設置されていたが、
道路拡張のため、転々とし、ここ常性寺に移された。
この塔は、文政七年(1824)、調布市域および近隣の十九ヶ村のほか、
八王子の嶌(縞)買中などが協力して建立したものである。
彫られている観音は三つの頭をもち、それぞれの頭に馬の像をかぶり、
二本の手は合掌し、四本それぞれ武器らしきものを持っていますが、
摩滅してよく分からない。 」
馬頭観音は六観音の一つで、破邪顕正、
人々の煩悩を断つなどの功徳を持つ仏とされるが、頭上に馬頭を戴くことから、
民間では馬の守護神として、江戸時代中期以降広く信仰されるようになった。
馬頭観音塔は、「念仏供養、道供養」として建立されるが、
馬の供養のために建てられることが多い。
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地蔵堂 |
布田一バス停の先の三叉路を左に入ると、蓮慶寺がある。
「 もとは真言宗の寺だったが、天文元年(1532)に、
小田原北条氏の重臣・中条出羽守が布田の領主となり、寺を再建した際、
日蓮宗に改宗した。
本堂は甲州街道に北面して建ち、正面五間、側面六間の書院造り風の建物で、
寛政五年(1793)の再建である。 」
街道に戻ると、少し先に 「右新宿左府中 甲州街道」 と書かれた、
灯篭付きの道標が建っている。
調布駅北口交差点の手前にある「天神通り商店街」の入口を示す街灯は、
腰掛けた鬼太郎である。
天神通り商店街は、布多天神の参詣道である。
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腰掛けた鬼太郎 |
ここで寄り道をする。
商店街を歩いていくと、国道20号と交差するところにでる。
交差点を渡ると、右側に大正寺があり、左手は電気通信大のキャンバスになっている。
「 大正寺は真言宗の寺で、
大正四年、当地にあった栄法寺と町内にあった二寺が合併し、大正寺に改名した。
山門は寺域の北にあった栄法寺のものを今の位置に移築した。 」
その奥には「布多天神社」の石標と鳥居があり、
中に入っていくと拝殿があった。
布多天神社の創建は定かではないが、
延長五年(927年)に制定された「延喜式」にその名を連ねる古社である。
本殿は覆屋の中にあるので、見ることはできなかったが、
江戸中期の宝永三年(1706)の建立と推定され、
一間社流造、桁行一間、梁間一間の身舎の前に向拝の付く小さな社殿という。
「社伝」によると
「 今から代約二千年前の第十一代垂仁天皇の御創建といわれております。
文明九年(1477)に多摩川の洪水をさけ、古天神というところより現在地へ遷座され、
その時、御祭神の少彦名命(すくなひこなのみこと)に菅原道真公を配祀されました。
江戸時代に甲州街道が作られ、布田五宿が作られましたが、
布多天神社は布田五宿の総鎮守であり、
五宿天神と崇め祀られておりました。 」 とある。
狛犬は、境内で開かれる市場の繁栄と商売繁盛を祈願して、 寛政八年(1796)に建立された市内で最も古い狛犬である。
「説明板」
「 狛犬の高さは五十センチ、台座上段四十センチ、それに台座を高くして、
全体は約二メートル。 願主は惣氏子中と並んで、惣商人中とあるのは、
今から二百年前に天神の市が境内ですでに開かれていたことを物語る資料である。
神社には、豊臣秀吉が小田原北条氏を攻略したおり、
当地の人心を安堵させるため、郷中に下した制札が残っている。
その制札には、「天正十八年(1590)四月、武蔵国多東郡補詫郷」 とあり、
当時は布田でなかったことが分かる。 」
街道に戻る途中の天神通り商店街で、今川焼きを買って食べた。
現在NHKの朝のドラマで放送中の「げげげの女房」に登場する水木しげるの住まいは、調布市ということもあり、商店街には怪獣のキャラクターが多くあった。
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寛政八年(1796)の狛犬 |
調布駅前交差点の先にはパルコと西友が向き合ってあり、多くの人が歩いていた。
バス停には「調布銀座」とあるが、銀座という名を付けたのは、
調布が最初のようである。
江戸時代、ここから先が上布田宿で、
天保十四年(1843)の甲州道中宿村大概帳によると、
宿内家数六十八軒、宿内人口三百十四人、旅籠は一軒だけだった。
調布駅前通りを過ぎ、二百メートル程先のえの木駐車場の看板の下に、
「小島一里塚跡の石碑があった。 日本橋から六里歩いたことになる。
小島町一丁目交差点を過ぎると、下石原一丁目交差点で、
江戸時代には下石原宿だったところである。
下石原宿は家数九十一軒、宿内人口は四百四十八人だったが、
旅籠はなかったようである。
歩いている道には「旧甲州街道 119 」の道路標識が建っている。
国道20号は北側にあるのですいていると想像していたが、
日曜日ということもあるのか、20号からの車が流れてきて、
この道も車や自転車の往来が激しかった。
下石原一丁目交差点を過ぎると、
左側の民家の前に「南無地蔵菩薩」の赤い幟のある小さなお堂があるので、
家の標札を見ると、「天台宗常演寺」とあったので、民家がお寺なんだと気が付いた。
その先の左側には、「金山彦神社入口」の看板があり、
