府中宿は日本橋から第四番目の宿場で、江戸より七里半(30.6km)のところにあった。
宿場は江戸に近い新宿、番場宿(町)、本町の三つから構成され、本陣は一軒、脇本陣は二軒、旅籠は二十九軒あったという。
奈良から平安にかけての武蔵国の国府であり、この地方の中心地であるところから、
府中と名付けられたといわれる。
下染屋から府中宿
平成二十二年(2010)五月十六日(日)、笹塚駅から府中まで歩いた。
歩いていくと、府中市の標識が現れたので、ここからは府中である。
「 府中は、大化の改新後の律令時代に、武蔵国の国府が置かれ、 この地方の中心地であるところから、府中と名付けられたところである。
車返団地入口の右側の東角には、
「天台宗 神明山金剛寺観音院」の標柱が立つ寺院がある。
その前には地蔵像や庚申塔など石仏並んでいた。
寺の塀の外に、下染屋(しもぞめや)集落の由来を書いた碑がある。
「下染屋集落の由来」
「 下染屋集落は、多摩川のほとりにあったが、度重なる洪水を避けて、
現在の甲州街道沿いの白糸台三丁目辺りに移ってきたといわれている。
地名の起こりは、俗説として調布(てづくりぬの)を染めた所とか、
鎌倉時代に染殿のあった所とかいわれ、
染屋の名は南北朝時代の資料にも見えている。
古くは染屋という一つの村落だったものが、
その後、上染屋と下染屋の集落に分かれたもので、
寛永十二年(1635)の検地帳には下染屋の名が記録されている。
なお、新編武蔵風土記稿には、民戸三十七軒、甲州街道の左右に並居 とある。 」
その奥には神明社がある。
街道に戻ると、その先に白糸台二のバス停があり、西武多摩川線の線路を渡る。
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下染屋由来碑 |
白糸台駅の西南にある四小の東南の角にある庚申塔を見るため、寄り道をする。
西武多摩川線の踏切を渡り、左に線路沿いを歩くと、左側に白糸台駅がある。
駅前に直線に続く道に入り進むと、府中第四小学校がある。
左折して校庭の周りをぐるーと回ると、四つ角に「庚申塔」と書かれた石碑がある。
側面には 「 東 品川 西 府中 道 上車返村 」と書かれていて、
庚申塔は道標の役割を兼ねたものであることが分かった。
左右の道には「品川道」の道標が建っていて、この狭い道は品川道なのである。
「 品川道は、府中の国府から東海道へ出るための脇街道であった。
府中の大國魂神社から国分寺崖線、多摩川沿いに、
品川宿や六郷橋付近まで続いた古道で、いかだみちとか、品川街道とも呼ばれた。
品川道の名は、大国魂神社大祭に用いる清めの海水を品川の海から運んだことによる。
また、多摩川上流で伐った木材をいかだにして流し、その後、筏乗りがこの道を歩いて帰った道筋であったため、筏道ともいわれる。 」
学校の先まで歩き、右折して歩くと、煉瓦色のタイルのアパートの左側面に、
正面には「右 以奈記」、左面には「右 不ちゅ宇
左 五宿」と書かれた道標があった
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品川道道標 |
そのまま進むと、不動尊前交差点に出た。
交差点の左側に、「染屋不動尊」と書かれた大きな石柱と石柵がある。
境内に入るとすぐ左側に、先程、観音院角で見た下染屋と同じタイプの由来碑があった
「 上染屋(かみぞめや)の集落はもともと多摩川のほとりにあり
小字でいうならば龍ヶ島、亀沢、鶴代のあたりにありましたが、重なる洪水を避けて、
現在の甲州街道沿いの白糸台三丁目辺りに移ってきたといわれている。
地名の起こりは、俗説として調布(てづくりぬの)を染めた所とか、
鎌倉時代に染殿のあった所とかいわれ、(以下下染屋と同じ部分は省略)
寛永十二年(1635)の検地帳には上染屋の名が記録されている。
なお、新編武蔵風土記稿には、 「 甲州街道の村にて、
民戸五十三軒、往還の左右に並居 」 とあります。 』
その隣に、「国宝299 阿弥陀如来」の説明碑があり、
その先に、小さなお堂と円形の石碑があった。
阿弥陀如来は、昭和三年八月十七日に国から国宝に指定された時、
上染屋八幡神社の末社である不動堂の境内に宝庫を建築し、ここに収納したという。
円形の石碑には、
「 上染屋八幡神社 宝物殿 重要文化財 金銅阿弥陀如来立像一躰
元弘元年辛酉十二月日 敬白
社伝は元弘三年鎌倉攻めの新田義貞軍が持ってきたと云う 」 と由来が書かかれている。