「 由緒 江戸の初期、慶長(1600)の頃より刀鍛冶に従事
祭神 金山彦命(かなやまひこのみこと)‐鉄の神‐ ・・・・ 」 と、書かれていて、その奥には鳥居と社殿が見えた。
「
中に入って、正面にまわってみると、社殿と思ったのは覆屋で、
その下に小さな社殿があった。
神社は甲州街道に面していない。
この南方には品川道が通っていたので、そちらに続いていたと思われる。
また、この神社があることは、江戸時代にはこの地に鍛冶屋を生業とする家が多かったことを意味する。 」
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小さなお堂 |
左手の源正寺から、道は右にカーブし、その先で、国道20号に合流する。
ここから地名が上石原に変わる。
江戸時代の上石原宿の家数は七十三軒、宿内人口は四百十一人で、旅籠が四軒あり、
布田五ヶ宿では旅籠の数が一番多かった。
「
甲州街道は、これまで歩いた中山道や東海道に比べ、宿場間の距離が短い。
しかも、高井戸宿から西は、門前町や町屋がないところに、
無理して宿場を設けていたような気がした。
地元の歴史研究家によると、
「 布田五ヶ宿は、江戸時代初期に多摩川の立川段丘上にあった集落を幕府が強制的に移転して、誕生させた。 」 という説をとる。
徳川家康は、江戸城に異変が生じた時は、甲府城に避難することを考えていたといい、
甲州街道の無謀な宿場設定は、逃亡時の人馬を確保するため、
宿場を設定する必要があったと考えた方が理にかなう。
下石原宿や下布田宿には、八王子千人同心頭やその一族の知行地が配置され、
上石原宿には近世初期には焔硝倉が配置されていたということはそれを裏付けるような気がする。 」
合流した道の右側は「上石原宿名主中村家」があった跡で、
近藤勇が甲陽鎮撫隊を率いて、甲府城に向かう際、
上石原宿名主、中屋勘六宅に立ち寄って歓待を受けた、 と言われるところである。
西調布駅入口交差点を過ぎると、前方に中央道の高架橋が見えてくる。
中央道に近づくと、左側に「天台宗長谷山西光寺」の大きな標石があり、
左側には「新撰組局長近藤勇の坐像」と書かれた標柱が建っていた。br>
中に入っていくと、山門の右側に秋葉権現を祀る常夜燈があり、
その隣に近藤勇の銅像があった。
近藤勇像は、調布市「近藤勇と新撰組の会」が、彼の没後百三十年を記念して、
彼とゆかりのあった西光寺に坐像を建立したものである。
「説明板」
「 慶応四年(1868)、新撰組隊長近藤勇は、鳥羽伏見の戦いに破れたあと江戸に戻り、甲陽鎮撫隊を編成し、甲州街道を甲府に向けて出陣した。
途中、故郷である上石原で、遥か氏神様の上石原若宮八幡宮に向かって戦勝を祈願し、
西光寺境内で休息した。 門前の名主中屋勘六家で歓待を受けたのち、
多くの村人に送られながら出立し、村の境まで歩いた。 」
近藤勇の坐像の横に、
西郷隆盛が明治政府に反抗して起こした西南戦争に従軍した地元出身の人々の招魂碑が建っていた。
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西光寺 |
山門の先にある門は 調布市内に残る唯一の仁王門である。
市教育委員会の「説明板」
「 楼上に銅鐘が吊り下げられ、門の両脇には仁王像が安置されているので、
仁王門であるが、鐘楼門でもある。
西光寺中興の大僧都弁雄が宝永年間(1704〜10)に建てたと寺の記録にあり、
釣鐘にも弁雄の名前が銘記されているので、この時の再建であることが明らかである。 」
寺を出て歩いて行くと、上石原も終わり、飛田給(とびたきゅう)になる。
「 地名の由来は、悲田給からきているというのが定説で、 九世紀飢えや病で難儀する旅人のために悲田所という救済所を造ったのが起源という。 」
右側の住宅越しに白い鉄柱が連なる元の名は東京スタジアム、
現在は味の素スタジアムが見え隠れする。
飛田給駅入口交差点の先左側に、「飛田給薬師堂」の標柱があり、
その奥に薬師堂があるが、甲州街道と大山街道の交差点に面していた。
市教育委員会の「説明板」
「 飛田の原の石薬師といわれ、庶民信仰の的となった石造瑠璃光薬師如来立像が祀られている。 江戸初期貞亨年間(1684〜87)にここに庵を結んだ松前意仙が、
自ら刻んで安置したもの。 当初は露仏だったが、
弘化四年に堂宇が創建され、堂内に安置させるようになった。 」
境内には「行人塚」と書かれた説明板の向こうに墓のようなものがあった。
行人塚は松前意仙の入定塚(にゅうじょうづか)である。
「説明板」
「 松前意仙は仙台藩士だったが、出家して諸国をまわり、
この地に庵を結び、石造の薬師如来像を彫り、それを祀ることができたので大願成就。彼は刻んだ石仏の薬師像の傍に二メートル程の穴を掘り、死んだら土地をかけてくれと地元民に言って、穴の中に入って、鉦をたたきながら、お経を唱えて、
そのまま(数日後に)入定(死去)したと伝えられる。
意仙の死後、村人たちによって、塚が築かれた。 昭和47年、塚の改修の際に遺骨が確認され、もとどおりに埋葬された。 」
飛田給西の境で、今は調布市になっている布田五宿は終わる。
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飛田給薬師堂 |