小さなお堂は阿弥陀如来の保管庫である。
説明碑「国宝299 阿弥陀如来」
「 この阿弥陀如来像は元は上州八幡庄にあったが、
元弘三年五月、新田義貞が挙兵した際、
里見の城主がこの像をもって馳せ参じ、義貞軍の守護神とされた。
分倍河原の合戦で、北条の大軍を打ち破って鎌倉幕府を滅ぼし、
建武の中興を成し遂げることができたのもこの像のお陰だと思った義貞は、
関戸の堀上椿森にこの像を安置し、後に土地も寄進した。
その後社殿も建てられ、南朝の守護神像として崇められた。
承応二年に、玉川の洪水により現在の地に移された。
明治の初めにこの像は売り払われて転々としていたが、
ある時、徳川家達(徳川宗家十六代当主)の夢枕に立ち、
「 染屋に戻して 」 と言うので、探し出しここに持ち帰って不動堂に安置した。
この地は国府に近く、鎌倉街道の要衝にあり、甲州街道に沿い京王電鉄の駅近く、
南涯の上にして富士の霊峰を朝に仰ぎ、武蔵野の月を夕に眺め、
山紫水明の多摩川河畔、多磨霊園の入口に位置する所。
この地を過ぎてこの碑を見る者、願わくば感発する所あれ 」
宝物殿はしっかりと扉を閉ざしているので、お姿を見ることはできなかった。
その奥にあるのは、不動明王像を祀っている不動堂である。
「
不動明王像は、江戸時代には染屋山神宮寺と号した玉蔵院の本尊だった。
玉蔵院は上染屋八幡神社の別当寺になっていて、上染屋八幡神社の東隣りにあったが、明治に入り廃寺となったため、不動明王像は現在地に安置されるようになったのである。 」
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宝庫 |
その先の浅間山通りと現在の甲州街道の交差点付近に、 「上染屋八幡神社」の標石と鳥居があったので、中に入っていった。
「 上染屋八幡神社の祭神は品陀和気命である。
神社は、正慶二年(1333)洪水の為、上野國碓氷郡八幡庄から遷宮したと伝えられている。 」
白糸台1交差点を過ぎると、右側に「常久町会公会堂」の矢印と、 その下に常久(つねひさ)由来碑があった。
「 もともとは多摩川のほとりに集落はあったが、洪水によって流され、万治年間(1658〜61)にハケ上に移動したと伝えられる。
地名の由来は、領主に常久なる人物が所有していた名田から。
常久は幕末の地誌には「 民家甲州街道の左右に並居、凡三十七軒 」 (新編武蔵風土記稿) 」
広場の藤棚は丁度見頃を迎えていた。
その左側に常久八幡神社の鳥居と参道があった。
社殿は二十メートル程奥にある。 また、常久町会公会堂と常久公園が境内にあった。
ここで寄り道をする。
左側にある開田商店の脇を入り、百五十メートル南の道に出ると、
この道は品川道である。
この道を右に行くと、左側に「史跡一里塚」の石碑と「しながわ道の一里塚」の標柱があった。
傍らには府中市指定文化財・甲州街道常久一里塚跡の説明板があった。
説明板「甲州街道常久一里塚跡」
「 常久一里塚は、
江戸時代初期に整備された甲州街道の日本橋から七里に設けられた一里塚跡と伝えられるものである。 」
この後、街道に戻ったが、西日はかなり厳しくなり、
歩く方向から目の中に飛び込んでくる。
時計を見ると、17時15分。 今日の残り時間が少なくなってきた。
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常久八幡神社 |
府中宿(ふちゅうしゅく)
「 府中は旧石器時代から人が住んでいたところだが、
大化の改新後、武蔵国の国府が置かれ、
関東における政治、経済、文化の中心地として栄えてきた。
官道の「東山道」の武蔵路は、武蔵国府から北に通じており、
鎌倉時代には鎌倉街道も通っていた。
江戸城の守りを重視した幕府により、この地のほとんどが天領であったが、
甲州街道開設と同時に宿場の府中宿が置かれた。 」
左側に府中自動車教習所があり、
そこを過ぎると右斜めに進む大きな道がある三叉路だが、
右斜めの道は国道へ入る道である。
甲州街道は直進で、左側には京王電鉄の東府中駅がある。
先程の品川道も東府中駅前で、甲州街道合流する。
甲州街道は交差点の先の京王線の踏切を渡って真直ぐ進むが、
一番左の線路は左にカーブしていくが、これは東京競馬場専用の京王競馬場線である 。
府中宿に入るには、このまま直進すればよかったのだが、国府八幡神社へ寄る気になった。
セブンイレブンの角を左折して、京王競馬場線の踏切を横切ると目の前に鬱蒼とした森が見えてきた。
森に近づくと公園緑地があり、母親が幼い子供を遊ばせていた。
そこを出たところに国府八幡神社への道を示す「八幡道」の碑があった。
「 国府八幡神社は、
聖武天皇が全国に国分寺と国分尼寺を建立するように命じた時、
武蔵国一つの八幡宮として造った神社といわれる。
この地の住民は八幡神社の荘園の領民だった時期もあり、江戸時代になっても、
農業を中心とした集落で、地名も八幡宿村だった。 」
先程の公園緑地もかっての神社の敷地と広かったが、
社殿は質素で小さなもののようである。
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鬱蒼とした森が見える |
神社へ行くには、道標の右の細い道に入り、
変則的な四差路を右折する必要があったのだが、八幡道の碑からどうしてか、
そのまま進むと、競馬場東門前交差点に出た。
信号を渡っていくと、G1のヴィクトリアマイルが開催された後で、
終了してから二時間近く経っていたので、人出はほとんどなかった。
折角きたので、競馬場の周りを歩こうと、是政通りから外周を右回りに歩いたが、
大変広い。 途中で競馬場の中を歩こうとしたが、
もう入れないので、外を回ると塀越しにスタンドが見えた。
やがて、府中街道に出たが、時計を見るとすでに二十三分経過していた。
府中街道(稲城道ともいわれた)を北上すると、矢崎町。
矢崎町公会堂の前に「矢崎町」の碑があった。
「 谷の崎ということから、矢崎となったといわれる。
江戸初期には、府中御殿に金崎(是政六丁目)から茶の湯の水が運ばれたので、
お茶屋街道とも呼ばれた。 」
その先の左に入る細い道の角に、「川崎街道」の道標が立っていた。
その先で、何気なく右手を見ると、再び競馬場の大きな建物が見え、
その下の屋台のような店の前に、帰りそびれた人達が集まっている姿が見えた。
かって西船橋の社宅に住んでいた時、その前の道は西船橋駅から中山競馬場に通じる細い道で、「おけら街道」と呼ばれていた。
朝はタクシーなどで威勢良く競馬場に乗りつけた人達が、
帰りにはどぼとぼと駅まで見る姿を見たものである。
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矢崎町公会堂 |
更に歩くと、信号交差点で右手に競馬場。
その先には安養寺、本栄山妙光院がある。
交差点に戻り、
JR府中本町駅まで続いている高架橋があるので、階段を上って歩いていくと、
府中本町駅の駅前に出た。
右側にはイトーヨーカドーがあった。
時計を見ると、十八時十七分で、街道を歩く時間ではなくなっていた。
このあたりは本町商店会だが、府中本町駅入口交差点を渡り、
人が行く方向についていくと、薄暗い森の入口に大国魂神社の鳥居があったが、
暗くてほとんど見えなくなっていた。
「大國魂神社の由来記」
「 今から千九百前の人皇第十二代景行天皇四十一年(111)五月五日、
大神の託宣に依って創立されたものである。
当社のご祭神は、大國魂大神(おおくにたまのおおかみ)を武蔵の国魂の神と仰いでお祀りしたものである。 大国主命ともいうこの神が、
当地に祀られるようになったのは、
出雲臣天穂日命(のおみあめのほひのみこと)の子孫が、
武蔵国造(くにのみやつこ)に任ぜられてからといわれ、
その後、大化の改新(645年)後に、武蔵国府が置かれるようになると、
武蔵国内の祭務を総轄する所にあてられる武蔵総社になった。
後に、国内著名の六所(ろくしょ)神の小野大神、小河大神、氷川大神、 秩父大神、金佐奈大神、杉山大神を奉祀して、
六所宮とも称せられるようになった。 」
参道の入口の碑文には 「 八幡宿村は、後に六所宮(大國魂神社)の社領となり、
六所宮八幡宿という村になった。 」 と、書かれている。
境内は一万坪強と広く、ぐるっと回ってくると一キロ程歩くことになるという。
すっかり暗くなっているので、次回訪問時にゆっくりお参りすることにして、
参道を歩いて甲州街道側の大きなご神木のある入口に出た。
大國魂神社前交差点を渡ると、右側は伊勢丹で、
そのまま進むと右側に京王府中駅があった。
国府八幡神社へ寄ったのはよいのだが、迷子になったことで、
府中宿の探訪は次回となったが、
十八時三十三分、今回の笹塚から府中の旅は終わった。
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薄暗い大国魂神社境内 |